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【歴史】謎の大嘗祭の秘儀 起源はユーラシア遊牧民か [すらいむ★]

1 :すらいむ ★:2022/02/04(金) 12:26:23.10 ID:CAP_USER.net
謎の大嘗祭の秘儀 起源はユーラシア遊牧民か

 日本書紀の天孫降臨神話に、天から下界に降りる神が「真床追衾(まとこおうふすま)」という掛け布団にくるまれていた、という趣旨の不思議な記述がある。
 かつて国文学者の故・折口信夫(しのぶ)は、天皇の即位に伴う大嘗祭(だいじょうさい)の神座に置かれる衾(布団)が「真床追衾」に由来し、新天皇に天皇霊をつけることに儀式の意義があったとの説を唱えた。
 そもそもなぜ儀式に「衾」が登場するのか。その疑問をユーラシア北方遊牧民の思想や伝統から解き明かし、折口説を補強する新説が昨年、発表された。
 謎に包まれた大嘗祭。その核心に迫る考察とは。

(公開部分ここまで)

産経新聞 2022/2/4 08:00
https://www.sankei.com/article/20220204-W3PY2GKC2ZMJPNLFIUXHUFGAU4/

2 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 12:44:38.89 ID:H5N8kaai.net
まおとこのふすま?

3 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 12:47:22.32 ID:PAbz00C4.net
神さまようの座布団だよ。

4 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 12:55:10.22 ID:LXAEQeq8.net
かけてよし!
    ∧_∧
    (゚Д゚ )_
   r⌒と、| )
  ノ ノ ヽ /
 /     )/
(     ノ/
〈二二二二_ノ

かぶってよし!
   ∧_∧
  /(*゚Д゚)
  /  У~ヽ
 (__ノ、_)

まるまってよし!

  /⌒⌒⌒ヽ
 (゚Д゚*)__)

フトンサイコー!!
    ∧_∧
    (゚∀゚ )_
   r⌒と、| )
  ノ ノ ヽ /
 /     )/
(     ノ/
〈二二二二_ノ

5 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 13:19:05.90 ID:DqevajJT.net
(公開部分ここまで)

6 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 13:44:26.84 ID:ctgY1OYP.net
幕屋、つまりテントのことだよ
古代ユダヤ教もそうだけど、宗教儀式と天幕のコラボは珍しくない

7 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 13:51:25.58 ID:RAizJq/j.net
>>6
っつうか、古代ユダヤ人(イスラエル人)って
テント暮らしの漂泊民だったじゃん

8 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 13:57:00.63 ID:BxhAdKut.net
古代イスラエルのソロモン王の魔法の絨毯は絹製だったのでそれを儀式に取り入れたのかも

9 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 14:06:43.15 ID:GNNsHfnq.net
>>2
わらかすな

10 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 14:18:26.28 ID:8eYOGeO6.net
>>4
いい出来だ

11 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 14:31:04.03 ID:Aom7Y+Es.net
誰も全容知らない儀式について勝手言いたい放題で業績になるとはいい分野だな。

12 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 15:06:46.35 ID:jvrEUyOf.net
柳田邦男に襲い来るホモ弟子

13 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 15:23:06.79 ID:v6aLuwty.net
こういう儀式なんだね
衾なんだ・・・
衾って布団なんだ・・・
知らなかった

というか記事は読めてない!

14 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 15:30:09.42 ID:Jc+TAakK.net
最近あの辺から来ました的な話流行ってんな
ここらで華南から華中からオーストロネシア語族の先祖が泳いできましたとかぶちまけるやつおらんのか

15 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 17:41:55.55 ID:ePpC46F0.net
ひぎぃ!

16 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 18:01:35.05 ID:JyhVQznO.net
>>1
>遊牧民
魏志倭人伝に馬・牛・羊がいないと書かれてれるのに
何を食って生活してたんだかw
まさか、遊牧民がジャポニカ米食ってたとかww

17 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 18:09:07.33 ID:H5N8kaai.net
九郎Zの中には、まおとこの衾

18 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 18:31:12.42 ID:otd+fpGQ.net
同衾という言葉もあります

まぁ、そういう事よね

19 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 18:43:44.58 ID:wtpBC7aP.net
そもそも日本にある物のルーツすべてを日本国外に求める思想がちゃんちゃらおかしい

似たようなものがあるからといってそれをそのまま日本にある物のルーツにしたい奴は思考停止の阿呆

20 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 18:52:43.32 ID:u5gQ7Ov0.net
>>19
「とそ」は大陸から渡ってきたというのが定説だけど
3000年ほど前に倭人が鬯草という謎の植物を献じたと記録されてる
これは服用するものなのだがひょっとすると「とそ」の起源の可能性もある
つまり中国から逆輸入したというわけだ

21 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 18:55:15.17 ID:YnN+nd7P.net
三笠宮殿下は古代オリエント史専攻
コードネーム若杉として従軍していた陸軍士官時代、景教の寺院を訪れたエピソードは有名だ
おそらく、何かしらご存知だったのではなかろうか

22 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 18:58:40.52 ID:dsvLDenw.net
遊牧民が稲作?ぷ

23 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 19:06:17.10 ID:DXPnObkJ.net
レベルの高い技術を導入して勢力を拡大する、
いつもみんなやってることじゃないか
民族大移動とは限らないってことで

24 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 19:08:48.99 ID:DXPnObkJ.net
羽衣伝説はむしろ南洋の海洋国家に多く見られ
桃太郎伝説はシベリアから中国にたくさん見られる話し、と聞いてるけどね

25 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 19:27:30.91 ID:xX2HEOKa.net
神社で水で清めるのもイスラムの祈りの前に水で清めるのに似ている、
日本は、中華、イスラム(ペルシア秘宝正倉院)、
ポリネシア(海洋国家)など、人種が多様なのかと思った、最近。

26 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 19:42:05.93 ID:bWWBwjrM.net
日本→ユーラシア遊牧民やで

27 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 19:44:31.96 ID:qDA+D+rw.net
中国由来の儀式なんかいくらでもあるのに
なぜユーラシアがどうこうとかいう謎のいまさら論説が現れるのだろうな

28 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 20:01:35.84 ID:Q/DKxGGk.net
>>1
天皇のあれそれは実際そっちの影響を受けている説がかなり濃厚だからなあ
景教(キリスト教)がそのまま潰されたが当時の中国にあったらしいし
つまり日本に逃げたってことね
様々なものがそっくりだし(神輿、三種の神器など)

29 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 20:04:56.61 ID:Q/DKxGGk.net
>>16
テント暮らしの流民みたいなやつ
ユダヤだよ

30 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 20:16:33.38 ID:czEwBOS4.net
>>18

海音寺潮五郎曰く所の大嘗祭新嘗祭における秘儀なんぞは、まあ交接やないのか?
現皇后が皇室行事に不熱心とか叩かれてた時期が有るが、実態は自身若しくは侍女が夫と衆人環視下で交接する風習に嫌悪感抱いた故では無いか? と妄想する。

上皇即位時だったか、関連イベントで土俗祝祭の展示やってた中に、お面付けた男女が公然と交接する態を演じる段が有ってだな…古事記の初っ端から交接繁殖の秩序を明記している点で、太安万侶の知性ってヤツを信頼したくなるわw

31 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 20:38:14.20 ID:JnHko5nO.net
信夫と書いて「しのぶ」と読ませるのか

32 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 20:41:15.33 ID:czEwBOS4.net
>>28

ローマンカトリックから異端扱いされたネストリウス派基督教徒と猶太教は似て非ざるモンやないか?
更に日本文化に於ける通い婚やら夜這いの風習は「汝姦淫するなかれ」と対極的なモンやないのかw

まあ処女信仰が万国共通見解ってのには頷けるwが、ジーザスも親鸞も破戒者救済を唱えてる訳だしなあ…

ユーラシア遊牧民文化準拠なら末子相続実母以外は財産扱い、甲斐性無しなオスは羊で我慢しる! やろ?
でも聖戦で殉教すれば七人の処女を神に与えられるし、ジェリコの壁崩してやるからヒャッハー汁!とか聖典に書いちゃうのがユダヤ教系一神教の成れの果てやないか?

神の子孫が繰り広げる背徳の兄妹愛を描いちまう日本文化って、地球水準で寛容やなあと思う…唯ギリシャ神話程ワイルドかつフリーダムなエログロバイオレンスでも無いのがものやあはれ の感覚なんやろか…(´Д` )

33 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 21:05:33.29 ID:Ho47s5th.net
1、大嘗祭のあらたえはなぜ徳島から運ばれるのか
2、剣山のソロモン伝説と失われたアークがある噂
3、イザナミ神社は全国で徳島しか存在しない
4、倭は「い」と読むべきなのになぜ「わ」にしたのか
5、古事記はなぜ2〜4世紀の250年間を空白にしたのか
天皇家のみが事実を知るのかも

34 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 21:14:38.47 ID:eYH6XNMW.net
ユーラシアから追い出されり宗教的理由でたどり着いたり様々な理由でたどり着いた人々の痕跡が混じってるので大本をつきとめるのは難しいし意味ないかも。
基本的には受け入れて来たって事が重要な気がする。

35 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 21:22:51.74 ID:RPKpbk8J.net
牛乳飲んで腹壊す国民が遊牧民とか無理や
村社会の陰湿さととか全てにおいて逆(笑

36 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 21:24:44.28 ID:RPKpbk8J.net
日本会議のような頭おかしいやつが真顔で珍説言うからね
いい加減にやめてほしい

37 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 21:36:18.04 ID:MHbrKEdJ.net
単純に神と人とのセックスやで
柳田國男はそこに切り込まなかったから批判されてる訳で

38 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 21:36:20.97 ID:MHbrKEdJ.net
単純に神と人とのセックスやで
柳田國男はそこに切り込まなかったから批判されてる訳で

39 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 21:49:17.51 ID:XoYJwiCm.net
あの、韓国をスルーしてもいいの?

40 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 22:01:20.58 ID:r2GrBRq5.net
奴らの舞

41 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 22:24:28.95 ID:PZT6blvx.net
◆新嘗祭と大嘗祭

ここでは謎に包まれた大嘗祭の儀式の正体について述べていく。

天皇は毎年11月23日に収穫祭である『新嘗祭(にいなめさい)』を行う。
この日は現在一般社会では『勤労感謝の日』という名で祝日に指定されている。

天皇は新嘗祭で皇祖神である天照大御神に祈りを捧げ、
お供えした御饌を食すという、いわゆる「直会(なおらい)」により
天照大御神と食事を共にする。

新嘗祭の中でも、即位の礼を行った天皇が
最初に行う新嘗祭の事を『践祚大嘗祭 (せんそおおなめさい)』という。

全く同じ構造を持つ「悠紀殿」「主基殿」の2つからなる
専用の「大嘗宮」が建立され、そこで厳かな儀式が行われる。

通常の新嘗祭と異なっているのは、麁服(あらたえ)の衣を着る事、
儀式を行う部屋には羽二重袷(はぶたえあわせ)仕立ての御衾(おふすま)という
寝床が設えられる事だ。

この御衾は、天孫降臨時にニニギノミコトが
真床追衾(まとこおふすま)にくるまれていた故事によるものとされている。

42 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 22:27:11.75 ID:PZT6blvx.net
◆麁服と助桙フ謎

儀式を行うにあたって天皇は小忌御湯で潔斎して斎服を着る。
染み一つない純白の斎服は"死装束"を意味する。
そして皇祖神とともに食事を摂った後に御衾に横たわり、再び起き上がる。

御衾には枕に相当する神単と靴である御沓が置かれ、
御沓の左右にはそれぞれ麁服と助(にぎたえ)と呼ばれる服を入れた入目籠が置かれる。

肝心の麁服は大麻で作られた亜麻布だが、それで何か服を作るわけでもなく
天皇が纏うわけでもない。
あくまで反物を神坐に備えるだけだ。

また、助(にぎたえ)にしても謎だ。一体何のために使うというのか。

こうしてみると大嘗祭とは非常に謎が多い祭である事がわかるだろう。
なぜ悠紀殿と主基殿というまったく同じ2つの建物が必要なのか?
なぜ一度床に寝てすぐ起き上がるのか?
なぜ麁服が絶対的に必要とされるのか。

それらの謎について答えを述べよう。

その前に解き明かさねばならない謎がある。
大嘗祭によって即位を行う"天皇"なる存在の正体は
いったい何かという謎である。

43 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 22:34:45.02 ID:6w1Ipp0r.net
 
磯村建設の男衾しか知らんがな

44 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 22:35:04.90 ID:PZT6blvx.net
◆皇祖神の謎

わが国・日本の頂点に座す『天皇』とはいったい何なのか?
古代日本の畿内を治めていた『大王(おほきみ)』といったい何が違うのか?

この謎を突き詰めていくと、突き当たる事になるのが
皇祖神である"天照大御神"である。

逆に言えば"天照大御神"の正体を解き明かす事によって、
はじめてその系譜を受け継ぐ天皇とは何かが明らかになるのだ。

では、天照大御神とはいったい誰なのか?
実在した人物なのか。
全くの創作の存在なのか。

これについては日本人ですら知らない人間が多いので簡単に説明していこう。

世界で最も有名な神話とは何か?

それは全世界に25億人以上の信徒がいる、世界最大の宗教・
キリスト教の開祖であるイエスにまつわるエピソードだ。
イエスは神の化身という設定なので「神話」にカテゴライズされるためだ。

イエスの誕生の話はこんにちクリスマスと呼ばれ世界中で盛大に祝われているし
最期の話である十字架磔刑については、キリスト教徒ならずとも
何度か聞いたことがあるだろう。

45 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 22:43:42.16 ID:PZT6blvx.net
◆太陽神の磐戸隠れ

イエスの処刑から復活に至るまでの話は
きわめて有名なので今更説明するまでもないのだが、
簡単に述べれば以下のようなストーリーである。

イエスは旧約聖書『マラキ書』で「義の太陽」と呼ばれて予言され、
讃えられる神の化身である。
いわば"太陽神"である。

そのイエスがある時突然"お隠れ"になった。

(記紀などでも見られるが、日本では貴人が死ぬ時は「死ぬ」とはいわず
「薨る」とか「お隠れになる」と言う)

福音書によるとイエスが「お隠れ」になった途端、
真昼に関わらず世界が暗闇に覆われた。
神殿の織(はた)が突如裂け、墓場から魑魅魍魎が這い出して
エルサレムは3日間暗闇の中で大混乱に陥ったという。

これが決して皆既日蝕などではない事は太陽と月の運行から逆算しても明らかで
日食など珍しくもなかった当時の人間ですら
全く経験した事のない恐ろしい現象だった。

イエスの体は亜麻布で包まれ、巨大な岩穴の中に移され、
巨大な岩で蓋をされた。
弟子たちが遺体を盗んで悪用しないよう
ピラト総督らは墓穴に兵士を置いて見張りをさせた。

46 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 22:47:52.20 ID:PZT6blvx.net
◆ウズメの祈りと太陽神の復活

イエスの弟子たちは岩穴の中にお隠れになったイエスが
岩穴から出てきて復活される事を強く望んだが、
何もできずに嘆き悲しむばかりだった。

イエスが逮捕された直後に使徒の長ペトロは何度も訊ねられたが、
知らないと言っているうちに長鳴鶏が大きく鳴いて光が蘇り、朝が来たという。

固く閉ざされたイエスの横穴墳墓へと、
最初にやってきたのはマグダラのマリアという女性だった。

彼女は罪深い女と呼ばれていた。
裸になって男の腰の上で激しく股をくねらす商売をしていた"踊り子"だったからだ。
だが、後に改心してウズメ──すなわちイエスの内縁の妻になったと言われる。

「イエス」はヘブル語でヨシュアだが、
当時の言語のアラム語でイエスはイシュとかウズと言い、
ウズの女=ウズメだからだ。

ウズメの前で2人の力持ちの天使が磐戸を開き、イエスの復活を伝えた。
そして暗く沈んでいた弟子たちの前に
復活したイエスが姿を現し、弟子たちを喜ばせたという。

イエスは復活によって不死の存在となり、
やがて必ず戻ってくると伝えて、復活から40日後に天に昇って姿を消した。
天界を統べる権能を持った絶対神となり、その言葉は"世の光"であるとされている。

47 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 22:59:14.11 ID:PZT6blvx.net
◆天照大御神の正体

聖書外典『マリアの福音書』では、マグダラのマリアのみが
使徒たちを追い抜いて真の教えを与えられ、イエスの教えを説いている。

マグダラのマリアは"日の巫女"としての役割を与えられたのだ。

原始キリスト教徒である藤原氏がこの話を元にして作ったのが
記紀に記された『天照大御神』の天岩戸開きの神話である。

そのルーツを辿れば新約聖書のエヴァンゲリオン(福音書)に突き当たり、
皇祖神・天照大御神とはイエス・キリストの別名である事がわかる。

イエスは蛇神であり、旧約聖書でユダヤ教の開祖モーセは
「毒蛇(サタン)に噛まれた者は木に架けられた青銅の蛇(イエス)を
仰ぎ見る事で救われるだろう」として
やがて来たる事になるイエスを蛇を象徴として予言している。

天照大御神もまた、様々な神社の古い伝承にあるように
その正体は男神であり蛇神である。

女神のように思われているのは、天照は姿を隠し
巫女である日霎(ヒルメ)が表に立って天照の言葉を伝えるが
このヒルメが天照と同一視されてしまったからだ。

48 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:05:11.80 ID:PZT6blvx.net
◆天日鷲命と聖霊ルーハ

『記紀』は当時の国家祭祀の中枢にいた神話・宗教マニアが
ユダヤ・キリスト教を中核に、ギリシア神話、エジプト神話、
ハイヌウェレ型神話、アレクサンダー大王伝説など、
シルクロード上の様々な神話を絡めて作りだした"新しい"神話だ。

『記紀』が世に出てより1000年以上もの間、日本人たちは
それが日本固有の神話と信じて疑わなかった。

だがこんにち『聖書』という"鍵"が与えられた状態で日本神話を読み返すと
そのほぼ全てが『聖書』を元ネタにして作られた話である事が
よくわかるようになっている。

例えば『岩戸開き神話』には至る所にキリスト教ネタがちりばめられている。

『記紀』で岩戸の前に集まって天照が出てくるのを待っていた神々。
弦楽器を奏でていた神の上に。突如金色に輝く鷲が下りてきてとまる。

(この鷲は後に神武天皇の弓にとまり、彼を日本国を統べる
 正統な大王である事を証明した神鳥・"金鵄"と同一とされた)

この鷲は天日鷲命と呼ばれ、忌部氏の祖先となったという。
そして忌部氏は麁服によって選ばれたひとりの男を
正当な皇祖神の後継者である事を証する役割を帯びる事になった。

この話はイエスがヨルダン河で洗礼者ヨハネによって聖別の儀式を受けた時
空から鳩の姿をした聖霊が下りてきて、
イエスがキリストである事を正当に証明したエピソードに由来している。

この証明によって後の磔刑の罪状版にも書かれているように、
イエスは"ユダヤ人の王"と呼ばれる事になった。

49 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:05:59.36 ID:uyAEsGjU.net
大嘗祭は韓神(新羅の大王)への報告
くだらないこと言ってないで真実を報道しろよ

50 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:08:24.77 ID:vjGj87DO.net
最古の祝詞という一二三祝詞も
あの辺りが起源なんだろ

51 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:10:22.26 ID:uyAEsGjU.net
日本人の起源は遼河の古朝鮮
もう決まっただろう
古代朝鮮語を話す日本人は朝鮮人
日本人の神は韓神=新羅王=アマテラス
太陽信仰は新羅

52 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:11:37.81 ID:PZT6blvx.net
◆磔刑の天照

イエスは十字架上に磔にされた。
これについても実は記紀に書かれている。

『記紀』で岩屋の中に閉じこもった天照に対して、
高天原の大祭司である天児屋命(藤原氏の祖神)は
「あなたより尊い神がここにおられる」と囁く。

天照が扉の隙間から顔を出すと、そこには榊の木に架けられた八咫鏡があった。
鏡に天照の顔が映り、暗い岩屋の中の死者である天照と、
樹に架けられて吊るされ、鏡の中で光り輝く天照が互いに対峙しあう。
その姿を見て天照は、それが誰であるのかわからなかったという描写がある。

これは聖書における、十字架に架けられて死亡した「人間」のイエスと
復活して「光の神」になったイエスを対比したものだ。
聖書では「イエスは木にかけられて死んだ」と書かれている。
榊の樹にかけられた鏡の中に映る天照は、
天照自身が木に架けられて磔刑された事を意味している。

また天照が自分の顔を見てそれが誰だかわからなかったという点は
復活したイエスを見たマグダラのマリアが、
最初それが誰だかわからなかったという、
福音書に書かれたエピソードに由来している。

また鏡に映された顔は左右反転して映っているためでもあり
これは記紀においては天照の本来の性別を反転して
女体化して描いてるという事を意味している。
つまり逆に読めば天照は元々男であったという事がわかるのだ。

53 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:15:08.11 ID:Jc+TAakK.net
思想的なものは置いといて日本語の源流てどこなんか分からん

54 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:16:12.72 ID:PZT6blvx.net
◆光輝く天照

また『福音書』にはイエスが磔刑前夜に変貌山に上がって天界と交信した時、
その面(おもて)が暗闇の中で白く輝き、
彼の前にいた高弟のペトロとヨハネが大いに驚いたとある。

『古事記』によると天照が岩屋から姿を現すと、その顔が放つ光によって
岩屋の前にいた神々の顔が白く反射して彼らは喜んだとあり、
この出来事が「面白い」という言葉の語源になっている。
このエピソードについても聖書が元ネタなのだ。

大部分の日本人には認めがたい事であるが、
その他の話も含め、天照大御神にまつわる全てのエピソードは
全て聖書にルーツがある。
なぜなら天照大御神とはイエス・キリストの事だからである。

55 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:18:12.64 ID:uyAEsGjU.net
>>53
古朝鮮だよ
遼河文明
最近、確定したじゃん

56 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:22:09.91 ID:0Cwkhl9I.net
>>25
昔から吹き溜まりと言われてますねw

57 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:24:13.01 ID:fLo61ECn.net
神社も新羅由来ですね
かつて大社では韓神が祭神でした

58 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:27:24.43 ID:PZT6blvx.net
◆ふたりの日霎の謎

天照の子孫を称する天皇家は、東征によって畿内を支配した。
それによって神話の内容も大きく変質し、
天照はイエスとその巫女マリアのみをルーツとする存在ではなくなった。
現地人に突然異国の神の崇拝を強要しても受け容れられないからだ。

そのため天皇家は畿内征服以前から現地人によって崇拝を集めていた、
古代日本における太陽神の巫女であった卑弥呼と、
その後継者である台与(トヨ)を、
マグダラのマリアと合体させるという妙案を思いついた。

それによって作り出された"女神"天照は、
征服者と被征服民、その両者にとって求心力のある神として昇華される事となった。

『記紀』には天照が天岩戸に籠った原因が書かれている。

天界に攻め上ったスサノオは、天照の率いる高天原軍と
天安河で対峙しあい、一度和議を結ぶ。

だがその後スサノオはが高天原で大暴れしてあちこちを荒らし回り、
馬の皮を剥いで神殿に投げ込んだ。

この時機織りをしていた稚日霎(ワカヒルメ)が女陰を貫かれて死亡した。
これによって大日霎(オオヒルメ)こと天照は岩穴の中へと"隠れた"という。

59 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:36:40.88 ID:PZT6blvx.net
◆記紀に登場していた卑弥呼と台与

日本神話では天照の巫女として、オオヒルメとワカヒルメという
二種類の日霎(太陽神の巫女)が登場する。

オオヒルメのモデルは魏志倭人傳に「歳すでに長大なり」と書かれた卑弥呼であり、
伊勢神宮の"内宮"に天照坐皇大御神として祀られている。

天照が岩穴に隠れたとは、卑弥呼が死んで横穴式古墳に葬られた事を意味している。
天安河で天照の率いる軍勢がスサノオと対峙するのは、
邪馬台国の最大の敵である狗奴国との対立が投影されているためだ。

もう一人の日霎・ワカヒルメのモデルは卑弥呼の後継者であるトヨであり、
伊勢神宮の"外宮"に「"トヨ"ウケノカミ」として祀られている。

ワカヒルメが女陰を貫かれて死亡したとは、一度和議を結んだ狗奴国が
邪馬台国の都で大暴れし、台与がレイプされて殺された事を意味している。

ワカヒルメがなお機織をしていた建物とは神殿の事だ。
裸に剥かれた馬が投げつけられ、串で貫かれて死亡したという話の元ネタは
捕縛されたイエス・キリストが裸に剥かれ、手酷い拷問を受け、
最期にはロンギスヌの槍で貫かれて死亡が確認されたエピソードに由来している。

なぜ裸の馬なのか。
イエスは神に捧げる生贄の羊の代わりとして死亡した。
だが古代日本においては、神に捧げる生贄の獣は馬や鹿だったからだ。

神社に馬を奉納するのは飼育するためではなく、ルーツを辿れば供犠のためであり、
法隆寺が焼失した跡からも、供犠に使われたみられる大量の馬の骨が見つかっている。
国津神の社である諏訪大社も近年まで多くの鹿を殺して神に捧げていた。

60 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:45:42.36 ID:PZT6blvx.net
◆"ウケヒ"の謎

『記紀』で、スサノオが高天原に入る少し前のエピソードとして
スサノオとアマテラスが天安河で対峙しあい、互いに"ウケヒ"を行う様が記されている。

アマテラスがスサノオの剣(チンコ)を、スサノオがアマテラスの勾玉(子宮)を
噛み砕いた結果、天照の玉からは5人、(日本書紀の一書では6人)の男神、
スサノオの剣から3人の女神が産まれたという。

これによってスサノオは天界に登る事が可能となり、天界を荒らしまわり、
神殿を破壊しワカヒルメを殺したが、それによって神罰を受け、
全身の毛を抜かれて地上に放逐されてしまった。

さて、世の中には『記紀』はまったく何の根拠もない創作だとか、
高天原は関東にあった日高見国の事だとか、
古代朝鮮の事だとか、様々な事を言っている輩がいる。

では、そうした輩に聞きたいが、このウケヒのエピソードは何をさしているというのか。
6人の男神と3人の女神とは何か。互いが互いを生み出した理由は何か。
なぜこれによってスサノオが高天原で暴れまわる事が許され、放逐されたのか。
はっきり答えられるだろうか。

もちろん、そうした輩は一切理由を説明できない。
このエピソードに限らず他のエピソードも同じだ。
『記紀』という書物の正体を全く理解していないからだ。

それ故に彼らがその無知の上に何百何千の議論を重ねたところで
決して真実には到達できないのである。

61 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:49:48.32 ID:Jc+TAakK.net
これやと日本語の祖地と違う事になるけど
ホンマに分からんのやな

62 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:53:28.03 ID:PZT6blvx.net
◆"ウケヒ"の正体

ウケヒの話の元ネタは、ユダヤの伝説における
天地創造以前の時代に起こった天界の戦争である。

アマテラスの持ち物(眷属)から生まれた子供と
スサノオの持ち物から産まれた子供の数は、それぞれ2:1。

これはユダヤの伝説で思い上がった野心家ルシフェルが
天界の3分の1の天使を配下につけ、
最高神を殺してその座につくべく、天界に攻め上ったエピソードに由来する。

神の軍勢とルシフェルの軍勢の数の比率も同じく2:1。

結果ルシフェルは戦争に敗れ、全てを失って天界から放逐され、
地に落とされる。

その後エデンの園で神により
「お前は彼の踵を砕き、彼はお前の頭を砕くだろう
(サタンは一度神の子イエスに致命傷を与える事に成功するが、
最後には逆に殺されるだろう)」と予言される。

そして実際にイエスを磔刑に追い込んで殺す事に成功するが、
黙示録の最後でついに捕まって滅ぼされてしまうのだ。

同じエピソードは世界各地にある。
例えばインド神話では思いあがったシヴァ神が、
偉大なる原初神ブラフマに論争を挑み
誰が世界の造物主で、誰が最高神か?と問いかけたところ
ブラフマがそれは私の事だと答えた。
するとシヴァは激怒してブラフマの5つある首の1つを切り落としたという。

合計でブラフマの首は4つ、シヴァの首は2つになった。
ブラフマとシヴァの首の数の対比は2:1だ。
これも『聖書』や『記紀』と全く同じ構造だ。

なぜならここに述べた3つの話は、国籍こそ異なるものの
全て同じ出来事をルーツにしているからである。

63 :名無しのひみつ:2022/02/04(金) 23:59:51.49 ID:Jc+TAakK.net
>>55
あれで確定てのもまあええ話やね
ワイもこれくらいなんも考えん生き方したかった

64 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 00:13:20.01 ID:bF3sEeCz.net
◆邪馬台国とふたつの金印

邪馬台国は遼東半島の公孫氏に朝貢し、それを後盾として各地を支配していた。
公孫氏が魏に滅ぼされると、今度は邪馬台国は魏に朝貢する。
魏の皇帝・曹叡は邪馬台国の使者を篤くもてなし、
239年に卑弥呼に親魏倭王の称号と金印を与えた。

表向きの研究では魏にとって朝鮮半島北部で敵対する高句麗、
中国南部の強敵である呉を牽制するために
邪馬台国に金印を与えたという解釈になっている。

だが魏はもうひとつ別の国にも金印を与えている。
キルギスタンにあった弓月王国である。

おそらくは弓月王国と同一の国だったのだろう、
弓月王国のすぐ近くには邪馬台国──正しくは邪馬臺(ヤマト)国と
同じ名前の邪馬図(やまと)と呼ばれる国があり、
現在も地名が残っている。

そして弓月王国からは後に応神天皇の時代に
朝鮮半島を経由して弓月君(融通王)が膨大な民を率いて日本に移住し、
彼らは秦氏と名乗り、日本の宗教や産業の礎を築いく事になる。

65 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 00:18:51.27 ID:bF3sEeCz.net
◆邪馬台国の滅亡と狗奴国の使者

さて、邪馬台国は魏に救援を要請したが、断られた。
結果、攻め上った狗奴国が邪馬台国を滅ぼし、
中国の王朝に対する日本からの朝貢は長く絶えてしまった。

さらに魏は晋によって滅ぼされる。
そして晋の武帝が即位した翌年である秦始2年(266年)に
30年近いブランクをおいて、日本から朝貢の使者が訪れる。

この使者は厚遇された邪馬台国の使者とは反対に、
鼻にもかけられずに薄遇される。

伝統的に中国の王朝は自分が滅ぼした前王朝の外交政策を引き継ぐので、
魏を滅ぼした晋であっても邪馬台国に対する厚遇の立場は変わらないはずが、
ほとんど歯牙にもかけず追い払ったのだ。

これは日本からやってきた使者が、邪馬台国の人間ではなく
敵対国である狗奴国からやってきた使者だった可能性を示唆している。
おそらく邪馬台国を完全に滅ぼし、日本を支配した事を
報告するためにやってきたのだろう。

だが、その後倭国は朝鮮半島を渡ってきた騎馬民族の流入によって大乱が起きる。
騎馬民族が狗奴国を滅ぼし、日本の征服をほぼ終えた
倭の五王時代まで長く朝貢が絶える事となる。

その後、騎馬民族の王の末裔は、"天皇"という称号を名乗る事となる。

多くの学者は天皇や記紀のルーツについて、頭が朝鮮半島で止まっているが、
実際には朝鮮半島はただの途中にあった"通過点"に過ぎない。
騎馬民族たちがどこから来て、何者であったのか、
それについて語ると長くなるのでここでは省く。

66 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 00:27:17.06 ID:bF3sEeCz.net
◆新称号"天皇"の誕生

"天皇"という称号名は、始皇帝が最初に皇帝という称号を考えるにあたって
天皇・地皇・泰皇という称号を副案として提示された事にはじまるとされる。

キリスト教徒である藤原不比等の時代は、中国で6000年の歴史上ただ一人だけ
女の身でありながら皇帝の座についた聖神皇帝(則天武后)の時代であり、
日本でも持統女帝の時代だった。

そのような時代に記紀は編纂された。
記紀には海外の支配者に、日本という国のルーツを示し
支配者である天皇の正当性を主張するための書物としての側面もあった。

そういう時代背景もあって、男神である天照本体を隠し、
巫女である日霎を天照本体にすりかえる事で出来上がる
女性支配型の神話ヒエラルキーを描いた記紀が作られたものと思われる。

さて、記紀編纂より少し前の唐の高宗は、
道教の影響で674年に自らを「天皇」と称し、
死後は則天武后によって 「天皇大帝」 という諡がつけられた。

同時代に日本でも大王という名が"天皇"という名に
入れ替えられて用いられるようになった。

持統女帝が亡くなった14年後の712年には元明天皇に「古事記」が献上され
その中で過去の大王を全て新しい天皇の名で呼んでいる。

67 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 00:32:15.06 ID:CwEwnU5W.net
>>63
ええはなし?
遼河文明を最初に見つけたのは日本人で、その功績が長く隠蔽されてきた
当初から日本人は朝鮮人だという説が主流で明治政府はその説を戦争にまで利用した
長い論争の末の決着だよ

68 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 00:35:08.59 ID:bF3sEeCz.net
◆称号"天皇"の真の意味

ここから日本の「天皇」は、
中国の「天皇」の影響を受けて作られた称号である…
とするのが学会の定説だ。

だが、それはあくまで表向きの話にすぎない。

天皇関係者は天皇の「天」の字の下の横線を長く書くという。
つまり天皇の「天」は、正しくは「工人」という字を縦に重ねた字となっているのだ。

なぜか──?

