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【ドイツ銀行】中国共産党の上層部やその家族に高級プレゼントなど賄賂と高官の子息のための「縁故」採用枠 [10/17]

1 :SQNY ★:2019/10/20(日) 04:38:29.87 ID:CAP_USER.net
・ドイツ銀行、中国政府高官に高級プレゼントと子弟の縁故採用=報道

ドイツ銀行は20年前、中国に進出した際、金融業界での熾烈な競争に打ち勝つため、中国共産党のトップや親せきとの人脈形成のため、党幹部に高額金品などの賄賂を送っていた。さらに、中国高官の子息のための「縁故」採用枠があるという。米ニューヨーク・タイムズと南ドイツ新聞が共同調査の結果を報じた。

調査によると、ドイツ銀行はかつて中国共産党の上層部やその家族、石油などの大型国有企業の上層幹部に20万米ドルを超えるプレゼントを贈っていた。江沢民も含まれている。プレゼントの内容は、水晶の彫刻や虎の置物、ドイツの高級音響製品、1945年製造のワイン、カシミアのコート、ホテル宿泊代など。

両紙は、内部資料や電子メールなどドイツ銀行の機密文書を調査した。その結果、当時の銀行上層部は、中国で業務を円滑に行うためには人脈が最も重要で、特に中国の資産の大部分を管理している中国共産党のエリートたちとの関係を重視していたという。

この報道を受けて、2002〜12年にドイツ銀行総裁を務めたジョセフ・アッカーマン(Joseph Ackermann)氏は「ゴールドマン・サックスやJPモルガン・チェースも同じようなことをしていた。だからわれわれもそれをしなければならないと考えた」と述べた。しかし、共産党高官が「たかだか数千元のプレゼント程度で心を動かすとは思えない」とも付け加えた。

両紙調査の中で、アッカーマン氏は、ゴールドマン・サックスの前北京事務所代表・張紅力(Lee Zhang)氏を雇用し、中国事業への進出を助けていた。張氏がドイツ銀行にもたらした変化は非常に大きく、中国進出からわずか2年で、アッカーマン氏は当時の江沢民国家主席と面会した。

さらにドイツ銀行は、中国での人脈形成を強化するために、共産党高官の子女や親せきである、非常に若い未経験者を数十人採用していた。内部文書によると、ある「就職希望者」の両親は中国大手国営企業の役員で、「最悪」の評価を受けていた。

また別の「就職希望者」について、行員は同僚に向けて「私たちの基準に合わない」と電子メールで知らせたが、相手が劉雲山・中国宣伝部の息子だということがわかり、採用された。

報道によると、ドイツ銀行は「縁故採用」19人を対象に内部調査を行った結果、銀行の収益1億8900万ドルにつながったとした。

ドイツ銀行は2019年7月、大規模な経営再建計画を発表した。2022年までに1.8万人を削減するほか、投資銀行部門の資産740億ユーロ(約9兆円)を切り離し、株式売買の業務から撤退する。 (翻訳編集・佐渡道世)

・Kristalltiger für 15.000 Dollar Deutsche Bank beschenkte Chinas Eliten
https://www.n-tv.de/wirtschaft/Deutsche-Bank-beschenkte-Chinas-Eliten-article21330471.html

・Inside a Brazen Scheme to Woo China: Gifts, Golf and a $4,254 Wine
https://www.nytimes.com/2019/10/14/business/deutsche-bank-china.html

(図)
https://i.imgur.com/Q7DEeYb.png

2019年10月17日 20:10 大紀元時報
https://www.excite.co.jp/news/article/EpochTimes_48233/

157 :七つの海の名無しさん:2019/10/31(木) 00:42:01.28 ID:fO34ek9g.net
>>1
「ハロルド・ジョン・ティエンパレー」
1898年生まれ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。
ロイター通信の北京記者となる。
その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。

1937年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、
宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。
編著に『中国に於ける日本人の恐怖』(1938年)一書がある

ティンパーレーの日本語訳本を出した「龍渓書舎」というのは、
実は「チャイナ・ウイークリー・レビュー」が
中国語訳本を出版するときに使われた書店名であることもわかった。
チャイナ・ウイークリー・レビューは、
そもそもが国民党の息のかかった英文紙だったのである。・・・

ここで新たにわかったことは、ティンパーレーは、
南京から送られてきた手紙を、
ただ「真実」として読者に伝えようと思ったのではなく、
「宣伝部」という国民党組織と一緒になってあの本を書いた、ということである。

中央宣伝部が総力を挙げて製作したのが、宣伝本のティンパーリ編『戦争とは何か』であった。
この本は「死亡した市民の大部分は、13日午後と夜、
つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした」とか、
「強姦を拒んだ婦人も銃剣で突き殺されました。また、邪魔になった子供たちも突き殺されました」
といった南京の「度重なる殺人」を描いていた。

ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして
認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。
しかし、近年の研究でティンパーリは左翼思想の持ち主で
イギリス共産党をはじめとする当時の国際的な共産主義運動に関与していたほか
国民党中央宣伝部の下部組織である国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」として
月額1千ドルの活動費を得て、宣伝工作活動を行っていたことが判明している

158 :七つの海の名無しさん:2019/10/31(木) 00:42:23.94 ID:fO34ek9g.net
ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)の
すばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。
ジョージに直ちにアメリカに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言しました。
効果はてきめんです。
中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官からは会見を申し込まれるだろうし、
(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれません。(中略)
これはまったく私一人で考えついたことです。(中略)資金の手配はしているところです

159 :七つの海の名無しさん:2019/10/31(木) 00:43:06.07 ID:fO34ek9g.net
マギーフィルム

マギー牧師が日本軍占領期間中の中華民国の南京で、
南京事件の犠牲者・被害者を撮影したと解説する8リールの16ミリフィルム(通称「マギーフィルム」)がある

その多くは南京難民区内の鼓楼病院で撮影されたもので、字幕の説明によれば、
日本軍の暴行を受けた幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っている。
ただし、虐殺場面とされる映像については字幕の説明のみで肝心の映像は写っていないため、
写っている死体が戦闘で死んだものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍の手によるものなのか、
中華民国軍の敗残兵の手によるものかなどが分からず、記録映像として疑問を呈する

このフィルムは、のちにジョージ・アシュモア・フィッチらが1938年1月に上海へ持ち出して
4セットのコピーを作製し、それらのうち1セットは南京ドイツ大使館にいたナチスドイツ外交官の
ゲオルク・ローゼン博士によってドイツ外務省に送られた。
同年4月に渡米したフィッチはロサンゼルスを皮切りに全米各地で映写会を開いて
日本軍の蛮行を訴えることに使用し、渡米の主目的であるワシントンでは
国務次官のスタンレイ・ホーンベックをはじめ下院の外交委員会、戦時情報局などの要人、
新聞記者などの報道関係者にもフィルムを見せている
このフィルムは、1938年5月16日の「LIFE」誌においても紹介された。

しかし、極東国際軍事裁判に証拠として提出されることはなかった

國民新聞によれば、マギーフィルムは、大半が戦争の一場面として病院で
中国人が治療を受けている姿であり、「大虐殺」の証拠とはいえず、
ローゼン報告も日本軍が南京入城する一週間前に上海に脱出していたローゼン政務書記官がまとめたものであり、
同書記官の証言は目撃証言ではなく根拠をもたない

160 :七つの海の名無しさん:2019/10/31(木) 00:43:51.18 ID:fO34ek9g.net
ジョン・ギレスピー・マギー

アメリカ合衆国の米国聖公会牧師wiki
日本軍による南京事件についての証言を東京裁判で行った。
また事件の記録映像(マギーフィルム)は中国政府が世界の記憶へ申請し、2015年登録された
マギーは米国聖公会の教会牧師だった

東京裁判でのマギー証言

マギーは極東国際軍事裁判では南京事件の証人として証言台に立ち、
日本軍による殺人、強姦、略奪事件について、被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを基礎に証言を行った
(※全て【日本人が被害者の惨殺事件】を基にしたすり替え)

南京攻略戦時に福知山連隊(歩兵第20連隊)大隊長を務め
南京とその周辺の警備に当たっていた森王琢は
「検事側の証人としてマギーは二日間にわたって詳細に証言したが、
ブルックという弁護士が反対質問で問いつめると二日にわたって証言したことは
全部ウソで結局窃盗と婦女暴行が各一件だけあることが判明し、法廷で笑い物になった」と述べている

田中正明はマギーが直接目撃したのが不審者の殺害、強姦、窃盗の3件だけで、
あとはすべて伝聞、噂話、憶測によると言っている(※この3件ですら便衣兵なのか日本兵なのか不明)
渡部昇一によればマギーの目撃した殺害事件とは、南京市内を警備していた日本兵が、
中国人に何者か質問をすると逃走したので射殺したというもので、
「はたして、これのどこが虐殺だろうか」という。
また渡部は「松井石根被告の弁護人ブルックス氏は、大虐殺神話のもととなった
同国人のマギー牧師を反対訊問で問いつめ、実際に日本兵により殺害されたシナ人は
たった一人しか実際に見たことがないと白状させたのである

元来が国際政治裁判だった東京裁判で、松井被告は死刑になったけれども
渡部は「この大虐殺のあらゆる噂や文献の起こりが、たった一つのところに収斂していることが証明された。
それは一人のアメリカ人牧師マギーのデマであり、さらに、
そのデマを遡って調査してみても、事実らしいものはどこにも見つからなかった。
要するに、日本人は一人の無責任な外人のデマによって、何十万人ものシナ人を集団虐殺したという烙印を押されてしまったわけである」

