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【ベラルーシ】愛の記憶、切り取った髪に…原発事故処理に送られた夫、生と死のチェルノブイリ[08/25]

1 :Hi everyone! ★:2014/08/25(月) 23:30:42.59 ID:???.net
ソース(共同通信 「祈りよ力に」) http://www.47news.jp/47topics/inori/2014/08/post_20140820173519.html
写真=夫と出会った思い出の場所、ミンスクの中央郵便局前に立つワレンチナ・アパナセービッチ。
近くには2人でよく行った映画館やレストランがある(撮影・バレリー・ミロセルドフ、共同)
http://img.47news.jp/47topics/inori/images/photo/256262_photo.jpg

 どうして忘れられるのですか、チェルノブイリの悲劇を。28年たった今、語る人はもうほとんどいません。でも、私は忘れたくない。
原発事故の処理に従事し、5年後に逝った夫を今でも愛しているからです。世界でいちばんすてきで優しかった人。あなたに語りたい
私の人生で最も大切なものは、夫の生と死についてです。

 ▽20歳の花嫁

 私の名前はワレンチナ。夫ミハイル・アパナセービッチと出会ったのはベラルーシの首都ミンスクの中央郵便局前にあるトロリーバス
停留所。バスを待つ間、隣にいた彼とおしゃべりしたのがきっかけでした。背が高くてハンサムで美しい髪をしていた。私は18歳、彼は
24歳。デートの時は約束の時間の前に来て彼を待ちました。初めてのキスも私から。友達は「男は待たせるものよ」と忠告したけど、
私は他の人に取られるのではと気が気じゃなかった。だからある日、言ったんです。「私と結婚して」

 20歳で式を挙げました。こんな素晴らしい人が私を選んでくれた。私は手を合わせて神に感謝しました。夫は腕のいい高所機械
組立工でソ連各地に出張しました。中でもチェルノブイリ原発の仕事は給料が良かった。事故の前です。子供も生まれ、アパートや
車も手に入れました。「夜中に帰宅しても呼び鈴を鳴らしてね」。ドアを開けて夫を迎えるのが私は大好きでした。

写真=ミンスクの自宅アパートで語るワレンチナ(撮影・バレリー・ミロセルドフ、共同)
http://img.47news.jp/47topics/inori/images/photo/256262_photo3.jpg

 ▽予感

 休暇には車で旅行しました。夜通し走り、白々と夜が明ける。運転する夫の右手が私の膝にあり、私はその手に自分の手を重ねて
いる。後部座席には子供がいる。幸せでした。でもこの幸せはいつか終わる。なぜかそんな予感があったのです。

 政府は当初、原発事故を秘密にしていましたが、すぐにうわさは広がりました。2、3週間後、夫は現場に送られました。
「なぜ行かせたのか」と後で義母が私を責めたけれど、当時は戦争が始まったような状況で、行かなければならなかった。数週間後に
帰宅すると、首のリンパ節が腫れていました。夫は「すぐに治る」と言って病院に行きませんでした。

 ある日、出張先から夫が電話をしてきました。「喉がすごく痛くて高熱が続いている」。帰宅後、ミンスクの病院へ。夫を診た医師に
私は呼ばれました。「長くて1年半ほどです」。ああ、予感が当たった。診療室の扉が見えなくなりました。

 放射線治療の合間に私たちは映画館に行きました。「僕じゃなくてスクリーンを見て」。夫は笑いましたが、私は暗闇で彼の横顔を
見詰め、涙を止められませんでした。

 リンパ節と甲状腺などを切除した後、夫は家に帰されました。「もう手の施しようがない」ということでした。それからの8カ月は本当に
恐ろしい日々でした。私は彼と寝起きをし、ずっとそばにいました。

写真=ワレンチナが木箱に保管している夫の思い出の品々。ソ連政府が事故処理作業員に贈った勲章(左上)、ビニール袋に入れた夫の髪、
遺書、結婚式や働く夫の写真。夫の枕の下に置いていたマリア像。「私が死んだら処分は息子に任せます」(撮影・舟越美夏、共同)
http://img.47news.jp/47topics/inori/images/photo/256262_photo4.jpg

>>2以降に続く)

2 :Hi everyone! ★:2014/08/25(月) 23:31:05.68 ID:???.net
>>1の続き)

 ▽誰のせいでもない

 がんが体の表面に急速に広がり、症状が次々と現れました。夫の目はつぶれ、顔は溶けてしまったかのようになった。胸は真っ黒。
体のあちこちからは出血。ひどい腐臭が自宅に漂い、見舞客は長居できなかったほど。「僕を施設に入れて」と夫は一度、訴えましたが、
私は首を振りました。

 ある日、手をたたいて私を呼んだ夫は、左目のまぶたを私の指でこじ開けさせ、紙に書きました。「僕の死は誰のせいでもない。誰かを
責めたりしないでくれ」。それから「遺体は火葬に。葬式に音楽はいらない」「車とタイヤは弟に」「弟と妙な関係になるなよ」

 体は壊れていくのに髪の色はなぜか濃くなりました。彼が眠っている時、私はひと房、切り取った。それがこれ。私のいちばん大切な
ものです。

 1991年4月22日、握っていた彼の手が冷たくなりました。50歳になったばかりでした。

 夫の死は私たちを苦しみから解放したか、ですか? いいえ、私は彼と二度と会えなくなることがただただ怖かった。

 葬儀では彼の顔に男物のハンカチをかけました。「顔が見たい」と親戚の女性がハンカチを取り、卒倒しました。

 それから1年、私は抜け殻のようでした。夫の仕事仲間も次々と死にました。人生にはなぜ、苦しみがもたらされるのでしょう。67歳の
今も分かりません。「どんなに苦しくても生きねばならない」。ロシアの作家ゴーリキーを引用し、夫がよく言った言葉です。
 
 次男には子供が生まれました。6歳の孫は私の希望です。孫はよく「子供はどこから生まれるの」と聞きます。生命は続いていきます。

 長男は心身に病を抱え、長いこと施設で暮らしています。「世界でいちばん美しい私の息子。いちばんかわいくて優しい子」。週末に
長男を訪れ、何度も語りかけます。一緒に行ってくれた作家のスベトラーナ・アレクシエービッチさんは「祈りの言葉のようですね」と
言いました。私のことを「チェルノブイリの祈り」(邦題)という本で最初に書いてくれた方です。

 世界でいちばんすてきな人。今でも夫に語りかけます。切り取った髪からは、もう彼の香りはしません。でも、深い愛の記憶が私に
生きる力をくれるのです。(敬称略、共同通信記者 舟越美夏)=2014年05月21日

■一口メモ

事故処理で数千人死亡か

 1986年4月26日、旧ソ連ウクライナのチェルノブイリ原発4号機が試験運転中に爆発した。国際原子力機関(IAEA)によると、
放出された放射性物質の量は広島原爆の400倍。汚染は北半球全体に及び、ベラルーシは国土の23%が汚染された最大の被害国。

 国連などの調査では、事故処理には現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシなどから60万〜80万人が従事。うち少なくとも数千人が
放射線被ばくに起因する病気で死亡したとの推計もある。

 ソ連政府は作業員を表彰し年金などを保証したが、ソ連崩壊後のウクライナなどでは政治・経済の混乱で年金額は減らされている。

http://img.47news.jp/47topics/inori/images/photo/256262_map.jpg

(終わり)

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