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【ドイツ】ネオナチ「核兵器師団」の分派の「殺害対象リスト」にドイツ緑の党の2人の議員:政権は脅迫を強く非難 [11/05]

22 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:10:14 ID:UeRmLu2g.net
>>1
日独防共協定(正統史観

1936年(昭和11年)11月25日、日独防共協定

1935年(昭和10年)7月のコミンテルン第7回大会以降、
コミンテルンは日本とドイツを公然と敵視し、
いわゆる「反ファッショ人民戦線戦略」によって国際的に敵対行為を活発化させていた。

日本はこのような敵対行為に対し、その破壊活動防止のため、
利害を同じくする諸国と提携して対処すべく、ドイツ側の打診を開始した。

ソ連は五ヵ年計画で極東での急速な軍備強化を行い、それは日満両国への重大な脅威であった。
このようなソ連とコミンテルンの脅威に関して
ドイツは日本と同じ立場であることが日独防共協定へとつながった。

1936年(昭和11年)11月25日、日本はドイツと日独防共協定
(正式には「共産インターナショナルに対する日独協定」)を締結した。

日本外務省は、防共協定締結の勧誘に西欧諸国が応じると読んでいたが、
実際には日本の意向に反して反英・反米協定と誤解され、アメリカとイギリスの対日空気が悪化した。
アメリカとイギリス(そして支那[中華民国]も)は
共産主義に対する認識が生ぬるく、間違っていたのだ。

日独防共協定は1937年(昭和12年)11月にイタリアが加わり、
三国防共協定となったが、翌13年に入ってからは満州国とハンガリー(2月)、
そしてスペイン(3月)が加盟し、枢軸陣営はますます強化されつつあった。
これがやがては日独伊三国同盟(1940年9月27日)へとつながる。

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