161 :七つの海の名無しさん:2019/10/31(木) 00:45:01.29 ID:fO34ek9g.net
●アメリカがでっちあげた南京事件

『マスメディアの罪と罰』著

南京事件はアメリカが作った話だと考えてまず間違いない。
南京裁判で証言した歴史学者のマイナー・シール・ベイツや
東京裁判で証言した宣教師のジョン・マギー
同じく宣教師で口述書を残したジョージ・アシュモア・フィッチなど、関わっているのはすべてアメリカ人。
南京事件が2015年に世界記憶遺産に認可されたとき
登録された記録映像通称マギーフィルムはこのマギーが撮影したもの

ニューヨーク・タイムズの特派員ティルマン・ダーディンは、
最も早く南京事件を報道したジャーナリストのひとり、日記のかたちで当時の様子を残したという
女性宣教師ミニー・ヴォートリンは南京・金陵女子大学の教師だった。
米大手新聞のシカゴ・トリビューンとニューヨーク・タイムズは1937年の時点ですでに最初のストーリーを作っている。

この時期、アメリカは国務長官と陸海軍長官とジャーナリスト代表で
アメリカ広報委員会(CPI)を作り、中国に親米反日の機運を盛り上げていた。
アメリカの特派員もその一翼を担っていた。
そのひとりがニューヨーク・ヘラルドの特派員ウィリアム・ドナルドだった。
宋美齢とデキていたと言われている。
蒋介石が拉致監禁された1936年の西安事件のときに、西安へ宋美齢を連れて飛んだのがこのウィリアム・ドナルドだった。

事件の首謀者である張学良と楊虎城(ようこじょう)に
「お前らは引っ込んでいろ」と言って蒋介石を解放させる。
アメリカは蒋介石にカネも軍備も飛行機も与えてきた。
それで日本をやれ、日本を戦争に引きずり込めと指導してきたが、つまらぬ内輪喧嘩を始めた。
真面目にやらないともう援助しないぞと脅しをかけたのだと言われる。
蒋介石はそれで北伐をやめて対日挑発に取り掛かる。

翌1937年に入ると様々な対日テロが始まる。
7月7日に盧溝橋事件があり、7月末に通州事件があり250人の日本人居住者が殺される。
8月13日に上海攻撃が始まる。
米陸軍航空隊将校のクレア・リー・シェンノートも宋美齢と一緒に中国軍隊空軍の指揮かなんかをやっている。
ずっと繋がっているわけ、ウィリアム・ドナルドなどというのは紛れもなくニューヨーク・ヘラルドの人間だ。

一介の特派員がそんなに仕切れるわけがない。
背後にいたのが先に触れたアメリカ広報委員会(CPI)で
支那にいた米国特派員はすべてこのCPIの指図で動いていたとみて差し支えない。

162 :七つの海の名無しさん:2019/11/01(金) 16:10:57 ID:J1P0YTJQ.net
>>1
安倍友みたいだな

163 :七つの海の名無しさん:2019/11/02(土) 23:15:18.82 ID:neSw8EWm.net
>>12
毛沢東ならもう一回文革してくれるな
頼むチャイニーズを虐殺してくれ

164 :七つの海の名無しさん:2019/11/02(土) 23:16:59 ID:849FPC/a.net
中国共々吹っ飛んでいいよ^^

165 :七つの海の名無しさん:2019/11/02(土) 23:46:57.18 ID:C+tSl7FV.net
ノーパンしゃぶしゃぶはないのね
さすがお上品なドイツだ

166 :七つの海の名無しさん:2019/11/03(日) 03:18:30.46 ID:AXRXK3WL.net
中国にクソ甘い欧米の対応は、アニマトリックス招来の様相

167 :七つの海の名無しさん:2019/11/03(日) 23:21:51 ID:AY7CzUQJ.net
五毛が話題反らし〜

168 :七つの海の名無しさん:2019/11/04(月) 00:14:27 ID:8hf6MW0c.net
ここ数年の中国人の入り込み数が異常
5ちゃんねるのカキコミの70%が五毛

169 :七つの海の名無しさん:2019/11/04(月) 07:56:48 ID:61PdJRhP.net
違う、兵庫の高齢引きオタ

170 :七つの海の名無しさん:2019/11/04(月) 10:06:32.21 ID:SldFiHDJ.net
オンブズマンの機能しないシステムは必ず腐敗する
事の証左だな。

171 :七つの海の名無しさん:2019/11/04(月) 23:26:41.65 ID:TneeKBqr.net
話を逸らそうと

172 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 01:46:27 ID:gt+QzpAI.net
はよ潰れろ

173 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 06:30:16.07 ID:hJhzupdu.net
【何が、どのようにわかったか】

「ニュルンベルク裁判の目的は、単にナチスドイツの指導者たちに有罪判決を下すことではなく、ましてそれが主な目的でもありませんでした... 当初から私が感じていたように、それよりもはるかに重要であったのは、歴史の検証に耐え得るヒトラー体制の記録を残すことでした。」
—ロバート・ストーリー、米国検察団長

国際軍事裁判(IMT)が目指していたのは、判決や量刑をはるかに超越したものでした。この戦犯裁判を実行した者たちは、第二次世界大戦中にドイツにより行われたホロコーストを始めとする恐ろしい犯罪の公的記録を慎重に収集していきました。
アメリカ人の主席検事官ロバート・ジャクソンは、「記録が残されない限り… 次の世代の人々は、この真実がどれほど恐ろしいものであったか信じられないであろう。」との懸念を表していました。

後の世代が不公正と感ずることのないよう、個人的証言に依拠とした告発を避け、ドイツ人自身によって記録された文書主にに基づいた裁判を行うことが検事により決定されました。
この膨大な量の文書は法廷における4つの公用語に翻訳され、その重要性が吟味されて被告側弁護団と他の裁判参加者への配布用として再編されました。検察側は、その他にも参考資料、図説、強制収容所でナチのカメラマンによって撮影された写真などによる物的証拠を提示しました。

立件するために、19の調査のチームがドイツの記録を精査し、証人と面談したり大暴虐の現場へ足を運んだりしました。

ニュルンベルク裁判における目撃証言は、アウシュビッツの殺人施設、アインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)によって行われた残虐行為、ワルシャワゲットーの解体、および殺害された推定600万人のユダヤ人に関する詳細を含む、現在私たちがホロコーストについて知る事実の多くの基盤となっています。

174 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 12:17:56 ID:G/O87Qly.net
えっ

175 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 12:31:09 ID:UpmddGjb.net
ドイツ銀行と中国経済は共に破滅していく運命共同体

176 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 12:39:40 ID:ETQUUptT.net
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

177 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 15:45:44.44 ID:3RzcwMwQ.net
腐ってるなあ。

178 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:19:23 ID:UeRmLu2g.net
『「南京事件」の総括』

日本では、東京裁判に関する判決は、GHQの厳しい言論統制によって、
7年間にわたる占領期間中厳禁されてきた。

(私がパール博士の判決文抄訳を『日本無罪論=真理の裁き』と題して
太平洋出版社から初めて上梓したのは、日本がサンフランシスコ条約に基づき
占領が解除され、独立した昭和27年4月28日のことである)

この裁判の総轄的主宰者であり、
判検事の任免権をもち、自ら戦犯憲章(チャーター)を起草した
連合軍総司令官マッカーサー元帥が、1951年5月3日、
米上院の軍事外交合同委員会の聴問会で
「日本が第二次世界大戦におもむいた目的は、そのほとんどが安全保障のためであった」と、
東京裁判で裁いた“日本の侵略”を全面的に否定し、
日本が行った戦争は自衛のための戦争であったことを認めたのである。

179 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:19:37 ID:UeRmLu2g.net
傲岸多弁の裁判長といわれ、
天皇の責任追及に熱心であったオーストラリアのウェッブ裁判長は、序文を寄せて
日本の大東亜戦争が決して侵略戦争でなかったということを、文章ではっきり表現しているのである。

さらにこの裁判の基本的な問題にふれて、
「パリ条約(〈注〉パリ不戦条約とも、ケロッグ・ブリアン条約ともいわれ、
日本はこの条約に違反したと称して侵略者の烙印をおして裁いた)は
調印国がこの条約を破った場合その国の戦争指導者が個々に責任を問われることは明記していない。
有力な国際法学者の中には、この条約が個人に対して責任をおわせているわけではないとの見解をとるものもある」

東京裁判があやまりであったことを、ウエッブはこういう形で表現しているのである。

マッカーサーも裁判から3年後の1951年四月、
ウェーキ島でトルーマン大統領と会談したとき、
「東京裁判は平和のため何ら役に立たなかった」という表現で、この裁判のあやまりを認め、

キーナン首席検事も、ファーネス弁護人への書簡の中で、
重光葵のような人物を被告にしたことは、誤りであったと告白している。

およそ今日、権威ある世界法学者で、東京裁判の合法性を認め、
これを支持するような学者は皆無と言っても過言ではない。

180 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:19:49 ID:e7mRlEYw.net
>>178
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

181 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:19:57 ID:e7mRlEYw.net
>>179
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

182 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:20:13 ID:UeRmLu2g.net
「元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏」(正当史観

【※下記は南京戦から50年以上が経って述べられたダーディンの回顧談の一部だが作り話】

南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89・10から)

予想されなかった虐殺
―――――――
日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか?
「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。
銃剣を使う場合もあった。
とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」
―――――――

HPのタイトルが『南京事件を世界に知らせた男』とされているのは
南京事件に関する彼のレポート(記事)が
1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに掲載されていたため