結論から先に言ってしまえば、日本の"天皇"とは、
イエス・キリストをさす言葉だからである。

イエスは大工の棟梁ヨセフの息子で、本人も大工だった。
当時は石造りの家が多かったので、大工というよりは石工(メーソン)だった。
天皇の「天」──「工人」とは、「石工」の事なのだ。

イエスは変貌山のエピソードにも端的に示されているが、
復活後は天上界において「白く輝く王」となった。
「白い王」=「皇」であり、「天皇」とはイエスの地上における姿である
「工人」と、天上における姿である「皇」を、陰陽合体させた称号なのだ。

代々の天皇を「天皇陛下」というのは、正しくは彼らは「天皇」本人ではなく、
天皇のおわす宮殿の「階段」の「下」に控える代理人である事を意味している。

代々の天皇とは真の天皇である皇祖・天照の代理人にすぎず、
大嘗祭とは代理人としての役割を引き継ぐための儀式であるのだ。

69 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 00:41:56.27 ID:VXGUPZUQ.net
>>25
昔から吹き溜まりと言われてますねw

70 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 00:45:15.50 ID:bF3sEeCz.net
◆悠紀殿と主基殿のルーツ

大嘗祭が悠紀殿と主基殿という2つの建物で行われるのは、
かつて信仰上の対立によって2つに分かれたユダヤの南北朝を意味している。
この南北朝が非常に長い時間をかけて別々のルートでユーラシア大陸を横断し、
日本で合流する事になる。

アッシリア虜囚となった北朝イスラエル王国は
騎馬民族スキタイによって解放され、彼らについていって歴史から姿を消す。
スキタイは中央アジアに流入し、彼らに影響を受けた遊牧民は
今度は匈奴と呼ばれる民族となって東アジアまでも荒らしまわる。

バビロン虜囚になった南朝ユダヤ王国も離散するが、
アレクサンダー大王軍の末裔とともに東進し、
秦の始皇帝の時代に徐福とともに日本に渡り、丹後に上陸して
畿内に邪馬台国を築く。

やがて北朝イスラエル王国の末裔は騎馬民族として日本にやってきて
畿内の王権と戦い、やがて双方が同じアークを持ち、
同じルーツを持つ部族である事を知って、長髄彦を殺して合流を果たす。

大陸の歴史書によると当時の日本列島には大きく分けて2つの国があった。
「倭」と、それより小さい「日本」という2大国家があり
これらが戦争した末に勝者が敗者を併合したというのだ。

ただ『旧唐書』に「日本国が倭国を併合した」と書いているのに対して
『新唐書』は逆に「倭国が日本国を併合した」と述べている。
この2つの国が悠紀殿と主基殿の2つの建物のもうひとつの由来でもある。

71 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 00:50:32.70 ID:YVWbvcGM.net
>>28
こういう新説って似てる部分だけピックアップするのではなくて
違う部分も検証しないと酷く間違った結論に流れるからな

72 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 00:51:24.98 ID:YVWbvcGM.net
>>28
義経=ジンギスカン説とか

73 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 01:23:48.42 ID:bF3sEeCz.net
◆大和朝廷の始まり

九州における王国を支配していたのは
北朝イスラエル王国王家の末裔・
?草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)。
ウガヤとはカヤクサではなくユダヤの事。

その息子が彦火火出見(ヒコホホデミ)。
このホホデミが大軍を率いて東征する事になる。

ウガヤフキアエズよりずっと前の時代に、
徐福とともに日本に渡来したユダ王国の子孫らが崇めていたのは
「天照(アマテル)」という名の男神で、別名ニギハヤヒ命といった。

この神は九州から神武天皇率いる軍隊が襲来する以前に、
空飛ぶ船に乗って日本に降り立ち、畿内で王国を築いていたという設定になっている。
歴史上最初に日本という国名をつけたのはこのニギハヤヒ命である。

『記紀』によると、神武天皇は畿内の王国を支配する長髄彦を倒した後、
ニギハヤヒと対面。
ニギハヤヒは自らが天津神である事を証するために、
「天羽々矢(あめのはばや)」と「歩靫(かちゆき)」を提出する。

これを見た神武天皇も自らの天羽々矢と歩靫を差し出して正当性を主張。
最終的にニギハヤヒは神武天皇に帰順し、ここに大和朝廷が開かれる。

この時ニギハヤヒは長髄彦の妹を娶っており、
宇摩志麻治命(うましまじのみこと)という子供を設けている。
マジとはユダヤ語のマギ(マジックの語源)、つまりまじないの事で、
この宇摩志麻治命が祭祀部族・物部氏の祖先となった。

74 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 01:42:46.88 ID:bF3sEeCz.net
◆天羽々矢と歩靫

これにしても『聖書』を知らない人間にとっては意味がわからないだろう。
『天羽々矢』と『歩靫』とはいったい何なのか。
なぜ先にいた長髄彦の王国と、後からやってきたホホデミが、
どちらも同じ羽々矢と歩靫を持っていたのか。

結論から先に行ってしまえばこれはユダヤの聖なる至宝・
聖櫃アークの事である。
天羽々矢とは翼のついたアークの上の蓋、
歩靫とはアークの下の箱を言い換えたものだ。

ホホデミが日本の支配者として認められたのは
アレクサンダーによって秦に持ち込まれ、始皇帝によって戦争で酷使されたが
一か所に置くと禍いを齎すため、あちこち巡幸して運ばねばならなかった
厄介なユダヤの秘宝──聖櫃の上下が畿内において揃ったからである。

ユダヤ人である始皇帝はアークが1つに合体させておくと恐ろしい災いを呼ぶため、
上下2つに分け、それぞれをレプリカと組み合わせて、2つの箱にしていた。
それを1つは徐福が日本に運び、1つは神武天皇が所持して日本に持ち込んだ。

旧約聖書では、完全体のアークの上には神が臨在するという。
その伝説のとおり、アークを合体させると神の遣いである金鵄が降臨し、
ホホデミに対し王権の正当性を認めた。
これによって彼は神武天皇と名乗り、"天皇家"が公式に誕生した。
大嘗祭はその王権を引き継ぐ儀式である。

75 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 01:47:42.00 ID:bF3sEeCz.net
◆大嘗祭の正体

さて、予備知識を蓄えたところで、
ここで最初のテーマである"大嘗祭の正体"について述べる。

大嘗祭とは皇祖神であるイエス・キリストの代理人となるため、
イエスの生涯を、イエスの神霊とともに再現する儀式である。

大嘗祭で天皇が死に装束を着て、
そこにいるという見えない天照大御神とともに食事をするのは
イエスの「最後の晩餐」を再現したものだ。

なお西洋の絵画では最後の晩餐は椅子に座り
テーブルについて会食しているものが多いが
実際には当時の中東の習慣から、
床にあぐらをかいて輪になって食事をしていたようだ。

晩餐を終えた天皇が御衾に横たわり、神の霊を宿して起き上がるのは
岩穴に葬られたイエスの復活の再現であり、
それによって天皇がイエス本人となった事を意味している。

その意味では、実は全ての天皇は同一霊を宿した事がある
同一の存在でもある。

大嘗祭でふたつの箱が用意されるのは、神武天皇の即位を前に
2つの聖櫃アークが揃ったためだ。

亜麻布の麁服が捧げられるのは、イエスが死亡した際に
一枚の亜麻布が捧げられてイエスの死体の前後を覆ったからだ。
この布は『聖骸布』と呼ばれている。

イエスの墓にあったのは聖骸布だけではない。
顔を覆ったスダリオンという布もある。
大嘗祭で麁服とともに入目籠に入れられた助(にぎたえ)は
このスダリオンをさしている。

76 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 01:51:06.74 ID:bF3sEeCz.net
◆秘密の儀式

今では途絶えてしまったが、大嘗祭にはもう一つ重要な儀式があったという。
それは「聖釘(せいてい)」で掌に穴を開けるという事だ。
言うまでもなくイエスの両手に穴が開いていた事に由来する。

後醍醐天皇は麁服の衣を捧げられ、正当な後継の儀式を行った天皇だった。
その両手には穴が開いていたと考えられている。
なぜなら大阪の四天王寺に後醍醐天皇の左手の手形があり、中央に穴が開いているからだ。
https://pbs.twimg.com/media/CmAyIv_WkAAR_z1.jpg

一方で北朝は正当な手続きを行わず天皇家を自称していただけの偽物の王朝だった。
さらに応仁の乱により後土御門天皇の文正元年 (1466年) を最後に大嘗祭は途絶え、
それから途切れる事なく大嘗祭が行われるようになったのはようやく元文3年(1738年)からである。

イギリス秘密結社の最高位にあり、一時期儀式から逃げ回った大正天皇も含め、
以降の天皇はいずれも正当に大嘗祭を経て即位した。
最後の天皇になると噂される今上天皇も、2019年に儀式を終えられて
今に至っているのである。 (完

77 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 05:54:58.46 ID:HAuWtlQH.net
古代は資料が少ないからキチガイの珍説祭りになる

78 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 06:40:02.95 ID:cI7vvR/j.net
>>77
お約束のように有象無象がワラワラと湧いてきますね
なるほどお祓いお清めが大事なわけですよ
昨今の穢れは塩まいたぐらいではピクリともしないけどw

79 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 08:17:55.24 ID:SgUynJDE.net
義経=ジンギスカン説なみの印象ww

80 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 08:55:33.04 ID:qAldXPv3.net
ギリシャ神話でオルフェウスが愛する妻を亡くして
妻に会いたさに冥界に行ってハーディース(冥府の主)に
妻を地上に帰らせてくれるように頼む。
ハーディースは妻を地上に連れ帰るまでは決して後ろを
振り返らないことを条件にこれを認める。
ところが長い道の途中で不安に襲われたオルフェウスが
一瞬、後ろを振り返ってしまい、妻の姿は消えてしまう。
これとそっくりな話が日本書紀のイザナギとイザナミの
神話にある。
神話なんて世界中で共通の話を持っていることが多い。
三途の川の渡し守の話もギリシャ神話に出てくる。
渡し守はカローンと言って、渡し賃は1オボロスという
貨幣を渡す。

81 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 08:56:54.65 ID:yGcKxEnv.net
大嘗祭=真床追衾、の折口説はもう明快に否定されて長くなるんだが…

学者って、食うためならどんないい加減な論文でも書くんだなぁ

82 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 10:50:23.31 ID:y99l+UNx.net
>>81

確かに
売れない作家にでもなった方が良かったりして

83 :名無しのひみつ:2022/02/05(土) 11:22:24.17 ID:cU0KTOAK.net
縄文文化を見ると、日本で発祥した文化が近隣諸国に伝わっていったように思えるけどな

84 :名無しのひみつ:2022/02/06(日) 08:36:32.26 ID:gwNqTlUC.net
神輿の起源が知りたい
あれも遊牧民なの?

85 :名無しのひみつ:2022/02/06(日) 09:03:26.11 ID:5akbeEgE.net
天羽衣を現す話だろ
概念的なモノだからって何でもこじつけるのは良くない
概念的だからなんにでもこじつけられるんだけどな・・・
これはよくできた和製SFなのである

86 :名無しのひみつ:2022/02/06(日) 09:46:11.28 ID:+C4ikFK3.net
>>49
稲作を日本から習ったくせにデマをいうな

87 :名無しのひみつ:2022/02/06(日) 14:24:46.62 ID:VH3eVUrI.net
まあ今の朝鮮人が固定成立したのは日本より後の話だからいくら騒がれようが痛くも痒くもないな

88 :名無しのひみつ:2022/02/06(日) 20:30:49.06 ID:YFFxCUGR.net
ユダヤなんぞが皇統とか

89 :名無しのひみつ:2022/02/06(日) 21:23:52.57 ID:mfk4kGfS.net
大きな神社のご本殿の装飾など見ると日本離れしたカラフルな色と謎の模様だったりルーツがわからない

90 :名無しのひみつ:2022/02/06(日) 21:30:02.32 ID:hHtRp6PI.net
日本の夜の営みはベッドではなく布団。古事記にもsex描写が堂々序章にかいてある。

91 :名無しのひみつ:2022/02/07(月) 09:39:46.55 ID:EMcKx+SE.net
>>6-8
ユダ信者馬鹿はいい加減に逝ってくれウンザリなんだよ

92 :名無しのひみつ:2022/02/07(月) 19:41:57.90 ID:T6703Vis.net
クレオパトラが絨毯にくるまれてカエサルの所に「ハァ〜イ♥」って来たって話が元ネタだったりして。

93 :名無しのひみつ:2022/02/08(火) 07:03:09.10 ID:Gq+/nWZu.net
>>88
こいつ皇室の紋章である16弁菊花紋がどこから来たのかもわかってなさそう
ユダヤ王家が代々使っていた紋章で、現在もエルサレムのヘロデ門に
同じ紋章が刻まれているのに

94 :名無しのひみつ:2022/02/08(火) 14:34:34.13 ID:vJtRfjg6.net
それ菊花じゃなくて太陽

95 :名無しのひみつ:2022/02/08(火) 14:42:09.68 ID:vJtRfjg6.net
ついでに言うと原始時代から季節が周期的に変化する事すら感覚的に理解していたので
意匠にまず概日サイクルを採用しだすのはどの人類にも共通する概念
太陽信仰はありふれているのでなんら特別なものではない

それに信仰対象となった偶像化・具現化は完全に科学的な理解の進む段階で必然的に存在するような概念で、
包括案としてとりあえず置いておく真に適当な物の考え方に過ぎない
宗教は全て概念です

96 :名無しのひみつ:2022/02/08(火) 15:02:01.38 ID:vJtRfjg6.net
あと皇室に菊花紋が定着したのは菊がシルクロード通して中国から輸入されて大分経った後の鎌倉時代以降
奈良時代には既にペルシャ辺りから今でいう大使館員みたいな人が日本の役職も与えられて住んでた形跡は確かにあるけど
菊も恐らく唐を通して輸入されたと思われる
そこから独自に品種改良を重ねて和菊として日本を象徴する花の定番になる

97 :名無しのひみつ:2022/02/08(火) 15:06:17.19 ID:EX1hBjmK.net
太陽神信仰は
北京周辺の紅山文化に特徴がある
7000年前からだ

紅山文化の特徴は、
太陽神、龍神日輪、勾玉にその特徴がある
これ等の神具は、翡翠でできており、
日本の新潟産と推測される。

他の太陽神としては
シュメールの太陽神
古代エジプトの太陽神
ギリシャの太陽神がある。

98 :名無しのひみつ:2022/02/08(火) 23:23:47.73 ID:Gq+/nWZu.net
◆補足@ 天照と2柱の神

大嘗祭の話についてちょっと補足する。

天照大御神の磐戸開き神話で、アメノウズメの見ている前で
天照を磐戸から顔を覗かせる事に成功したのが、
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と布刀玉命(フトタマノミコト)。
それぞれ中臣氏と忌部氏の祖神だ。

この2柱は新約聖書の福音書で、イエスの墓穴の扉の
大岩を開けたシーンにいた2体の天使がネタになっている。

布刀玉命は榊に八咫鏡と八尺瓊勾玉をかけて御幣にして捧げ持ち、
天児屋根は祝詞を唱えた。
さらにウズメが囁いて、天照は磐戸を押し開いた。

よく間違われるが、力持ちの天手力男神(タヂカラオ)が
巨岩を押し開いたのではない。
磐戸を開く事ができるのはただ一人天照だけだ。

磐戸とは死後の世界、冥府の暗喩である。
これは天照の正体がイエス・キリストであり、
『聖書』ではイエスは、黄泉の国の扉の鍵を持つ存在と書かれている事に由来する。

「私はアルファでありオメガである。また、生きている者である。
 私は死んだことはあるが、世々限りなく生きている者である。
 そして、死と黄泉の鍵を持っている」(『ヨハネの黙示録』1章)

天照が顔を覗かせると、すかさずタヂカラオがその手を取って引っ張り出した。
天児屋根が磐戸の入り口に注連縄を張り、
「もうこれより中に入らないでください」と注意した。

これは墓穴から蘇ったイエスが、二度と死を迎える事のない
不老不死の肉体になった事に由来している。

99 :名無しのひみつ:2022/02/08(火) 23:26:00.43 ID:Gq+/nWZu.net
◆補足A 殺された穀物の女神

また先に、高天原でスサノオが投げ込んだ裸の馬に当たって、
梭(ひ)で性器を貫かれて死んだワカヒルメは、邪馬台国の女王トヨであり、
伊勢神宮外宮の食物を司る女神・
トヨウケノカミと同一神であるという話をした。

ではなぜトヨが食物の女神にされたのか?
それは古事記の別のエピソードに由来する。

ワカヒルメを殺し、オオヒルメ(天照大御神)を
磐戸隠れ(死)に追いやった罪によって、
スサノオは全身の毛と爪を抜かれて高天原から追放される。
その後空腹で地上をさまよう事になる。

これは『聖書』で天界の戦争で敗北し、権威を失って地上に追放されたサタンが
『ヨブ記』冒頭で神にその後何をしていたのかと尋ねられたところ
「地上をあちこちさまよっていました」と言った話に由来する。

空腹のスサノオは食物の女神である大気都比売神(オオツゲヒメ)に出会い、
食べ物を乞う。
するとオオツゲヒメは様々なご馳走を出してもてなした。
スサノオが不審に思って台所をのぞき込むと、
オオゲツヒメはケツの穴から食物を出して料理していた。

スサノオは汚いものを食わされそうになった事に激怒して
オオゲツヒメを殺してしまった。

高天原でスサノオがワカヒルメを殺すシーンは
このシーンの予型になっている。

100 :名無しのひみつ:2022/02/08(火) 23:31:36.38 ID:Gq+/nWZu.net
◆補足B スサノオ=ツクヨミ

『古事記』における、スサノオのオオツゲヒメ殺害エピソードについて
『日本書紀』では同じ話が書かれている。
月讀命が食物の女神である保食神(ウケモチノカミ)を殺す話であり、
人物名だけが変わったような話だ。

これはオオゲツヒメはウケモチノカミと同一神であるからだ。
さらに伊勢神宮外宮に祀られる豊受大神(トヨウケノカミ)と同一神でもあり、
トヨウケノカミは古事記では豊宇気毘女(トヨウケヒメ)と書かれ、
稲荷神=ウカノミタマと習合して祀られるようになった。

これらの殺された穀物の女神の話の元ネタは、
有名な話なので割愛するが、東南アジアを中心に
世界中に見られるハイヌウェレ型神話である。

なお三貴子(みはしらのうずみこ)のうち
日本神話きってのトリックスターであるスサノオと
不自然なほど影の薄い月読が、同じエピソードを有しているのは
二人が実は同一神である事を示すものである。

『古事記』ではイザナギの片目から太陽神アマテラスが、
もう片目からツクヨミが、鼻からスサノオが生まれている。

なんとも不可解な話だが、この話のルーツは
エジプト神話の天空神ホルスにある。

ホルス神の右目は太陽神ラーの目と呼ばれる。
左目はエジプト神話きってのトリックスターであり、荒廃と嵐を司る神・
セトによって失われたが、月の神トートによって癒された。
周期的に満ち欠けする月の象徴として、ウジャトの目と呼ばれる。

ホルスの右目が[太陽]、左目が[月&セト]を司り、
それぞれが[天照]と[月読&スサノオ]に対応しているのだ。

101 :名無しのひみつ:2022/02/08(火) 23:38:26.88 ID:Gq+/nWZu.net
◆補足C 男神・天照の王国

ホルスはオシリスとイシスの子で、その教義を継承したキリスト教の
父と聖母と御子のピエタ構造でいえば御子に対応する。

一方でユダヤ教の『生命の樹』の三本柱構造でいえば
中央のホルスが中央の均衡の柱を司る、最高神である[御父]、
そこから生まれた右目が、右側の慈悲の柱を司る[御子イエス]、
左目が左の峻厳の柱を司る、肉体を持たぬ隠れた存在の[聖霊]と、
同時に[敵対者サタン]を意味している。

日本神話で言えば、残酷で地味な聖霊ルーハが月読、
サタンがスサノオに対応し、別の存在でありながら同じポジションに就いている事になる字。

ほかにも、先に書いた分についてはいろいろ補足すべき話がある。
例えばホホデミ(後の神武天皇)が畿内に来た時
長髄彦と天照(アマテル)と呼ばれる男神ニギハヤヒと対峙する事となった。

これは実際に天照(アマテル)神がそこで暮らしていたという話ではなく、
長髄彦の率いる部族は、天照神=イエス・キリスト
=ヤハウェを代々崇める一族であり、
卑弥呼から続く日の巫女の系譜を受け継いできたという意味でもある。

畿内に攻め込んできたホホデミの一族も同じくキリスト教徒であり、
古事記の天照の磐戸隠れで、鏡に映ったふたりの天照が対峙しあうシーンは
この出来事の予型でもある。

悠紀殿と主基殿は、後に神武天皇の威光のもとに統合する事となった
九州のホホデミの国と畿内の長髄彦の国という、ふたつの国を意味している。

102 :名無しのひみつ:2022/02/08(火) 23:42:40.82 ID:Gq+/nWZu.net
他にもいろいろ書きたい事はあるが、
>>84が『神輿』のルーツについて知りたいと述べているので、
今度はユーラシアの遊牧民に由来する、神輿のルーツにいて書く事にするわ

かなり簡略化して書いくが、それでも例によってかなり長くなる事になる。

103 :名無しのひみつ:2022/02/09(水) 00:20:51.56 ID:LhneRwJn.net
弥生時代とかその辺だろ?
遣隋使 遣唐使でさえ命がけだったんだぜ
強襲揚陸艦などあるわけない
たまたま、はぐれ遊牧民が日本に、奇跡的に馬も一緒に日本に上陸したとして
その人数は?って思うわけよ。補給体制とかもね
そんな安々と征服されるもんかねぇ?

104 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 13:12:00.98 ID:TphW4On4.net
神輿のルーツについて書き込めない
だからそういうのはVIPでやれww と出る

105 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 13:13:14.92 ID:TphW4On4.net
短く分割して投稿するわ

【神輿のルーツと正体】

◆神社の『神輿』

日本全国の祭では神輿が担がれる。
逆に言えば多くの祭は神輿のためにあるといっていい。

では、神輿とは一体どこから来たのか?
なぜ人々をここまで熱狂させるのか?
あの独特の形はいったい何を意味しているのか?
その謎の答えについてこれから述べていこう。

神輿が国内の文献で最初に登場するのは『続日本紀』における
天平勝宝元年(749年)の記述である。
東大寺の毘盧遮那仏が建立された事を記念して、九州の宇佐八幡宮から
八幡神が巡行して東大寺にやってきた。

この時、元々は天皇が使う予定だった紫の鳳輦に八幡神を載せて来たとあり
これが最初の神輿とされる。
つまり、神輿は八幡神にルーツを持っている。

では、八幡神とはいったい何か?
秦氏の氏神である。

106 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 13:15:00.46 ID:TphW4On4.net
なお、この時の東大寺の別当も秦氏である。

手塚治虫の『火の鳥 鳳凰編』という漫画で、我王という乞食僧が
全国を回って大仏建立の金を集めている良弁という老僧に師事する場面がある。

この良弁は若狭の出身で、東大寺の初代別当になった人物であり、
大仏開眼の儀式を取り仕切った。
父親の名は秦常満といい、代々白石明神を祀る秦氏の家系である。

では、秦氏とは一体何か?
秦帝国にルーツを持つという一族である。

では、秦帝国とは一体何か?
広く知られているようで、実のところその実態についてはあまり知られていない。

ここでは古代イスラエル人 → 秦帝国の由来 → 秦氏の来歴 →
 八幡神の正体 → 神輿の正体 → ついでに祇園祭の正体
という手順を踏んで、神輿のルーツに迫る事にする。

107 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 13:54:17.48 ID:TphW4On4.net
◆失われた十支族

秦帝国について語る前に、まずは遥か西方にあったユダヤの歴史について語らねばならない。

エジプトで奴隷になっていたユダヤ人は紀元前13世紀頃に一斉にエジプトを脱出し、
紀元前11世紀にパレスチナにイスラエル王国を建国した。

その後、ソロモン王の堕落のために後継者問題で
紀元前930年頃に王国が分裂し、
北朝イスラエル王国と南朝ユダ王国に分かれた。

南北ふたつの王国もまたご多分にもれず偶像崇拝に陥って堕落し、
神による罰として他国に征服され、民は遠いところに捕囚された。

まず紀元前722年に北朝イスラエル王国はアッシリア帝国に占領されて滅ぼされ、
貴族を中心に10分の1ほどの人々がアッシリア帝国に連行されて虜囚となる。
サルゴン王の碑文によると虜囚の数は2万7290人。

その後アッシリアは騎馬民族スキタイにたびたび攻撃を受け、
紀元前612年、メディアとカルデアの連合軍に敗れると、一気に衰退。
オリエントの覇権は新興国に渡り、アッシリア帝国は滅亡する。

本来なら、ここで奴隷の軛から解放された北朝イスラエル王国の人々は
故郷であるパレスチナ地方へと戻ってくるはずだが、
彼らはアッシリア帝国が滅亡した後もそのままメソポタミア地方に住み続け、
やがて完全に姿を消してしまった。
行方についても一切不明だ。

これは歴史上最大の謎と言われ、彼らを「失われたイスラエル十支族」と呼ぶ。

108 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 14:05:24.56 ID:TphW4On4.net
◆遥か東へ離散したユダヤ人

はたして失われた十支族は、どこに消えたのか。
手がかりはある。
紀元1世紀の歴史家フラヴィウス・ヨセフスが著書『古代ユダヤ誌』のなかでこう述べている。

「10支族は今でもユーフラテス河の彼方におり、膨大な数となっている」
ヨセフスがいたパレスチナ地方から見てユーフラテス川の彼方とは、すなわちアジアである。
今でいうアフガニスタンやイラン、インド、そして中国といった広大な大地に
失われたイスラエル10支族は移住し、混血していったようなのだ。

なおアッシリアに何度も侵入したスキタイはカスピ海沿岸を発祥地とする騎馬民族で、
北アジアの草原を縦横無尽に駆け抜け、その痕跡は北欧から朝鮮半島にまで及んでいる。

彼らに影響を受けた中央アジアの遊牧民は、後に彼らのスタイルを取り入れて
匈奴と呼ばれる部族となり、紀元前4世紀から紀元後5世紀にかけて
中央ユーラシアから東アジアに至るまで暴れまわる事となる。

スキタイは支配層こそアーリア系だが、多民族の混合で、
有能な者は異民族であっても重用した。
おそらく虜囚にされた古代イスラエル人たちも、元々遊牧民族である事もあり
スキタイについていって中央アジアから東アジアに離散したとみられる。

更にスキタイの流れを汲む東北アジアの騎馬民族のひとつ、夫余族は
後に高句麗や百済を建国する。
更にそれについて書かれた数々の史書や伝説について詳しく述べると長くなるので省くが、
その一派が朝鮮半島を経て日本列島へと侵入する事となる。

圧倒的な機動力で倭国を征服した騎馬民族の長は畿内に王朝を開き、
自らを大王と名乗ることになる。
後の天皇家である。

109 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 14:29:22.59 ID:TphW4On4.net
◆南朝ユダ王国の滅亡とディアスポラ

さて、南北に分かれた古代イスラエル王国のうち、もうひとつの南朝ユダ王朝は、
アッシリア帝国に代わって台頭してきた新バビロニア王国によって蹂躙される事となる。

紀元前587年、新バビロニア王国の軍勢はパレスチナ地方へと侵攻する。
軍勢は首都エルサレムを包囲し、ソロモン神殿を徹底的に破壊し尽くした。
神殿内部にあった財宝を跡形もなく略奪し、南朝ユダ王国は滅亡。
人々はバビロンへと捕囚されてしまう。
世にいう「バビロン捕囚」である。

その新バビロニア帝国も紀元前539年、アケメネス朝ペルシアによって滅ぼされる。
多くのイスラエル人たちはパレスチナへと帰還したが、
そのままバビロンに残った人々もいた。

彼らは繁栄を享受しながらも、紀元前330年にアケメネス朝ペルシアが滅亡すると、
歴史の表舞台から姿を消した。
アジア各地に広まったことから、彼らは東ユダヤ人とも呼ばれた。

更にパレスチナに帰還したユダヤ人たちも、やがて国を失う事になる。
紀元66年、古代ローマ帝国の圧政にたまりかねたユダヤ人たちがいっせいに蜂起。
ローマ帝国との間ら第一次ユダヤ戦争が勃発する。
結果は火を見るまでもなく明らかで、圧倒的な軍事力の前に反乱はまたたくまに鎮圧される。

続く紀元132年、残ったユダヤ人たちが再び戦いを挑み、第二次ユダヤ戦争が勃発するも惨敗する。
再建されたソロモン神殿は跡形もなく破壊され、完全にユダヤは滅亡し、
国を失ったユダヤ人たちは世界中に離散する事とになる。
これをディアスポラという。

110 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 14:43:47.35 ID:TphW4On4.net
◆離散と集合の預言

ユダヤ人の離散は元々『モーセ五書』で絶対神ヤハウェによって預言されていた出来事だった。

『もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、
 今日わたしが命じるすべての戒めを守り行うならば、
 あなたの神、主はあなたを地の諸々の国民の上に立たせられるであろう。
 ……
  もしあなたがこの書物に記されている律法の全ての言葉を守り行わず、
 あなたの神、主という栄えある恐るべき名を恐れないならば、
  主はあなたとその子孫の上に激しい災を下されるであろう。
 その災いは厳しく長く、その病気は重くかつ久しいであろう。
 ……
 主は地の此岸の果てから彼岸の果てまでも、諸々の民のうちにあなたがたを散らされるであろう。
 彼らの所で、あなたもあなたの先祖たちも知らなかった、
 木や石で造ったほかの神々にあなたは仕えるであろう。

