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インパール作戦はDデイを遅らせたから痛み分けだろ?

1 :日出づる処の名無し:2016/09/23(金) 05:53:14.50 ID:2wO2Rnvp.net
1943年12月のテヘラン会談では、第二戦線開設(Dデイ)は翌年5月の予定だったはずだ。
Dデイが1ヶ月遅れたということは、米英は連合国としての義務を反故にしたことになる。
なおテヘラン会談で決めた第二戦線とはあくまでフランス上陸のことであって、決して継続中のイタリア戦線ではない。

Location Of German Divisions In June Of Each Year
Country      1941   1942   1943  1944
USSR        34     171   179   157
France, Belgium
& Holland      38     27    42    56
Norway & Finland 13     16    16    16
Balkans       7       8     17    20
Italy          0       0     0     22
Denmark       1       1     2     3
North Africa     2       3     0     0
http://www.angelfire.com/ct/ww2europe/stats.html

前年まではゼロだったイタリア戦線が、1944年6月になって22個師団になっているが、
これは実質的に米英がドイツ軍と交戦するのは1944年以降だったということを示している。

 十一月には商船六隻、二万三〇〇〇トン、十二月には七隻、四万八〇〇〇トンを撃沈しただけだった。
 そしてこの二ヵ月間に、同じ船団航路上で一六隻のUボートが失われたのである。
 これをあの三月の実績にくらべると、信じられぬほどである。三月には北大西洋だけで八〇隻、
四七万六三四九トンの商船が撃沈されているのに、Uポートの損失はわずか六隻にすぎなかった。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU2/uboot14.htm

海運状況にしても、1943年末までにUボートの脅威も無くなってたはずだ。
制海権も無いのにレンドリースとか、制空権も無いのに赤軍快進撃とかは有り得ない。
あるいは1944年のモンテカッシーノ戦では、キングタイガーとME262の大群が現れたのか?

2 :日出づる処の名無し:2016/09/23(金) 18:17:09.21 ID:Lg82C0Rc.net
・・・・スターリンは、 「大君主」作戦が極めて重要であること、フランス南部に侵攻することによって
この作戦を援助するほうがよい、ということを繰り返し主張した。
彼は、イタリアにおいては守勢をとり、そのために、例えば10個師団で南フランスの侵攻が出来るならば、
ローマの占拠も断念するほうがよい とすら考えていた。・・・・
大統領がここで諸作戦の時期については最も慎重な考慮を要すると、示唆した。東地中海で何らかの
作戦が企図されるならば、それは『大君主』作戦を6月か7月かまで延期させることになるだろう。
彼自身としては、よし回避しうる可能性があるとしても、かかる延期には反対であった。
・・・・私は、英軍および英管轄下の20個師団が編入されている地中海域の軍隊の行動を、単に、 
「大君主』作戦の日取りとして5月1日を正確に守るというだけのために、犠牲とすることは、
どのような事情においてであろうとも、私としては同意しがたい旨を述べた。・・・・・・】

「第二次大戦回顧録」から -6
テヘラン会談 (最初の三巨頭会談) ソ連対日参戦言明と第二戦線開設時期の確定    
  一九四三年十一月二十八日〜十二月一日
http://tnngsg4601.blog110.fc2.com/?mode=m&no=156

3 :日出づる処の名無し:2016/09/24(土) 15:06:30.88 ID:Fz4LnpIH.net
インパール作戦は、チャンドラボースの理想であるインド解放のための聖戦
その戦闘に殉じた日本兵は、インドとチャンドラボースの為の尊い犠牲である
インド国民は、日本兵と牟田口閣下に深く深く感謝すべきなのである

4 :日出づる処の名無し:2016/10/19(水) 02:47:02.73 ID:kulBUZaO.net
かつて多くの歴史家が、米軍は開戦当初の 2 年間、「ドイツ第一主義」戦略を遂行できなかったとし、その理由を
1942 年にはアメリカ軍兵力の多くが欧州や北アフリカよりも太平洋に配備されていたこと、そして 1943 年には欧
州と太平洋の兵力分布が均衡していたためだと論じた。しかしこの主張は「ドイツ第一主義」戦略がかなりの程度、
日本の軍事力の過小評価に基づいていたという事実を見落としている。結果として、ルーズベルトは政治的理由(つ
まりアメリカの国内世論)だけでなく軍事的理由からも、開戦前に想定された以上の戦力を太平洋に投入せざるを得なかった。
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2014/07.pdf

西側諸国と亡命政府 西側諸国は,一方で相変らず第二戦線を創出できないでいること,
他方でソ連の対日戦争参加を強く望んだことのためにソ連に対して外交的に著しく弱い立
場に追い込まれた。西側諸国はこの問題においてソ連に対して譲歩しなければならないこ
とを痛切に感じ始めた。最も重要な同盟国を失うかもしれないという西側諸国の恐れは,
スターリン が 1943年 7月半ばに, またしても第二戦線の創出が延期されたことを理由に
ワシントンとロンドン駐在大使を召還し, アメリカ大統鎮ルーズヴェルト CFranklinD.
Roosevelt) との予定されていた会談を無期限に延期したとき, とくに強まった。西側諸国,
とくにイギリスはいっそう強くポーランド亡命政府に圧力をかけてソ連の要求に応じさせようと努力した。(21)
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/5035/1/KJ00000112975.pdf

5 :日出づる処の名無し:2016/10/19(水) 02:51:16.09 ID:kulBUZaO.net
 第四軍団は重大な岐路に立たされた。スクーンズ中将は第四軍団として、これにどう対処すべきかについて苦慮した。
 エバンス、ブレット・ジェームス共著の「インパール」によると、スクーンズ中将が真先に考えたのは
インパールをいかにして死守するかということだった。
 インパール防衛は第四軍団にとって至上の課題だというのが、スクーンズ中将の信念だったといわれる。
 なぜならばインパールはマニプール州の州都であり、インドヘの東の玄関口にあたった。
 そこは英、米、重慶政府を結ぶ戦略的要域であった。
 インパールには飛行場、補給基地、弾薬、燃料、糧抹の集積施設、病院、工場があった。
 もしインパールが失われるならば、マニプール州内での組織的抵抗は困難となるばかりでなく、
東南アジアにおける英軍の士気は極度に低下し、インドの安全保障も危機におちいる。
 もし日本軍が補給をえて西進すれば、これを抑えることはできないだろうし、ビルマから日本軍を駆逐
する計画はヨーロッパ戦線での勝利がえられるまで引き延ばされるであろう。
 インパールの失陥は英軍にとって致命的な損失であり、連合軍にたいしてもはかり知れない打撃をあたえるであろう。
 その時(一九四四年三月〜七月)、英国民の関心はドイツとの戦いに集中し、ドイツ軍の英本土爆撃、
連合軍のノルマンディ上陸作戦(六月六日)に心を奪われ、遠いアジアでの戦いは余り問題にされなかったが、
スクーンズ中将は当面の責任者としてインパールの持つ政略上、戦略上の重要性はどれほど重視しても重視
しすぎることはないと考えていたという。
 スクーンズ中将にとって目的は明白だった。
 インパールを保持すること、そのためインパールを攻撃しようとするいかなる敵も、これを撃滅することであった。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/inparl/inparl.htm

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