しかし、その記事を読めば分かるが、【ダーディンは日本軍による民間人虐殺を目撃していない】

見出しとその直後にある要約部分に「婦人への暴行」とか「民間人の殺害」という言葉を挿入しているが、
その後にある約5000字におよぶ長文レポートにそれらに関する説明がまったくない

回顧談のとおり、ダーディンが、本当に南京で日本軍がウサギを殺すように
多数の民間人を虐殺したのを目撃したなら、そのような記事には決してならない

183 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:20:21 ID:e7mRlEYw.net
>>182
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

184 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:20:44 ID:UeRmLu2g.net
ダーディンの約5000字におよぶ長文レポートは、殆どが伝聞記事で、
彼自身の目撃記事は支那人便衣兵の悪行や便衣兵の処刑や戦闘状況など僅か
日本軍による民間人虐殺に関する目撃記事は全くない

本当に日本軍による民間人殺害を目撃していれば、こんな記事は有り得ない。
新聞を売るために「東スポ」と同じように派手な見出しを付けただけだった

同じ頃、【シカゴ・デイリー・ニューズのスティールも、これと酷似した記事を書いている】が、
それは2人とも、【ベイツが安全区委員会として作成したメモ(レポート)に基づいてそれぞれ記事を書いたから】
(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』105頁)

ベイツなど南京に長期間残った安全区委員会のメンバーは誰も日本軍による市民虐殺を目撃していない。
1937年12月15日に早々と船で南京を離れたダーディンやスティールが、
日本軍による民間人殺害を目撃する筈がない

特にダーディンは句容に行っていて南京に戻ったのは14日の夜
また、【ベイツは支那国民党の顧問】だったことが判明しており、国民党の宣伝に関わっていたことは間違いない。
(「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」『諸君!』2002年4月号、『正論』2002年4月号)

ダーディンの記事の派手な見出し「民間人も殺害」に関しては、当然世間は相手にしなかった

ところが、それから8年以上が経った戦後の東京裁判で、日本軍による南京市民大虐殺事件があったことになってしまった
「東スポ」のように、見出しなど一部にだけ派手に「民間人も殺害」という言葉を入れていたダーディンは、
一躍、『南京事件を世界に知らせた男』となった。自分でも、さぞかし驚いたことでしょう。

ダーディンは、1962年のニクソン訪中で北京に同行し、1988年には南京の虐殺館を訪問した。
古森義久氏への回顧談でも、見て来たようなウソをつき通すしかなかった

185 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:20:51 ID:e7mRlEYw.net
>>184
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

186 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:21:06 ID:UeRmLu2g.net
(注)ダーディンの記事は、ベイツ(宣伝工作員)の宣伝用レポート(メモ)を基に書かれた。

ダーディンは、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズで、
――――――――
日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。
彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、
高さ六フィートの小山を築いていた。
水曜日(15日)遅くなっても日本軍は死骸を片付けず、
さらには、その後の2日間、軍の輸送車が、
人間や犬や馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。
(12月18日付NY・タイムズより一部抜粋)
――――――――
という記事を書いておきながら、
後(1987年8月)に、
――――――――
この下関地区では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、
お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。
前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、
この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。
この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。
中国軍はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、
これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。
この地域で戦闘はありませんでした。
(『南京事件資料集』アメリカ関係資料編)
――――――――
と、あっさり嘘を告白した。

187 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:21:17 ID:UeRmLu2g.net
また、
――――――――
南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談
元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89.10から)
―――――――
の回顧談と、ダーディンの1938年1月9日付ニューヨーク・タイムズの記事には以下の矛盾もある。

●新聞記事
―――――――
「中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為」ニューヨーク・タイムズ
1938年1月9日 F・ティルマン・ダーディン
「(中略)
南京を掌握するにあたり、日本軍は、
これまで続いた日中戦争の過程で
犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。」
―――――――
●回顧談
―――――――
上海から南京近郊に到達するまでの過程で、日本軍が中国側の捕虜や民間人を
多数殺したという話しは当時あったのですか?
「いや、それはありませんでした。(中略)虐殺に類することは
なにも目撃しなかったし、聞いたこともありません。」
(文藝春秋89.10から)

188 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:21:25 ID:e7mRlEYw.net
>>186
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

189 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:21:31 ID:e7mRlEYw.net
>>187
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

190 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:21:46 ID:UeRmLu2g.net
>>1
アメリカがでっちあげた南京事件

『マスメディアの罪と罰』

南京事件はアメリカが作った話だと考えてまず間違いない。
南京裁判で証言した歴史学者のマイナー・シール・ベイツや
東京裁判で証言した宣教師のジョン・マギー
同じく宣教師で口述書を残したジョージ・アシュモア・フィッチなど、関わっているのはすべてアメリカ人。
南京事件が2015年に世界記憶遺産に認可されたとき
登録された記録映像通称マギーフィルムはこのマギーが撮影したもの

ニューヨーク・タイムズの特派員ティルマン・ダーディンは、
最も早く南京事件を報道したジャーナリストのひとり、日記のかたちで当時の様子を残したという
女性宣教師ミニー・ヴォートリンは南京・金陵女子大学の教師だった。
米大手新聞のシカゴ・トリビューンとニューヨーク・タイムズは1937年の時点ですでに最初のストーリーを作っている。

この時期、アメリカは国務長官と陸海軍長官とジャーナリスト代表で
アメリカ広報委員会(CPI)を作り、中国に親米反日の機運を盛り上げていた。
アメリカの特派員もその一翼を担っていた。
そのひとりがニューヨーク・ヘラルドの特派員ウィリアム・ドナルドだった。
宋美齢とデキていたと言われている。
蒋介石が拉致監禁された1936年の西安事件のときに、西安へ宋美齢を連れて飛んだのがこのウィリアム・ドナルドだった。

事件の首謀者である張学良と楊虎城(ようこじょう)に
「お前らは引っ込んでいろ」と言って蒋介石を解放させる。
アメリカは蒋介石にカネも軍備も飛行機も与えてきた。
それで日本をやれ、日本を戦争に引きずり込めと指導してきたが、つまらぬ内輪喧嘩を始めた。
真面目にやらないともう援助しないぞと脅しをかけたのだと言われる。
蒋介石はそれで北伐をやめて対日挑発に取り掛かる。

翌1937年に入ると様々な対日テロが始まる。
7月7日に盧溝橋事件があり、7月末に通州事件があり250人の日本人居住者が殺される。
8月13日に上海攻撃が始まる。
米陸軍航空隊将校のクレア・リー・シェンノートも宋美齢と一緒に中国軍隊空軍の指揮かなんかをやっている。
ずっと繋がっているわけ、ウィリアム・ドナルドなどというのは紛れもなくニューヨーク・ヘラルドの人間だ。

一介の特派員がそんなに仕切れるわけがない。
背後にいたのが先に触れたアメリカ広報委員会(CPI)で
支那にいた米国特派員はすべてこのCPIの指図で動いていたとみて差し支えない。

191 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:22:03 ID:UeRmLu2g.net
ジョン・ギレスピー・マギー

アメリカ合衆国の米国聖公会牧師wiki
日本軍による南京事件についての証言を東京裁判で行った。
また事件の記録映像(マギーフィルム)は中国政府が世界の記憶へ申請し、2015年登録された
マギーは米国聖公会の教会牧師だった

東京裁判でのマギー証言

マギーは極東国際軍事裁判では南京事件の証人として証言台に立ち、
日本軍による殺人、強姦、略奪事件について、被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを基礎に証言を行った
(※全て【日本人が被害者の惨殺事件】を基にしたすり替え)

南京攻略戦時に福知山連隊(歩兵第20連隊)大隊長を務め
南京とその周辺の警備に当たっていた森王琢は
「検事側の証人としてマギーは二日間にわたって詳細に証言したが、
ブルックという弁護士が反対質問で問いつめると二日にわたって証言したことは
全部ウソで結局窃盗と婦女暴行が各一件だけあることが判明し、法廷で笑い物になった」と述べている

田中正明はマギーが直接目撃したのが不審者の殺害、強姦、窃盗の3件だけで、
あとはすべて伝聞、噂話、憶測によると言っている(※この3件ですら便衣兵なのか日本兵なのか不明)
渡部昇一によればマギーの目撃した殺害事件とは、南京市内を警備していた日本兵が、
中国人に何者か質問をすると逃走したので射殺したというもので、
「はたして、これのどこが虐殺だろうか」という。
また渡部は「松井石根被告の弁護人ブルックス氏は、大虐殺神話のもととなった
同国人のマギー牧師を反対訊問で問いつめ、実際に日本兵により殺害されたシナ人は
たった一人しか実際に見たことがないと白状させたのである

元来が国際政治裁判だった東京裁判で、松井被告は死刑になったけれども
渡部は「この大虐殺のあらゆる噂や文献の起こりが、たった一つのところに収斂していることが証明された。
それは一人のアメリカ人牧師マギーのデマであり、さらに、
そのデマを遡って調査してみても、事実らしいものはどこにも見つからなかった。
要するに、日本人は一人の無責任な外人のデマによって、何十万人ものシナ人を集団虐殺したという烙印を押されてしまったわけである」

192 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:22:14 ID:UeRmLu2g.net
マギーフィルム

マギー牧師が日本軍占領期間中の中華民国の南京で、
南京事件の犠牲者・被害者を撮影したと解説する8リールの16ミリフィルム(通称「マギーフィルム」)がある

その多くは南京難民区内の鼓楼病院で撮影されたもので、字幕の説明によれば、
日本軍の暴行を受けた幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っている。
ただし、虐殺場面とされる映像については字幕の説明のみで肝心の映像は写っていないため、
写っている死体が戦闘で死んだものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍の手によるものなのか、
中華民国軍の敗残兵の手によるものかなどが分からず、記録映像として疑問を呈する