 その国々の民のうちであなたは安きを得ず、また足の裏を休める所も得られないであろう。
 主はその地であなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を打ちしおれさせられるであろう』
 (旧約聖書『申命記』28章)

そしてヤハウェはやがて世界中に散ったユダヤの民が集まり、国を再建する事も預言していた。
紀元前5世紀頃に書かれた『イザヤ書』49章にはこのようにある。

『主はこう言われる。……私はあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、
 国を興し、荒れすたれた地を継がせる。
 私は捕われた人に『出よ』と言い、暗きにおる者に『現れよ』と言う。
 彼らは道すがら食べることができ、すべての裸の山にも牧草を得る。…
 彼らをあわれむ者が彼らを導き、泉のほとりに彼らを導かれる。
  見よ、人々は遠くから来る。見よ、人々は北から西から、またシニムの地から来る』

ここで書かれているシニムとは、中国でいうところの『秦』の事である。
後に中国を統一する事になるものの、当時の秦は戦国七雄の一国に過ぎず、
最も西側にある僻地の国にすぎなかった。
その国に大量にユダヤ人が住み着いている事をこの時代既に述べているのである。

111 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 15:34:22.33 ID:TphW4On4.net
◆ユダヤ人の遺伝子

ユダヤ人を散らすにあたって、絶対神ヤハウェは
彼らが現地人と混血して元の形質を失い、数千年が過ぎても
ユダヤ人である事がわかるよう"しるし"をつけておいた。

現在では「ユダヤ教を信仰する者は民族的ユダヤ人」と定義されているため、
極端な言い方をすれば無関係の人種であっても、
ユダヤ教に入信する事でユダヤ人になる事ができる。

だが本来ユダヤ人とは人種的な定義である。
そしてどれだけ混血しても、人種的ユダヤ人である事を判別する方法がある。

それはユダヤ教の創始者モーセの兄である大神官アロンは
神によって聖別され、特殊な遺伝子を有しているためである。

男児にのみ受け継がれるこのY系遺伝子は、ユダヤ人の中でも
祭司コーヘンの家系に受け継がれ、さらにその祭司たちは
ユダヤ人にとって宗教は無くてはならない文化のため、
離散したユダヤ人とともに各地についていった。

異邦人には決して見られない顕著な特徴があるこのアーロン遺伝子については
英語版Wikipediaの「Y-chromosomal Aaron」のページで詳しく説明がなされている。
この特色を利用する事で、Y染色体を調査する事により
どの民族がユダヤの血を引いているか否かを判定できる。

これらの研究結果はイギリスの権威ある科学誌 『ネイチャー』 1997年1月号に記載されている。

112 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 15:37:34.32 ID:TphW4On4.net
◆アフリカやアフガンのユダヤ人

例えばアフリカ南部にレンバ族と呼ばれる部族がいる。
2010年4月29日、日テレでも放映されたので知っている者もいるかもしれないが
彼らは外見的に他の黒人とまったく見分けがつかない。

しかし彼らの文化には古代ユダヤと共通する風習が多数存在している事から、
昔から自分たちはユダヤ人の末裔だと主張していた。
勿論外見があまりにも違いすぎる事や、居住地が中東から離れすぎている事から
誰にも信じて貰えず長らく物笑いの種にされていた。

しかし学者が世襲制からなるレンバ族祭司のDNAを調査した結果、
ミトコンドリアDNAのレコードはアフリカ人であったが、
Y染色体DNAのレコードはユダヤのものであり、
彼らがまぎれもない古代ユダヤの子孫である事がわかった。

こうしたユダヤの遺伝子を持ったイスラエル十支族の末裔は、
イスラエルの調査機関『アミシャーブ』の長年に渡る遺伝子調査によって、
次々に発見されている。

例えばアフガンのタリバンを構成している主要民族のパシュトゥン人。
彼らはイスラム教徒であるが、彼らの言語には古くからヘブル語が多く含まれている。
居住地にはイスラエルと同じ地名のものが少なからず見うけられ、
生後8日目に割礼をする(イスラムでの割礼は8日目ではないのでこれはイスラムの習慣ではない)
ほか、様々なユダヤの風習が見られる。
そうした事から遺伝子調査を行った結果、彼らもまた血統的ユダヤ人である事がわかった。

113 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 15:40:29.75 ID:TphW4On4.net
◆ミャンマーと中央アジアのユダヤ人

更に東のミャンマーにもメナシェ族という少数民族がいる。
彼らは昔から自らを神によって祝福された民だと自称しており
アロンという名の祭司によってヤーという神を祀っている。

古代イスラエルと同じ動物犧牲、贖罪、過越の祭、
今では無くなってしまったが8日目の割礼などの習慣を有している。
そして彼らも遺伝子調査の結果、ヤー(絶対神YHWHの短縮形Yの事)を信仰していた
十支族のひとつマナセ族の末裔である事がわかった。

同様にパキスタン・インド・カシミール、中国のチアン・ミン族など
イスラエルから東へ伸びる道筋のところどころに十支族の末裔が発見された。
過去幾度ものディアスポラの都度離散した古代イスラエル人の大隊が、
幾枝にも分かれながらアジアを東へ東へと進んで行った事が
文化的類似性からも遺伝子調査からも証明されている。

古代日本に様々なユダヤ文化を伝えた「秦氏」の故郷のひとつとされる
「弓月王国」は、今日でいう中央アジアのキルギスタンに接している。

このキルギスには『マナス叙事詩』と呼ばれる壮大な物語が伝わっている。
この物語は古代から口伝で伝えられてきたが、
19世紀になって初めて文字に書き起こされた。

キルギスの人は長らく多くの人々が文盲で文字が読めなかったが、
近代化により教育水準が上がり、文字が読めるようになった。

その結果人々は世界で最も読まれている書物である
『聖書』も読んだのだが、そこで彼らは気づいた。
先祖伝来の「マナス叙事詩」が、異民族のものであるはずの「聖書」とそっくりである事に。

114 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 15:43:07.31 ID:TphW4On4.net
◆弓月王国=ユダヤの末裔

例えば『マナス叙事詩』によるとキルギス人の父祖ヤコブは裕福な羊飼いで、二人の妻がいた。
ヤコブは異国の地で辛酸を舐めたが、知恵をもって自分の羊を増やした。
ヤコブは父祖の地に帰り、天の神に祈ったところ、子孫に関する約束を受けた。
このヤコブにはマナスという「息子」がおり、これがキルギス人の祖先になったという。

一方の「旧約聖書」によるとユダヤ人の父祖ヤコブは裕福な羊飼いで、二人の妻がいた。
ヤコブは異国の地で辛酸を舐めたが、知恵をもって自分の羊を増やした。
ヤコブは父祖の地に帰り、天の神に祈ったところ、子孫に関する約束を受けた。
このヤコブにはヨセフという息子がおり、ヨセフはマナセという息子をもうけた。
マナセは聖書において「ヨセフの子」ではなく「ヤコブの子マナセ」と呼ばれた。
(創世記48章5節参照)

このように聖典がそっくりなだけでなく、
キルギスの文化にもユダヤ独特の習慣が見られた。

キルギスには昔から「羊の骨を折らない」「もものつがいの上の筋肉を食べない」など
奇妙な風習があるが、これは全て聖書に書かれている風習だ。
(創世記32章32節、出エジプト記12章46節)

また多くの国では長男が家を相続するが、
キルギス人はユダヤ人同様末子が相続する。

これら多くの共通点から、キルギス人は
失われた十支族マナセ族の子孫ではないかと噂された。
そこで実際にイスラエルの調査機関アミシャーブが
キルギス人の遺伝子を調査したところ、ユダヤ祭祀家系固有遺伝子アロンを有し
やはりユダヤの血を引いている事がわかった。

アッシリアの滅亡とともにスキタイについていった消えた十支族は
この地に移住して国を築いていたのだ。

115 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 15:45:34.03 ID:GMvciWr9.net
なるほどなー

116 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 16:09:55.89 ID:NX9gW2vU.net
古事記日本書紀が旧約新約なんだって説は
大本教のあの人が言い出したの?

117 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 16:36:47.86 ID:TphW4On4.net
◆殷周易姓革命と羌族

さて、そろそろ中国の話に移る。
紀元前17世紀から中国河北には殷(商)という王朝があった。

しかし30代目の王である帝辛 (紂王) の悪政によって国が乱れ、
西伯侯であった姫昌という男が
羌族出身の"太公望" 呂尚という男の協力のもとに反乱を起こし、
牧野の戦いで殷軍を打ち破り、新たに周王朝を成立させた。

太公望は代々の周王に自分の一族の娘を嫁がせ、
日本でいう藤原氏のように外戚として権勢をふるった。

(ちなみに周王家のDNAは山西省黎国墳墓からの発掘調査で、なぜか日本人に近い事がわかっている)

太公望こと姜子牙の出身である羌族とは、中国の西方に住んでいたチベット系遊牧民の事である。
『羌』とは『羊』に足をつけた文字で、「羊の女」を意味する『姜』姓を名乗る。
これは彼らが発祥以来、ずっと遊牧民であったことを端的に示している。

古代中国の三皇五帝の一人であり、『炎帝神農』も姜氏であり、
その子孫とされる牛頭の魔神『蚩尤』も羌族である。
今日でも羌族は河南省を中心に民族のアイデンティティを保っている。

118 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 17:04:36.41 ID:TphW4On4.net
◆4つの『秦国』

紀元前1046年に成立した周王朝。
その孝王の臣下であった『非子』という男は
紀元前10世紀末頃に牧畜を行い、多くの馬を飼育することに成功。
この功績によって『羸』という姓を賜る。

非子は後に大夫となり、広大な領地を得、
これが秦王国の始まりとなった。
場所は中原から見て西方、現在の甘粛省礼県あたりと考えられている。

欧米の歴史学者アーサー・コットレルは、
秦の民族は中原の漢民族とは異なる民族であったと主張する。

もともと農耕民である漢民族にとって、馬は農作業に使うものであり、
乗り回して機動力として使うのは異民族である遊牧民族の習俗だからだ。
非子が大量の馬を飼いならした手腕は、もともと彼が遊牧民族であったことを暗示している。

同様に日本においても、チベット研究家の佐藤長氏は
周も含めて、秦は広い意味で羌族の国家であったと主張している。

なお、『秦』という名を冠した国は春秋・戦国時代の秦国、秦始皇帝の秦帝国だけではない。
中原が異民族によって支配された五胡十六国時代に『秦』の名を名乗る国がいくつも出現した。
歴史学では紀元前の秦と区別するために、それぞれ『前秦』『西秦』『後秦』と呼称している。

まず前秦は青海湖を拠点としていたチベット系遊牧民の『?族』が中心となって
西暦350年に東晋国から独立した国である。
後秦は384年に成立した国で、支配層は羌族である。
一方の西秦は385年に前秦から独立した国で、王家は「鮮卑族」である。
鮮卑族はチュルク系またはモンゴル系と呼ばれる遊牧民だ。

119 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 17:14:38.07 ID:TphW4On4.net
◆羌族はイスラエルの末裔

一見してわかるように、『秦』と名乗った歴代の国は、
いずれも漢民族とは異なる遊牧系騎馬民族によって建国されたものだ。

そしてこのうち羌族は、イスラエルの調査機関アミシャーブのDNA検査によって、
失われたイスラエル十支族の末裔である事が明らかになっている。

いつの時代に混血したのかは不明である。
だがこれで羌族が、新約聖書でイエスが生前に述べた
「失われたイスラエルの羊」のひとつである事は明らかとなった。

羌族は羊をトーテムとしているにも関わらず、牛の神を祀るという不思議な風習がある。
失われた十支族も北朝イスラエル王国時代において、黄金の子牛像を祀っていた。
カナン先住民の神である、生贄の赤子を捧げさせる牛頭神モレクを拝む者もいた。
何より、ユダヤの絶対神ヤハウェもまた、同様の姿をしていたとされる。

ユダヤ教では偶像崇拝を禁じているため、歴史的に創造神ヤハウェの図像はほとんどない。
だが貴重なヤハウェの図像がシナイ半島のクンティレット・アジュルド遺跡から発見されている。
興味深いことにそこに描かれたヤハウェは、なんと牛の頭を持ち、角を生やしているのだ。

鮮卑族もまたユダヤと関係があるとされる。
鮮卑族は北アジアを席巻した騎馬民族で、スキタイ文化の継承者である。
朝鮮半島を拠点とし、日本列島にまでやってきた夫余族と言語が非常に近く、
彼らの中にスキタイによって連れてこられた失われた十支族がいた事は十分予想される。

また『秦』の字を冠してはいないものの、五胡十六国のひとつ
『後趙』を建国した『石勒』もユダヤ人である。
子孫が今も中国におり、ユダヤ教の信仰と風習を守りつづけているためだ。

石勒は匈奴の支族「羯族」の出身である。
去勢した羊を意味する『羯』という文字にも「羊」が含まれ、
彼らの祖「羌渠」の名にも、やはり「羊」がある。
状況から考えて、失われた十支族である羌族との関係があると考えて間違いない。

120 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 17:45:28.84 ID:TphW4On4.net
◆無数の『大秦』王国

ところで、なぜこれら遊牧系騎馬民族が『秦』という国名を名乗ったか、
不思議ではないだろうか。

さらに不思議なのは中国の古代文献を繙くと、『秦』とは別に、
『大秦』と呼ばれる国がいくつも登場する事だ。
ひとつは古代ローマ帝国である。

古代ローマ帝国に対する中国の呼び名は「藜軒」や「拂菻」などいくつかあるが、
そのひとつが『大秦』だ。
後漢の時代、西暦166年、古代ローマ帝国の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスから
使者が来た件について、ローマ皇帝を『大秦王安敦』と書いているのだ。

また唐代の635年に中国に伝来したキリスト教ネストリウス派──
中国名『景教』の教会も『大秦寺』と呼ばれた。
景教の経典『大秦景教宣元本経』では、ローマ帝国領ユダヤのナザレについて
「大秦国那薩羅城」と書いている。

更にペルシアも『大秦』と呼ばれた。
中国ではペルシアを南部の地名ファールスを漢訳して『波斯』と表記していたが、
南宋の僧志磐が1269年に撰した仏教史書『仏祖統紀』の注釈39にこう記されている。
「波斯国は西海に在り、此に大秦と云う」

なぜローマ帝国とは全く別の国であるにも関わらず、同じ『大秦』という国名で読んだのか。

121 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 18:01:12.90 ID:TphW4On4.net
◆秦=ユダヤ

さらに紀元前3世紀半ば、ギリシア人によってインドに建設されたのが「バクトリア王国」である。
後にアレクサンドロス大王によって征服され、大王の死後は
セレウコス朝シリアの一部となり従軍ギリシア人の一部が住み続けた。

バクトリアも中国では『大夏』の名前で呼ばれる一方、
仏典の『那先比丘経』では「大秦」と表記されている。
バクトリアを支配したシリアについても、中国の史書は『大秦』と表記している。
そしてこれらの国から来た人々についても、中国では『秦人』と表記している。

しかし近隣にあるその他の国については、『大秦』とは呼ばず、固有の地名で読んでいる。
いったい何故だろうか。
何をもってこれらの位置がバラバラの国々を同じく『大秦』と呼んだのか。

実はこれらの国に共通しているのは、多数のユダヤ人が居住していたという事である。

例えばペルシアにはバビロン虜囚から解放された多数のユダヤ人が移住し、
勤勉である事から異民族でありながら重用されていた。

アケメネス朝ペルシアの大王、クセルクセス1世の時代にはユダヤ人モルデカイが宰相となり、
そのいとこであるエステルが王妃になっている。
これらの事は旧約聖書』の「エステル記」に詳しく書かれている。

クセルクセス1世は帝国内に勅命を発布してユダヤ人の自由と権利を保証し、
これを記念して「プリムの祭」が行われた。
現在でもペルシアの流れを汲むイランには数多くのユダヤ人がおり、
プリムの祭は今日でも続けられている。

同様にシリアにもバクリアにも、ディアスポラにより多数のユダヤ人が居住していた。
ユダヤ人の事を「秦人」と呼んだのである。

122 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 18:38:18.15 ID:TphW4On4.net
◆『秦』の意味

さて、これら諸々の国の国名となった『秦』とは一体何なのか。
表向きはこの字は「舂」と「禾」の字を合わせた会意文字で、稲がすくすくと成長する様を意味する。
秦王家の先祖が与えられた甘粛省秦州の地が、
作物を育てるのに適していた土地であることに由来するという。

だが裏の意味は異なる。
なぜなら『秦』という字はユダヤの奥義をさすものだからだ。

『秦』を分解すると『三人ノ木』となる。
三人の木とは三本の柱の事であり、三柱の神を意味する。
三柱の神とはキリスト教における『御父と御子と聖霊』の事である。

ユダヤ教は元々多神教だった。
創世記で最初の人間アダムを創る時にも、神々は
「われわれに似せて人を創ろう」と自らを複数形で語っている。

ユダヤ教のそもそもの由来はエジプトの多神教だったと言われ、
精神分析学の祖であるジグムント・フロイトは詩編の類似性など、
論文の中で幾つもの証拠を挙げている。
しかし紀元前13世紀頃のモーセの出エジプトによって独立分離した。

ユダヤ教が太陽神アメン・ラーを祀っていたエジプト神話の後継者である事は
『モーセ五書』の中で、大祭司アロンがエジプトの大祭司の杖が化けた蛇を
杖で呑み込んで自らのものにするシーンに暗に示されている。
杖は携帯式の柱で、神の象徴であり、エジプトの神を併呑継承した事を意味している。

またモーセの時代から祈りの最後に「アーメン」と唱えるようになった。
これは今では「そのようになりますように」との意味だが、
元々は異なっていた可能性がある。

123 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 18:40:52.55 ID:TphW4On4.net
◆多神教だったユダヤ教

ユダヤの教義が大きく変遷したのは紀元前7世紀のヨシヤ王の宗教改革によるもので
これによってユダヤ教は一神教となり、過去の聖典もいろいろと改竄された。

さらにその後に南朝ユダ王国は新バビロニア帝国に敗北して
人々はメソポミア地方に連行され、長い虜囚の時期に
教義がバビロニアの宗教といろいろ混じりあってしまった。
『モーセ五書』が実際に作られたのもこの辺りの時代ではないかとされている。

ユダヤの教義がオリジナルから変質してしまった事は、
『モーセ五書』でモーセが神から授かった契約の石板を
人々が堕落して偶像を拝んでいるのを見て、叩き割ってしまったシーンに暗示されている。

最初の石板には表にも裏にも文字が刻まれていたが、
新しく作り直した石板は表にしか文字(十戒)が刻まれてなかった。
裏の奥義が封印されてしまったのだ。

こうして一神教としての、偽りの教義である現在のユダヤ教が成立する一方で、
それまでの原ユダヤ教は長い間地下に潜る事となった。

ずっと後になって、荒野の洞窟にこもって一切の私的財産を捨てた共同生活を送る、
エッセネ派と呼ばれる厳格な宗派のもとで修業し、
密かに伝承されていた裏の教義を学んだ末、それを表に出したのが
異端のラビとされたイエス・キリストだ。

イエスは元々ユダヤには父と子と聖霊の三柱の神がいた事を主張し、
ユダヤ教を元の教義に戻そうとしたが、頭の固いユダヤのラビたちを怒らせ、
宗教組織と権力者側の結託によって磔刑に追い込まれる事となる。

124 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 18:49:06.08 ID:Rv3BCNOP.net
なげーな

125 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 19:51:44.58 ID:TphW4On4.net
◆辺境の地・秦

秦国は厳密には中国ではなかった。
春秋・戦国時代を通じて、その領土は常に中原の西方の端にあった。
そこより先は異民族・西戎の領域であった。

秦は常に西戎と接し、抗争を繰り返していた。
今日ほど国境が明確でなかった時代である。
秦の領土内には、多数の異民族が流入し、
住民の間には混血もあったであろうことは想像に難くない。

一方で中国人は黄河流域を中心とする中原地方を世界の中心の地とし
それ以外の地に住まう者たちを蛮族として蔑んでいた。

現に秦国について、前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された『史記』はこう記している。
「秦は僻遠の雍州の地にあって、中国諸侯の会盟にあずからず、夷?と同様の待遇を受けていた」

中華思想からすれば、いわんとすることは明らかだろう。
中国諸侯と同列に扱われていなかったということは、同じ漢民族ではなかったことを示している。
明確なルーツは不明ながらも、中国の歴史学者の多くは、
もともと秦の人々は漢民族ではなかったという見解で一致している。

始皇帝にまつわる映像作品や漫画は多数制作されているが、いずれの作品も
始皇帝を漢民族と同族として描いている。
だが実際は全く違っていた。
始皇帝を含め、白人が多数暮らしていたのである。

126 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 19:57:57.51 ID:TphW4On4.net
◆大商人・呂不韋

大財閥であるロスチャルド家(ロートシルト家)は、
異民族であるユダヤ人でありながら、
アンティークコインの蒐集と売買によって王家に取り入り、
最終的にヨーロッパ全土を支配するまでに成り上がった一族である。

秦国においてもアンティークコインの売買で儲けていた商人がいた。
呂不韋といい、有名な諺「奇貨居くべし」は彼の言葉である。
奇貨とはアンティークコインの事だ。
呂不韋もまた失われた十支族・羌族の出身であり、ユダヤ人であり、
王家に取り入って権勢を誇るようになる。

当時秦王である昭襄王の息子・安国君には息子が二十数人いた。
その中の1人が子楚で、母である夏姫が安国君から疎まれたために、
敵国である趙に人質として差しだされていた。

呂不韋はこれに目をつけ、「奇貨居くべし」の諺通り
人質として将来を絶望する子楚に多額の投資を行った。

趙における彼の名声を高めると、才能ある子楚を養子として迎えるよう、
秦王妃である華陽夫人にもちかけた。
更に華陽夫人が安国君に推薦することによって子楚は太子となる。

そして紀元前250年、安国君は秦王として即位するが、"なぜか" 即位後3日で死亡。
子楚がその後を継いで「荘襄王」として即位する。

呂不韋の策略によってゴミ同然だったガキが一国の最高位にまで昇りつめたのだ。
荘襄王を傀儡とし、呂不韋は丞相となって秦国の実験を掌握するに至った。

127 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 20:26:07.26 ID:TphW4On4.net
◆始皇帝の天下統一

皇太子時代の子楚は呂不韋の愛妾である「趙姫」を所望した。
呂不韋は言われるがまま趙姫を子楚に献上して妃にしたが、
この時既に趙姫は呂不韋の子供を孕んでいた。

紀元前259年、趙姫はまもなくして男の子を産む。
名は「羸政」──後の始皇帝の誕生である。

全て呂不韋の目論見通りに事が運んだ。
呂不韋のバックのもと、荘襄王は趙、韓、魏を攻め、
当時すでに洛陽近くの小国にすぎなかった東周を滅ぼし、戦国統一に一歩近づいた。

呂不韋は不倫関係にあった趙姫がババアになったに嫌気がさし、
巨大なペニスだけで馬車の車輪を回して見せた男・ロウアイを宦官に偽装させ
後宮に送り込んで趙姫の相手をさせていた。

だが即位してわずか3年あまりで荘襄王は死んでしまう。
かくして期限前247年、弱冠13歳にして太子・羸政が秦王として即位。
これにより呂不韋は王統の血をすりかえ、自らの実子を秦国のトップにつける事に成功する。
司馬遷は『史記』の中で、これらを公然の秘密として書いている。

だが、即位後まもなくしてロウアイが反乱を起こし、呂不韋は連座して責任を負わされ失脚する。
かわりに李斯が丞相となり、以降トントン拍子に戦国統一が進んだ。

それから21年後の紀元前225年、秦は強国である魏を滅ぼし、
また2年後には最大の敵である楚も滅ぼす。
最後に残った斉も2年後に降伏し、紀元前221年、
ついに羸政は長く続いた戦国時代を終わらせる事に成功する。

128 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 21:37:34.39 ID:TphW4On4.net
◆始皇帝の改革

まだ40歳にもならないうちに史上初めて中国全土を統一した?政は
これを機に新たな称号『皇帝』を創り出し、始皇帝と名乗る。
以降彼は次々に斬新な政策を打ち出し、中華帝国の礎を築く事となる。

まず行ったのはグローバルスタンダードの制定である。
それまで中国では諸国によって貨幣の種類や素材、単位が異なっており、
ほかの国と交易するにあたって非常に不便であった。

長さや重さの単位も異なっていたため、何を作るにしても国外には通用せず、
国境を越えると道路や馬車の轍の幅が変わり、通行が困難であった。

さらに文字についてもそれぞれの国が勝手に文字を作っていたため、
せっかく文章を書いても他国の人間にはまったく読めないといったありさまであった。

そうした状況を踏まえ、秦始皇帝は貨幣や度量衡、言語、そして文字を統一し、
秦帝国内においてはそれらを必ず使用するように徹底させた。

現在使われている漢字が数ある文字の中から選ばれたのは
秦が使用していたというだけではなく、
そこに数々のユダヤの叡智と教義が込められているからだが、
これについていちいち漢字一文字ずつ説明していくと非常に長くなるので省く。

129 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 21:49:44.11 ID:TphW4On4.net
さらに始皇帝は各地の人員を徴集して北方に送り込み、大工事を行わせた。
北方の異民族の侵入を阻止するため、それまで各国独自に築いていた長城をつなぎあわせ、
世にいう「万里の長城」のプロトタイプを築かせた。

こうして領土を明確にした秦始皇帝は、帝国を合理的に支配するために、新たに郡県制を採用する。
統一以前、秦は全国を31ないし41の県に分けて支配していたが、
統一後は県の上に「郡」を設置。
そこに長官に当たる太守、副長官の丞、軍司令官の尉、そして監察官の監を置いた。

一方、都である咸陽から道を挟んだところに、阿房宮という壮大な宮殿を建設。
秦始皇帝一族はもとより、貴族の宴の場として使用された。
その大きさは東西600メートル以上、南北120メートルほどもあり、
宮殿内部には1万人以上が一度に座ることができたという。

これらについては非常に有名な話だ。
だが、始皇帝のこうしたアイディアがいったい"どこ"から来たのか、
それについては明確な説明ができるだろうか

130 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 21:54:58.60 ID:TphW4On4.net
◆始皇帝陵の西アジア人

また始皇帝は高さ55メートル、東西345メートル、南北350メートル、
周囲約2000メートルという巨大な陵墓を建設した。
『史記』によると、内部は地下宮殿になっており、水銀の川が流れているという。

更に1974年になって始皇帝陵の東1.5kmの地点の地下から、
あたかも始皇帝を永遠に守護するかのように、
等身大の陶俑と陶馬が整然と軍列をなして並んでいるのが発見された。

いわゆる兵馬俑坑であり、その数は未発掘のものを含めて、
少なくとも8000体以上はあると推定されている。

不思議なのは食料が貧困だった大昔にも関わらず、
いずれも非常に背が高く、骨太で逞しい体格の持ち主だという事だ。

更に2006年6月28日、西安発の「新華社電」は、
兵馬俑坑で副葬された労務者の遺骨についての分析結果について
衝撃的な情報を発表した。

調査団の徐智博士は、50体の遺骨から15体の遺骨を選び
個別にシリカゲル吸収法を用いてDNAを採取して分析。
その中にパルシー人、ペルシア人、
トルコ・シリア・イラン国境あたりのクルディスタンに住む
クルド人など、西アジアの民族の特徴を確認したという。

131 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 22:04:39.78 ID:TphW4On4.net
◆古代中国のユダヤ人

始皇帝陵考古チームの隊長、段清波陝西省考古学研究所研究員は、
この発見によって中国の中心部まで、2200年前のユーラシア西部の人間が
来ていたことが証明されたとし、シルクロードが盛んに用いられた漢時代以前から、
東西の行き来が盛んに行われていたことが判明したと語った。
王建新西北大学考古学科主任もまた、東西文化交流史上における重大な発見と述べた。

正直な話、採取したサンプルが少なすぎるのではっきりした事は言えないが
わずか15体の人骨からこれだけの数の西アジア人が見つかった以上、
実際にはかなり多くの西アジアが始皇帝に仕えていたと考えられる。

たとえ外国人であっても中国入りすると中国名で呼ばれ、
史書にも中国名で書かれるのが通例なので
実際には想像以上に多くの西アジア人が入り込んでいたものと思われる。

事実、古代中国に多くのユダヤ人が居住していた事は様々な証拠からわかっている。
ユダヤ教のラビ、マービン・トケイヤーは著書『ユダヤと日本 謎の古代史』において、
古くからシルクロードの商人はユダヤ人が占めてきていたと指摘。
「絹の貿易商人と絹を加工する職能技術者の全てはユダヤ人だった。
2500年前のことである」と述べている。

また、フランス人神父ゲオルゲ・プレボスは1926年に
『東漢』(後漢)時代の3つのヘブライ語石碑を洛陽で発見しており、
ここからもトケイヤーは「古代中国で紀元前三世紀から西暦三世紀にわたって存在した
漢王朝において、すでに中国各地にユダヤ人の居留地があった」と述べている。

132 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 22:08:19.26 ID:TphW4On4.net
◆青い目をしていた始皇帝

始皇帝もまた、呂不韋の実子であったとすればユダヤ人であった。
『史記』のなかで、兵法家であった尉繚は秦始皇帝の容貌をこう記している。
「秦王の人となりは、鼻が高くて蜂のような恰好、切れ長の目、
 猛禽のように突き出た胸、豺のような声で、恩恵は少なくて虎狼のような心だ」

つまり始皇帝は、ユダヤ人を思わせる鷲鼻をしていたと言うのだ。

また別の資料に始皇帝は色目(西洋人のような色がついた眼)であるとも書かれており
碧眼だった可能性もある。

さらに父親の荘襄王も子楚と改名する前は「異人」という異様な名前であった。
そのように名付けられ父親からひどく嫌われたのは、母親が白人であり
父親とはあまりにも異なった容貌であったためであるという可能性もある。

実際に白人とアジア人の混血は昔からいた。
匈奴の活動範囲であったタリム盆地にある
新疆ウイグル自治区小河墓地の167の墓群からは
4000年前の中国最古のミイラが発掘されている。

吉林大学の科学者は2005年からこの墓地のミイラの遺伝子分析を開始。
ミイラの大部分がアジア人と西欧人の双方のDNAの特徴を備えていることを発見しており、
アジア人群は主に中国北方やバイカル湖地方のもの、西欧人群は欧州由来のものであるという。
遺伝子的に東西民族の混血が起きていたのだ。

兵馬俑の兵士たちも、クルド人やバクトリア人が混じっていた可能性が考えられる。

133 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 22:20:21.26 ID:Ohm2UG8s.net
聖書との関係はどうかと思うが、天の岩戸とは関連があると思ってます。

134 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 22:30:12.33 ID:Gdp6YoeO.net
失われたなんとか氏族?