このフィルムは、のちにジョージ・アシュモア・フィッチらが1938年1月に上海へ持ち出して
4セットのコピーを作製し、それらのうち1セットは南京ドイツ大使館にいたナチスドイツ外交官の
ゲオルク・ローゼン博士によってドイツ外務省に送られた。
同年4月に渡米したフィッチはロサンゼルスを皮切りに全米各地で映写会を開いて
日本軍の蛮行を訴えることに使用し、渡米の主目的であるワシントンでは
国務次官のスタンレイ・ホーンベックをはじめ下院の外交委員会、戦時情報局などの要人、
新聞記者などの報道関係者にもフィルムを見せている
このフィルムは、1938年5月16日の「LIFE」誌においても紹介された。

しかし、極東国際軍事裁判に証拠として提出されることはなかった

國民新聞によれば、マギーフィルムは、大半が戦争の一場面として病院で
中国人が治療を受けている姿であり、「大虐殺」の証拠とはいえず、
ローゼン報告も日本軍が南京入城する一週間前に上海に脱出していたローゼン政務書記官がまとめたものであり、
同書記官の証言は目撃証言ではなく根拠をもたない

193 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:22:14 ID:RT02ot4p.net
千葉の在日韓国人と統合失調症患者か

194 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:23:11 ID:UeRmLu2g.net
ジョージ・アシュモア・フィッチ

中国・蘇州市生まれのアメリカ人宣教師。
キリスト教青年会(YMCA)南京支部長。
ハロルド・J・ティンパーリ(中国国民党国際宣伝処顧問)編集『戦争とは何か』の共著者の1人。
極東国際軍事裁判(東京裁判)には出廷せず、口述書のみを提出した。

1906年、ウースター・カレッジで文学士号を得た後、ニューヨークのユニオン神学校に入学。
1909年、中国のYMCA組織「上海青年会」で働く。
1932年(昭和7年)、上海天長節爆弾事件で、上海の日本人街の虹口公園で行われた
祝賀式典会場に爆弾を投げて爆発させた尹奉吉を、自身の運転する自動車で
会場まで送るなど中国・朝鮮における抗日・反日運動を支援した

1937年12月の南京攻略戦時、日中両軍の戦闘による被害から
一般市民を保護するため設置された南京安全区国際委員会の一員であった。
1938年2月末、 南京事件(南京大虐殺)の模様を撮影したとされるフィルムを持って南京を脱出。
アメリカ各地でこのフィルムの上映を行い、南京虐殺を宣伝した

195 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:23:17 ID:aXT7Eak6.net
>>190
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事
>>191
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事
>>192
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

196 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:23:26 ID:aXT7Eak6.net
>>194
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

197 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:23:31 ID:UeRmLu2g.net
フィッチの妻は蒋介石の妻宋美齢と親しい友人であり、
さらに中国軍は南京安全区内に高射砲陣地を設置したことに対する国際委員会の
度重なる抗議にも退去しなかったがフィッチは蒋介石側に立って
「唐生智将軍は安全地帯から軍隊と高射砲を一掃するという
非常に困難な仕事に概して非常によく協力」と記している

米国の新聞報道によると、フィッチは南京攻略戦の時、蒋介石に任命された
"the War Service Corps"(the War Area Service Corps)の顧問であった。
また蒋介石の個人的な友人とされる

1940年、フィッチは重慶で蒋介石軍への福祉活動を指導しており、蒋介石・宋美齢と親しいとされる

1941年、中国工業組合(Chinese industrial cooperatives)の相談役に任命される
また、報道によれば、フィッチの妻は"Courageous China"・"United China Relief Society"という団体との関係があるとされる

198 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:23:41 ID:aXT7Eak6.net
>>197
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

199 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:24:01 ID:UeRmLu2g.net
英マンチェスター・ガーディアン紙・中国特派員、H・ティンパーリー

『曾虚白自伝』 曾虚白・元国際宣伝処処長

我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、
我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を探して
我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。

ティンバーリーは理想的人選であった。
かくして我々は手始めに、金を使ってティンバーリー本人と
ティンバーリー経由でスマイスに依頼して、
日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。

ティンパレーの『What war means: The Japanese terror in China』
の内容は、エドガー・スノー「アジアの戦争」にも派生、
様々な著作・メディアに引用され、東京裁判でも大いに重宝され
「日本軍による南京大虐殺」なるものの本家本元・元祖家元となっている。

国民党国際宣伝処の処長・曾虚白は自伝のなかで次のように書いている。
「ティンパレーは都合のよいことに、
我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の
『抗戦委員会』に参加していた3人の重要人物のうちの1人であった・・・

200 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:24:16 ID:UeRmLu2g.net
当時、極めてタイムリーに出版された日本断罪の書、
『戦争とは何か』と『南京地区における戦争被害』(「スマイス報告」)が、
実は、中立的立場の第三者の人物によって書かれたものではなく、
国民党の戦時宣伝戦略のために資金援助を受けて執筆されたものであることが判明したのである。

ティンパレーは序文の中で、見聞したという日本軍の暴行記事を
ガーディアン紙に打電しようとしたが上海の日本側電報検閲員に発電を差し止められたので、
本を書くことで世界に知らせようとした、と記している。

しかし、根拠のない30万という数の記事など、非常識として差し止めるのは当然であり、
むしろ彼は承知のうえで「差し止め」させる状況をわざと作り、
「差し止め」られるとその事実を誇大に宣伝することで
自分の捏造記述に信憑性を持たせたのだった。

そして、理不尽な日本の弾圧をくぐりぬけ、
良心的ジャーナリストとして真相を発表・告発したのだと、自分と自著を持ち上げた。

昭和13年1月17日、ティンパレーのこの
「南京その他で30万を下らない民間中国人が殺戮された」
という記事を広田弘毅外相名でワシントンの日本大使館に送信、それがアメリカ側に傍受され解読されていた。

これをもって、当時の日本の軍中央や政府の指導者が
南京大虐殺を知っていた証拠だと嬉々として述べる人がいる。

しかしこれは「こんな与太記事を流す記者がいる」と伝達しただけのもので、
南京の暴虐を事実としたものではない。

201 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:24:34 ID:UeRmLu2g.net
「ハロルド・ジョン・ティエンパレー」
1898年生まれ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。
ロイター通信の北京記者となる。
その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。

1937年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、
宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。
編著に『中国に於ける日本人の恐怖』(1938年)一書がある

ティンパーレーの日本語訳本を出した「龍渓書舎」というのは、
実は「チャイナ・ウイークリー・レビュー」が
中国語訳本を出版するときに使われた書店名であることもわかった。
チャイナ・ウイークリー・レビューは、
そもそもが国民党の息のかかった英文紙だったのである。・・・

ここで新たにわかったことは、ティンパーレーは、
南京から送られてきた手紙を、
ただ「真実」として読者に伝えようと思ったのではなく、
「宣伝部」という国民党組織と一緒になってあの本を書いた、ということである。

202 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:24:49 ID:UeRmLu2g.net
中央宣伝部が総力を挙げて製作したのが、宣伝本のティンパーリ編『戦争とは何か』であった。
この本は「死亡した市民の大部分は、13日午後と夜、
つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした」とか、
「強姦を拒んだ婦人も銃剣で突き殺されました。また、邪魔になった子供たちも突き殺されました」
といった南京の「度重なる殺人」を描いていた。

ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして
認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。
しかし、近年の研究でティンパーリは左翼思想の持ち主で
イギリス共産党をはじめとする当時の国際的な共産主義運動に関与していたほか
国民党中央宣伝部の下部組織である国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」として
月額1千ドルの活動費を得て、宣伝工作活動を行っていたことが判明している

203 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:25:08 ID:aXT7Eak6.net
>>199
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事
>>200
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事
>>201
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事
>>202
日本と組みながら敵の中国に武器を売ってたドイツの事だ
中共との繋がりが深すぎるのもわかってた事

204 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:25:22 ID:UeRmLu2g.net
>ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)の
>すばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。
>ジョージに直ちにアメリカに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言しました。
>効果はてきめんです。
>中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官からは会見を申し込まれるだろうし、
>(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれません。(中略)
>これはまったく私一人で考えついたことです。(中略)資金の手配はしているところです。

205 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:25:46 ID:36Bo8nU1.net








206 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:26:00 ID:36Bo8nU1.net





207 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:26:01 ID:UeRmLu2g.net
※テロ支援者

ジョージ・アシュモア・フィッチ(George Ashmore Fitch、1883年 - 1979年)wiki
中国・蘇州市生まれのアメリカ人宣教師。
キリスト教青年会(YMCA)南京支部長。
ハロルド・J・ティンパーリ(中国国民党国際宣伝処顧問)編集『戦争とは何か』の共著者の1人。
極東国際軍事裁判(東京裁判)には出廷せず、口述書のみを提出した。

1906年、ウースター・カレッジで文学士号を得た後、ニューヨークのユニオン神学校に入学。
1909年、中国のYMCA組織「上海青年会」で働く。
1932年(昭和7年)、上海天長節爆弾事件で、上海の日本人街の虹口公園で行われた
祝賀式典会場に爆弾を投げて爆発させた尹奉吉を、自身の運転する自動車で
会場まで送るなど中国・朝鮮における抗日・反日運動を支援した

208 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:26:11 ID:36Bo8nU1.net
>>207





209 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:26:15 ID:UeRmLu2g.net
1937年12月の南京攻略戦時、日中両軍の戦闘による被害から一般市民を保護するため設置された南京安全区国際委員会の一員であった。
1938年2月末、 南京事件(南京大虐殺)の模様を撮影したとされるフィルムを持って南京を脱出。
アメリカ各地でこのフィルムの上映を行い、南京虐殺を宣伝した。

フィッチの妻は蒋介石の妻宋美齢と親しい友人であり、
さらに中国軍は南京安全区内に高射砲陣地を設置したことに対する国際委員会の
度重なる抗議にも退去しなかったがフィッチは蒋介石側に立って
「唐生智将軍は安全地帯から軍隊と高射砲を一掃するという非常に困難な仕事に概して非常によく協力」と記している

210 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:26:26 ID:UeRmLu2g.net
米国の新聞報道によると、フィッチは南京攻略戦の時、蒋介石に任命された
"the War Service Corps"(the War Area Service Corps)の顧問であった。
また蒋介石の個人的な友人とされる

1940年、フィッチは重慶で蒋介石軍への福祉活動を指導しており、蒋介石・宋美齢と親しいとされる

1941年、中国工業組合(Chinese industrial cooperatives)の相談役に任命される
また、報道によれば、フィッチの妻は"Courageous China"・"United China Relief Society"という団体との関係があるとされる

211 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:26:51 ID:UeRmLu2g.net
「元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏」(正当史観

【※下記は南京戦から50年以上が経って述べられたダーディンの回顧談の一部だが作り話】

南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89・10から)

予想されなかった虐殺
―――――――
日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか?
「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。
銃剣を使う場合もあった。
とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」
―――――――

HPのタイトルが『南京事件を世界に知らせた男』とされているのは
南京事件に関する彼のレポート(記事)が
1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに掲載されていたため

しかし、その記事を読めば分かるが、【ダーディンは日本軍による民間人虐殺を目撃していない】

212 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:27:02 ID:UeRmLu2g.net
見出しとその直後にある要約部分に「婦人への暴行」とか「民間人の殺害」という言葉を挿入しているが、
その後にある約5000字におよぶ長文レポートにそれらに関する説明がまったくない

回顧談のとおり、ダーディンが、本当に南京で日本軍がウサギを殺すように
多数の民間人を虐殺したのを目撃したなら、そのような記事には決してならない

ダーディンの約5000字におよぶ長文レポートは、殆どが伝聞記事で、
彼自身の目撃記事は支那人便衣兵の悪行や便衣兵の処刑や戦闘状況など僅か
日本軍による民間人虐殺に関する目撃記事は全くない

本当に日本軍による民間人殺害を目撃していれば、こんな記事は有り得ない。
新聞を売るために「東スポ」と同じように派手な見出しを付けただけだった

同じ頃、【シカゴ・デイリー・ニューズのスティールも、これと酷似した記事を書いている】が、
それは2人とも、【ベイツが安全区委員会として作成したメモ(レポート)に基づいてそれぞれ記事を書いたから】
(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』105頁)

213 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:27:18 ID:UeRmLu2g.net
ベイツなど南京に長期間残った安全区委員会のメンバーは誰も日本軍による市民虐殺を目撃していない。
1937年12月15日に早々と船で南京を離れたダーディンやスティールが、
日本軍による民間人殺害を目撃する筈がない

特にダーディンは句容に行っていて南京に戻ったのは14日の夜
また、【ベイツは支那国民党の顧問】だったことが判明しており、国民党の宣伝に関わっていたことは間違いない。
(「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」『諸君!』2002年4月号、『正論』2002年4月号)

ダーディンの記事の派手な見出し「民間人も殺害」に関しては、当然世間は相手にしなかった

214 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:27:28 ID:UeRmLu2g.net
ところが、それから8年以上が経った戦後の東京裁判で、日本軍による南京市民大虐殺事件があったことになってしまった
「東スポ」のように、見出しなど一部にだけ派手に「民間人も殺害」という言葉を入れていたダーディンは、
一躍、『南京事件を世界に知らせた男』となった。自分でも、さぞかし驚いたことでしょう。

ダーディンは、1962年のニクソン訪中で北京に同行し、1988年には南京の虐殺館を訪問した。
古森義久氏への回顧談でも、見て来たようなウソをつき通すしかなかった

(注)ダーディンの記事は、ベイツ(宣伝工作員)の宣伝用レポート(メモ)を基に書かれた。

215 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:27:48 ID:UeRmLu2g.net
ダーディンは、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズで、
――――――――
日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。
彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、
高さ六フィートの小山を築いていた。
水曜日(15日)遅くなっても日本軍は死骸を片付けず、
さらには、その後の2日間、軍の輸送車が、
人間や犬や馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。
(12月18日付NY・タイムズより一部抜粋)
――――――――
という記事を書いておきながら、
後(1987年8月)に、
――――――――
この下関地区では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、
お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。
前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、
この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。
この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。
中国軍はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、
これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです
この地域で戦闘はありませんでした
(『南京事件資料集』アメリカ関係資料編)
――――――――
と、あっさり嘘を告白した。

216 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:28:12 ID:UeRmLu2g.net
また、
――――――――
南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談
元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89.10から)
―――――――
の回顧談と、ダーディンの1938年1月9日付ニューヨーク・タイムズの記事には以下の矛盾もある。

●新聞記事
―――――――
「中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為」ニューヨーク・タイムズ
1938年1月9日 F・ティルマン・ダーディン
「(中略)
南京を掌握するにあたり、日本軍は
これまで続いた日中戦争の過程で
犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。」
―――――――
●回顧談
―――――――
上海から南京近郊に到達するまでの過程で、日本軍が中国側の捕虜や民間人を
多数殺したという話しは当時あったのですか?
「いや、それはありませんでした。(中略)虐殺に類することは
なにも目撃しなかったし、聞いたこともありません。」
(文藝春秋89.10から)

217 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:28:17 ID:20xNbUTq.net
 


【韓国】“白人絶滅”を願う過去ツイートが発覚した NYタイムズ編集委員の韓国系女性、数々のヘイトツイートで非難殺到!★6
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533519889/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533477935/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533472602/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533467017/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533460956/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533451939/
 

 

218 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:28:34 ID:20xNbUTq.net
 


【韓国】“白人絶滅”を願う過去ツイートが発覚した NYタイムズ編集委員の韓国系女性、数々のヘイトツイートで非難殺到!★6
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533519889/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533477935/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533472602/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533467017/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533460956/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533451939/
 

 

219 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:28:44 ID:20xNbUTq.net
 


【韓国】“白人絶滅”を願う過去ツイートが発覚した NYタイムズ編集委員の韓国系女性、数々のヘイトツイートで非難殺到!★6
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533519889/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533477935/
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://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533460956/
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1533451939/
 

 

220 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:53:47 ID:PmSUSumM.net
賄賂と同じだろ
関係者全員逮捕しろよ

221 :七つの海の名無しさん:2019/11/06(水) 00:01:03 ID:HmJHy1Rk.net
>>220
ジョージ・アシュモア・フィッチwiki
中国・蘇州市生まれのアメリカ人宣教師。キリスト教青年会(YMCA)南京支部長。
ハロルド・J・ティンパーリ(中国国民党国際宣伝処顧問)編集『戦争とは何か』の共著者の1人。
極東国際軍事裁判(東京裁判)には出廷せず、口述書のみを提出した。

1906年、ウースター・カレッジで文学士号を得た後、ニューヨークのユニオン神学校に入学。
1909年、中国のYMCA組織「上海青年会」で働く。
1932年(昭和7年)、上海天長節爆弾事件で、上海の日本人街の虹口公園で行われた
祝賀式典会場に爆弾を投げて爆発させた尹奉吉を、自身の運転する自動車で
会場まで送るなど中国・朝鮮における抗日・反日運動を支援した

1937年12月の南京攻略戦時、日中両軍の戦闘による被害から一般市民を保護するため設置された南京安全区国際委員会の一員であった。
1938年2月末、 南京事件(南京大虐殺)の模様を撮影したとされるフィルムを持って南京を脱出。
アメリカ各地でこのフィルムの上映を行い、南京虐殺を宣伝した。

フィッチの妻は蒋介石の妻宋美齢と親しい友人であり、
さらに中国軍は南京安全区内に高射砲陣地を設置したことに対する国際委員会の
度重なる抗議にも退去しなかったがフィッチは蒋介石側に立って
「唐生智将軍は安全地帯から軍隊と高射砲を一掃するという非常に困難な仕事に概して非常によく協力」と記している

米国の新聞報道によると、フィッチは南京攻略戦の時、蒋介石に任命された
"the War Service Corps"(the War Area Service Corps)の顧問であった。
また蒋介石の個人的な友人とされる

1940年、フィッチは重慶で蒋介石軍への福祉活動を指導しており、蒋介石・宋美齢と親しいとされる
1941年、中国工業組合(Chinese industrial cooperatives)の相談役に任命される
また、報道によれば、フィッチの妻は"Courageous China"・"United China Relief Society"という団体との関係があるとされる

222 :七つの海の名無しさん:2019/11/06(水) 00:01:52 ID:HmJHy1Rk.net
「ハロルド・ジョン・ティエンパレー」
1898年生まれ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。ロイター通信の北京記者となる。
その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。

1937年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、
宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した
編著に『中国に於ける日本人の恐怖』(1938年)一書がある

ティンパーレーの日本語訳本を出した「龍渓書舎」というのは、
実は「チャイナ・ウイークリー・レビュー」が
中国語訳本を出版するときに使われた書店名であることもわかった。
チャイナ・ウイークリー・レビューは、
そもそもが国民党の息のかかった英文紙だったのである。・・・