135 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 22:44:06.35 ID:TphW4On4.net
◆秦帝国の正体はペルシア王国

始皇帝のバックにはペルシア人やユダヤ人の組織があったと考えられる。
なぜなら始皇帝が史上はじめて行ったとされる数々の政策は、
既に200年以上も前にペルシアで行われていたからだ。

紀元前558年、メディア王国から独立したアケメネス朝ペルシアは
新バビロニアを滅ぼし、虜囚になっていたユダヤ人を解放した。

このアケメネス朝の三代目の支配者がダレイオス一世で、
彼の時代にペルシアはオリエントの統一を果たし、西はマケドニア、
南はエチオピア付近、東はインド国境に至る広大な帝国となっていた。

ダレイオス一世はこの広大な領土を統一するために、帝国全土を127の州、
すなわち「サトラップ」に分け、そこに太守、軍司令官、監視官を置いた。

それぞれのサトラップ間には「王の道」と呼ばれる幹線道路を整備し、各地に駅伝を設けた。
また、領土内の要地に詔勅文を刻した摩崖碑を作った。
さらに貨幣制度を統一し、中央集権的な支配体制を確立した。

驚くことに、これらはまさに始皇帝が行った統治形態とそっくりである。
始皇帝もまた、都を中心として国内隅々にまで通ずる馳道(皇帝道路)を建設し、
全国巡遊に当り、要所に詔勅文を刻した摩崖碑を作り、みずからの功業を誇示している。
これらは戦国以前はもちろん、漢代にも全くなく、秦代独特のものであった。

これらのアイディアはペルシアから来たものであったと考えていいだろう。
始皇帝が築き上げた"中華帝国の基礎" 秦帝国とは、
中国の地に再現されたペルシア帝国だったのだ。

また、ダリウス1世はパラディスと呼ばれる広大な宮殿を作り上げた。
周りを土塀で囲んだ領域に植林し、そこへ放した獲物を遊びでハンティングする、
いわば貴族たちのリゾートとでもいうべき施設であった。
贅の限りをつくした宮殿であり、始皇帝が築いた巨大な施設・阿房宮も
このパラディスへの対抗意識から作り上げたものと思われる。

136 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 22:44:19.37 ID:FNbojQJ+.net
なめなめぺろぺろ

137 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 22:44:47.87 ID:FNbojQJ+.net
なめなめぺろぺろ

138 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 22:55:13.12 ID:jNXgYDFN.net
公にされたら、大問題になるんだろうな、その秘技。

139 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 23:07:37.45 ID:y22AQHKI.net
弓月の君

よく来たね
日本はあなたのおかげです
日本最初の貨幣和同開珎の製造と流通も君たちに感謝

140 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 23:14:45.74 ID:y22AQHKI.net
>>90
蛭子さんの話か?
その古事記の元となったのは、
道玄子 とな 36手 だった
中身 全くわからんかった

141 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 23:24:05.90 ID:TphW4On4.net
◆封禅の儀式の謎

天下統一を果たした始皇帝は翌年から天下巡遊を行い、
紀元前219年には泰山で封禅の儀式を執り行った。

Wikipediaの受け売りだが、封禅とは天地を祀る儀式であり、
天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ、
かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる。

『史記』によると始皇帝以前に72人の帝王がこの儀式を行ったと言われ、
最後に封禅を行った天子は周の成王であり、既に500年以上の空白があって
詳細は不明であった。
しかし始皇帝は秦で行われていた祭祀を基にした、独自の形式で封禅を敢行して儀式を終えたという。

さて、封禅とは一体何だったのか?
始皇帝がユダヤ人だったとすればある程度推測はつく。

それはエジプトを脱出した古代イスラエル人の指導者であったモーセが
1人シナイ山に昇って神に謁見し、民族の契約を結び、
その証として十戒石板を授かった儀式の再現である。

つまり、"神"との謁見である。
荒唐無稽な話だが、事実、古代中国の王たちは、
神と謁見していた可能性があるのだ。

142 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 23:32:02.74 ID:TphW4On4.net
◆錆びない銅剣

オカルト気味の話になるが、秦が天下統一を果たせたのは、
非常に優れた武器を使用していたからである。

戦車についてもそうだが、多くの国が弓を引いていた時代に
秦軍は800mもの射程距離を持つ弩弓(ボウガン)を使用していた。

800mという飛距離はミハイル・カラシニコフが設計した
ソビエト連邦の制式自動小銃・AK-47の2倍にあたる。

他国もまた弩弓を製造していたようだが、秦帝国ほどの精度も威力も無く
量産も利かなかったようだ。

また、兵馬俑の発掘作業をしていた際
重さ150kgほどもある兵俑の下敷きになっていた1本の銅剣が見つかった。

この剣は45度ほども曲がっていたが、兵俑を退けると
なぜかすぐに元の形に戻ったという。
形状記憶合金としか思えない話だ。

また、兵馬俑のうち兵士を模したものは、その腰に
長さ90センチの青銅製の長剣を差していた。
この長剣は2200年余り埋められていたにもかかわらず、
新品同様の輝きでほとんど錆びた痕跡がない。
https://pbs.twimg.com/media/DAHAyd3U0AABFRs.jpg

143 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 23:35:10.41 ID:TphW4On4.net
◆オーバーテクノロジーの謎

「東南快報」の報道によると、専門家が電子探査とレーザーを利用して研究した結果、
兵馬俑から出土した青銅剣や矛、戟、刀や大量の弩、鏃は
一層の緻密なクロム化合物に覆われていることが判明した。
厚さ10〜15ミクロンの保護膜により、
武器が錆びないように保護されていたのだ。

不思議なのはクロムメッキは1937年にドイツで発明された
近代のメッキ技術だという事だ。
金属とクロム化合物を密閉容器に閉じ込め、
水素かアルゴンガスを吹き込み1000℃まで熱しメッキするというものである。

紀元前の文明が水素やアルゴンのような気体を扱ったり、
気体が逃げないような密閉状態を作るのは難しいであろう。

この時代にメッキ技術があったという記録も残っていないため、
この剣がどのように製造されたのかわからない。

また、後の漢代につくられた剣にはこのメッキ技術は一切使われておらず、
現在ではかなり腐食が進んでいる。

中国の古代文明がどうしてこのような近代のメッキ技術を使うことができ、
なぜ伝承されなかったのか。
全くま謎だが、可能性があるとすれば、
時代を超越した科学技術を持った何者かにより、
技術提供を受けていたとしか思えないのだ。

144 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 23:47:13.47 ID:TphW4On4.net
◆異星人との邂逅

後秦(384年−417年)時代の王嘉が撰した『拾遺記』という書物には
上古の時代、星からやってきたという不思議な船が観測された記録が書かれている。

『堯が位について三十年目、西海に巨大に筏が浮かんだ。
 筏の上には光があり、夜には明るく輝いて昼には消えた。
 海辺に棲む人々がその光を見ると、大きくなったり小さくなったりして、星や月が出入りしているかのようだった。
 筏はいつも浮かんでいて、四海をめぐり、十二年で天を一周し、一周するとまた初めに戻るという。
 「貫月槎」或いは「挂星槎(星に至る筏)」と呼ばれる。"羽人"がその筏の上に棲んでいる。
 虞(舜)と夏(禹)のときには、それが現れたとは記録されていない。
 しかし、海辺に暮らす人々は今もその偉容を伝えている』

同じく『拾遺記』には、始皇帝が遥か彼方にある国からやってきた
不思議な人物と語り合う話が掲載されている。

『宛渠 (えんきょ)というところから不思議な人がやってきた。
 この者は螺旋状の舟に乗っており、その螺(マキガイ)のような形状の舟は、
 海の底を航行しても水が船内に侵入しない。
 舟の名は『淪波舟』という。
 始皇帝が彼と天地開闢時のことを論じると、彼はその時のことをまるで見てきたかのように詳しく語った」

 この人曰く、「私は小さい時から空を往来し、一日に万里も移動できる。
 年を取ってからは、遠い場所で起きている出来事がここに座ったままで分かるようになった。
 私の国は咸池の日没のところにあり、向こうの一日はこちらの一万年に当たる。
 そこでは晴れた日には黒い龍と鳳凰が飛び回る。
 夜は石を燃やして暗闇を照らす。
 この石は燃山から取ってきたもので、よく光り、米粒ぐらいの大きさの石一つ
 で大きな部屋を明るく照らすことができる。
 この石をほんの少し河の中に投げ入れると、たくさんの泡が湧き出て数十里先まで流れていく」

 始皇帝はこの話を聞いて「この人は神人に違いない」と言った。
 この経験によって始皇帝は仙人の存在を信じるようになり、仙薬を探し求めるようになったという。

145 :名無しのひみつ:2022/02/10(木) 23:49:58.64 ID:TphW4On4.net
この後話が日本に移っていって神輿の話になるけど
もう疲れたんで続きはまた後日にするわ

146 :名無しのひみつ:2022/02/11(金) 06:54:26.97 ID:OR6Rzuaz.net
◆契約の箱

さて、オーバーテクノロジーを持ったオーパーツと言えば
民族を率いてエジプトを脱出した古代イスラエル人たちも不思議な秘宝を有していた。
契約の箱──聖櫃アークである。

旧約聖書によると、契約の箱はアカシアの木で作られ、
長さ130センチメートル、幅と高さがそれぞれ80センチメートル。

その中に神との契約によって手に入れた十戒石板、アロンの杖、マナの壺という
ユダヤの聖なる三種の神器を収め、
箱の下部には2本の棒が取り付けられ、男たちがこれを担いで持ち運んだ。

エジプトの大ピラミッドの玄室には、謎の石の箱が置かれており
中身がカラで、何のために使われたものなのか諸説ある。
ファラオの棺だったとか、ファラオが死と再生の儀式──
大嘗祭を行うための施設だったとか言われているが、
エジプトを脱出した際に作ったアークは、例の石の箱と全く同じ寸法で作られている。

『ダビデはダビデの町のうちに自分の家を建て、また神の箱のために所を備え、幕屋を張った。
  ダビデは言った、「神の箱を担ぐべき者はただレビ人のみである。
 主が主の箱を担がせ、また主に長く仕えさせるために彼らを選ばれたからである」』
 (旧約聖書『歴代誌 上』15章)

とあるように、契約の箱を持ち運ぶ事ができるのはレビ族だけに限られていた。
レビ族とは祭司を執り行う家系であり、日本でいう禰宜の事である。

147 :名無しのひみつ:2022/02/11(金) 06:55:03.42 ID:OR6Rzuaz.net
◆契約の箱に臨在した"神"

荒れ野を移動する古代イスラエル人たちには、常に空を飛ぶ"神"がついて回り、
夜は天空で発光して人々を導いたという。
"神"とは超科学力によって空を何かの飛ぶ乗り物だったと思われる。

『 主は、昼は途上の彼らを導くため雲の柱の中に、
 また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。
 彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
  昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。
 ……
 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱の中から
エジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、
  モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て天幕の入り口に立った。
 こうして主はモーセと語られた。
 雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、
 それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ』
 (旧約聖書『出エジプト記』13章、33章)

"神"は毎朝天からマナと呼ばれる食物を降らし、人々を養った。
またモーセの祈りを聞いて紅海を割る奇跡を起こしたといわれる。

148 :名無しのひみつ:2022/02/11(金) 06:57:13.51 ID:OR6Rzuaz.net
◆プラズマを発する契約の箱

"神"は幕屋の中に安置された契約の箱の上に臨在したという。
契約の箱の扱いには厳格な規定があり、
これを破った者は即座に神によって殺された。

『アロンの子ナダブとアビフは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、
 薫香をその上に盛って、異火を主の前に捧げた。
 これは主の命令に反する事であったため、
  主(契約の箱)の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。

  その時モーセはアロンに言った。
 「主はこう仰せられた。すなわち『私は私に近づく者のうちに私が聖なることを示し、
 全ての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。
 ……
  モーセはまたアロンおよびその子に言った。
 「貴方がたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。
  貴方がたが死ぬことのないため、また主の怒りが、全ての会衆に及ぶことのないためである」
 …
  主はアロンに言われた。
「貴方も、貴方の子たちも会見の幕屋にはいる時には、
 死ぬ事のないように、葡萄酒と濃い酒を飲んではならない。
 これは貴方がたが代々永く守るべき定めとしなければならない。
  これは貴方がたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えるようにするためである」
 (旧約聖書『レビ記』10章)

契約の箱から火が出て手前の人間を焼き殺したとあるが、これは普通の炎ではなく、
強大なエネルギーをもったプラズマの炎が発生し、
一瞬にして灰にしてしまった事をさしている。

149 :名無しのひみつ:2022/02/11(金) 06:59:07.22 ID:OR6Rzuaz.net
◆多くの人々を虐殺した契約の箱

契約の箱はレビ族だけが扱うものだったが、これに対して反発する者が現れた。
旧約聖書『民数記』16章によると、レビ族イヅハルの子コラが
全民衆の中から選ばれた幹部250人とともにモーセに逆らった。

「貴方がたは分を越えている。
 全会衆はことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、
 どうして彼方がたが主の会衆の上に立つのだ」

モーセはこれを聞い答えた。
「明日主は、主につくものは誰か、聖なる者は誰であるかを示し、
 選んだ者をみもとに近づけられるであろう。
 おのおの火皿を取って薫香を盛り、主の前に携えて行け。
 レビの子たちよ、あなたがたこそ分を越えている」

そして翌日大群衆の見守る前でモーセとアロン、コラや250人の仲間は
それぞれ会見の幕屋の前に火皿を持って集まった。
すると主はモーセとアロンに述べた。
「貴方がたはこの会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼすであろう」

すると契約の箱から火が出て、コラや250人を焼き尽くした。
さらに地が裂け、250人の家族たちをも呑み込んで殺してしまった。
その上に謎の疫病が発生し、14700人が死亡したが、
大祭司アロンが会見の幕屋に帰ると疫病は止んだという。

このコラを襲った恐るべき怪異は古代イスラエル人たちの間で
よほどのトラウマとなったらしく、以降は悪さをする者を諫めるため、
「コラ!」と叫んで威嚇するようになったようだ。

150 :名無しのひみつ:2022/02/11(金) 07:01:24.37 ID:OR6Rzuaz.net
◆最初の神殿"ヤシロ"

契約の箱を担いだ古代イスラエル人の一行は、
シナイ半島を横断してヨルダン河にさしかかった。

旧約聖書『ヨシュア記』3章によると、
刈り入れの時期で、川は増水して堤から溢れんばかりであったが
契約の箱を担いだ祭司たちの足が水際に至ると、流れる水が壁のように直立し、
干上がった川床が露になった。
その間に全イスラエル人は渡河を済まし、"約束の地"であるカナン地方に入ったという。

イスラエル人たちはカナンにあった世界最古の都市と言われるエリコの攻略に取り掛かる。
エリコは高い城壁で囲まれ、難攻不落であったが、主が指導者ヨシュアに告げる。

「7人の祭司に角笛を吹かせ、彼らの先導のもと、
 主の箱を担いで六日間城壁の周囲を回れ」

これに何の意味があったのか不明だが、言われる通りにすると
7日目に城壁が一斉に崩落した。
イスラエル軍は城内に攻め込み、窓から赤い紐を垂らした
遊女ラハブ1人を除いて、エリコの住民を皆殺しにした。
城壁を破壊したのも聖櫃の力だったとみられる。

イスラエルのカナン占領作戦中は、ギルガルに司令部を置いていた。
しかし作戦が終了した後はシロに本営を移し、会見の幕屋を立てた。
この時からシロはイスラエルの宗教と政治の中心になった。

契約の聖櫃はシロに安置されて移動しなくなり、神殿が建設され、
後に「神の宮」「主の宮」と呼ばれた。

ユダヤの神の名は神聖四文字で表記され、四文字だとYHWH(ヤハウェ)、
三文字だとヤフー(YHW)、二文字だとYH(ヤハ)、一文字だとY(ヤー)と呼ぶ。

シロの神殿に神が臨在したゆえに、「ヤ」の字を冠し、
神殿をヤシロと呼んだ。

151 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 06:04:15.00 ID:gV9qtzrH.net
◆軍神アーク

古代イスラエル人たちにとって、契約の箱は絶対神の玉座であり、民族の象徴だった。
戦争においても守護神であり、勝利のシンボルである。
戦争になると契約の箱はレビ属が担ぎ、屈強な戦士たちに警護されながらも前線に持ち込まれた。

旧約聖書『サムエル記 上』4章によると、
イスラエル人はペリシテ人と戦争し、4000人の使者を出して敗退した。
その後イスラエルの長老たちは「シロへ行って主の契約の箱をここへ携えてくることにしよう。
主を我々のうちに迎えて、敵の手から救っていただこう」と言い、契約の箱を前線に運ばせた。

契約の箱が陣営に到着した時、軍勢は大歓呼してこれを迎え、地は鳴り響いた。
ペリシテ人たちは「敵陣営の大きな叫び声は何事か」といぶかしみ、
そしてアークが陣営に着いたことを知った時、
「大変な事になった。神々が敵陣営にやってきた。災難だ。
 あれはもろもろの災いをもってエジプト軍を荒野で撃退した神々ではないか。
 誰が我々をあの強い神々から救い出せるというのか」と言って大いに恐れたという。

アークの恐ろしさはカナン地方にも鳴り響いていたようだ。
契約の聖櫃とともに戦った時はイスラエル軍は勝利した。
ただし聖櫃から離れた場合は敗北したと聖書にある。

152 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 06:09:47.60 ID:gV9qtzrH.net
◆アークの呪い

アークはイスラエルの守護神として君臨したが、
イスラエルが偶像崇拝に陥った頃、ペリシテ人に盗まれてしまった。

ペリシテ人はカナンの先住民で、パレスチナという地名は彼らの名に由来する。
アークを盗んだ事で自らも軍神の加護を受けられると思っていたのだろうが、
これによってペリシテ人に恐ろしい災いが降りかかる事になる。

ペリシテ人はアシュドドの町にある自らの神である
ダゴン神殿にアークを運んだが、翌朝なぜかダゴン像が倒れていた。
人々はダゴン像を元に戻したが、翌朝また倒れており、
頭と両手が切り離されていた。
(旧約聖書『サムエル記 上』5章)

その後アークの呪いでアシュドドの住民たちに
謎の腫れものができ、続々と死者が出た。

災いを避けるためにペリシテ人たちは、
今度はアークをガドの町に移したが、そこの住民たちも腫れもので死亡し、
エクロンに移したがそこの住民も続々と腫れもので死亡した。

もはや手のつけようがないと知ったペリシテ人らは
盗んでから7か月にアークをイスラエル人に返還する事にした。

153 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 06:17:39.78 ID:gV9qtzrH.net
◆アークの中を見てはならない

アークを牝牛の背に乗せてベト・シェメシュの町に返還すると
人々は喜んでこれを迎えた。

だが彼らは決してやってはならない事を行った。
レビ族でもないのに中を覗いてしまったのである。
すると70人の人間が神に殺されてしまった。
(旧約聖書『サムエル記 上』5章)

ユダヤ人監督スピルバーグが、失われたアークを探し求める
実在の考古学者ベンディ・ジョーンズをモデルにして作った
インディアナ・ジョーンズの『レイダース』という映画がある。

クライマックスシーンでナチス・ドイツ兵が
アークの中を覗いてしまった結果
神によって皆殺しにされるシーンがあるが、
それはこのシーンを元ネタにしている。

154 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 06:24:03.52 ID:gV9qtzrH.net
◆アークの帰還

その後アークはしばらくアビナダフの家に置かれた。
一方でユダヤ教の至宝である契約の聖櫃が領内に戻った事で
人々はより強力な政治的中心を求めた。
そして初代王サウルが立ち、やがて羊飼いダビデが玉座を継いだ。

ダビデは本来国王が所蔵すべきものであるとして、
3万人の兵を引き連れて契約の箱を迎えに行った。
この知らせを聞いてアビナダフの息子ウザは
契約の箱を牛の背に乗せて運んだ。

アークと合流したダビデは喜び、道すがら数々の楽器を鳴らし
神を讃えさせながらエルサレムに戻る道を進んだ。
だがナコンにさしかかった頃、牛がよろめき、ウザはとっさに手で箱を支えた。

契約の箱に触れられるのはレビ族のみだった。
一般人が触れてしまった事により神が怒り、
一瞬でウザを殺してしまったという。(『サムエル記 下』6章)

これを見たダビデは契約の箱を恐れ、またしてもしばらく他人の家に預けた。
そして3ヵ月経って神の怒りが収まったのを知って、
ようやくエルサレムに運び入れた。

アークはソロモン神殿深奥の至聖所に安置された。
神官が箱を開けて中を確かめると、入っていたのは契約の石板だけで
三種の神器のうち、アロンの杖とマナの壺は無くなっていたという。
これらがどこに消えたのかは一切聖書に記述がない。

155 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 06:37:34.00 ID:gV9qtzrH.net
◆失われたアーク

アークを迎えた事で古代イスラエル王国は繁栄し、
ダビデの息子ソロモン王の時代に繁栄の絶頂を迎える事になる。

しかしソロモン王は偶像崇拝を行って堕落し、圧制で人心が離れる。
王が死亡し後継者のレハベアムが即位すると、内乱が勃発する。
そしてイスラエル王国は北朝イスラエル王国と南朝ユダ王国とに分裂してしまう。

紀元前586年に、カルディア人の新バビロニア王国の侵攻によって
エルサレムは陥落し、ソロモン神殿は破壊され、
宝物はことごとく奪い去られてしまう。
人々はバビロンに連れ去られ、以降50年に及ぶ虜囚生活を送る事になる。

紀元前538年にアケメネス朝ペルシアによって新バビロニアが滅亡。
人々はようやく虜囚から解放される。
ペルシアに残ったユダヤ人も多かったが、多くの者はパレスチナに帰還した。

帰還した者たちは破壊されたソロモン神殿の再建に着手。
紀元前546年にソロモン第二神殿、通称ゼルバベル神殿が完成する。
だが、ソロモン第一神殿と比べてあまりにもみすぼらしかったという。

紀元前1世紀にはエドム人のヘロデ王はユダヤ人の人気を得るために
ゼルバベル神殿を改修してヘロデ神殿を作る。
ちなみにこの神殿はイエスに「父の家で商売をするな」と
イチャモンをつけられて荒らされている。

問題はソロモンの時代に神殿に存在していたアークが、
イエスの時代にはどこにも無くなっていたという事である。
1世紀の歴史家フラビウス・ヨセフスもそれを確認している。

では、いったいアークはいつ、どこへ消え去ってしまったのか?
これは全ユダヤ人にとっての最大の疑問となっている。

156 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 06:39:35.01 ID:gV9qtzrH.net
◆アークの行方

エルサレムを陥落させた新バビロニア帝国の戦利品リストには
細かく収奪物が書かれているが、そこにはアークの名はどこにもない。
そもそもアークには神が宿っているがため、異邦人には運ぶ事が難しく、
破壊する事は不可能である。

考えられるのは一つ。
新バビロニア帝国によってエルサレムが陥落する前に、
神官たちによって別の場所へと運ばれていたという事である。

ミステリー研究者であるグラハム・ハンコックは
聖書の記述をつまびらかに調べた結果、アークが運び出された年代を
紀元前701年から紀元前626年までの間に特定した。
その間マナセ王とアモン王という2人の王が即位している。

元前687年、最悪の王と言われたマナセは異教を崇拝し、
アークが置かれていた至聖所にアシェラ像を置いた。
しかしアークが何か災いを為したという記述はない。
この時代既に神官によって至聖所は空にされていたようだ。

マナセの後を継いだ悪王アモンは家臣によってわずか2年で殺され、
後を継いだヨシヤ王は宗教改革を行って全ての偶像を排除して神殿を清めたが、
といってアークがあったという記述はない。
消えたアークはどこへ行ったのか。

これらについてはいちいち書くのが面倒くさいので飛ばして結果だけを言えば、
アークはペルシアを征服したアレクサンドロス大王軍や、
その遺志を継ぐバクトリアなどを経て、遥か東方の秦国にまで運ばれた。
秦帝国が戦国時代を統一した裏側には、
スーパーウエポンであるアークの力があった。

しかし戦乱が収まると、始皇帝はアークの扱いに手をこまねく事になった。
アークを一か所に置いておくと凄まじい災いを齎す。
そのため常に祭祀を行いながら各地を巡り歩かせねばならなかった。

157 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 07:15:03.58 ID:a13JKn9w.net
屋根瓦の皇紋は
百済人が多かった飛鳥時代はハスの花
壬申の乱で、北魏のモンゴル鮮卑来て、キクの花にかわった
モンゴルキクかチョウセンキクか、分からないところが難点

158 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 11:32:37.13 ID:v7pXxdJ5.net
このスレのどのキーワードに
偏執的な人が反応してきちゃうの?

159 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 22:43:53.15 ID:gV9qtzrH.net
◆中国のオーパーツ

さて、天下を統一した始皇帝だが、気になるのは帝国の行く末と
それを見守る自らの寿命の事だった。

後秦時代の『拾遺記』によると、始皇帝は不思議な船に乗って
遥か遠くの国からやってきた超越的存在──
いわゆる仙人と出会う。

だが、仙人の実態は様々な文献を見ればわかるように
我々がイメージする姿とは明らかにかけ離れている。
その正体は現代の科学文明をも凌駕する、超科学を持った世界の住人である。

世界中多くの国がそうだが、連中は中国に対しても
たびたび歴史に干渉し、意のままに操って来たようだ。

例えば1956年、中国江蘇省にある3世紀(西晋時代)の将軍・
周処の墳墓で、ミイラと一緒にある金属が発見された。
銀製の帯止めと一緒に副葬されていたこの金属は
アルミニウム85%、銅10%、マンガン5%で出来ていた。

だがアルミニウムを石から抽出して単体の金属として加工するには
大量の電力を必要とする。
アルミの電気分解による精錬法が開発されたのは1845年以降の事で、
3世紀の中国では製造不可能なのである。

清朝末期にはさまざまな仙丹を製造していた宝趙平という道士が
仙人から授けられた知識と技術で核兵器を開発している。
1910年7月8日にこれを爆発させたが、自身もろとも蒸発してしまった。

中国共産党がこの話を知ったのは1950年の事で、
事実彼が住んでいたゴビ砂漠の場所では樹木の群が立ったまま炭化し、
超高温で溶解した砂が急激に冷やされて緑色のガラスになった
トリニタイトやテクタイトが遥か彼方まで続いていた。
周囲に火山などいっさい無いにも関わらずだ。

160 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 22:45:04.77 ID:gV9qtzrH.net
◆仙人とユダヤの神

アカデミズムからは『拾遺記』は全くの空想上の話であり、
作り話にすぎないと一蹴されている。
だが個人的には誇張や誤解は含まれているものの、基本的に事実であり、
また様々な文献を見る限り、仙人は実在すると思っている。

さて、『拾遺記』で始皇帝と会見した仙人は
自分の住まう世界はこちらとは時間の流れが異なり、
彼らの世界の1日は、地上世界における1万年に等しいという。

実は『聖書』にも同じような記述がある。
旧約聖書の詩編90篇、また新約聖書の『ペテロの第二の手紙』にも
「我々にとっての千年は神にとっての一日にすぎない」と書かれている。

高次元ないし超高重力である彼らの世界は、
我々の世界とは時間の流れがかなり異なっているようだ。

正直な話、モーセと会見した聖書の"神"と、
始皇帝が会見した相手は、
同一世界からやってきた存在ではないかとすら思われる。
始皇帝が泰山の頂で神とまみえる事ができたのは謎だが、
この人物こそが"神"の代理人か何かではないだろうか。

161 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 22:54:35.84 ID:gV9qtzrH.net
◆水銀中毒で死亡した始皇帝

本物の超越者と出会った始皇帝は、仙人の存在を信じるようになり、
仙人に近づく努力をするようになる。
手っ取り早いのは不老長寿の薬を飲む事だ。

天下統一を果たした始皇帝にとって、気になるのは帝国の行く末であり、
それを見守る自分の寿命だった。

当時は水銀が神聖化されており、
不老長寿の命を得る薬の材料と思われていた。
古代中国の錬金術師ともいうべき方士たちによって
辰砂(硫化水銀)を基本原料とした「金丹」が製造され、献上された。

始皇帝は天下統一からわずか10年後、49歳で早逝するが
水銀中毒だった可能性が指摘されている。

笑い話のようだが、水銀中毒は古代東洋だけに限った話ではなく、
ナポレオン、アメリカ大統領リンカーンとジャクソン、
推理作家のエドガー・アラン・ポー、「若草物語」の作者オルコットなど、
水銀を便秘や頭痛の薬と思って好んで口にしていたようだ。

162 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 23:05:51.50 ID:gV9qtzrH.net
◆水銀の川

始皇帝は自分が即位した13歳の頃から、
秦の人口2000万人に対して、72万〜80万人もの人員を動員し
39年の歳月をかけて巨大な墓を作らせた。
その広さはサッカー場8000個ほどもの広さがある。

『史記』によるとそこには天井に星空が描かれ、
珍奇で豪奢な宝物に満たされ、宮殿のレプリカがあり、
国全体の川を模した形で水銀の川が流れ、
青銅製の始皇帝の棺がその中に浮いているという。
このあたりも水銀を神聖化した思想が見て取れる。

これらの話はあまりにも信じ難い事から、
長らく司馬遷が誇張した創作と思われてきた。
だが1974年、偶然に兵馬俑坑が発見されてからは考えが改められた。

その後リモートセンシング技術によって
驪山陵中心部の30mほどの地下に、9層の階段状の建物がある事が確かめられている。
ただし発掘技術が未発達という理由で、いまだに発掘が許されていない。

また、1981年にその周囲の土壌を調べた結果、
通常の10倍もの濃度で水銀が含まれている事がわかったという。
地下の水銀が蒸発した結果とみられ、「水銀の川」の実在性が証明された形になる。

となれば、その他の史記の記述も事実である可能性が高い。

163 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 23:06:56.02 ID:R33awDcS.net
>>22
ぷ、とか言ってるけど
そもそも人類はみんな最初は遊牧民みたいなもんだよ
遊牧民から農耕民に移行した民族なんていくらでもある
この説の妥当性はさておき、この日本列島にヒトが来たのは北か南かからなのであって
否定はできない

164 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 23:07:39.40 ID:gV9qtzrH.net
◆地下照明の謎

また、史記によると墓の中は特殊な脂肪で作られた照明によって、
昼夜の別なく永遠に昼のような明かりで照らされているという。
本当に脂を燃やしているのなら短時間で燃え尽きている筈なので、
ありえない話である。

一方で『拾遺記』で始皇帝が出会った超越的存在は、
彼らの国では不思議な石によって闇を照らしていると述べている。

似たような話がある。
旧約聖書の『創世記』では、ノアの一家は
大洪水が収まるまでノアの箱舟の中で生活した。

だが船が燃える危険性がある事から火は持ち込まれず、
かわってゾハルと呼ばれる光り輝く石が持ち込まれ、
照明に使われたというのだ。

『出エジプト記』ではエジプトは魔術師の王国として描かれるが、
三大ピラミッドについては悪魔どころか「神の山」と書かれ、
モーセとアロンがこの地で出会っている。

これは三大ピラミッドは大洪水以前に、
大予言者エノクによって絶対神ヤハウェのために築かれた
神殿であるからだ。
ここにも聖なる石ゾハルが奉納されていたといわれる。

165 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 23:09:26.29 ID:gV9qtzrH.net
◆光り輝く石

ゾハルについての記述は聖書だけではない。
紀元前18〜16世紀頃書かれたエジプトの歴史書
「ウェストカー・パピルス」にも書かれている。

三大ピラミッドの近くにある小さなマスタバ群を
公共事業で作った事で知られるクフ王が、
神官たちの反対を押し切って大ピラミッド内部を探索したところ、
トート神の隠し部屋を探し当て、
そこから光り輝く「火打ち石の箱」を発見した事が書かれている。

トート神とはヘルメスやメルクリウスやオーディンなど数々の別名を持つ
大預言者エノクの別名である。
これがまずかったのか、クフ王は大ピラミッドのために
人々にひどく嫌われる事になったという。