ここで新たにわかったことは、ティンパーレーは、
南京から送られてきた手紙を、
ただ「真実」として読者に伝えようと思ったのではなく、
「宣伝部」という国民党組織と一緒になってあの本を書いた、ということである。

中央宣伝部が総力を挙げて製作したのが、宣伝本のティンパーリ編『戦争とは何か』であった。
この本は「死亡した市民の大部分は、13日午後と夜、
つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした」とか、
「強姦を拒んだ婦人も銃剣で突き殺されました。また、邪魔になった子供たちも突き殺されました」
といった南京の「度重なる殺人」を描いていた。

ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして
認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。
しかし、近年の研究でティンパーリは左翼思想の持ち主で
イギリス共産党をはじめとする当時の国際的な共産主義運動に関与していたほか
国民党中央宣伝部の下部組織である国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」として
月額1千ドルの活動費を得て、宣伝工作活動を行っていたことが判明している

223 :七つの海の名無しさん:2019/11/06(水) 00:02:26 ID:HmJHy1Rk.net
『南京安全区国際委員会ジョン・ラーベ代表』

安全区国際委員長だったラーベは虐殺を1件も目撃しませんでした。
ラーべの日記や手紙の中では
ラーべ本人が殺人現場を見た記述は一つもありません。

ラーベは、1937年12月17日に、日本軍による破壊や犯罪が極めて少数で
秩序が回復した旨の『第6号文書』を日本大使館宛に送っていました。

ところが、東京裁判で検察側書証として提出された
「1938年1月14日付のドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」
(ジーメンス社社長マイアー宛の手紙)には、
「約2万の婦女子を冒し、数千の無辜の市民を殺害」と書いていました。

さらに、『ヒトラーへの上申書』には、
「中国側の申し立てによりますと、10万の民間人が殺されたとのことですが、
これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。
我々外国人はおよそ五万から六万と見ています」と報告しました。

ラーベの報告は、数千だったり5〜6万だったり滅茶苦茶です。
もしも、本当に日本軍が市民大虐殺をしていたのなら、
日本軍憲兵隊に通報したり日本大使館に抗議するのが
安全区国際委員長の責務であるのに、それをせず、
南京の外(上海やドイツなど)に向けてのみ、
日本軍の犯罪を発信していたのは、
彼が嘘の宣伝工作をしていたとしか考えられません。

224 :七つの海の名無しさん:2019/11/06(水) 00:02:42 ID:HmJHy1Rk.net
ラーベは、安全区の自宅に、現金を一杯に詰めたトランクを
幾つも持っていた支那軍将校の龍大佐と周大佐を潜伏させていました。
これは、中立と、安全区の保護を責務とする安全区国際委員長としては、
言語道断であり、この行為自体が支那軍のための工作活動です。

また、当時ジョン・ラーべは、支那の蒋介石政権に重電機・通信機などを
売って莫大な利益を得ていた「軍需産業ジーメンス」の南京支社長でした。

支那事変が始まってから
日本は再三ドイツに支那への軍需品輸出をやめるように要請していました。

ヒトラーはソ連を牽制するためにも、
日本と手を組む事を選び、支那への軍需品輸出を控えました。

ラーベにしてみれば、
自分が30年間も支那で培ってきた商売が水の泡になるので、
「日本はこんなひどい事をしている。こんな国との同盟は止めてくれ!」
と言いたかったのでしょう。

しかし、ラーベの荒唐無稽な「数千人」とか「5〜6万人」とかの虐殺の話は
あまりにも不自然過ぎて、同胞のドイツ人にも信じて貰えませんでした。

1938年1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、
2月10日、自分の目で実情を確かめた上で漢口のドイツ大使館に、
ラーベが語る日本軍の暴行事件について、
「暴行事件と言っても全て支那人から一方的に聞いているだけ」
と書き送っています。

結局ラーべの策略は実らず、ドイツに呼び戻され、
二度と支那の土を踏むことはありませんでした。

225 :七つの海の名無しさん:2019/11/06(水) 00:02:54 ID:HmJHy1Rk.net
『第6号文書』安全区国際委員会
「1938年1月14日付のドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」
(ジーメンス社社長マイアー宛の手紙)
『ヒトラーへの上申書』『ラーベの日記』

1937年、支那事変の発端である第二次上海事変の前、
蒋介石は1932年の第一次上海事変の上海休戦協定を無視し、
呉淞と真茹を結ぶ線の北側の非武装地帯に
クリークや2万個以上のトーチカを作るなどして軍事要塞線(ゼークト・ライン)を築いていた。

【支那にいたドイツ軍事顧問団の最高責任者アレクザンダー・フォン・ファルケンハウゼン】が
保存していた内部文書。(ドイツ、フライブルク連邦軍事資料館所蔵)

ファルケンハウゼンは【ドイツが国民党軍に武器を供給する際、その取引可否を決裁する権限を持っていた】

この人物と家族ぐるみで親しかったのが
南京安全区国際委員長でナチ党員のジョン・ラーベで、
【ラーベはシーメンス社の武器部門責任者】だった。

226 :七つの海の名無しさん:2019/11/06(水) 00:44:04.91 ID:FgkD2Dev.net
 


 


チャンコロ五毛が必死すぎワロタw


 


 

227 :七つの海の名無しさん:2019/11/07(木) 22:50:18 ID:xN6mzL5q.net
五毛か

228 :七つの海の名無しさん:2019/11/08(金) 23:22:10.66 ID:Pm0e4qcb.net
五毛さ〜ん

229 :七つの海の名無しさん:2019/11/10(日) 13:23:55 ID:oe7Yy3eM.net
六毛

230 :七つの海の名無しさん:2019/11/14(木) 23:24:58 ID:gAlYbLvQ.net
統合失調症暴れすぎ

231 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 17:08:33.43 ID:eXFjpBlP.net
何の旨味もない

232 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:11:07 ID:UHq28sIp.net
●アメリカがでっちあげた南京事件

『マスメディアの罪と罰』

南京事件はアメリカが作った話だと考えてまず間違いない。
南京裁判で証言した歴史学者のマイナー・シール・ベイツや
東京裁判で証言した宣教師のジョン・マギー
同じく宣教師で口述書を残したジョージ・アシュモア・フィッチなど、関わっているのはすべてアメリカ人。
南京事件が2015年に世界記憶遺産に認可されたとき
登録された記録映像通称マギーフィルムはこのマギーが撮影したもの

ニューヨーク・タイムズの特派員ティルマン・ダーディンは、
最も早く南京事件を報道したジャーナリストのひとり、日記のかたちで当時の様子を残したという
女性宣教師ミニー・ヴォートリンは南京・金陵女子大学の教師だった。
米大手新聞のシカゴ・トリビューンとニューヨーク・タイムズは1937年の時点ですでに最初のストーリーを作っている。

この時期、アメリカは国務長官と陸海軍長官とジャーナリスト代表で
アメリカ広報委員会(CPI)を作り、中国に親米反日の機運を盛り上げていた。
アメリカの特派員もその一翼を担っていた。
そのひとりがニューヨーク・ヘラルドの特派員ウィリアム・ドナルドだった。
宋美齢とデキていたと言われている。
蒋介石が拉致監禁された1936年の西安事件のときに、西安へ宋美齢を連れて飛んだのがこのウィリアム・ドナルドだった。

233 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:11:19 ID:UHq28sIp.net
事件の首謀者である張学良と楊虎城に「お前らは引っ込んでいろ」と言って蒋介石を解放させる。
アメリカは蒋介石にカネも軍備も飛行機も与えてきた。
それで日本をやれ、日本を戦争に引きずり込めと指導してきたが、つまらぬ内輪喧嘩を始めた。
真面目にやらないともう援助しないぞと脅しをかけたのだと言われる。
蒋介石はそれで北伐をやめて対日挑発に取り掛かる。

翌1937年に入ると様々な対日テロが始まる。
7月7日に盧溝橋事件があり、7月末に通州事件があり250人の日本人居住者が殺される。
8月13日に上海攻撃が始まる。
米陸軍航空隊将校のクレア・リー・シェンノートも宋美齢と一緒に中国軍隊空軍の指揮かなんかをやっている。
ずっと繋がっているわけ、ウィリアム・ドナルドなどというのは紛れもなくニューヨーク・ヘラルドの人間だ。

一介の特派員がそんなに仕切れるわけがない。
背後にいたのが先に触れたアメリカ広報委員会(CPI)で
支那にいた米国特派員はすべてこのCPIの指図で動いていたとみて差し支えない。

234 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:11:46 ID:UHq28sIp.net
>ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)の
>すばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。
>ジョージに直ちにアメリカに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言しました。
>効果はてきめんです。
>中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官からは会見を申し込まれるだろうし、
>(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれません。(中略)
>これはまったく私一人で考えついたことです。(中略)資金の手配はしているところです。

「ハロルド・ジョン・ティエンパレー」
1898年生まれ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。
ロイター通信の北京記者となる。
その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。

1937年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、
宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。
編著に『中国に於ける日本人の恐怖』(1938年)一書がある

ティンパーレーの日本語訳本を出した「龍渓書舎」というのは、
実は「チャイナ・ウイークリー・レビュー」が
中国語訳本を出版するときに使われた書店名であることもわかった。
チャイナ・ウイークリー・レビューは、
そもそもが国民党の息のかかった英文紙だったのである。・・・

ここで新たにわかったことは、ティンパーレーは、
南京から送られてきた手紙を、
ただ「真実」として読者に伝えようと思ったのではなく、
「宣伝部」という国民党組織と一緒になってあの本を書いた、ということである。

中央宣伝部が総力を挙げて製作したのが、宣伝本のティンパーリ編『戦争とは何か』であった。
この本は「死亡した市民の大部分は、13日午後と夜、
つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした」とか、
「強姦を拒んだ婦人も銃剣で突き殺されました。また、邪魔になった子供たちも突き殺されました」
といった南京の「度重なる殺人」を描いていた。

ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして
認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。
しかし、近年の研究でティンパーリは左翼思想の持ち主で
イギリス共産党をはじめとする当時の国際的な共産主義運動に関与していたほか
国民党中央宣伝部の下部組織である国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」として
月額1千ドルの活動費を得て、宣伝工作活動を行っていたことが判明している

235 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:14:51 ID:UHq28sIp.net
>>1
南京安全区国際委員会・宣教師・南京大学教授、シール・ペイツ 

ベイツは宣教師で、南京で大学教授をしていました。

南京安全区国際委員会のメンバーであり、
当時から日本軍の犯罪を米国領事館へ報告したり
日本大使館へ抗議をしまくっていました。

また、戦後の東京裁判でも様々な証言をして、
「南京大虐殺」を作り上げた中心的人物の一人です。

実は、1937年12月15日に南京を去ったNY・タイムズのダーディン記者や
シカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者に
出鱈目メモを渡したのもベイツでした。
――――――――
南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』105項。
1938年1月5日、上海のアメリカ総領事ガウスからワシントンの国務長官宛の
「祕密扱い」の報告書簡 (出典:Record of US Embassy to Chinam
Correspondence American Embassy Nanking)には次のように記されている。
「南京大学のシール・ペイツ博士(社会学および歴史学の教授)が書いた
日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。
本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』 の
アーチボルト・スティール氏が当総領事館の館貞に手渡したものである」
――――――――
ベイツは長く南京に滞在したのですが、
ベイツ自身が目撃した虐殺は0件なのです。

ベイツが所属した安全区国際委員会の公文書にある殺人事件の報告を基に
犠牲者を数えると、出鱈目ばかりですが、それでもたったの約50件です

236 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:15:02 ID:ZBHn6NaA.net
ID:UHq28sIp
ドイツのホロコーストやナミビア人虐殺には触れない不思議な五毛

237 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:15:08 ID:ZBHn6NaA.net
ID:UHq28sIp
ドイツのホロコーストやナミビア人虐殺には触れない不思議な五毛

238 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:15:13 ID:ZBHn6NaA.net
ID:UHq28sIp
ドイツのホロコーストやナミビア人虐殺には触れない不思議な五毛

239 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:15:23 ID:UHq28sIp.net
>>235
ところが、ベイツは、「ベイツ・メモ」で
4万人大虐殺を主張した1938年に国民政府から勲章を受けました。
また、ベイツは、東京裁判で
市民1万2000人大虐殺を主張した1946年にも国民政府から勲章を受けました。

他の安全区国際委員会のメンバーは、
1938年や1946年に国民政府から勲章を受けていません。
ベイツが国民政府から貰った「勲章」と
南京大虐殺の「大宣伝」の相関関係は、これで充分に説明がつきます。

日本軍占領地で日本人と親しく付き合っていた者たちは、
戦後、国民党から弾圧されました。
日本軍占領地に居ながら、
戦後、国民党から勲章を受けたというのは余程のことです。
このことだけでも、ベイツが国民党側の人物だったことは確実なのです。

さらに、2001年には、ベイツが「国民政府の顧問」と
紹介されていた新聞記事の切り抜きまで発見されました。

240 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:16:10 ID:UHq28sIp.net
南京陥落(1937年12月13日)後に日本軍によって中国の一般市民や捕虜が
虐殺されたとする"南京虐殺"問題について新事実が明らかになりました。

亜細亜大学教授の東中野修道氏は『諸君!』2002年4月号の
「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」で、
当時、南京大学の歴史学教授で敬虔な宣教師、
従って中立的な証言者として知られたマイナー・サール・ベイツが
実は国民党中央政府の顧問だった事実を昨年イエール大学で発見しました。

また同大学では、ベイツがその著書で初めて4万人虐殺を主張した1938年と
東京裁判で市民1万2000人虐殺を主張した1946年に、
当時の中国政府(国民党政府)から勲章を受けたと
晩年に書かれた自筆の履歴書も見つかっています。

「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」

そのティンパーリと反日的な点で同志関係にあったベイツも、
中華民国政府顧問であったことも次の史料から明らかになりました。

それを証明したのが、イエール大学で私が発見した
小さな新聞記事の切り抜きであった。写真説明は次のようになっている。

「中国の首都南京の城門を攻める日本軍の砲撃がこだまするなか、
それに怯むことなく、
オハイオ州・ハイアラム出身の南京大学歴史学教授にして、
中華民国政府顧問のマイナー・サール・ベイツ博士(写真)は、
城壁で囲まれた南京城内の自らの持ち場を離れることを拒否した。
アメリカ大使館は、ベイツ博士が最後の瞬間に逃げることを許可し、
彼に、城壁をよじ登って降りるさいの縄ばしごを提供した」

241 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:16:33 ID:UHq28sIp.net
ベイツは、東京裁判で日本軍による強姦についても証言をしましたが、
これがまた驚くべきトンデモ証言でした。
――――――
「それより少し前私はずっと内輪に見積もりまして、
又安全地帯の委員会の報告のみによりまして、
強姦事件は八千と見積もったのであります。」

「東京裁判速記録第三六号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』P50

A little earlier I estimated, very much more cautiously and on the
basis of thesafety zone reports alone, some eight thousand cases.
「The Tokyo War Crimes Trial, 」pp.2633-2634
――――――
"on the basis of the safety zone reports alone"、

つまり、「安全区国際委員会の報告のみを基にして」、
強姦件数を8000件と見積もったと証言したのです。

しかし、安全区国際委員会が記録した「被害届」に記された強姦事件は、
未遂を含めても361件で、記録者名のある事例は僅かに61件で、
さらに日本軍に通報された事例は7件のみだった。

「安全区国際委員会の報告のみを基にして」、
強姦件数を8000件と見積もったというベイツの証言は、
明らかな嘘であり、口からデマカセの数字でした。

242 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:16:58 ID:UHq28sIp.net
また、上記の証言の少し前には以下のような証言もしました。
――――――
「私は現に強姦している現場を見て、
そして其の兵隊の五回に亙る強姦の現場を通り合わせました。
其の詳細は尤も御希望でありましたら申述べますが、私は其の
強姦して居る兵隊を強姦されて居る女達から引き退けたのであります。」

「速記録第三六号」
――――――
なんと、ベイツは、
「強姦されて居る女達から日本兵を引き退けた」と言うのです。
こんな証言を誰が信じるでしょうか?

―――――――――――――――――

同じように非常に不思議なベイツの安全区国際委員会「報告」があります。

243 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:17:15 ID:UHq28sIp.net
第467件
3月19日午後3時半から4時の間、金陵大学語学学校の難民キャンプで、
日本兵1名が19歳の難民の少女を強姦した。
ベイツ博士が4時5分ころ、現場に到着して兵士に近づくと、
兵士は脅すように銃剣を振り回し、
ふてぶてしい態度で「女が欲しいのだ」と言った。
だが、ベイツ博士は兵士を説得してそこを立ち去らせた。
兵士に酔っている様子はなかった。
――――――

なんと、ベイツは、
『銃剣を振り回し、ふてぶてしい態度で「女が欲しいのだ」と言った』
日本兵を説得して立ち去らせたと言うのです。

ベイツが日本語で説得できる訳がないので
英語で説得したのでしょうが、実に不思議な話です。

さらに、ペイツは、アメリカ大使館の
アリソン宛に1月14日付で次のような手紙を出しています。

――――――
昨夜4人の日本人が金陵大学付属中学校の教室へ入ってきました。
彼らの行動の詳細は充分には分かりません。
というのはしかるべき目撃者が脅えきっているためです。
とにかく彼らは1人の少女を連れ去りました。
それらの日本人たちは憲兵で、少なくともその一部は、
中学校の門に配備された衛兵たちでした。
彼らは中国人の布靴を履き、一部に中国服を着ていました。
――――――

ペイツは「詳細はわからない」と言いながら、
また自ら目撃したわけでもないのに、
犯人は支那人に変装した日本兵、それも憲兵だと断定しています。
目撃したと称する支那人の証言を何の疑いもなく受け入れているのです。
しかし何のために日本兵が支那人に変装しなければならないのか、
合理性を欠くと言わざるを得ません。

244 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:17:37 ID:UHq28sIp.net
ベイツが嘘をついて宣伝工作活動を
行なっていた決定的な根拠は、1937年12月15日の言動です。

12月15日、ベイツは、南京の金陵大学を訪れた2人の日本の新聞記者には、
『…秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです』
と話して記者の手を握りました。

しかし、同じ日に南京に居ない知人に宛てた手紙には、
『…日本軍は、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行…
(略)…南京で示されているこの身の毛もよだつような状態…』と書き、

また、12月15日に南京を去るダーディンやスティールにも
同様に民間人殺害や強姦について書いたメモ(レポート)を渡しました。

ベイツの行為は、宣伝工作そのもであり、
宣伝工作員だったことは間違いありません。

12月15日、南京において目の前に居て、
その後も南京に留まる日本の新聞記者や同僚の陳教授には
嘘が通用しないから有りの儘の事実を話し、南京に居ない知人や
南京を去るダーディンやスティールたちには大嘘宣伝工作をしたのです。

245 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:18:03 ID:UHq28sIp.net
ダーディンたちは12月15日まで南京に居ましたが、
戦闘の様子や便衣兵の処刑しか目撃していません。