更にプトレマイオス朝パピルスでは、ラムセス2世の二人の息子が
ネクロポリスに隠してあった火打ち石の箱を見つけた際、
中から眩い光が放射されたと書かれてある。

これがユダヤの至宝ゾハルであり、フリーメーソンであるナポレオンも
ゾハルを求めてエジプトに遠征したと言われている。
インディアナ・ジョーンズ2に登場する秘宝サンカラ・ストーンも
このゾハルがモデルである。

ゾハルは神から与えられる秘宝であり、『史記』の記述が真実なら
始皇帝もまた神によってそれを与えられ、
地下墓地の照明に使っていた可能性がある。

166 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 23:12:29.42 ID:gV9qtzrH.net
◆不老不死の夢

さて、不老不死を探求する始皇帝のもとには、
呪術師が次々と接近してきては、仙薬に関する甘い話をもってきた。

神仙の世界に行って不老不死の仙薬を取ってまいりましょう。
ついては、そのために必要なしかるべき額の支度金をいただきたい、
といった感じで金をねだってきた。

始皇帝の姓は「?」であり、?とは東方の海上にあるといわれる神山の事である。
そのためか始皇帝は昔から少なからず東方の神域には興味を抱いていたものと思われる。

また、始皇帝と会見した超越者も、遥か彼方から船に乗ってやってきたと言っていた。
それゆえ始皇帝が東の海上に、本当に神仙の住む島があるかもしれないと、
思い込んでいたのも無理からぬ事だろう。

だが方士の嘯く甘言は根拠のない話であり、多くは詐欺師であった。
『史記』には、莫大な費用をかけて仙薬を捜させたにも関わらず、
まったく成果を出せないばかりか、謀をしたことがばれたとして、
逃亡した慮生や侯生のほか、見せしめを含め、
多くの方士が殺されたことが記されている。

167 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 23:13:48.49 ID:gV9qtzrH.net
◆方士・徐市

そうした詐欺師まがいの方士がたくさんいる中、
1人だけ篤い信任を得て、大役を任された方士がいる。

紀元前219年、秦始皇帝は自らの名声と権威を確固たるものにするために
全国を巡行し、各地に業績を記した石碑を建立させていた。
その2度目の巡幸中に秦始皇帝は斉に赴き、生まれて初めて海を見た。

そして渤海に面した黄県(山東省竜口)を訪れた際、
徐市(じょふつ)という謎の方士と出会い、会見を行う。
その際徐市はこのように語った。

「斉の人、徐市らは上書して曰く、
 海中に三神山あり、名づけて蓬莱・方丈・瀛州といい、そこに僊人あり。
 斎戒し、童男童女とともに求めて来ん。
 これにより、徐市は童男童女数千人をともなって渡海し、僊人を捜し求めん」
 (『史記』秦始皇本紀)

僊人とは仙人のことである。
東の海の向こうに、仙人が住むという三神山がある。
そこに不老不死の仙薬があるので、体を清めた童男童女たちを連れて
この徐市が取ってきましょうというのだ。

今まで多くの方士が似たような話を持ってきて、全て虚偽だったにも関わらず
徐福の奏上は聞き入れられ、秦始皇帝はこの大プロジェクトを許可する。
長旅に必要な食料や資材、財宝などを持たせ、
徐市は約束通り、数千人の童男童女たちとともに船出したという。

有名な話だが、注意すべきは、
これらの話は秦代に書かれたものではないという事だ。
100年以上も経過してから、詳しい実態を知らない司馬遷が書いた
伝聞に過ぎないという事である。

168 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 23:15:54.94 ID:gV9qtzrH.net
◆蓬莱山の正体

そもそも謎なのは、なぜ仙人が住む世界に
幼い子供たちを連れていく必要があったのかという事だ。
分別のない子供たちの世話をするだけでも大変で、
ともすれば足手まといになるだけである。

これについては様々な解釈がなされている。
例えば神仙界は一般社会とは異なり、俗人が入り込む事はできない。
ふさわしくない人間を寄せつけないために、門番ともいうべき恐ろしい存在がいる。
その関門をくぐりぬけるために無垢な子供たちが必要なのだという。

では徐市が奏上した東方の海上にある三神山──
蓬莱山、方丈山、瀛州山は実在するのか。

到達した者はいないが、どうやら多くの者が目撃したらしい。
事実三神山のひとつ、蓬莱山は数多く絵画に描かれている。
不思議な事にそのうちの多くがキノコのような形をしており、
つららのようなものが垂れさがっている。

実はこの光景は今でも夏の暑い日に海上で見られる。
蜃気楼である。
気温の逆転層ができると、遠くの船や島が縦に長く伸びて見える。
屈折の具合によって、上下逆さまの映像が見えることもあり、
その光景はまさに蓬莱山の絵そのものなのだ。

それゆえ現代では、蓬莱山とは東シナ海でしばしば目撃される蜃気楼を
見た古代人が実在する島と見間違えたものであるというのが定説になっている。

169 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 23:16:24.79 ID:gV9qtzrH.net
◆徐福の帰還

始皇帝の期待を背に船出した徐市であったが、長年経っても帰って来ることは無かった。
出航から7年たった頃の状況を司馬遷はこう記している。

「徐市らは巨万の財を費やして計れども、ついに薬を得ることはできなかった。
 いたずらに姦利をもって相告ぐること日に聞こゆ」

莫大な財宝をもとに船出したが、徐市は帰ってこなかった。
不老不死の仙薬を手に入れることは不可能だった。
世間では、徐市は財宝を手に入れるために始皇帝を担いのだという噂が流れた…とある。

ところがそれから更に2年が経過した頃、徐市はのこのこ始皇帝の前に現れた。
しかも手ぶらでだ。

『史記』は告げる。

「方士徐市ら、渡海して神薬を求めて数年たったが、これを得ることができなかった。
 多くの費用がかかった。
 これを責められることを恐れた徐市は、いつわりて曰く──
 蓬莱の薬はあったが、いつも大鮫魚に邪魔されて、島に上陸できない。
 願わくば射手を同行させ、これを連努で撃ちましょう」

サメのせいで蓬莱に上陸できなかったので、
連射式ボウガンを装備した兵隊が欲しいと言ってきたというのだ。

厚顔無恥とはこの事で、普通なら気性が激しく
冷酷無比な始皇帝に即刻処刑されているところである。

ところが不思議な事に始皇帝は徐市の言葉を信じきり、
言われるがまに従っている。
『史記』「秦始皇本紀」の記述は徐福が再出航したところで終わっている。

170 :名無しのひみつ:2022/02/12(土) 23:17:05.85 ID:gV9qtzrH.net
◆二度目の航海

続きは『史記』「准南衡山列伝」に書かれ、ここから名前が徐市ではなく徐福となる。
更に徐福の報告も「秦始皇本紀」とは異なるものとなっている。

それによると、徐福は確かに神仙界に到達した。
そこで大いなる神に出会った。

徐福が不老不死の仙薬をいただきたいと願い出ると、大神は
貢ぎ物が足りないので渡せない。だが、見るだけなら許可してやろうと言った。

こうして徐福は大神に連れられて。さらに東南の蓬莱山に上陸し、
そこで霊芝でできた豪奢な宮殿を見た。
そこには銅のような光沢を放つ龍のような外見をした仙人の使者がおり、
発する光は天上にまで届いてたという。

徐福は再び大神に礼拝し、どうしたら仙薬を
手に入れることができるのでしょうかと尋ねた。
すると大神は、家柄のいい良家の男児と女児、
多くの技術者を連れてきて献上すれば、望みの品は与えてもよいと答えた。

この話を聞いた始皇帝は非常に喜び、すぐさま良家の子供の男女3000人を集め、
さまざまな分野の技術者と五穀の種を用意し、徐福に託した。
命を受けた徐福は、これらの人々と財宝とともに再び船出したという。

しかし、徐福は二度と帰国することはなかった。
彼は海の向こうに新天地を発見し、そこに国を建国し、自ら王となった。
これを聞いた民は怒り悲しみ、国民の6割が反乱を志したという。

171 :名無しのひみつ:2022/02/13(日) 05:29:58.69 ID:iy9sW/Vg.net
徐福よりも前に呉人が日本列島に来てたと思う
青銅器や水稲稲作を伝えたのは彼らだったろう
呉人は海神系(筑紫の君岩井とか、安曇氏とか和邇氏や小野氏)
徐福は伊都国かな
呉人が作った倭と大陸を結びつけたんだろか

ちなみに天皇家は息長氏系だと思う
息長氏は朝鮮半島で発達した製鉄民系
その出自は高句麗(さらにその前はフヨ=ユーラシア遊牧民)だと思う
天皇家がタカミムスビ(高木神)を祖先神にしてるっぽいし
天皇家がユーラシアの遊牧民系というのは、まあ、そうだろうなと思う

アマテラスを頂点とする日本神話は天武と持統天皇が作り上げた創作なんだろう

172 :名無しのひみつ:2022/02/13(日) 22:36:36.31 ID:VMoTjFHd.net
◆徐福の目的

一読してわかるように、徐福の二度目の航海はほとんどファンタジーである。
ゆえに司馬遷も、これはあくまで徐福が
虚言を語ったのだという文脈で紹介している。

では、いったいなぜ始皇帝は徐福を信じたのか。
ボケていたのか。

また、そもそも本当に徐福が始皇帝を騙していたというのなら、
なぜ金品ではなく様々な技術を持った人員や兵士、
多くの児童などを所望したのか。

当時の人々が噂していたように、
これははじめから徐福が秦帝国の版図の外にある東方に
新しく国を作るつもりだったとすれば説明がつく。
始皇帝もそれを初めから知って徐福に全面協力していたのだ。

徐福が始皇帝から賜った多くの財宝は、
新しい国を作る際に現地人を懐柔したり、取引を行うためであり、
最新兵器である連弩を装備した兵隊を欲したのは
懐柔が不可能な先住民を掃討するため。
様々な技術者を乗せて行ったのは、生活基盤を整え
国家としての発展を見据えた事だったと考えれば辻褄が合う。

では、いったいなぜ始皇帝はそのような事をする必要があったのか。
これについてはまた後に説明する。

173 :名無しのひみつ:2022/02/13(日) 22:37:39.04 ID:VMoTjFHd.net
◆徐福の実在

そもそも徐福は実在したのか?

中国共産党は国家事業の一環として中国全土の地名調査を行っている。
その結果1982年6月、江蘇省連雲港市?楡県の徐阜村が、
乾隆帝の時代まで「徐福村」と称していたことが明らかになった。
2つに分かれた村のうち北徐阜に徐福の実家があり、
かつて幾つもの徐福廟が建っていた事が明らかになった。

今でこそ徐氏そのものを名乗る人は少ないものの、かつては大勢いた。
ただ、徐福が詐欺師とみなされているために
体制側からの圧力を避けるため、徐福一族の多くは
改姓を余儀なくされたのだという。

実際、徐福村の周囲には秦代の遺跡が数多く存在し、
中には春秋時代にまで遡る遺跡や遺物が発見されている。
まだ研究すべき余地はあるものの、徐福の実在は間違いないと言われている。

徐福が出航した場所は始皇帝に初めて出会い、
出航後も始皇帝が再び訪れた琅邪湾あたりではないかと考えられている。
天気のいい日は東シナ海に蜃気楼が見える事から、
神仙思想が根強くある山東半島の蓬莱閣も候補地のひとつである。

174 :名無しのひみつ:2022/02/13(日) 22:43:19.77 ID:VMoTjFHd.net
◆徐福はどこに行ったか

最大の謎は徐福船団はどこへ消えたのかという事だ。

東に出航したとすれば船は黒潮に乗って北上し、
日本海流もしくは対馬海流に沿って航海したことは想像に難くない。

出航後の徐福の消息が秦帝国に届いていないことから考えて、
中国本土を離れ遠い場所へと向かったはずだ。

昔から可能性のひとつとして挙げられているのが朝鮮半島である。
唐の時代、徐福が新羅に到達したという説が囁かれ、
13世紀半ばに藤原茂範が著した『唐鏡』にも、
徐福が得たという平原広沢は新羅国であると記されている。

朝鮮半島南西の海上にある済州島は、かつて「瀛州島」とも称していた。
ここから、ここが三神山のひとつである瀛州だったのではないか、
済州島の「済」という字は徐福の故国「斉」に由来するのではないかともいわれている。

だが徐福が上陸し、国を得たという平原広沢とはいい難く、
また子孫とおぼしき人々や関連する史跡も少ないことから、
本隊はさらに航海を続けたらしい。

ではその後徐福船団はどこへ向かったのか?
昔から徐福の目的地の最有力地とされる日本列島である。

日本列島には全国規模で徐福が渡来した伝説が数多く存在する。
中国の歴史学者に至っては、そもそも日本という国を作ったのは
徐福なのではないかという指摘までしている。

はたして、徐福は日本列島にやってきたのか。

175 :名無しのひみつ:2022/02/13(日) 22:52:36.64 ID:VMoTjFHd.net
◆古代日本と中国

中国と日本の関係は深い。
紀元前17世紀に成立した殷王朝は内陸部の国であり、
内陸において珍重されるタカラガイ
(特にキイロタカラガイ)を貨幣として使用していた。

「貨幣」「財産」「購入」「買収」「寶物」…
金銭や物財にまつわる漢字に多く「貝」の字が含まれているのは
ここに由来している。

このタカラガイは台湾西部の膨湖諸島で最終し、琉球を経て北上して
山東半島に上陸、その後殷の都に運ばれたとされているが、
そもそもそんな南に行かずとも一大産地である琉球で大量に採取できるので、
実際には琉球産のものを使っていた可能性が高い。

日本本土──特に東北地方にも殷代の中国人は多く来ていた。
殷の正式名称を商といい、各国を巡り歩いて商売をする事から
「商人」と呼ばれた。
初期は貝貨を使っていたが、後に刀の形をした青銅製の刀貨、
布貨などを使うようになった。

商人が日本に来ていた証拠として、
山形県遊佐町の三崎山A遺跡からは殷代の青銅製刀子が、
鶴岡市の中川代遺跡からは甲骨文字が刻まれた有孔石斧が発掘されている。

4000年前の青森県の三内丸山遺跡では、
中国産そっくりな円筒土器が沢山見つかっている。
青森の今津遺跡からも中国の鼎そっくりの三本足土器が発見されており、
当時の日本は殷と交易を行い、また技術指導を受けていたとみられる。
極端な事を言えば、殷を作った民族は倭人の可能性すら指摘されている。

殷が滅びて周(紀元前1046〜紀元前256年)が興ったが、
後漢の王充が著した『論衡周王朝』の初期には
「周の時代は天下が泰平になり、越裳は白い雉を献じ、倭人は不老草を貢いだ」
とあるように、倭人は周王朝に朝貢していた。

176 :名無しのひみつ:2022/02/13(日) 23:13:46.08 ID:VMoTjFHd.net
・表陰陽師と裏陰陽師

CLAMPという漫画家は多産作家だが、
そのうち多くの作品に様々な呪術的な意味合いを含ませている。

ひとつひとつの作品の内容を
呪術的に解析すると長くなるので省くが
代表作のひとつ『東京バビロン』という作品もまた同様である。

この作品は現代の都会で生活する
表と裏の陰陽師の対決を扱った話である。

この作品のキャラ設定、ストーリーは、
陰陽道、日本神話、ギリシア神話、ユダヤ・キリスト教などで
解釈する事ができるようになっている。

日本の祭祀を司る元締めが天皇家である。
「天」を司る"皇"の対極が「地」の"帝"であり、裏の祭司長だ。
これに相当するのが安倍晴明を始祖とする
陰陽道のエリート家系・土御門氏である。

東京バビロンで主人公の属する皇家は、この土御門家がモデルといえる。

朝廷に仕え、陰陽寮に勤務するお役人である
"表"の陰陽師代表が安倍晴明であり、
全国各地に散った民間の呪術者たち──
"裏"の陰陽道の代表が、秦氏の蘆屋道満である。

皇家の当主であり、東京バビロンの主人公である昴流は晴明、
対立する桜塚盛の党首・星史郎は道満がモデルといえる。

177 :名無しのひみつ:2022/02/13(日) 23:14:08.34 ID:VMoTjFHd.net
思っくそ誤爆したわ

178 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:39:11.21 ID:iXjRBLTb.net
いきなり漫画の話になったけど誤爆だったんか

179 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:41:48.88 ID:zOh1JBLF.net
40000年前、世界最古の磨製石器は日本、新人として日本列島に初到達(Y-D1b系皇祖)
磨製石器は最古の石工

23000年前、世界最古の釣り針は日本

16500年前、世界最古の土器は日本
日本縄文文明が世界最古の文明
土器無くして貯蓄無し
貯蓄無くして文明無し

氷河期においてまともに生活できるのは火山帯のみ

15000年前の世界最古の調理の痕跡を残す日本の土器
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2306988/Hunter-gatherers-developed-ceramic-pots-cook-fish-according-new-study.html

7500年前、世界最古の遠洋航海船は日本
7300年前、鬼界カルデラ大噴火によって九州などの日本人が離散し世界中に文明の種を撒いた
6000年前、メソポタミアに辿りついた日本人が文明を伝授(スメル人)
5000年前、世界最古の硬玉翡翠加工は日本、硬玉翡翠加工は最高の石工技術

シュメール(スメル)を元にする聖書の創世記では
洪水後シナル(シュメール地方)に住み着いたのは「東からやってきた人々」とされている
これが後に聖書における神となる
故に、ユダヤ創世紀元は5777年を数える
文明の種を授けた神々は日本から離散した日本人
エジプトでは太陽神ラーの船が東からやってきた、と伝わっている
エジプトに船でやってきた太陽神ラーも同様に日本人である

180 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:42:07.40 ID:zOh1JBLF.net
日本が朝鮮に文明を齎したことが
日本神話と朝鮮神話で整合している

日本神話=スサノオが朝鮮に渡った
朝鮮神話=桓因が朝鮮の祖
檀君の祖父である桓因=インドラ=牛頭天王=スサノオ

檀君は紀元前2333年に檀君朝鮮を作ったとされている
すなわち、紀元前2333年より前にスサノオが日本から朝鮮に渡って文明を齎したということになる
これは7300年前の大噴火によって、日本から離散した日本人が世界中に文明の種を授けたことを示している

中国では伏羲・女カを紀元前3350年〜紀元前3040年の人物とし、縄の発明者であるともしている
世界最古の縄は、16500年前の日本の縄文土器作成時の縄
縄の発祥が日本なのだから、中国で縄の発明者とされている伏羲・女カは日本から渡ったイザナギ・イザナミとなる
これも同様に、7300年前の大噴火によって、日本から離散した日本人が世界中に文明の種を授けたことを示している

181 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:42:18.21 ID:zOh1JBLF.net
先史時代とは無文字時代
縄文文明は縄文字文明
無文字時代の日本が縄文字を使用していたことは随書倭国伝で明らか
日本から西だけでなく東にも文明の種を撒いたので
アメリカ大陸にも縄文字と縄文土器が伝播している

コテカ文化が東南アジア〜オセアニア〜南米アマゾンに広がっていることから分かるように
このルートを船で行き来した集団が存在する

ラピタ人のルーツは、約6000年前に東アジアから南下してオセアニアに向かって遠洋航海を行った集団とされている

これも、7500年前に世界最古の遠洋航海船を作って、7300年前の大噴火で離散した日本人集団を示している

ラピタ人の移動する太平洋海上帝国(ラピュタの元ネタ)
この末裔が、トンガ大首長国、首都ムーァ(ムーの元ネタ)

都合が悪いので創作で上書きしたイギリス軍(ムー大陸)
ラピュタのロムスカ・パロ・[ウル]・ラピュタ

文明の発祥地はシュメール・ウルではない
無文字時代である先史時代の真実を捏造し、シュメール発祥に書き換えた文字
それを元にする聖書創世記は真実を隠す地球史の栞に過ぎない

182 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:42:27.74 ID:zOh1JBLF.net
石工集団フリーメイソンが隠匿している真実とは、日本が文明の元であるということ

氷河期は今より海面が130m低かった
氷河期が終わって氷山が溶けて海面上昇
これが世界中の洪水神話の原型
これによって氷河期の石器時代の文明が海に沈んだ
氷河期の石器時代最高文明は最初の石工(磨製石器)である日本
日本近海の海底にあるいくつもの海底遺跡はこれに由来する

183 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:42:40.23 ID:zOh1JBLF.net
中世ヨーロッパで作られた世界地図「ヘレフォード図」
https://i.imgur.com/TsBBsi4.jpg

東が上になっている
中央の小さい丸がエルサレム
最上部の真ん中の島が神の国
エルサレムと同緯度にある極東の島国は日本
中世ヨーロッパのキリスト教徒は、日本が神の国であることを正しく認識していた

184 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:43:01.35 ID:zOh1JBLF.net
40000年前、世界最古の磨製石器を作成→世界最古の石工技術
〜氷河期で生存できた火山がある日本に世界中から人が集合〜
〜石工技術を用いて岩石に絵文字を作成、現在より海面は130m低かった〜
12000年前、氷河期が終わり日本列島化
〜大陸と切り離されたことから世界初の船を開発〜
〜大陸に渡って石工技術を用いて絵文字を掘ってペトログリフ作成〜
7300年前、鬼界カルデラ大噴火で日本列島が火山雲に覆われ、日本人が世界中に拡散
〜石工技術、絵文字など文明の種が本格的に世界中に拡散〜
〜世界中に拡散して文明を築いた日本人たちが各地で神々として語られた〜
6000年前、世界共通の日本発絵文字と神々として崇められた日本人を封印するために聖書の信仰が発生
〜世界共通文字の破壊、石工技術で建てられた塔の破壊〜
〜聖書の神ヤハウェは神学的に闇神だと考えられている⇔日本は光神の大元〜

日本神話はギリシャ神話に似てるとか、北欧神話に似てるとか、南方神話に似てるとか、北方神話に似てるとか、
全ての神話の大元が日本神話なんだから当たり前

ちなみに石工集団フリーメイソンが隠匿している秘奥義がこれ
そしてそれに準拠し光信仰しているのがイルミナティ
だから日本を悪とする現世界秩序側からしたらイルミナティは悪だから体制側から流布される陰謀論で悪役になってる

そんな「戦後体制」も、今年の4月28日で日米講和条約の密約が満了して完全終了することになる

185 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:43:15.52 ID:zOh1JBLF.net
神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』では彦火瓊瓊杵尊は31万8543年、彦火火出見尊は63万7892年、ウガヤフキアエズ尊は83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。

彦火瓊々杵尊は179万5161年前に降臨
彦火火出見尊は147万6618年前生まれ
ウガヤフキアエズ尊は83万8726年前生まれ

初期のヒト属による火の利用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E3%83%92%E3%83%88%E5%B1%9E%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%81%AB%E3%81%AE%E5%88%A9%E7%94%A8

ヒト属による単発的な火の使用の開始は、170万年から20万年前までの広い範囲で説が唱えられている。
http://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1086/203705

火の使用の開始として最古の説は170万年前からであり=彦火瓊瓊杵尊は179万5161年前に降臨
火を使っていた可能性がある遺跡は150万年前に遡り=彦火火出見尊は147万6618年前生まれ
火を使っていた確実な証拠としては79万年前に遡る=ウガヤフキアエズ尊は83万8726年前生まれ

アウストラロピテクス属→ヒト属・・・火の使用によって進化

火の使用でアウストラロピテクス属からヒト属に進化した
アウストラロピテクス属からホモ属への進化によって、脳の容量は200cc一気に増量
それが火を冠する彦火瓊々杵尊の降臨と同時期

光、火⇔闇、水

日本は光神が火を冠する孫に対して科学技術に依って国を作れと命令している
聖書の闇神は水のおもてをおおい反科学を流布している

186 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:43:24.87 ID:zOh1JBLF.net
だから、聖書の信仰は世界中の神話を撲滅するように動いていた
だが、大元の日本だけは暴力でねじ伏せても撲滅することは出来なかった
なぜなら、未来において日本が新世界秩序を確立して世界平和を実現することが定められているから
結果的に、偽物が駆逐されて本物が残った
それも全て、計画通りに過ぎない
聖書の神もまた、我が一部に過ぎないのだから

187 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:43:51.60 ID:zOh1JBLF.net
天孫紀元1795155年(人類初の火の利用)
日本最古の遺跡 120000年前(デニソワ系旧人)
日本に最初にたどり着いた新人(ホモサピエンス)集団(Y-D1b系) 38000年前に日本に到達、世界最古級の磨製石器を38000年前に日本で作成(世界初の石工技術)
最終氷河期70000年前〜10000年前は海面が130m低い状態
世界初の石工技術を用いて海岸線に巨大石器文明遺跡建設
世界初の石工技術を用いて世界最古の文字である縄文絵文字を開発
世界最古の土器 17000年前の日本で作成
12000年前、氷河期終了、海面上昇、日本列島が大陸から切り離され、海岸線の巨大石器文明遺跡が海底遺跡化
世界最古級の農業(稲作) 12000年前に日本で開始
世界最古の船 9000年前の日本で作成、世界中に航海して日本から世界各地に縄文文明を携えて世界中に文明の種を蒔き、縄文絵文字の石板を作成(ペトログリフ)
7300年前、世界最大規模の鬼界カルデラ大噴火、九州〜南東北まで火山雲に数か月間覆われ、日本列島から日本人がさらに世界中に拡散して文明の種を蒔いた
この時、火山雲のせいで太陽が出てこなくなり、作物が育たず、疫病が蔓延り、地獄絵図となったことが、天岩戸神話の元
6000年前、三内丸山遺跡建設、日本列島に残った集団は対馬海流に乗り日本海側を北上して、太陽が出る東北を拠点化、北海道まで北上した集団も有り
3000年前、北海道で繁栄した集団が本州に対して侵攻、親潮に乗り太平洋側を南下し日立に上陸して東日本を制圧、西日本に対して国譲りを迫る
国譲り成立後、四国を経由して日向に到達、山幸彦が沖縄に長期滞在
2682年前、神武東征で畿内を拠点とし、日本統一して日本建国

188 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 12:44:31.05 ID:zOh1JBLF.net
38000年前に日本で世界最古の磨製石器を開発(世界最古の石工技術)
12000年前までに石工技術を用いて岩に掘る絵文字を開発(日本近海海底遺跡に現存)

氷河期の海面は今より130m以上低いので陸続き
https://i.imgur.com/PzDIWPH.png

12000年前に氷河期が終了して海面130m上昇して
世界最古の石工技術を継承して作り上げていた石造遺跡や絵文字が沈没

12000年前頃に石工技術と絵文字を携えて日本から世界中に拡散
6000年前頃までに世界中の岩に同一体系の絵文字を書き残した(ペトログリフ)

最初の世界共通文字は日本発の絵文字(表意文字)
これに反旗を翻したのがシュメールの粘土板に掘られた表音文字(アルファベットの元)

表意文字は言語が違っても通じるが
表音文字は言語が違うと通じない

これが世界共通文字の破壊と選民思想の始まり→シュメールの粘土板で創作→今の聖書へ受け継がれてる

189 :名無しのひみつ:2022/02/14(月) 13:19:02.09 ID:iD6EIwVl.net
ま男の 
追い袋に包まれていた?
布団持参事案か!

190 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 00:42:57.21 ID:aLa4nNBV.net
オカルト板じゃねーよ

191 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:17:41.35 ID:+fILsiaE.net
◆古代中国の倭人

ところで倭人はどこから来たのか。
Y染色体のハプログループでは
大部分の中国人がハプログループO系であるのに対し、
日本人はチベット系のD1a1型にきわめて近い日本固有のD1a2型や、
オセアニア系のC12a型に近いC1a1型だ。

日本人の祖先はチベット方面から流入してきたとみられ、
中国大陸の範囲でいえば、南東部の雲南地方から入って来たとみられる。

中国の学者は真面目に、中国の水稲耕作は
新石器時代に倭人が齎したものだと考えている。
その頃倭人は中国南西部、雲南の?池一帯に住み、
後に黄河文明と比肩される長江文明を生み育てたという。

倭人は黄河文明の主食である粟ではなく米を食べ、
「高床式」と呼ばれる竹製の住宅に住んでいた。
彼らは川を下り、長江の上流域の雲南、貴州、
四川一帯に領土を広げた。

『史記』の中に記述されている?、夜郎、且蘭、?都、昆明、
雋、徙、筰、?、蜀、巴などの国は、
いずれも倭人によって建てられた可能性があるという。

一部の「倭人」は北上し、山東半島に到達し、
ここで徐、淮、?、?、奄、莱などの小国を建てた。
漢代にはこれらの国々は異民族であるとして「東夷」と呼ばれた。

192 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:18:05.86 ID:+fILsiaE.net
◆上海付近にあった倭人国

『史記』の「呉太伯の世家」(家の伝記)によると、
殷の時代、古公亶父には3人の息子がいた。
末子の息子の姫昌が優れた人間だったので、
「わが家を隆するのは昌だろう」と期待をかけていた。

事実、姫昌は牧野の戦いに勝利して殷を滅ぼし、
周王朝の文王として君臨する事となる。

亶父の3人の息子のうち長男と次男の太伯・虞仲は、
父の意を推し量り、末子に家を継がせるべく荊蛮の地に下った。
今でいう山東半島の南から上海あたりまでの沿岸部だ。
そこで「断髪、文身」し、国を建てたという。

文身とは身体に刺青を入れる事であり、
「魏志倭人伝」における倭人の習俗である。
断髪もまた倭人の習慣である事から、
荊蛮の地で太伯に帰順した千余の家は「倭人」であったとみられる。

『晋書』の「倭人伝」の中では、
日本の倭人が自ら「太伯の後」と称している。
これは中国にいた倭人が日本にまで到達していたことを示している。

古代中国の倭人に関する少ない史料をかき集めると見えてくる
「倭人―東夷―徐国―斉文化―東渡文化」という線は、
徐福が東の海に旅立ち、倭国に到達した事の手がかりとなっているのだ。

193 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:45:53.77 ID:+fILsiaE.net
◆始皇帝と徐福は同族だった

ちなみに始皇帝と徐福は全くの赤の他人だというのが学会の定説だ。
斉の国に巡行中に徐福と出会ったのも全くの偶然という事になっている。
そして数ある方士の中でも、なぜ徐福だけを特別に信頼したのかも一切が謎となっている。

ところがふたりのルーツを遡ると、意外な事実が浮かんでくる。

始皇帝の秦王家の血統は伝説の「黄帝」に端を発する。
史実かどうかは別にして、系図の中に「伯益」、別名伯翳ないし大費という人物が登場する。
帝舜の時代に虞(山沢を司る官)を務め、治水などの政治を行い、
禹が帝になった後は禹に仕えた人物である。

舜帝の時代鳥獣を司らせたところ、鳥獣が皆順服した。
そこで鳥の足を意味する「?」という姓を授かり、秦王家の祖先となったという。

その子孫らは殷に仕え諸侯となり、周の穆王の頃、造父という人物が馬をよく御するので寵幸された。
造父は四疋の珍しい色の馬を献したり、御者として乱が起こった地に馬を馳せ、乱を鎮めた。
そこで穆王は趙城に造父を封じ、造父の一族は趙氏となった。戦国の趙はこの子孫だという。

なお?氏の別系に先述した非子という者がいた。非子の族も造父の功により趙氏を名乗っていた。
非子の異母弟の成の母は西戎の女だった。
周の孝王は馬をよく馴らし功のある非子を嫡嗣にしてやりたかったが、そうすれば西戎がどう出るか分からない。
そこで諸侯に付属する小国である秦邑に封じ、非子は秦?と号した。
これが始皇帝の家系の直系である。

近年、中国人研究家による詳細な調査の結果、徐福の系図もまた伯益に至ることが判明した。
つまり、徐福もまた本来の姓は「羸」であり、遠い昔に始皇帝と祖先を同じくする一族だったのである。

そうなれば話は変わってくる。
始皇帝は同族ゆえにほかの方士を相手にせず、徐福だけを信用したのではないかという可能性が生じてくる。
両者の出会いもまた何者かがお膳立てした結果で、偶然ではなかったのかもしれない。

194 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:49:48.17 ID:s61gl9bk.net
 




オマエらの天皇では、とても日本の領土領海内における
国家主権を確保出来ていない。

事実、日本では在日朝鮮人韓国人によって
領土領海内の国家主権が蹂躙(じゅうりん)され続けている。
これが事実だ。

国家主権とは:
領土領海内においては、排他的な絶対権力がその当事国にある
という意味。国際慣習法。現在の国際法は、フランス人権宣言以前の
国王の時代の国際慣習が引き続いている。


国王の仕事は戦いだ。

オマエらの天皇は、はっきりといってプードル。

国民が可哀想である。
この状態では、日本国民に対する人権侵害がはなはだしい。


『国王は君臨すれども統治せず』
国王は遊べるという意味ではない。
君臨するということは、領土領海内における国家主権を
国王が確保するという意味。



 
  

195 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:50:00.40 ID:s61gl9bk.net
 




オマエらの天皇では、とても日本の領土領海内における
国家主権を確保出来ていない。

事実、日本では在日朝鮮人韓国人によって
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これが事実だ。

国家主権とは:
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という意味。国際慣習法。現在の国際法は、フランス人権宣言以前の
国王の時代の国際慣習が引き続いている。


国王の仕事は戦いだ。

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この状態では、日本国民に対する人権侵害がはなはだしい。


『国王は君臨すれども統治せず』
国王は遊べるという意味ではない。
君臨するということは、領土領海内における国家主権を
国王が確保するという意味。



  
  

196 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:50:11.40 ID:s61gl9bk.net
 




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君臨するということは、領土領海内における国家主権を
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197 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:50:22.99 ID:s61gl9bk.net
 




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君臨するということは、領土領海内における国家主権を
国王が確保するという意味。



    
  

198 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:50:33.25 ID:s61gl9bk.net
 




オマエらの天皇では、とても日本の領土領海内における
国家主権を確保出来ていない。

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国王が確保するという意味。



     
  

199 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:50:45.45 ID:s61gl9bk.net
 




オマエらの天皇では、とても日本の領土領海内における
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国王が確保するという意味。



      
  

200 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:50:55.77 ID:s61gl9bk.net
 




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201 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:51:07.44 ID:s61gl9bk.net
 




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202 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 06:51:19.05 ID:s61gl9bk.net
 




オマエらの天皇では、とても日本の領土領海内における
国家主権を確保出来ていない。

事実、日本では在日朝鮮人韓国人によって
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これが事実だ。

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領土領海内においては、排他的な絶対権力がその当事国にある
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国王の仕事は戦いだ。

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国民が可哀想である。
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『国王は君臨すれども統治せず』
国王は遊べるという意味ではない。
君臨するということは、領土領海内における国家主権を
国王が確保するという意味。



         
  

203 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 07:04:24.23 ID:+fILsiaE.net
◆山東は白人国家だった

なお余談だが、近代的な考古学的手法の発達により、
遺骨やミイラのDNA分析結果が断片的に報告されるようになった。

斉国があり、始皇帝と徐福が出会った山東半島付近の遺跡からは
近年アーリア人や中央アジアの遺伝子をもつ人骨が発見されており、
かなり古くから西域の人々が居住していたことが判明しつつある。

2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、
中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、
約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の
山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都・臨?の遺跡から出土した人骨、
及び現代の臨?住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表した。

その結果、約2500年前の春秋戦国時代の臨?住民の遺伝子は
現代ヨーロッパ人の遺伝子と非常に近く、
約2000年前の前漢末の臨?住民の遺伝子は
現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、
現代の臨?住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないという結果がわかった。

戦国時代の頃、山東半島には白人が多数居住し、それが時代が下るにつれ
現代のアジア系に変わっていった事が判明したのである。

204 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 07:08:03.14 ID:+fILsiaE.net
◆孔子は白人だった

また山東博物館と中国の古生物学の分子遺伝学研究所の考古学者も、
山東省の新石器時代の大?口文化時代の墓と
山東省臨?の古代の墓の遺骨のDNAを分析したが、
明らかに白人(コーカサス人)のものだった。

DNAは今日の新江と中央アジアの黄白色の混合種族と同様に、
隋代と唐代になってから白人とモンゴル人種の混合種に変化し始め、
清代になってから山東地方の人々の民族的特徴は、より純粋なモンゴル系に変わったとする。

この研究成果は2000年の「中国考古学と世界考古学に関する21世紀国際シンポジウム」で発表され、
2002年の「斉?淑女ニュース」と「山東ビジネスデイリー」でも報告された。

山東半島の付け根付近にある曲阜は儒教の開祖である孔子の生まれ故郷で、
今も子孫たちが沢山暮らしている。

孔子は身長9尺6寸、春秋時代の1尺=22.5cmとして計算すれば216cmの長身であり、
いつも肉を食べていたという。
当時の山東省住民の遺骨が白人系である事から、
彼もまた白人であった可能性が非常に高い。

一方、3000年前〜1500年前の中国西部は、白人が支配する地域であったことがほぼ定説になりつつある。
新疆ウイグル自治区の楼蘭の美女と呼ばれるミイラは白人で、
中国西部では600体もの白人のミイラが見つかっている。
北京から400、500km南東に位置している山西省の大原市からも白人が埋葬された墳墓が見つかっている。
このことから1500年前にはすでに白人がかなり移住していたと考えられる。

これらの白人はコーカソイド、いわゆるトルコ系民族である。
トルコ系民族は少なくとも5世紀頃にはシベリア地域にも移住していたとみられる。
そう考えると中国にもトルコ系民族が移住していても何の不思議もない。

205 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 07:10:08.25 ID:+fILsiaE.net
なんか文字化けした
大?口文化の?はさんずいに「文」
臨?の?はさんずいに「く」3つと、その下に「田」で、読みは「シ」ね。

206 :名無しのひみつ:2022/02/15(火) 07:13:44.86 ID:+fILsiaE.net
◆朝鮮半島に逃げた倭人たち

なお中国の学者らは多くの倭人の王たちは、
秦の始皇帝や漢の武帝に討伐され、
倭人の建てた国々も消滅したと考えている。
彼らは新天地を求めて別の地へと移動したようだ。

白人たちも三国時代の大混乱によって殺され、
民族の大きな入れ替えが起こったという。

山東半島から上海付近に住んでいた倭人たちはどこに行ったのか。

『魏志韓伝』によると、朝鮮半島に「秦の役」を避けて秦人たちがやってきたという。
「役」を「苦役」と読めば、始皇帝が多くの民を使って強行した
万里の長城の建設などの公共事業といえる。

一方、「役」は「前九年の役」などのように「戦」と読むこともできる。
この場合、秦始皇帝が中国全土を征服するにあたって起こした戦争のほか、
秦帝国末期に起こった混乱を指しているとも考えられる。

要するに秦代の政治的・軍事的混乱によって
民族の大移動があり、彼らは陸路や海路で朝鮮半島に集まった。
倭人たちもこの中に含まれていた可能性がある。
そしてその後、さらに日本列島に渡った可能性がある。

ところで秦代当時、はたして何千人もの童男童女を乗せて、
外海を航海するだけの船があったのか。

これについては徐福の時代から少し後、日本の弥生時代中期後半の
弥生式土器に描かれた船の線刻画から、
長さ20メートル以上に及ぶ船が当時存在したことがわかっている。
そのレベルの船ならば数十隻の大船団で多数の人員を輸送し、
季節風や海流を考慮すれば日本にまでも到達できたと思われるのだ。

207 :名無しのひみつ:2022/02/16(水) 16:05:20.62 ID:5D7KM15k.net
日本のどこら辺に来たの?

208 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 10:04:31.15 ID:3Eg5tjl7.net
◆朝鮮半島と倭人

少し前の話を補完する。

1世紀に王充が著した思想書『論衡』によると、紀元前11世紀の
周王朝2代目・成王の時代に「倭人が暢草を貢した」と書かれている。

外交記事における「貢」とは、
国レベルの貢献交渉があった時にのみ適用される語なので、
周代には倭人の国があった事を意味する。
それがどこなのかは明らかではないが、日本列島だった可能性もある。

前漢の司馬遷が撰述した『史記』によると、
紀元前11世紀に周が殷を滅ぼした後、
紂王の叔父で宰相だった箕子とその一族は、
周の好意により処刑される事なく朝鮮半島に亡命した。

そこで彼は現在の北朝鮮のあたりに箕子朝鮮を建て、
周に臣従の礼をとったという。
ちょうど倭人が朝貢したという成王の時代である。

箕子は東夷と周の仲立ちをし、東夷に含まれる倭人も、
その斡旋で周に通交したと考えられる。

209 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 10:18:19.40 ID:3Eg5tjl7.net
◆弥生時代の始まり

稲作によって始まる日本の弥生時代の開始時期は
紀元前3世紀頃とされている。

だが2003年に千葉県佐倉市にある
国立歴史民俗博物館の発表によると、
放射性炭素年代測定法で
弥生式土器付着の炭化物の測定をした結果、
弥生時代のはじまりは約600年早い
紀元前1000年頃に遡る可能性があるという。

放射性炭素年代測定法は年代の狂いが大きく、
過去に遡れば遡るほど不正確になるので
あまり信憑性はないため、発表当時は研究者の間でも賛否両論があった。

だが現在では多くの研究者が
弥生時代の開始年代を遡って考えるようになっている。

では、紀元前10世紀頃に日本列島の倭人は
どこから稲の種籾を手に入れ、どこから稲作の技術を習得したのか。

箕子朝鮮の勧めで周と交わった結果、
周王朝から入手した可能性が高い。

先に述べた通り中国に稲作を始めたのは倭人であり、
倭人の領域は長江流域から山東半島付近にまで広がっていた。
そこに住まう倭人たちと交流し、
彼らの一部を技術指導者として日本列島に迎え入れた可能性もある。

だが、紀元前10世紀頃の日本で
幹線水路、井堰、取排水溝、畦畔など
大規模な水田の遺跡が発見されているわけでもないので
やはり本格的な水稲耕作の始まりは3世紀頃と見ていいだろう。

210 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 11:00:56.85 ID:3Eg5tjl7.net
◆多数の国からなっていた倭国

西暦82年ごろに成立した『漢書』には、日本の倭人国について
「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」と書かれている。

楽浪とは漢が朝鮮半島支配の拠点とした郡の事。
海中、すなわち楽浪から海を隔てた場所にある、
四方を海に囲まれた地──日本列島に、
百余国に分かれて倭人たちが住み、歳時のたびに貢献してくるという意味である。

この頃に既に日本に多数のクニがあったようだ。
しかし不思議と互いに争っていたという記述はない。

5世紀に范曄が撰述した『後漢書』には
「倭は百余国からなり、その百余国のうち三十国許が中国と通交している。
大倭王がおり、諸国には皆それぞれ王がいて、
世々王統を伝えている」と書かれている。

百余国が並び立っているとする点は『漢書』同じだが、
宗主として大倭王が統治しているという点が異なっている。
この間に大王が即位し中央集権国家を築いたのだ。

211 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 11:02:26.42 ID:3Eg5tjl7.net
100を超える国が並び立って秩序を保った体制とは、
戦国時代ではなく、封建制のような社会だったという事だろう。

『魏志倭人伝』においても邪馬台国と交流を持っていた魏の使者が、
途中にあったクニグニに警戒されたり足止めされる事なく、
畿内の奈良盆地にあったとみられる邪馬台国の都へと移動している。

これは九州から畿内に至る多数のクニグニが
それぞれ群雄割拠して独自統治を行っていたためではなく
トップとして邪馬台国が束ねていたためだと思われる。

古代の中国においても、斉、燕、晋、魯、秦といった国々を
周王朝が中心になって束ねていた。
後の日本においても260もの藩が分立していながら、徳川将軍家がそれらを支配していた。

卑弥呼の弟が統治していた弥生時代後半から古墳時代の倭国も、
周王朝同様の統治システムを導入していたものと思われる。

212 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 11:29:59.54 ID:3Eg5tjl7.net
◆倭人文化にみられる周文化

古代の倭人社会には周王朝の影響が色濃くみられる。

たとえば南朝宋の范曄432年完成させた『後漢書』には
倭人の使節は「大夫」を自称すると記されている。

西晋の陳寿が280年頃に著した『三国志』も同様で、
「古より中国にやってくる倭の使節は、
皆大夫を自称する」と記している。

"大夫"とは何か。
周代の卿・大夫・士という官職制度の称号の一つである。
そもそも「古」なる語は、『三国志』が編まれた魏晋時代においては、
上古の夏・殷・周を指す。
したがって大夫を称する倭人が
何度も周王朝にやって来ていた事を表している。

更に『三国志』を読むと、倭人の習慣に
「すなわち骨を灼きて卜する所を告ぐ。其の辞は令亀法の如く…」
と書かれた箇所がある。

「令亀の法」とは『周礼』春官で述べられる"大卜"のことで、
周代に盛んに行なわれていた呪法だ。

同様に、「搏手」についても書かれている。
これも周代の古法で、神社で打つかしわ手として現代に残っている。

「?(へん)」「豆(とう)」といったものも挙げられている。
神社の祭礼で用いられる高杯(たかつき)に似た物で、周代特有の祭器だった。

213 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 11:32:00.51 ID:3Eg5tjl7.net
◆日本に渡ろうとした孔子

対して"韓"を含めた東夷諸国の条では、周の古法への言及はほとんど無い。
このような対比からすると、日本列島だけ
周王朝の文化やシステムで統治がなされていたとみられる。

弥生時代に一大集落があり、稲作が最も早く開始されたのは北九州とみられるが、
九州島の「九州」とは、周代における中国本土を意味し、
太宰府の「太宰」も周代における国の最高執政官の呼称である。

この点についても周王朝の影響がみられる。
おそらく弥生時代のクニグニの中枢には
周の人間がいたのではないだろうか。

また、先に述べた、1世紀に後漢の班固・班昭が著した
『漢書』倭人の条の冒頭にはこのように書かれている。

「故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人…」

孔子は道が行なわれないことを悼み、
渡海して九夷(東方の野蛮な諸国)に住むことを欲した。
特に楽浪から海を越えた先にある倭人の島に…
という意味であり、ここから倭人の紹介に入っている。

孔子が住んでいたのは山東半島のつけ根の魯国で、
始皇帝と徐福が出会った山東省の一角でもある。

紀元前6世紀半ばの孔子が日本列島への渡海を希望していたという話は
300年後にこの地から日本に渡った徐福と無関係ではないだろう。

既に孔子の時代に日本列島の事は知られ、
山東半島からの渡海ルートも開拓されていたと思われる。

214 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 12:18:22.09 ID:Gukucu+w.net
>>86

広州福建浙江辺りから風待って琉球列島に着いた後、潮流に乗って五島列島辺りに辿り着く「航路」がそのまま灌漑込みの稲作伝播経路や無いのかね?

新羅は山間地主体やから平地がそこそこある任那や百済に侵攻しないと定住耕作による国力伸長は無いわな...王族が日本に亡命して再起計ったのもそこいらの経緯有ってかな?と妄想する。
所謂三韓では高句麗が国力一番有ったんやろ?

215 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 12:19:13.79 ID:Fqm5zKDB.net
ユーラシア(広い)

216 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 15:05:13.98 ID:3Eg5tjl7.net
◆丹後半島に上陸した徐福

さて、朝鮮半島に一度上陸し、さらに先に向かった徐福はどこへ向かったのか。
日本各地に徐福が上陸したという伝説が残されている。

全国にある上陸地の中で最も有力紙されているのが、
丹後半島と九州であり、
徐福船団の一度目の上陸地点は丹後半島だったとみられる。

天皇家の皇祖神・天照大御神を祀る日本最大の神社といえば
いわずもがな伊勢神宮である。
伊勢神宮は内宮・外宮・奥宮である伊雑宮の三つから構成され、
北北西から南南東に一直線上に並んでいる。

その直線を延長した先にあるのが、
日本海に面した丹後半島にある籠神社である。
いわば裏の伊勢神宮なのだ。
https://www.historyjp.com/img/1307_2.jpg

この直線上には代々の斎王の御所である斎宮や、
天岩戸、籠神社の奥宮である真名井神社などもあり、
全て一列に並ぶ配置となっている。

なお斎王とは表向きは祟神天皇の時代から──
もっといえば卑弥呼の時代から南北朝時代の断絶まで続いた、
太陽神に仕える巫女の長の事である。
伊勢神宮に巫女として奉仕した未婚の内親王がそう呼ばれる。

斎宮のある場所から西に一直線に線を引くと
卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳(実際は台与の墓の可能性が高い)、
日本最古の神社である三輪山・大神神社のご神体である奥津磐座、
元伊勢・檜原神社がある。
https://www.nikkei.com/edit/life/culture/history/line/map_640.jpg

伊勢神宮の信仰と太陽の巫女の重要な足跡が一直線上に配置されているのだ。

217 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 17:15:51.02 ID:3Eg5tjl7.net
◆籠神社と出雲大社

三つの伊勢神宮の裏側に存在する丹後一宮・籠神社(このじんじゃ)は
数ある元伊勢の中でも最も権威ある神社であり、
日本海側に面した神社の中でも最も格式が高い。

日本海側の神社で最も有名なのは出雲大社だが、
この国津神最大の神社は不思議な事に本殿が南ではなく"西"を向いている。

これは出雲大社から真東に直線を延ばすと籠神社に突き当たるためだ。
本殿のはるか背後に本当の本殿たる籠神社が鎮座するためである。

なぜなら出雲大社と籠神社は主祭神こそ異なるものの、
陰陽に分かれた同じ神社だからだ。

籠神社は海の中から現れた
"聖なる黄金の箱"を祀る神社であり、箱は"亀"を意味する。
籠神社の境内には大きな"亀"に乗った椎根津彦の像がある。

椎根津彦は籠神社の神職を代々務める海部氏の先祖で、
神武天皇の東征の際、瀬戸内海を案内したと言われている。

一方で出雲大社を筆頭とする出雲系の神社の
社紋の多くは六角形の"亀"甲紋である。
籠神社の神紋も籠目紋と呼ばれる六芒星で、
6つの稜角の中に六角形がある。

出雲大社の神職を代々務める千家氏と北島氏の系図は、
国宝になっている籠神社の神職、海部氏の系図とかなりの部分が一致する。
早い話が同族である。
これは双方とも徐福の連れてきた祭司氏族の末裔だからである。

籠神社は「元出雲大社」なのだ。

218 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 18:24:20.87 ID:3Eg5tjl7.net
◆籠神社の神鏡

たいてい古代の銅鏡といえば墳墓などから出土した遺物である。
だが1987年に公開された籠神社の神宝、
息津鏡(後漢時代)と辺津鏡(前漢時代)は、
一度もそのような経緯のない伝世鏡である。

https://img01.ti-da.net/usr/a/i/h/aihayasasura/sp-055742200s1540523194.jpg

『古事記』の「応神天皇記」によれば、
新羅王子・天日矛(アメノヒボコ)が持ってきた玉津宝(たまつたから)
八種のなかに「奥津鏡」「辺津鏡」があり、
物部の十種神宝(とくさのかんだから)の中にもこの名前がある。

天日矛は朝鮮半島にいた秦氏集団をさす。
ここに渡来系氏族である秦氏や物部氏と籠神社との関わりの一端が見えてくる。

また、籠神社にはこの2つの鏡だけではなく、
かつて天皇家の三種の神器のひとつである八咫鏡が置かれていた。

三種の神器のうち草薙剣はスサノオに対応し、八咫鏡は天照に対応している。
その後八咫鏡は伊勢神宮の内宮に祀られる事になる。

なお、2015年にオランダ人 ベン・ミッドランドによる
『聖なる鏡 (The Sacred Mirror)』という伝奇小説が公開され、
海外のオカルトマニアの間で話題になった。

伊勢神宮の神官が何者かに殺され、内宮に伝わる八咫鏡が盗まれる。
宮内庁の上層部は秦氏によって占められており、
秦氏=ユダヤ人説を唱えた学者が、宮内庁の裏のエージェントによって暗殺され、
八咫鏡の争奪戦がはじまる…といったストーリーである。

むろんフィクションであるが
下敷きになっているのは昭和20年代頃から広まるようになった都市伝説だ。
八咫鏡の裏には「エイエ・エシェル・エイエ」(我は在りて在る者なり)という言葉が
古代ユダヤのヘブル語で刻まれているといわれ、
明治時代に当時の文部大臣、森有礼が実際に見たというのだ。

どこまで事実なのかわからない話だが、
未だに古臭い史観から抜け出せない大部分の日本人をよそに、
日本という国の正体とルーツが何なのか、
海外の一部の人間は気づきはじめているようだ。

219 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 18:31:08.37 ID:3Eg5tjl7.net
◆籠神社の主祭神

天照を司る八咫鏡が置かれていただけでなく、
籠神社は天照という神を祀る。

といっても後に藤原氏によって改竄された女神・天照ではない。
天火明命(アメノホノアカリノミコト)──
物部氏による『記紀』ともいうべき『先代旧事本紀』で
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と呼ばれる男神・天照である。

神武天皇以前に畿内に王朝を築いていたニギハヤヒと同一神であり
奈良時代以前は彦火明命(ヒコホホデミノミコト)という名前で祀られている。

ホホデミは天孫ニニギ命の父だという説があり。
また逆に、ニニギ命の息子、山幸彦でもあるという。

その山幸彦は神武天皇と同一人物とされる。
という事はホホデミ命は神武天皇という事になり、
さらにそれ以前に畿内を支配していたニギハヤヒと同一という事にもなる。
更に天照大御神と同一という話にもなってしまう。

非常にややこしいが、これについてはまた後に説明する。

また伊勢神宮外宮の主祭神である豊受大神は
雄略天皇の時代に天照大御神の託宣によって
直接、籠神社から歓請されたものである。

そして残る一つの神器である八尺瓊勾玉の正体ともいえる
黄金の壺も籠神社にあった。

籠神社は三重の意味で元伊勢──否、"本伊勢"であるともいえるのだ。

220 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 18:32:53.26 ID:3Eg5tjl7.net
◆籠神社の徐福伝説

籠神社は日本三景のひとつ、天橋立の根本に鎮座している。
そこから北に15kmほどいった新崎のハコ岩と呼ばれる景勝地が
徐福の上陸地点とされている。

すぐそばには秦徐福漂着の地という案内板と、
徐福を主祭神として祀る新井崎神社がある。

籠神社の古文書の中にも徐福に言及した箇所がある。

「亦古伝に、蓬莱は此の國に有りと見へたり。
 昔秦の皇帝、漢の武、年々に霊薬を海水漫々として覓(もと)むるに處なし。
 蓬莱を覓め得ず。
 否ならば歸らずと云ひし童男郎女は、終に戦中にして老ひけり。
 誠に蓬莱は名のみ有りて實無しと云ひへり。
 機縁純熟しぬれば、見る事疑ひ無しと云々」(「丹後國一宮深秘」)

『史記』では徐福集団は海上で大神に出会い、大神に導かれて
東にある蓬莱島に上陸し、そこで神仙と語らったとある。
その神仙とは、籠神社が築かれるより更に以前に、
既に聖地であったこの地を治めていた神官ではないかといわれている。

籠神社の主祭神であるホホデミは
代々籠神社の宮司を務める"海部(あまべ)氏"など、諸族の祖になったという。
アマとは天であり、天から降りてきた一族という意味で、
天と海が同じくアマと呼ぶ事から、海の彼方から来た一族である事を意味している。

221 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 18:43:57.00 ID:3Eg5tjl7.net
◆徐福と蓬莱山

ところで『史記』では、徐福は神仙の住む三神山に向かったとされる。
三神山の中心となっているのが蓬莱山だが、いったいどこにある山なのか。

浦島伝説のルーツである『丹後国風土記』逸文では
「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読んでいる。
そこに不老不死の薬があるという。

日本列島が神仙の住む三神山ならば、
その中心たる蓬莱山とは、日本一の霊峰・
富士山をおいてほかにないと思うのが日本人の心情であろう。

事実、全国に蓬莱山という名の山は数多くあるが、
規模と気高さからいって富士山に並ぶものはない。

10世紀なかば、五代十国時代の後周の人物・釈義楚は
仏教に関する正しい知識を広めようと、全24巻から成る百科全書
『義楚六帖』を書きあげた。

その21巻に、日本人の僧侶・寛輔から聞いた話として、
徐福に関する文章が載っている。

「日本国はまた倭国と名づく。東海の中にあり。
 秦の時、徐福まさに五百の童男と五百の童女この国にとどめるなり。 …

 また、顕徳五年歳戊午にありて、日本国伝瑜伽大教弘順大師賜紫寛輔ありて、またいう…
 東北千余里の山ありて、富士と名づけ、また蓬莱と名づく。
 その山峻にして、三面これ海。一朶上聳して、頂きに煙あり。…
 徐福、ここにとどまりて、蓬莱と謂う。
 今に至りて、子孫みな秦氏という」

ここにも蓬莱山とは富士山の事であると書かれている。

222 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 18:45:13.52 ID:3Eg5tjl7.net
◆富士山周辺の徐福伝説

どうやら丹後に上陸した徐福は、その後富士山に向かったようだ。
これを示すよう富士山周辺、特に山梨方面には徐福伝説が数多く残っている。

富士山をご神体とする浅間神社のひとつに河口湖の河口浅間神社があり、
ここの境内に徐福祠がある。
伝承によると、そもそも浅間神社は徐福を主祭神としていたのだが、
後に木花開耶姫にとって代わられたのだという。

また近くの福源寺は徐福を祀る寺として知られ、
富士吉田市には徐福の墓なるものがある。

富士山調査のついでに徐福は東海地方にも行ったようだ。

東海道の静岡県清水にある三保の松原は
丹後半島同様に羽衣伝説で有名だが、
ここにも徐福が上陸したという伝説がある。
研究家によれば、徐福の故郷である山東半島に自生する植物が、
全国でもここにだけ自生しているのだという。

なお、前述の『義楚六帖』には、
日本に行き着いた徐福集団の子孫は
皆「秦氏(はたし)」を名乗ったと書かれている。

秦氏は古代日本を産業や経済で支え
様々な宗教の発展に貢献した渡来系の一族で、
その出自は謎が多い。
彼らの出自と正体についてはまた後に述べる。

223 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 19:07:24.70 ID:3Eg5tjl7.net
◆竹取物語

秦帝国の支配者である始皇帝は
徐福に不老不死の仙薬を取ってくるように依頼した。
だが徐福は待てど暮らせど戻ってくる事はなく、
残念ながら薬を手に入れられないまま没してしまった。

有名な話だが、よく似た話が日本に幾つも伝わっている。
最も有名なのは古典『竹取物語』。
10世紀半ば頃、室町時代に成立した物語だ。

ある時竹取の翁が竹林に入ると光り輝く竹があり、
竹を割ると美しい女の子が入っていた。

彼女は三室戸斎部(みむろといんべ)の秋田という人物に
なよ竹のかぐや姫と名続けられ、この世ならぬ美しさを持ち、
多くの貴族たちが彼女に求愛した。

時の帝もまたかぐや姫を気に入り、結婚を申し出るが断られた。
家に乗り込んで連れ去ろうとしたが、手がすりぬけて捕まえられない。
仕方なく文通し、そのまま3年が過ぎる。

やがて月から迎えの天人たちが来て、
かぐや姫は不老不死の薬の入った箱を置いて月に帰ってしまう。

薬は帝に献上されたが、帝はかぐや姫を失った悲しみのあまり薬を飲まず、
大勢の兵隊を派遣して、仙薬を駿河国にあるという、
日本で最も天に近い山の頂で焼かせた。

以降、その山は"不死山"と呼ばれるようになり、
薬を焼いた煙は今もずっと立ち上っているという。

224 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 19:21:30.66 ID:3Eg5tjl7.net
◆かぐや姫と忌部氏

要するに遥か彼方の神仙の世界から来た女がいて、
不老不死の仙薬を持っていたが、帝はそれを飲みませんでした、という話だ。

言うまでもなく不死山とは富士山の事であり、
ここにも富士山と結局皇帝が飲むことができなかった、
不老不死の命薬との関わりが見て取れる。

注目すべきは三室戸斎部の秋田という人物がかぐや姫に関わっている点だ。
斎部氏は元々忌部氏と書き、朝廷の祭祀を司る一族だった。

斎部氏は秦氏と婚姻を結ぶなど秦氏との関わりが深く、
戦国時代の『長篠合戦屏風』では、織田信長の側近として描かれている。

https://pbs.twimg.com/media/ErlGWKtVcAUxvcP.jpg
https://serai.jp/wp-content/uploads/2016/05/d560bff6d4beb9c4d03b445d4efc544a-605x338.jpg

左上で馬に騎乗しているのが織田信長。
六芒星の白装束を羽織ってすぐ側に仕えているのが斎部氏で、
「軍配者(軍師)」とも呼ばれ、占いを行ったり、
敵味方の「気」を観察することで戦機をはかったと言われている。 

陰陽道では奇数は陽数、偶数は陰数と呼ばれる。
表の陰陽道は安倍晴明に由来する、セーマンと呼ばれる五芒星をシンボルにし、
九字を切るのに対し、裏の陰陽道は六芒星をシンボルにし、十字を切る。

斎部氏が背負う六芒星は裏の氏族である事の証であり、
ユダヤでは六芒星はダビデの星と呼ばれている。
ユダヤのイスラエル十二支族には、
レビ人と呼ばれる祭司の家系がつき従っていたが、
日本の氏姓制度におけるレビ人が忌部氏である。

225 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 19:25:41.28 ID:3Eg5tjl7.net
◆田道間守と非時香果

『記紀』にも不老不死の命薬にまつわる話が書かれている。

第11代垂仁天皇の時代。
天皇は三宅氏の祖である田道間守(たじまもり)に対して、
常世国にあるという「非時香果(ときじくのかくのみ)」を
持ってこいと命じた。

非時香果はどの時期においても芳しい香りを放ち続ける樹の実で、
食せば永遠の命を得られるという。

命を受けた田道間守は、さっそく常世国へと向かった。
常世国とは、遥か海の彼方にあるという神仙の住まう国で、
俗人が行ける世界ではない。

それでも田道間守は船出し、10年にも及ぶ長旅の末、
艱難辛苦を乗り越え、ついに常世国にたどり着き、
幻の非時香果を手に入れる。

その後ようやく日本に帰還するが、
そこで待っていたのは主君の死であった。

悲しみに打ちひしがれ、希望を失った田道間守は、
天皇の陵墓の前で泣き叫んび、そのまま死亡したという。

こちらも始皇帝と徐福の話に異常にそっくりであり、
正直な話、徐福伝説が元ネタであると思われる。

田道間守は新羅の王子・天之日矛の玄孫であるとされる。
だが天之日矛は実在の人物ではなく
秦氏集団の象徴であることが学界の定説となっている。
いうなれば、田道間守は秦氏の一人なのだ。

226 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 21:17:44.08 ID:3Eg5tjl7.net
◆八百比丘尼と秦氏

他にも、日本には不老不死の命薬を食べたという伝説の人物が存在する。
庚申の祭の中、海の彼方にある竜宮から持ってきたという
人魚の肉を食べてしまい、1000年の寿命を得たという女だ。

彼女は歳をとらないがために、老人となった夫と死に別れてしまった。
彼女は気味悪がられて村を出、世を儚んで尼となり、
日本全国を巡り歩き、800歳になった頃、
丹後半島に面した若狭湾に居を構え、"八百比丘尼"と呼ばれたという。

八百比丘尼の父は蘆屋道満、またの名を秦道満という陰陽師である。
やはりここにも竹取物語や田道間守同様、
不老不死の秘薬の影に丹後半島や秦氏の影がちらついている。

『義楚六帖』にも書かれているように、その秦氏は
徐福が連れてきた集団に由来を持つという。
徐福の伝説から派生した話であるとみていいだろう。

227 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 21:23:03.66 ID:3Eg5tjl7.net
◆人魚の肉

ところで『人魚の肉』とはいったい何なのか?
人であり魚である生物とはいったい何なのか?