5人の日本兵がアメリカ大使の私邸から懐中電灯1本を略奪したとか、
大学病院で金品が盗まれたことなどは取材で知ったようです。

しかし、日本軍による民間人殺害とか強姦の記事はベイツのメモによる
ものでした(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』)。

そもそも、15人の安全区国際委員や多くの日本人記者などは
12月15日以降も長く南京に滞在したのに1件も日本軍による市民虐殺を
目撃しなかったのですから
15日の昼に南京を去ったダーディンやスティールが虐殺を目撃した訳がなく、
ベイツのメモを記事にしたことは記事を読んでも判ります。

一方、昭和12年12月16日付東京日日新聞の若梅、村上両特派員の記事は、
『空襲下の南京生活 金陵大学・米人教授に聴く』と題し、
12月15日のベイツの発言そのものを記事にした。

そこで、ベイツは、
「…『…秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです』
と記者の手を握つた、…」訳であり、同じ日に南京に居ない知人に
宛てた手紙や南京を去るダーディンやスティールに渡したメモには
『…日本軍は、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、
婦女暴行…(略)…南京で示されているこの身の毛もよだつような状態…』
と書いていました。

246 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:18:23 ID:UHq28sIp.net
ベイツが知人に宛てたこの手紙は、翌年、ティンパリーの
『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)に編纂され出版された。
『WHAT WAR MEANS』には、この手紙の他にも12月26日付の
『埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が
南京城内または城門の付近で殺され、
その内の約30%はかつて兵隊になったことのない人々である。』
などとベイツが書いた手紙も編纂されました。

ベイツたちがもし日本軍の犯罪を知ったら、日本軍憲兵隊や日本大使館や
日本の新聞記者などに訴えるのが安全区国際委員会としての責務だった。
それなのに、ベイツらは、そのような責務を果たさず、南京の外
(上海や海外)に向けて荒唐無稽な万単位の虐殺を宣伝していました。

これらの宣伝工作が評価され、
ベイツは1938年に蒋介石政府から勲章を貰ったのです。

もう一つベイツが嘘つき宣伝工作活動を行なっていた決定的根拠は、
1946年、東京裁判で「安全区国際委員会の報告のみを基に強姦件数を8千件」
と証言したことです。

安全区国際委員会が記録した「被害届」に記された強姦事件は、
未遂を含めても361件で、記録者名のある事例は僅かに61件で、
さらに日本軍に通報された事例は7件のみだったのですから、
この嘘が覆ることは絶対にありません。

また、ベイツは、東京裁判で、
「スミス教授及び私は、色々な調査・観察の結果、
我々が確かに知っている範囲内で、
城内で1万2000人の男女及び子供が殺されたことを結論といたします」
と偽証しました。

247 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:18:31 ID:UHq28sIp.net
他にも理解不可能な様々な驚くべき証言をしました。

蒋介石政府は、日本の「戦争犯罪」を裁くための「東京裁判」に備え、
1945年11月7日「南京敵人罪行調査委員会」を設置し、
支那人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけましたが、
マトモな証人が現れず非常に苦労しました。

その中にあってベイツ証人の活躍は凄いものでした。
「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」
(戦争への罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)
を遂行中だったGHQに、とっても頼もしい証人でした。

これらの宣伝工作が評価され、
ベイツは1946年に、再び、蒋介石政府から勲章を貰いました。
ベイツが嘘つき宣伝工作員だったことは100%確実です。

248 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:20:33 ID:UHq28sIp.net
支那が宣伝工作を本格化させ始めたのは、
1937年11月頃からでした。

1937年11月頃から本格化した支那側の宣伝工作において、12月以降、
ベイツは日本軍の極悪非道の対外宣伝に中心的役割を果たしました。

しかし、そのベイツも1937年7月から始まっていた支那事変において、
11月まで全く残虐行為をしていなかった日本軍が
12月から突如急に南京で大虐殺を始めたのでは不自然だと思ったのでしょう。

そのため、何とか11月以前にも上海やその他の街で
日本軍が残虐行為をしていたことも宣伝もしておきたかったのですが、
上海に居たテインパリーかいくら調査しても、1937年11月以前の
日本軍の残虐行為を何一つ把握することが出来なかったのです。

結局、それでもベイツは12月以降南京における
日本軍の残虐行為の嘘宣伝を断行するのですが、
冒頭に提示した1938年3月に行われた
南京のベイツと上海のテインパリーの手紙のやり取りは、
宣伝工作員としてのベイツの憂慮を表したものとして面白いといえます。

249 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:42:45 ID:Ht3Wp1OV.net
何してんだよ、ドイツもこいつも。

250 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 22:50:58 ID:Jc6V9AWd.net
スイス製にはブランド価値あるけど、ドイツ製にはもう何もないな。

251 :七つの海の名無しさん:2019/11/15(金) 23:18:58 ID:xL2ITiOa.net
238 七つの海の名無しさん 2019/11/15(金) 22:15:13.51 ID:ZBHn6NaA
ID:UHq28sIp
ドイツのホロコーストやナミビア人虐殺には触れない不思議な五毛

252 :七つの海の名無しさん:2019/11/16(土) 01:48:46 ID:aJpzPR7+.net
チョンみたいな擦り付けゴミクズが湧いてる

実際にユダヤ人殺したよね?

253 :七つの海の名無しさん:2019/11/16(土) 13:14:06 ID:c84d6dQq.net
なるほど破綻しないのは中国のおかげか

254 :七つの海の名無しさん:2019/11/16(土) 21:47:43.97 ID:eBQFvcQB.net
まあ、ドイツ企業は全て中華資本だしな

255 :七つの海の名無しさん:2019/11/16(土) 21:52:55 ID:6kTl5F9E.net
■ナミビア先住民、ドイツ植民地時代の虐殺めぐり集団訴訟
https://www.afpbb.com/articles/-/3113437

ナミビアでドイツ植民地時代に起きた先住民ヘレロ(Herero)人とナマ(Nama)人の虐殺をめぐり、両先住民の代表団が5日、ドイツ政府に補償を要求する集団訴訟を米ニューヨーク(New York)の裁判所に起こした。代表団は虐殺をめぐるナミビア政府とドイツ政府との交渉にも参加させるよう求めている。

 さらに原告団は、入植者らがヘレロとナマの女性や少女たちをレイプし、両民族を強制労働させていた事実を植民地政府が黙認していたと非難している。

■ドイツは直接補償を拒否

 1904〜05年に起きたヘレロとナマ人大虐殺をめぐり、ナミビア政府とドイツ政府は共同宣言の発表に向けて協議を続けている。

 ドイツ側は虐殺の事実を認める一方、ナミビアが1990年に南アフリカから独立してから、ドイツは数億ユーロ規模の開発援助を「ナミビア国民の利益のため」に続けてきたことを理由に直接補償は拒否し続けている。


■ドイツ、旧植民地ナミビアに石柱返還=過去反省の「盲点」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051800176&g=int
 ただ、独政府はこれまで、ナミビアで20世紀初頭に独軍が先住民数万人を虐殺したことに対する賠償は拒否するなど、植民地支配への補償には他の欧州諸国と同様に消極的な姿勢を示している。(2019/05/18-06:19)

256 :七つの海の名無しさん:2019/11/16(土) 21:57:40 ID:4lDsJLmx.net
マイナー・シール・ベイツ(wiki
アメリカ合衆国オハイオ州ニューアーク出身の歴史学者。
イェール大学で博士号を取得、金陵大学(現:南京大学)副学長を歴任
中華民国政府の顧問であった。
1937年12月、南京攻略戦の南京安全区国際委員会の一員
1938年と1946年には蒋介石より勲章を授かっている。
中華人民共和国政府は、ベイツが南京軍事法廷でおこなった証言をユネスコ記憶遺産へ申請し、2015年登録された
略歴
1916年、ハイラム学院において文学士号を得る。同年、オックスフォード大学に入学。
第一次世界大戦中に世界YMCA(キリスト教青年会)の書記としてインドやメソポタミヤに派遣され、戦時中の民衆救済活動に参加した。
1920年にオックスフォード大学を卒業し、基督会によって宣教師に任命され、南京の金陵大学の歴史学教授に就任する。
1923年、金陵女子文理学院教師リリア・ロビン(Lilliath Robbins)と結婚。
1934年から1935年には、ハーヴァード大学にて日本語・ロシア語を学んだ。

257 :七つの海の名無しさん:2019/11/16(土) 21:58:03 ID:4lDsJLmx.net
南京安全区国際委員会・宣教師・南京大学教授、シール・ベイツ(正統史観

ベイツは宣教師で、南京で大学教授をしていました。

南京安全区国際委員会のメンバーであり、
当時から日本軍の犯罪を米国領事館へ報告したり
日本大使館へ抗議をしまくっていました。

また、戦後の東京裁判でも様々な証言をして、
「南京大虐殺」を作り上げた中心的人物の一人です。

実は、1937年12月15日に南京を去ったNY・タイムズのダーディン記者や
シカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者に
出鱈目メモを渡したのもベイツでした。
――――――――
南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』105項。
1938年1月5日、上海のアメリカ総領事ガウスからワシントンの国務長官宛の
「祕密扱い」の報告書簡 (出典:Record of US Embassy to Chinam
Correspondence American Embassy Nanking)には次のように記されている。
「南京大学のシール・ペイツ博士(社会学および歴史学の教授)が書いた
日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。
本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』 の
アーチボルト・スティール氏が当総領事館の館貞に手渡したものである」
――――――――
ベイツは長く南京に滞在したのですが、
ベイツ自身が目撃した虐殺は0件なのです。

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