秦氏は原始キリスト教として有名だが、
キリスト教的解釈をすればこの伝説の示すところは明らかだ。

イエス・キリストは磔刑になる寸前に弟子たちを集めて食事をした。
そしてパンを私の体と思って食べ、
ワインを私の血だと思って飲みなさいと述べた。
いわゆる"最後の晩餐"である。

イエスは『聖書』では生贄の獣である羊に象徴して書かれる。

だが3世紀後半、皇帝ディオクレティアヌスの時代、
徐々に信者数を増やしつつあったキリスト教は、警戒感を抱いた皇帝により
抑圧・迫害され、ローマ帝国に反抗した急進派が次々と処刑された。
その数はローマ全土で数千人を数えたという。

迫害が厳しかったため信徒たちはキリスト教徒である事を隠さざるを得ず、
キリストの図像を作って拝む事ができなかった。
かわってイエスや信徒たちを魚として描いた。

なぜ魚なのか? 聖書的な理由とヘブル語とギリシア語の
数秘術的な理由があるが、そちらについての説明は省く。

最も単純な理由として、ギリシア語で
「イエス/キリスト/神の/子/救い主」を
「ΙΗΣΟΥΣ/ΧΡΙΣΤΟΣ/ΘΕΟΥ/ΥΙΟΣ/ΣΩΤΗΡ」と書いた。

この各単語の頭文字だけを抽出すると「ΙΧΘΥΣ」(イクトゥス)となり、
これがギリシア語で「魚」を意味するからだ。く。

228 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 21:28:21.56 ID:3Eg5tjl7.net
◆八百比丘尼の正体

八尾比丘尼の伝説では、不死となった女は
庚申の宴の中で人魚の肉を食べている。

これは最後の晩餐の宴の席で、弟子たちがイエスの体
──すなわち"人であり魚である存在"を食べた事に由来している。

自殺したユダを除外したイエスの12使徒たちは、
布教の途上で皆迫害に遭って処刑された。
だが、1人だけ不老不死の肉体を与えられた者がいる。
"雷の子"と呼ばれるヨハネである。

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」など、
ヨハネは聖画では女性的な外見で描かれる事が多く、
パトモス島に流刑になった時は『ヨハネの黙示録』を著している。

マグダラのマリアは元は娼婦だったが、イエスによって救われ、
彼に帰依して内縁の妻になったと言われる。
"夫"が昇天してしまった後は聖杯を持ってフランスに移住したとされる。

失われた聖杯は不老不死を齎すといわれ、
中世ヨーロッパで作られたアーサー王物語など、数々の伝説が作られた。

流刑に処されたヨハネとマグダラのマリアを合わせたものが
八百比丘尼伝説の正体と思われる。
比丘尼とはただの尼ではなく、
尼の格好をした私娼をもさす言葉だからだ。

229 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 21:32:29.60 ID:3Eg5tjl7.net
◆竜宮の玉手箱

八百比丘尼の伝説によると、人魚の肉は竜宮からもたらされたものだという。

竜宮とは海の彼方、あるいは海中にあるといわれる神仙の宮殿である。
日本では「浦島太郎」という昔話で有名だ。

浦島太郎伝説は日本各地にあるが、大本の話は
『丹後風土記』に登場する浦嶋子に由来するとされる。

浦嶋子は丹波国餘社郡の出身と書かれているが、
そこは籠神社のある場所である。
浦嶋子のモデルは、籠神社で祀られる亀に乗った椎根津彦とみられる。

浦島太郎は竜宮で「玉手箱」と呼ばれる謎の箱を手に入れる。
箱を開くと白い煙が出てきて、浦島太郎は一瞬で年老いてしまったという。
日本人ならだれでも知っている話である。

では、この玉手箱の正体はいったい何なのか?
それについて説明できる者はほとんどいない。

結論から先に言えば玉手箱とは、徐福が秦帝国から、
謎の"黄金の箱"を日本に持ち込んだ事に由来している。
この箱が玉手箱の元ネタなのだ。

そしてこの箱こそが始皇帝が徐福船団を派遣した真の理由なのである。
浦島が一瞬にして年老いてしまったように、
その箱を開こうとすると恐ろしい災いがもたらされるのだ。
これについてはまた後に述べよう。

230 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 21:34:03.16 ID:3Eg5tjl7.net
◆天女の羽衣伝説

ところで『籠神社』という奇妙な名前はいったい何に由来しているのか。

籠神社の宮司を務める海部家に代々伝わる
『丹後國一宮深秘』という古い文書がある。

海智という僧侶が記したもので、籠神社八十一代当主・海部穀定氏の著書
「元初の最高神と大和朝廷の元初」に掲載され、
また八十二代当主の光彦氏の「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」にも掲載されている。

そこには漢文でこのような事が記されている。

「神代に一の翁あり。八人の天女降りて清流を浴す。…
彼の天女に翁欲を起こす。
天の羽衣を取蔵する間、聊く天に歸ることを得ず。
然る間夫婦と成り、此處にて酒を作りて世渡す。

彼の天女の在す所口傅在り。
爰に虚空に常に光を放ち飛行し給う事、鳥の籠より光を放つが如し。

籠より光を放ち給ふが故に籠宮と號す。
天女天に昇らん事を悲泣して一首の詠を成す。
之に依りて明神光を放ち、此の地に降り給ふ。
天より種々の供物を雨らす」

一読してわかるように「天女の羽衣伝説」である。
羽衣伝説は世界中にあるが、日本では丹後が伝承地となり、
籠神社から日本中に広まったとされる。

「鳥籠」から光が放っているように輝きながら
地上に降臨した天女を祀ったことが「籠」神社の始まりであるというのだ。

231 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 21:38:12.23 ID:3Eg5tjl7.net
◆『かごめ唄』の真意

光り輝く天女がやってきた「天(あま)」とは
天上界や、または「海の彼方」をさしている。

つまり物語の大意は、天上からやってきた神が、
また海の彼方から来た氏族が、
籠神社に"供物"を置いて去っていったというものだ。

ちなみに籠神社は『かごめ唄』の発祥地でもある。

かごめ唄に謡われる「籠目」とは籠神社の社紋である六芒星をさす。
「うしろの正面」とは出雲大社の背後にあって
正面を向いている籠神社の事である。
誰だ? とは、謎に包まれた
籠神社の主祭神の正体についての質問である。

かごめ唄では「鶴と亀がすべった」とあるが、
『御伽草子』によれば、乙姫の正体は浦島が助けた亀であり、
玉手箱を開けた浦島太郎は鶴になって天に昇って消えたのだという。

キリスト教的に解釈すれば、「夜明けの晩」とは
千年王国が築かれる前の、最も闇が深い黙示録の時代の最終盤をさし、
亀は契約の箱の箱部分、鶴は天使ケルビムの像を持つ蓋部分をさす。

または契約の箱をご神体とするユダヤ教と、
復活して天に昇ったイエスを祀るキリスト教の事でもある。

「統べった」とは2つが重なって1つになる事をさす。
その時代に2つに分かれた契約の箱が再び揃えられ、
ユダヤ教とキリスト教が統合され、人々は籠の中から出た"鳥"──
すなわち再臨のイエスをその目で見る事になるという預言でもある。

232 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 21:43:42.31 ID:3Eg5tjl7.net
◆謎の黄金の箱

また、海部家には天和年間(1681〜84)に写本されたといわれる
『籠大明神縁起秘伝』が伝わっている。
ここでも籠神社の由緒が語られているが、
そこにはこのようにある。

「夫れ當社籠大明神は、即ち豊受大神なり。…
 或時天橋立の梢に光り輝くもの有り。
 八方なる其形籠の如く、その光影を神躰として奉斎す。
 乃ち是れ豊受大神宮の御神躰なり。
 齋き奉るの時、紫雲有りて其の宮の上を蓋ふ」

籠神社の主祭神は豊受大神であり、
大昔、日本三景のひとつ、天橋立の松の枝に
豊受大神のご神体が光り輝く"籠"の姿で現れたというのだ。

先に挙げた『丹後國一宮深秘』の天女伝説も、
同じく籠神社の由緒を語っているが、
これらふたつの伝承を併せて考えると
羽衣伝説の天女とは豊受大神にほかならない。

また童唄「カゴメ唄」における「籠の中の鳥」が
「豊受大神」であることもわかる。

光り輝く籠とは何なのか?
黄金の箱をさしている。
松の枝とは何か?
ユダヤ教でいうところの"生命の樹"の事である。

実はこの伝承に非常によく似た話が朝鮮半島にも存在するのだ。

233 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 21:46:49.63 ID:3Eg5tjl7.net
◆新羅を建国したのは日本人

『三国史記』。
高麗17代王・仁宗の命を受け、金富軾が撰し、
1145年に完成した朝鮮の歴史書である。
そこには新羅の建国について書かれている。

瓢箪を腰にぶら下げて海を渡ってきた1人の倭人がいた。
そこから彼は瓠公(ホゴン)と呼ばれた。

彼は「金 (キム)」「朴 (パク)」「昔(ソク)」という
新羅の三王統の始祖の全てに関わる建国時代の重要人物である。

瓠公は新羅初代王である
赫居世西干(ヒョッコセ・ゴソガン)ではないかとも言われる。
赫居世の姓は朴だが、瓠公の瓠は
赫や朴と同音である事から言われている説である。

もしそうなら、新羅の三王統の
「朴」という姓の由来は日本人という事になる。

234 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 21:51:24.34 ID:3Eg5tjl7.net
◆新羅の第4代国王も日本人

なお、新羅三王統・昔氏の始祖である
脱解 尼師今(タルヘ・イサコミ)は倭国の出身である。

正しくは倭国の東北一千里のところにある多婆那国が出身地である。
多婆那国とは倭国と呼ばれた九州から東北に行った先──
日本の東北か北陸地方の事と思われる。

そこの王妃が妊娠して7年後に大きな卵を生んだ。
王は不吉であるとしてこれを嫌い、
王妃は卵を宝物と一緒に"箱"に入れて海に流した。

やがて卵は朝鮮半島にある辰韓(秦韓)の
阿珍浦の浜辺に打ち上げられ、老婆が箱を開けると、
中から1人の男の子が出てきた。
この時、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。

この男の子が脱解尼師今で、成長して国政や軍務を任され、
王位を譲られて新羅の第4代国王になったという。

脱解尼師今は新羅三王統の「昔」氏の始祖となったが、
その由来は日本人という事になる。

235 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 21:52:20.54 ID:3Eg5tjl7.net
◆新羅の金王統も日本人

さて、瓠公の話に戻る。

脱解尼師今が即位して9年(西暦65年)3月に
首都金城(慶州市)の西方の始林の地で
真夜中に鶏の鳴き声が聞こえるとして
瓠公は調査を命じられる。

そこで林の中で鶏が鳴いているのを目撃し
その上に樹にひっかかった黄金に輝く箱を発見する。

王宮に持ち帰って箱を開けると、中から童子が現れた。
脱解尼師今はこれは天が授けた子供に違いないとして養子にし、
黄金の箱に入れられていた事から
「金」(キム)という姓を与え、
聡明な事から名を閼智(アルジ)とした。

閼智はその後新羅国王に即位する。
そして以降は新羅の王統は金氏によって占められる事となり、
金氏の始祖となる。

朝鮮半島に多い「金」姓は黄金の箱に由来しているが、
閼智の父親は調査に向かった瓠公ではないかとも言われている。

もしそうなら新羅三王統の「金」という姓の由来は日本人という事になり、
新羅王家は日本人の血にとって変わられた事になる。

236 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 22:09:13.26 ID:b4jTHm1G.net
たんなる後付け儀式に、ファンタジーを入れ込む朝鮮同胞

237 :名無しのひみつ:2022/02/17(木) 22:20:48.83 ID:bBPBjFXE.net
シュメール人

238 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 00:00:20.52 ID:7rr/RwAP.net
◆邪馬台国の東遷

この黄金の箱が何なのか、なぜ朝鮮半島にあったのか。
これについては中国本土における、始皇帝の死後の話の際に書く事とする。

いずれにせよ、樹の上にひっかかった黄金の箱という点は
朝鮮の話と籠神社の話で一致している。
籠神社のご神体は「八方なる其形籠の如く」と書かれているが、
箱は8つの頂点を持っているからだ。

籠神社と分かたれた出雲大社にも、謎の箱があったとみられる。

邪馬台国=九州説では、とかく九州にある国々がクローズアップされるが、
それらの国は人口を見ればわかるように、ただの"田舎"にすぎない。

『魏志倭人伝』に書かれた対馬の人口は千戸。
中国の役人"一大卒"が常駐していた伊都国の人口も千戸。
末盧国は四千戸、金印が出土した奴国は二千戸である。
九州の中でも最も人口の多かったとみられる北部であるが、
それでもこの程度だった。

後に詳しく述べるが、元々邪馬台国は九州にあったが、
東遷し、卑弥呼の時代には既に畿内に移っていたためだ。

対して邪馬台国は7万戸を擁する倭国最大勢力と書かれている。
人口は国力でもあり、九州のクニグニとは比較にもならない。

239 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 00:02:18.21 ID:7rr/RwAP.net
◆知られざる大国・投馬国

その邪馬台国に対抗しうる力を有する唯一の国が
5万戸を擁する大国・投馬国だった。

邪馬台国論争ではほとんど話題になる事のない投馬国だが、
籠神社の第82代宮司・海部光彦氏の語る極秘伝によると、
投馬国は山口から瀬戸内海沿岸はもちろん、
日本海側も含めた広大な領地を有し、
その勢力は東海地方にまで至っていたという。

海部氏の同族として、同じ天火明命を祖とする
尾張氏がいるのもそれを示している。

丹波には大きな古墳があり、卑弥呼と同時代の鏡も出土している事から
考古学会では丹波王国とも呼ぶべき国があったのではないかと考えられている。
事実丹波は投馬国の中心地であり、籠神社は更にその中心だった。

古代出雲王朝もまた投馬国の領地だった。
後に述べるが、出雲を支配していた海部氏は物部氏と同族である。
隣の石見には物部氏の祖・宇摩志麻治命を祀る物部神社もある。
国津神の長・スサノオ命は物部氏の神でもある。

240 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 00:04:39.21 ID:7rr/RwAP.net
◆八岐大蛇の正体

さて、記紀神話で高天原を追放されたスサノオは
やがて出雲の地に辿りつき、そこで生贄の娘を要求する
恐ろしい怪物・八岐大蛇と戦う事になる。

このエピソードは神の子ヘラクレスが
九つの頭を持つ大蛇ヒュドラを対峙した話や、
古代中国の聖王が治水によって大河の氾濫を鎮めた話などに元ネタがある。

だが同時にユダヤ・キリスト教の話でもあり、
絶対神ヤハウェが龍神リヴァイアサンを退治するエピソードにも由来している。

更にユダヤの至宝として、失われた黄金の箱・アークがあるが、
何者かによって持ち込まれたアークが
当時の出雲で祀られていたと考えられるのだ。
そして八岐大蛇伝説の正体であったとも考えられる。

四角形の箱には必ず8つの頂点がある。
これが八岐大蛇の「8つの頭」である。

聖書によるとアークの上には必ず神の宿る雲がかかっていた。
八岐大蛇も同様に頭上に雲がかかっていたとある。

ユダヤの神は蛇神である。
モーセは毒蛇に噛まれた人々(サタンに毒されて罪人となった人々)を救うため
杖にかかった青銅の蛇を作って救世主の象徴とした。
ヤマタノオロチも言うまでもなく蛇神である。

241 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 00:08:18.80 ID:7rr/RwAP.net
◆出雲王国の誕生

アークは放置すると凄まじい祟りをなし
これを鎮めるため生贄の儀式が必要だった。
そのためアークを安置した幕屋やソロモン神殿では
羊や牡牛を殺して捧げていた。

またユダヤの神殿には大量に酒を捧げていた。
聖書には酒の素晴らしさを書いた歌がいくつもある。

ヤマタノオロチもまた凄まじい祟りをなすため
出雲に住まうアシナヅチは8人の娘を定期的に生贄として捧げていた。
スサノオは大蛇を酔わせて眠らせるため、
大量に酒をふるまってこれを歓待している。

契約の聖櫃アークの中にはユダヤの3種の神器が収められていた。
その一つ、モーセの十戒石板は人間の心を映し出す「鏡」だ。
その一つ、マナの壺は生命の源で、
胎児の形をした「勾玉」に相当する。

アロンの杖はユダヤの祭司長アロンが持つ蛇の化身であり、
国家祭祀を統べる神の代理人の象徴である。
アークを開けて杖を取る事は新たな神の代理人になる事を意味している。

スサノオはヤマタノオロチを倒して古い剣を捨て
オロチの体内から新しい剣を取って自分のものにした。
剣は王権の象徴であり、その後スサノオはその地に出雲王国を築いたという。

242 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 00:12:19.18 ID:7rr/RwAP.net
◆真名井神社

さて、籠神社の話に戻るが、
籠神社の表の社紋は下がり藤だが、
裏の社紋はユダヤ人のンボル「六芒星」である。

籠神社の裏手には奥宮である真名井神社がある。
「真名井」とは神々が住まう高天原にある井戸のことで、
聖なる水が常に湧き出ている。
聖書の黙示録に書かれている、楽園における生命の泉のようなものだ。

だがある時天と地が繋がり、
高天原の真名井の御神水が地面から湧いてきた。
『先代旧事本紀』では饒速日命の息子とされる
天香語山命(あめのかぐやまのみこと)はこれを見て奇瑞なりとし、
その場に磐境を築き、豊受大神を奉斎した。

すると、磐境のそばから瓢箪が生えてきたので、
大きく育った実をもって柄杓とし、
真名井の水を汲みあげて神饌としたという。
ここから真名井神社は別名を「匏宮」と言う。

真名井神社にはかつて六芒星の紋章の石碑が置かれていた。
六芒星といえばユダヤだが、ユダヤとの関わりを勘ぐられると困るのか、
現在では六芒星が削られて三つ巴が刻まれている。
https://55tango.com/wp-content/uploads/2015/11/04-1.jpg

三つ巴は三柱の神の御霊を表している。
キリスト教でいえば父と子と聖霊である。
https://55tango.com/wp-content/uploads/2015/11/04-2.jpg

243 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 05:48:09.53 ID:7rr/RwAP.net
◆籠神社の秘宝・真名之壺

籠神社には知られざるご神宝が伝承されてきた。
その名を「真名之壺」という。
黄金製の壺で、代々宮司が襲名する際、
秘密の儀式に用いられてきたという。

聞くところによれば、襲名の酒盃に真名之壺から削った微量の黄金を入れ、
これを先代と継承者が飲み干すのだという。

なお雄略天皇の時代、天照大御神の託宣により、
伊勢神宮に豊受大神が勧請され、外宮が作られた。
この際豊受大神の"ご神体"とみられる黄金の箱が丹後から移されたらしい。

雄略天皇といえば、『日本書紀通釈』という、
1899年(明治32)に完成した全70巻の書物がある。
『日本書紀』の中世・近世の諸注釈を集大成したもので、その中にこのような記述がある。

雄略天皇が古くから伝わる、開かずの黄金壺(甕)の蓋を開いたところ、
中から白い煙が立ち上った。
これを見た雄略天皇は畏れて蓋を閉じたという。

浦島太郎の玉手箱を思わせる話である。
それから太平洋戦争で敗戦し戦後になって、
真名之壺は籠神社から外宮へと移されたという。

244 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 05:49:47.31 ID:7rr/RwAP.net
◆旧約聖書の玉手箱

玉手箱といえば、旧約聖書によく似た話がある。
モーセ五書のひとつ『民数記』第12章では
エジプトを脱出したイスラエル人たちがヘツェロトにいたとき、
アロンの姉妹である女預言者ミリアムは、アロンとともに
モーセがクシュ(エチオピア)の女性を妻にしたことを非難する。

その後アロンとミリアムは臨在の幕屋に呼ばれ、
雲の柱から降りて契約の箱に顕現した神と対面する。
神は怒りを露にし、ミリアムは瞬時にして重い皮膚病にかかり、
全身が真っ白になり、病気に苦しんだ。

モーセとアロンは神にミリアムを救うように祈り、
それによって1週間宿営から隔離されて療養した後、
ミリアムは助かって宿営に戻る事ができたという。

まるで玉手箱を開けた浦島のようだ。
黄金の箱アークは神に従う者に加護を、
神に従わぬ者に呪いを齎すのだ。

245 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 05:55:25.58 ID:7rr/RwAP.net
◆ユダヤの秘宝・マナの壺

また、籠神社には「真名之壺」と呼ばれる秘宝があるが
旧約聖書にも『マナの壺』と呼ばれる三種の神器が登場する。

モーセは膨大なイスラエルの民とともにエジプトを脱出。
40年間広漠としたアラビア半島を彷徨い歩く事になる。

こうなると問題は食料である。
いったい何を食べていたのか。

旧約聖書によるとイスラエル人集団には
常に雲の柱に包まれた絶対神がついてまわったという。
そして神は毎朝マナ(マンナ)と呼ばれる食物を天から降らした。

朝方に薄い膜のようなものが地表に残され、
イスラエルの民はそれをかき集めて食べた。
それはコエンドロの種のように白く、蜜の入ったウエハースのような味で
日が高くなると臭くなり溶けてしまったと『出エジプト記』16章にある。

神の命令によって、後世の者がそれを見られるよう
1オメル(2.2リットル)のマナを収めた壺が『マナの壺』で、
壺は黄金の箱であるアークに収められたという。

マナの思想は日本文化にも浸透し、元々の呼び名であるマナやマンナが転訛して、
日本では食物の事をまま(飯)、おまんまと呼ぶようになった。
食用の魚を真魚(まお)、または「まな」と呼び、
調理の際下に敷く板をまな板と呼ぶようになったのもここに由来する。

生涯を通じて秦氏や八幡神と関わりの深かった平安時代初期の僧・
空海の幼少期の名前も佐伯眞魚である。

246 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 06:02:48.08 ID:7rr/RwAP.net
◆二度目の出航

さて、丹後半島から上陸し、日本各地に足跡を残した徐福は
そこに新しいクニの基盤を築いた。

だが数千人の童男童女だけではまだ足りないと感じたのか、
再び秦帝国に舞い戻り、始皇帝に謁見する。
そして新たに3000人の童男童女とさまざまな分野の技術者と
五穀の種を手に入れ、再び三神山へつ出航する。

始皇帝はユダヤ人で、徐福も同族らしい事は先に述べたが
徐福船団は途中で琉球に上陸したとみられる。

沖縄の神話にはユダヤ神話と日本文化のミッシングリンクを繋ぐ
中間部分が色々と遺されている。
旧約聖書のマナの話とそっくりな話も伝わっている。

247 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 06:03:14.15 ID:7rr/RwAP.net
◆沖縄のユダヤ伝説

沖縄の始祖の流れを組むミンシン家の伝承によると、
沖縄の人間の祖先はイブという女神だという。
また男は肋骨が一本欠けているのだという。

沖縄県国頭郡今帰仁村に属する小宇利島の神話によると、
昔楽園のような島に突如男女が現れた。
二人は全裸で生活し、天から降り注ぐ食物を食べて
何の苦労もなく生活していたが、
ある日欲を出して天からの食物を蓄えようとした。
これに怒った神は食物を降らすのを止めてしまった。

食物が無くなるとともに、二人は裸でいるのが急に恥ずかしくなって
木の葉で股間を隠した。
そして以降二人は苦しい労働をせねば食物を得られなくなり、
その後沖縄36島の始祖になったという。

古くから伝わる神話であるが、
どう見てもこれは旧約聖書『創世記』のアダムとイブの楽園追放と
『出エジプト記』のマナのエピソードが元ネタだ。
その他沖縄は多数古代ユダヤの風習を色濃く残している。

248 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 06:11:45.83 ID:7rr/RwAP.net
◆佐賀県と徐福

沖縄を経由して徐福船団が上陸したのが九州である。
九州各地に上陸伝説があるが、
最有力地は全域に徐福伝承が及んでいる佐賀県である。

近年作られたゾンビランドサガというアニメにも
不老不死になった徐福が出てくるほど関わりが深い。

伊万里市の波多津町が船団の最初の上陸地点ともいわれている。
地名からもわかるように秦氏の町である。

徐福は南下して佐賀郡諸富町寺井津に行ったようだ。
ここには徐福御手洗井戸があり、井戸の水で身を清めた後、
徐福たちは金立山(きんりゅうさん)へ向かったという。

金立山には山頂の奥宮、そこから下って
本宮、中宮、下宮という4つの金立神社があり、
徐福やニニギノ命の父のオシホミミ命や
穀物神の保食神を祀っている。

保食神は伊勢神宮外宮の主祭神・豊受大神と同一神と言われる。
境内には徐福が不老不死の薬草を授かったという「甲羅弁財天」がある。

このあたり、金立神社は
境内に亀に乗った倭宿禰の像が鎮座し
ニニギノ命の父のホホデミ神や豊受大神を祀り、
徐福の上陸伝説がある丹後の籠神社とよく似ている。

249 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 06:16:13.24 ID:7rr/RwAP.net
◆稲作文化と徐福

徐福は金立山を蓬莱山とみなしたという。
佐賀市の重要文化財に指定されている「金立神社縁起図」には、
金立山にやってきた徐福一行の様子が描かれている。

金立山の麓から東に8km地点に、大規模な弥生時代の
群生集落跡地で有名な『吉野ヶ里遺跡』がある。

徐福は始皇帝から五穀の種を賜って出航したというが、
ちょうど徐福の時代は九州北部で大々的な稲作が始まった時期と一致している。
さらに稲の種類から分析して、日本の稲作は中国の江南が起源であるようだ。

また、吉野ヶ里遺跡の特徴は環濠集落もさることながら、
何といっても膨大な数の甕棺にある。
九州北部にだけ見られる甕棺文化は、不老不死の神仙思想が
もとになっているのではないかという指摘もある。

五穀を携えて日本に渡来した徐福が稲作を広め、
弥生文化を大きく発展させたとすれば、
まさに金立山と吉野ヶ里遺跡がその発祥地だったことになる。

その意味で、金立山の"徐福王子"伝説は
日本のみならず中国のアカデミズムからも注目されている。

250 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 06:22:32.47 ID:jbGhBDCj.net
なぜそこまで飛ぶのか
韓神への報告だから単純に新羅由来でいいのでは?

251 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 06:35:25.61 ID:7rr/RwAP.net
◆九州北部の物部王国

九州にはその他の地域にも徐福伝説がある。

記紀によると、宮崎で生まれた神武天皇はある日、東征を開始する。
日向を発ち、大分の宇佐を経て筑紫に至り、
遠賀川(おんががわ)の河口周辺とみられる場所に岡田宮を造営する。

遠賀川流域で発掘される弥生式土器の特徴から、
このあたりは弥生文化の発祥地ではないかとも目されている。

なお、遠賀川の河口周辺には
十市物部、芹田物部、島戸物部、弦田物部、二田物部、
狭竹物部、馬見物部など、物部氏が多数集まっていた。
物部氏はツールを辿れば徐福船団が連れてきた一族と言われている。

https://blog.ss-blog.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/E59BB3EFBC91EFBC96E5B2A1E6B0B4E99680.jpg

九州に上陸した徐福の末裔が畿内に東遷した証拠のひとつとして
大阪・奈良に大量にみられる物部氏に由来する地名と
遠賀川の河口周辺の物部の地名が、名前や位置ともに一致する点がある。

古代史研究家の太田亮氏は、福岡県久留米市にある
高良(こうら)大社が元々物部氏の祖神を祀っていた事をつきとめ、
九州北部に原物部王国ともいうべき一大勢力地があり、
高良大社がその中心地であったと主張している。

252 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 06:36:51.09 ID:7rr/RwAP.net
◆九州各地の徐福伝説

久留米市から12kmほど南下した場所には、
九州説の学者によって邪馬台国の都があった場所ともいわれる
福岡県八女市がある。
その山際に徐福の墓だという童男山古墳がある。

名前の由来となっているのは徐福の引き連れてきた童男童女だ。
調査では6世紀の横穴式墳墓とされ、歴史的に合わないのだが、
地元の郷土史家たちは徐福の墓があったところに
後世、古墳を建造したのではないかと指摘している。

薩摩半島の坊津町や串木野市にも徐福伝説がある。
第8代孝元天皇の時代、島平浦の照島にある秦波止に上陸した徐福は、
冠岳に登ると山頂に祭壇を築き、
天の神を祀る「封禅の儀」を執り行ったという。

253 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 06:57:00.85 ID:7rr/RwAP.net
◆隋の使節が見た倭国

さて、聖徳太子によって「十七条の憲法」が制定されたとされる7世紀初頭、
日本は中国全土を統一した隋に、
小野妹子を大使とする外交使節団(遣隋使)を派遣する。

この際、聖徳太子が記したとされる
「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という親書が
隋の煬帝を激怒させたというのは有名な話である。

中国の世界観では、地上における天子は中国の皇帝ただ一人である。
それゆえあまりにも非常識で無礼な奏上に逆に興味を持ったのか、
煬帝は遣隋使が帰国する際、裴世清を長とする13人の使節団を
小野妹子に随行させる。

裴世清は倭国の首都に至り、倭王に謁見する。
この時の事を『倭国伝』はこう記載する。

『開皇二十年、倭王あり。
 姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)
 阿輩鶏弥(おほきみ)と号す。
 使を遣わして闕(みかど)に詣る。
 …
 王の妻は鷄弥(きみ)と号し、後宮には女六、七百人有り。
 太子を名づけて利歌弥多弗利(リカミフタリ)と為す』

西暦600年、倭王が隋の皇帝に使節を遣わした。
倭王は天足彦(アメノタリシヒコ)という名で、
倭国では支配者は大王(オオキミ)という称号で呼ばれている。
オオキミの妻はキミという称号である。
倭王の後宮には6〜700人の女が仕えている。
また、皇太子の名前はリカミタフリと言う。
…という意味だ。

254 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 06:57:30.20 ID:7rr/RwAP.net
◆倭王・アメノタリシヒコ

実に不思議な記述である。

日本の正史である『記紀』によると、
この時代倭国の支配者は推古女帝であり、
皇太子の厩戸皇子が摂政だったことになっている。

しかし、政治的なしがらみもなく客観的に他国について記した
『隋書倭国伝』によると、倭王は名をアメリノタリシヒコといい、
後宮に700人近く女を囲っているという。
これはどう見ても男である。

よって、隋書を見る限り、当時の日本はアメノタリシヒコという
男王によって支配されていた国であり
推古女帝などという女性はそもそも存在しなかった事となる。

また、百歩譲って厩戸皇子が倭王だったとしよう。
しかし厩戸皇子は聖徳太子とか豊聡耳など数々の別名を持つにも関わらず、
アメノタリシヒコだのワカミタフリなどという名は、
日本側のどのような史書を見ても一言も記述されていない。

要するに推古女帝も聖徳太子も、いや──
『記紀』はそこに記された歴史そのものが
ほぼ全て嘘だった可能性があるのだ。

255 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 07:03:47.16 ID:7rr/RwAP.net
◆阿蘇山噴火

『?国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。
 山島に依りて居す。
 魏の時、中国に訳通するは三十余国。みな王を自称す。
 夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る。
 その国境は東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。
 地勢は東高く、西は下。
 邪靡堆(やますい)に都する。
 すなわち、魏志いうところの邪馬臺(やまたい)なる者なり』

『隋書倭国伝』では、倭国の首都・邪靡堆は
『魏志倭人伝』における邪馬台国の事だと述べている。

裴世清一行が九州に上陸したのは確かである。
『隋書倭国伝』に阿蘇山の話が出てくるからだ。

『阿蘇山という山がある。
 突然噴火し、その火が天にも届かんばかりとなる。
 人々はこれを異変だとして、そのために祈祷祭祀を行う。

 如意宝珠という珠がある。
 その色は青で、大きな鶏卵ほどもあり、夜には光を発する。
 倭人は「魚眼精(魚の眼)」といっている。

 新羅・百済では、倭国を大国で珍しい物が多い国と考え、
 両国とも倭国を畏み、うやまい、常に使節を行き来させている』

256 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 07:05:44.69 ID:7rr/RwAP.net
『記紀』に書かれた歴史が虚偽だったとすれば、
日本の歴史学者にとっては拠って立つ足場が全て崩壊してしまう。

そこで彼らは遣隋使を派遣したのは倭国ではなく、
?国(「倭」に似た字)という九州にあった別の王朝であり、
裴世清は畿内ではなく、阿蘇山の付近にある
?国の王のもとに案内されたのだという解釈を述べている。

阿蘇山の記述があるのがその証拠だというが、
といって裴世清一行が阿蘇山付近に立ち寄ったという確かな記述はない。
むしろ九州から東方に都があると書かれている。

257 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 07:06:32.56 ID:7rr/RwAP.net
◆謎の秦王国

さて、裴世清一行が倭国の首都に行くまでに辿った行程は
『隋書倭国伝』に記されているが、
そこにひとつだけ不思議な国が登場する。
九州の筑紫に上陸した後、東へ向かって進んだところに
「秦王国」なる国があったというのだ。

「また東に行って秦王国に至る。その住民は華夏に同じく。
 夷州とするが、疑わしく明らかにすることはできない」

「夷州」とは中華思想でいう、
文化レベルの低い東の野蛮な国という意味である。
当時の倭国全体をさしている。

そのような地でありながら、秦王国には華夏、
すなわち中国の中心地と同じ人々が住んでいたという。
理由はわからないが不思議だというのである。

なぜこの国の名を秦王国というのか。
理由は書かれていないが、秦帝国の末裔を称する者たちが
住んでいたからではないだろうか。

258 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 07:07:51.04 ID:7rr/RwAP.net
◆秦王国の正体

『隋書倭国伝』には秦王国の詳しい場所については一切書かれていない。
周防説、畿内説などがあるが、
『倭国伝』はに秦王国に至るまでの国々について記されており、
それらはみな九州内なので、
秦王国もまた九州内にあると言われている。

最も有力視されているのは九州東北部の豊前・豊後である。
豊国に関しては古代の戸籍が比較的詳細に残っているのだが、
そこに登録された人々の名前には「…勝」という姓が異常なほど多い。

この復姓の「勝」とは「勝部」ともいい、
「スグリ」や「マサ」「カツ」とも訓じられる秦氏の部民の事だ。
秦氏が勝部を率いていたことは『日本書紀』に記されている。

よってここには渡来人や秦氏の一大集落があり、
隋の裴世清はそれを見て秦王国とみなしたと思われる。

また豊国の中心地である宇佐には、
全国の八幡神社の総本山である宇佐八幡宮がある。

八幡神は秦氏の氏神だが、原始八幡信仰を保持していたのは
「辛嶋氏 (辛嶋勝氏)」である。
彼らもまた勝部であり、秦氏の一派である。

ところで八幡神とはいったい何者なのか。
それについてはまた後に述べる。

259 :名無しのひみつ:2022/02/18(金) 07:48:59.88 ID:tUcurH5Y.net
>>19
> そもそも日本にある物のルーツすべてを日本国外に求める思想がちゃんちゃらおかしい
> 似たようなものがあるからといってそれをそのまま日本にある物のルーツにしたい奴は思考停止の阿呆

その通りですね。故国立民族学博物館館長もそうおっしゃっていました
−−−−−−−
『縄文鼎談 三内丸山の世界』(1996国立民族博物館館長梅竿忠夫)

■日本には世界最古と言われる1万2千年前の石器が出土された。
 メソポタミア文明より古く世界最古と言われています(梅竿)。
 日本は縄文時代から技術大国だった。

 ※注:世界最古は1万6500年前の青森県大平山元一遺跡のもの
  いずれにしても日本。

■古代というと文化の起源をすぐに中国大陸に求めようとするが
 マスコミの悪い癖。日本にも何十万年もの旧石器時代があったのだから
 そこから独自に発達した技術があって当然。むしろ日本から支那に
 行った技術があってもおかしくない。もっと仮説を立てて検証していく
 ことが大事。

■縄文人というと「生産力が低く社会も発達していなかった」というが
 どうもそうやない。

※「世界4大文明」などと教えているのは日本だけでかなり恣意的なもの。

260 :名無しのひみつ:2022/02/19(土) 06:18:37.09 ID:UqN7ugSL.net
◆金印の発見

さて、紀元前210年頃に九州に上陸した徐福は、
九州北部の開発と発展に貢献し
そのまま秦に戻る事なく現地で亡くなったようだ。

その後九州は更に栄え、後漢の初代皇帝から金印を授かるほどになる。

江戸時代の1784年4月、福岡県博多湾の志賀島で
水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然金印を発見した。

金印は巨石の下に箱式石棺のような遺構があり、その中に入っていたという。
なぜ金印は1700年以上も行方を晦まし、年志賀島に埋められていたのか。
「墳墓説」「隠匿説」「偽造説」が唱えられたが、今もって全くの謎である。

金印には"漢委奴国王"という刻印があった。

『後漢書』東夷伝に
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。
 使人自ら大夫と称す。倭国の極南の界なり。
 光武、印綬を以て賜う」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に
奴国からの朝賀使へ、冊封のしるしとして賜った印がこれに相当するとされる。

261 :名無しのひみつ:2022/02/19(土) 06:19:14.95 ID:UqN7ugSL.net
◆破格の扱い

しかも発見された金印は夷蛮がよく授かっていた
メッキ製の金銅印ではなく、純金製のものだった。

漢の時代、無垢の金印を授かるのは丞相や諸侯王だけであり、
夷蛮では、北方遊牧民・匈奴の王・単于と
中国東南部、雲南の?王が授かっただけにすぎない。
他は金メッキや銀製、銅製だった。

朝鮮半島を含め倭人以外の東夷では、数人が銀印を受けたのみである。
そこからすると、東夷の「委奴国王」が
いかに破格の扱いを受けていたかがわかろう。

"北狄の王" 単于と、"南蛮の宗主" ?王が金印を授かったという事からして、
委奴国王は"東夷の支配者"と見なされていたのではなかろうか。

なお、匈奴も雲南も倭国も、
この三民族全てにユダヤの血が入っているのだが、
果たして偶然なのかどうかは不明である。

262 :名無しのひみつ:2022/02/19(土) 06:22:14.24 ID:UqN7ugSL.net
◆"奴国"の謎

『後漢書』は「凡百余国。自武帝滅朝鮮、使駅通於漢者三十許国」と記す。
倭人はおよそ100余国に分かれていたが、
漢武帝が朝鮮国を滅ぼした紀元前2世紀末以降、
30余国が使節を送るようになったという意味であり、
倭国だけでも100余国のうち30余国が漢に朝貢していたというのだ。

そのような中、光武帝は委奴国王にのみ金印を与えた。
委奴国とは一体どのような国だったのか?
倭国の中でもよほど発展していた地域であり、
おそらく30か国の宗主であったのだろう。

では、委奴国は倭国のどこにあったというのか。
実は一切不明である。

日本のアカデミズムでは、金印に刻まれていた"漢委奴国王"の
"委"の字を"倭"と呼んで、倭国の"奴国"の王に向けた金印であると解釈する。
これは『後漢書』では金印に刻まれていた国名を"倭奴国"としているためだ。

同書によると、倭奴国は倭国の"極南界"にあるとしている。
最も南の地域とは、字面だけを見ると鹿児島か琉球を思わせるが、
その辺りは繁栄していた証拠の遺跡がないため、
アカデミズムは奴国の場所を大規模な環濠集落などがあった
九州の"北の端"である福岡平野一帯と推定している。

263 :名無しのひみつ:2022/02/19(土) 06:35:21.64 ID:UqN7ugSL.net
◆委奴国=伊都国説

"極南界"と"北の端"では方角が全くの逆である。

だが古代の地名と現代の地名を対比してみればわかるように
例えば『魏志倭人伝』では倭国に上陸した途端
方角の記述と実際の地名が時計回りに約45度から90度ずれているほどなので、
このくらいの記述の齟齬はだいたい黙殺されている。

奴国は『魏志倭人伝』にも書かれており、
「女王(国)の境界尽きるところ」に位置しているとある。
実はこの一文は邪馬台国九州説を完全に否定する証拠なのだが、
それについてはまた別の機会に述べる。

一方で委奴国とは「倭国の中の奴国」を意味するのではなく、
そのまま「イド国」と呼ぶのではないかという説がある。

イド国とは魏志倭人伝に登場する、
末廬国(佐賀県松浦地方)から500里の場所にあったという「伊都国」の事で、
古代の怡土(いど)郡にあたり、現在の福岡県糸島郡をさしている。

邪馬台国九州説で、伊都国や奴国をはじめとする
北九州が邪馬台国の場所だと推測されているのは、
魏志倭人伝の帯方郡からの行程の記述もさることながら、
180年ほども前から中国の王朝から倭国の中心地と見なされていた国が
九州北部にあったと推定されているためでもある。

264 :名無しのひみつ:2022/02/19(土) 06:51:44.41 ID:UqN7ugSL.net
◆2つ目の金印

委奴国が金印を授かってから50年ほど後、104年に
今度は「倭面上国王・帥升」が朝貢し、
後漢の六代皇帝・安帝から金印を授かった。

帥升は初めて中国から倭国王と呼ばれている。
帥升の所属していた「倭面上国」、(別の記述では「倭面土国」)が
倭国のどの地域なのか一切不明だ。

「倭面土国」は「ヤマト」という地名に
当て字をしたのではないかともいわれている。
中国語で発音すれば「倭面土」は「ウェイミェントゥ」になるからだ。

その後西暦220年、最後の皇帝献帝は曹操の息子・曹丕に禅譲し、
後漢は滅亡して三国時代に入る。
倭国の盟主が後漢の後ろ盾を失った結果、
倭国は千々に乱れ、「倭国大乱」が起こったという。

265 :名無しのひみつ:2022/02/19(土) 06:52:41.87 ID:UqN7ugSL.net
◆3つ目の金印

更に13年が経過した頃、邪馬台国の女王であった卑弥呼が、
後漢の後継国である魏の都へ貢ぎ物を贈る。
これに対し魏の皇帝・曹叡は
「今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を授ける」として
卑弥呼に金印を授けている。

なお『魏志倭人伝』に時期は景初3年(238年)と明記されているのだが、
日本のアカデミズムは
「当時の中国は混乱記で、他国に金印を送る余裕なんてない!」として、
年代を改変し、教科書などでは金印を授けた年を翌年の239年にしている。
その場合の魏の皇帝は曹芳となる。

この金印は「親魏倭王印」と呼ばれるが、
記録のみの存在で、今もって現物は確認されていない。

西暦265年、最後の皇帝である曹奐は司馬炎に禅譲を強要され、
魏は滅び西晋王朝が成立する。
翌年の泰始2年、邪馬台国の台与が新しい王朝に朝貢を行っているが、
前王朝から授けられた「親魏倭王」の金印はこの時回収されたという説がある。

266 :名無しのひみつ:2022/02/19(土) 06:55:32.90 ID:UqN7ugSL.net
◆東遷の謎

さて、後漢帝国から金印を授かったほどの国であるがゆえに
伊都国ないし奴国はさぞや大国なのだろうと思われるだろう。

ところが『魏志倭人伝』における魏の使いの記録によると、
伊都国は「一大卒」を置きながら、人口わずか千余国、奴国は2万戸。

明らかに5万余戸を要する投馬国や、
7万戸を要する邪馬台国と比べて格下である。
倭国の中心地とはとても思えない。

これは委奴国が金印を授かった57年から、
魏の使いが倭国に上陸した238年までの間に
倭国の中心地が別の場所に移った──
もっといえば九州から畿内へ移動したためだと思われる。

では、それを示す資料は存在するのか。
実はある。
これについてはまた後に述べる。

267 :名無しのひみつ:2022/02/20(日) 09:59:25.29 ID:ur/KoMXz.net
うんうんほんでほんで

268 :名無しのひみつ:2022/02/20(日) 10:03:57.82 ID:cw8HPNhy.net
>>1
>「真床追衾(まとこおうふすま)」

星真琴ちゃんと同衾したいです(><)

269 :名無しのひみつ:2022/02/20(日) 10:20:59.64 ID:hAkgkwb9.net
そのうちユーラシアがなぜか韓国に特定されるんだよな。

270 :名無しのひみつ:2022/02/23(水) 20:11:00.82 ID:1xGCTqwF.net
◆魏志倭人伝:朝鮮半島から九州北部へ

ここから長くなるが邪馬台国の話をする。
邪馬台国の創設は2度派遣された徐福船団と繋がっているからだ。

魏から金印を授かった卑弥呼の都はどこにあったのか。
昔から散々議論がなされてきた事である。
現在は十中八九、九州説に落ち着いているようだが、
結論を出す前にまずは『魏志倭人伝』の記述を見てみよう。

「倭人は帯方東南、大海の中に在り。
 山島に依り国邑を為す。旧百余国。
 漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」

「郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行す。
 韓国を歴て、乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に到る。
 七千余里なり。」

「始めて一海を度ること千余里にして対海国に至る。
 居する所は絶島にして…土地は山険しく深林多し。
 千余戸有り。良田無く、海物を食ひ自活す」…

「又、南に一海を渡ること千余里、名は瀚海と曰ふ、一大国に至る。…
 三千ばかりの家有り。やや田地有り」

「又、一海を渡ること千余里にして末盧国に至る。四千余戸有り。
 魚鰒を捕るを好み、水の深浅無く、皆、沈没してこれを取る」

ここまでが船での移動で、末盧國(佐賀県松浦地方)に上陸し、
陸路を歩く事になる。

271 :名無しのひみつ:2022/02/23(水) 21:15:41.67 ID:1xGCTqwF.net
◆九州北部から女王の都へ

「東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。
 千余戸有り。皆女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所なり」

「東南、奴国に至る。百里なり。…二万余戸有り」

「東行し、不弥国に至る。百里なり。…千余家有り。」

ここまでは魏の遣いたちは確かに歩いたようだ。

「南、投馬国に至る。水行二十日なり。…五万余戸ばかり」

「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。
 水行十日、陸行一月なり。…万余戸ばかり。」

「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、
 その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
 次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。
 次に都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。
 次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。
 次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。
 次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。
 次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。
 次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。
 ここは女王の境界尽きる所なり」

「その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。…女王に属さず」
「郡より女王国に至る。万二千余里なり」

ここまでが卑弥呼の住まう都までの行程の記述である。

272 :名無しのひみつ:2022/02/23(水) 21:17:12.20 ID:1xGCTqwF.net
◆行程まとめ

上の魏志倭人伝の記述をわかりやすくまとめると以下のようになる。

[帯方郡 → 狗邪韓国 7000余里 (海岸に添って南に航行し、東に航行)
 狗邪韓国 → 対海国 1000余里 (南に航行)
 対海国 → 一大国 1000余里 (南に航行)
 一大国 → 末廬国 1000余里 (航行。方角不明だが南と思われる)

 末廬国 → 伊都国 500里 (東南に陸行)
 伊都国 → 奴国 100里 (東南に陸行)
 奴国 → 不彌国 100里 (東に陸行)

 投馬国 (南に水行20日の距離。どこからの距離なのかは不明)
 女王国 (水行10日、陸行1月の距離。どこからの距離なのかは不明)
 ※ここでいう"女王国"とは邪馬台国の都の事

 以下、奴国から邪馬台国の都までの行程。全て南への移動。

 奴国 → 烏奴国 → 支惟国 → 巴利国 → 躬臣国 → 邪馬国 →
 鬼奴国 → 為吾国 → 華奴蘇奴国 → 呼邑国 → 蘇奴国 →
 対蘇国 → 姐奴国 → 不呼国 → 好古都国 → 弥奴国 →
 次都支国 → 伊邪国 → 巳百支国 → 斯馬国 → 女王国

 女王国から南には狗奴国がある。
 帯方郡 → 女王国は12000里である。]

273 :名無しのひみつ:2022/02/23(水) 22:22:01.58 ID:1xGCTqwF.net
◆「短里」の謎

ところで魏志倭人伝における一里とは何mか。
魏本国における一里は約435mである。
だが魏志倭人伝における「里」は明らかにそれより短く、
便宜上「短里」と呼ばれる。

ところがこの「短里」の長さが、現実の距離と比較すると
場所によって全く異なっているのだ。

魏の使者たちはまず帯方郡から朝鮮半島西岸沿いを船で航行し、
朝鮮半島南部の狗邪韓国に到着している。

帯方郡とは204年から313年まで、中国の公孫氏政権や
それを倒した魏が、朝鮮半島支配の拠点にしていた場所の事である。
中心地は現在の北朝鮮の首都・平壌郊外の楽浪土城あたりであるとみられている。

狗邪韓国は現在の大韓民国 金海(キメ)市あたりで、
邪馬台国時代は倭国の領地だったとみられている。

『魏志倭人伝』では帯方郡から狗邪韓国までの距離を7000余里としている。
Google Mapの距離測定機能で計測してみるとわかりやすいが
現実の距離は約960kmなので、『魏志倭人伝』の1里は約137mになる。

ここまではいいだろう。
問題はここからだ。

274 :名無しのひみつ:2022/02/23(水) 23:15:15.57 ID:1xGCTqwF.net
◆「短里」の謎

次に、狗邪韓国から九州の上陸地点とされる
末盧国 (松浦郡の唐津市あたり)までの距離は
魏志倭人伝では合計3000余里と書かれている。

こちらは現実の距離は約220km。
つまり1里が約73mになる。

帯方郡から狗邪韓国までの一里の長さが137mなのに、
狗邪韓国から松浦半島までの一里の長さは73mなのだ。
長さが全く異なっている。
誤差とかいうレベルではない。

なぜこれほどまでに同じ文章内で一里の長さが大きく異なっているのか?
これに対する明確な答えは邪馬台国九州説・畿内説
どちらの論者からも出てはいない。
邪馬台国の位置について考察したサイトや書籍は山ほどあるが、
ただ一人を除き誰も明確な説明をつけられていない。

せいぜい西暦230〜40年台に日本に向かったとされる
魏の遣いの報告書が間違っていたか、
280年?90年代台『魏志倭人伝』を書いた
西晋の陳寿の記述が間違っていたとしている程度のものである。

しかしここではそのどちらでもなく、『魏志倭人伝』の記述は正しかったとする。
この謎についての回答はまた後に述べる。

275 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 00:43:46.60 ID:SgtjoOX0.net
◆卑弥呼の都まで12000里

さて、九州と畿内の遺跡の発掘調査などから、
邪馬台国の位置については九州説が圧倒的に優位である。
そして九州説の論者は魏の遣いの行程を記した文章についても
「邪馬台国が九州にあるのは明白だ!」と主張している。

最大の根拠は「郡より女王国に至る。万二千余里なり」
と書かれてあるためである。

「郡」とは帯方郡の事。
そこから女王国まで12000里だというのだ。

魏の遣いの行程に書かれた距離を見ると、
帯方郡から狗邪韓国まで7000里余り、
そこから末廬国まで3000里余り、
そこから伊都国まで500里で、合計10500里。
つまり伊都国からたった1500里で女王国に至る事になるからだ。

末廬国は松浦半島の東にある唐津あたり。
伊都国は福岡県糸島郡の事。
この間の距離は約31kmで、一里が62mくらいになる。

1里を62mとすると、1500里はだいたい93km。
糸島郡から東に山地を避け、海岸沿いに93km進むと
ちょうど関門海峡を目の前にした、関門橋の九州側にたどりつく。

また糸島郡から東に行って福岡で南下し、
合計93km進むと熊本県荒尾市に到着する。

いずれにせよ九州を出る事はありえず、畿内までは遥かに遠い。
つまり邪馬台国の都が九州にある事は確実だというのである。

276 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 08:32:28.66 ID:SgtjoOX0.net
◆九州説の矛盾

もちろん、ただの空論にすぎない。
魏志倭人伝の記述を無視した妄想だ。

魏の遣いは伊都国から東南に100里のところにある
奴国(おそらくは糸島郡から東北にある福岡あたり)を通過し
東に100里のところにある不弥国
(福岡から東北に60km地点の北九州市小倉あたり)に到着した。

もし本当に邪馬台国が九州にあるというのなら、
奴国から女王国までの間に
19もの国があるという記述の説明もつかない。

さらに不弥国の後「水行10日、陸行1月」ともいわれる距離を経て
女王国の中枢に至ったという記述の説明がつかない。

その上、魏志倭人伝には
邪馬台国から北上して奴国に至ったところで
「ここは女王の境界尽きる所なり」と書かれている。

つまり奴国から先の領域は全て女王国の勢力圏なのだ。
その広大な領域の19の国を越えたずっと先の位置に
女王国の本国があると魏志倭人伝は書いているのである。

277 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 08:35:30.82 ID:SgtjoOX0.net
◆卑弥呼の都は奈良盆地にあった

結論から先に述べてしまえば、魏の遣いは
南に向かったとされているが実は畿内に向かったのであり、
関門海峡を越えた先は全て"女王国"だったという事だ。

方角がなぜ90度ずれているのかについては後に述べる。

そして女王国の首都とは奈良盆地の纏向遺跡の事であり、
女王国の勢力圏は、北は北陸、東は関東にまで伸びていた。
これは纏向から出土する土器を調べれば明白な事だ。

女王国に敵対していた南の狗奴国とは、
東北地方の蝦夷勢力の事だ。

なお、投馬国までは「南に水行20日」の距離と書かれている。

これは不弥国を出発した後の行程とは書かれていないので
帯方郡あたりから航行して、北九州に到達し
更にそこから南(東の事)に航行を続けて到達できる
投馬国の中心地・丹後半島の事とみられる。

邪馬台国の都がある「水行10日、陸行1月」についても
不弥国を出発した後の行程とは書かれていない。

よって帯方郡からの海路での北九州までの上陸日数(約6日)と
陸路での北九州から奈良盆地の卑弥呼の都までの距離(1月)と
関門海峡あたりから瀬戸内海を通っての
大阪湾までの航行距離(約4日)を併記したものと思われる。

278 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 09:03:09.12 ID:W5AnVMFk.net
大嘗め嘗め祭

279 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 09:15:59.71 ID:SgtjoOX0.net
◆魏の遣いは九州を一周していた?

などなどの理由から、魏志倭人伝の記述を読む限り、
邪馬台国の位置が九州でない事は明らかだ。

だが九州説の論者は、奴国から先に、
女王の都まで19国を通過せねばならないほどの
広大な女王国の勢力圏がある事を全て無視する。

そして勢力圏に入ったというだけの話を女王国の都に入ったと解釈し、

「奴国から1500里の位置に女王国があるとしている!
 ならば邪馬台国の首都はそのあたりだ!」
と主張し、邪馬台国の都は九州にあったとこじつける。

更に「水行20日で投馬国に至る」
「水行10日、陸行1月で女王国の都に至る」という記述についても、
「倭人たちは軍事的脅威となりうる大国・魏に首都の位置を知られないように、
 九州南部をぐるっと船や陸路で周回して半周してから北九州に戻って、
 そこにある邪馬台国の都に入ったのだ!」などと主張し、
 余りにも長すぎる移動時間についてこじつける。

280 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 09:20:38.03 ID:SgtjoOX0.net
◆魏の遣いは長い歓待を受けていた?

当たり前だが方角など朝夕の日の出入りする方向や
夜は星の位置を見ればすぐにわかる話である。

広大な大陸で何千年も戦争を繰り広げてきた
中国の地理分析能力はきわめて適格で、
それゆえに戦争で勝利し続けて巨大な勢力圏を獲得できた。

だから倭国内の移動についても、途中で進行方向を変えたり
倭人が不自然な誘導をしていたのならすぐにわかったはずであり、
報告書にそう書いていたはずである。
しかしそういった記述は一切ない。

日本の学者はそうした件を考慮せず、
頭から魏の遣いたちは馬鹿だったと決めてかかるような
おかしな仮説で九州説をこじつけているのである。

更には魏の遣いは行く先々で歓待を受け
ひとつの場所に長い日数逗留していたので、
「水行10日、陸行1か月」というのは実は大した距離ではないとか言い出して
移動日数の問題を有耶無耶にし、
むりやり九州に都があったと主張する者までいる始末である。

魏志倭人伝を読む限り、魏の遣いが女王国の都に行ったのは一再ではなく
何度も行き来している事が暗示されているにも関わらずだ。

281 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 11:15:14.28 ID:SgtjoOX0.net
◆方角の謎

ところで、距離的に見れば畿内説であるにも関わらず
なぜいまだに邪馬台国の位置がわからないのか。

それは方角の問題がある。
「魏志倭人伝」には北九州に上陸した後、
南に「陸行一月 水行二十日」で女王国の都に着くとある。

ところが、南にそれほど長い距離を進めば九州の南端を通過し、海上に出てしまう。
そこから「水行20日」も南部に航行したとすれば、
フィリピンやインドネシアにまで至ってしまうのである。

事実、「魏志倭人伝」には女王国は帯方郡から12000里の距離にあるとしている。
魏の本国で使われていた長里(約435m)を当てはめると、これは5220kmに相当し
帯方郡からインドネシアのティモール島あたりまでの距離になるのだ。

この時点で多くの歴史研究者たちは「ありえない」と否定する。
方角か日数の記録のどちらかが間違っていると判断し、別の場所を
邪馬台国の都だとして考える。

だが古代中国では指南車(磁石)が発明されており、魏の遣いが方角を見誤る事はありえない。
ゆえに弥生時代には実際に彼らが歩き、また航行したルートが存在していたのだ。
しかし現実の地図にそのような道はない。
この巨大な矛盾に対してどう答えるべきなのか。

282 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 11:21:49.76 ID:SgtjoOX0.net
◆倭国は四季を通して温暖だった

ところで魏志倭人伝の記述を読む限り、
そこに書かれた文化や環境は本州のものとは思い難い。
いずれも南方を思わせる描写であり、
沖縄と言われた方がしっくりくる内容である。

以下、魏志倭人伝の記述を見てみよう。

「倭地は温暖にして、冬夏、生菜を食ふ。みな徒跣す」

倭国は非常に暖かく、冬でも生野菜が収穫され、
皆裸足で過ごしているというのだ。
これは倭国には雪が積もらない事を意味している。

「(倭国の)風俗・習慣・産物等は?耳・朱崖に同じ」

『?耳朱崖』とは、香港よりさらに南にある中国の南端、
海南島の郡名である。
現在は?州(だんしゅう)市といい、
フィリピンのルソン島とほぼ同じ緯度にある。

倭国の気候や文化、産物は海南島と同じだと述べているのだ。

283 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 11:24:20.83 ID:SgtjoOX0.net
◆倭人と刺青の習慣

「男子は大小なく、みな黥面文身す」

倭国の男は大人も子供も、顔にも身体にも刺青を入れているという。

「夏后少康の子は会稽に封ぜられるや、断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。
 今、倭の水人は沈没して魚蛤を捕るを好み、
 文身は、また、以って大魚、水禽を厭ふ。
 後、やうやく以って飾となす。
 諸国の文身はそれぞれに異なり、或いは左、或いは右、
 あるいは大、あるいは小たりて、尊卑の差あり」

中国の福建省のあたりでは一部の人間は
鮫などに襲われなくするために身体に刺青を入れていた。
倭人もまた素潜りして魚や蛤を捕ることを好む。

彼らは大魚や水鳥に襲われなくするために刺青をしていたが、
今ではファッションのために刺青を入れるようになった。
更に国ごとに刺青のスタイルが異なっているという。

「屋室あり。父母、兄弟は異所に臥息す。
 朱丹を以ってその身体に塗るは中国が紛を用いる如くなり」

倭人は中国で女が白粉を塗るがごとく
赤い顔料を体に塗っているという。

284 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 11:29:29.64 ID:SgtjoOX0.net
◆"会稽東治の東"はどこか

これらの記述を見る限り、倭国に住んでいたのは
どう見ても現在の日本人とは異なる民族である。

体中に刺青をする文化があり、素潜りをして魚を取り
冬でも野菜が取れる温暖な地に住んでいるとなると
琉球あたりの事としか思えないのである。

事実、『魏志倭人伝』を書いた西晋の陳寿は、
魏の遣いが辿ったルートを総合的に判断した結果、
邪馬台国の都の位置を
「その道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし」
と結論している。

「会稽東治」をむりやりこじつけて
「会稽という地名の東部にあった治所」と解釈すると、
現在の江蘇省蘇州市辺りとなり、
その東の海上には鹿児島市や種子島がある。
これは九州説の論者にとっては朗報だろう。

だが文字通り「会稽郡東冶県」と解釈すると、
そこより更に580kmも南下した、現在の福建省福州市に相当し、
その東の海上には沖縄本島がある。

正しいのは後者の方だろう。
「魏志倭人伝」には女王国は帯方郡から12000里の距離にあるとしている。
1里を仮に100mと仮定すると1200km。
帯方郡から南南東に1200km進むとそこには沖縄本島があるのだ。

また、帯方郡から狗邪韓国までは1里は約137m。つまり12000里は約164km。
これは帯方郡から沿岸部沿いに朝鮮半島南部の狗邪韓国に行き、
そこから南下したとして、奄美大島あたりまでの距離になるのである。

285 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 14:51:36.50 ID:SgtjoOX0.net
◆魏志倭人伝に記述されたアボリジニの国

更に以下のような記述もある。

「女王国の東、海を渡って千余里、また国が有り、皆、倭種である。」
 また、その南に侏儒国在り。人長は三、四尺。
 女王を去ること四千余里なり。
 またその東南に裸国、黒歯国在り。
 船行一年にして至るべし」

これはおそらく魏の遣いが倭国で聞いた話だと思われる。
一里を仮に100mとすると、
女王国から海を渡って東に100km余りの地点に、別の倭人が住まう国があるという。

邪馬台国九州説では全く説明のつかない話だ。
九州の東にある本州も四国も、100kmも航行するまでもなく
すぐ近くにあるからである。

また女王国から400km余り南には背の低い者たちの国があり、
さらに東南に一年ほども航行すれば裸で人々が過ごしている国や、
歯が浮いて見えるほど肌の黒い人々が住む国があると述べている。

これは明らかにフィリピンやマレー諸島、
ないし1770年に発見されたオーストラリア大陸の事である。

実際にニューギニアやポリネシアの原住民、
オーストリア大陸やタスマニア島もアボリジニにも刺青をする習慣があり
そこは一年を通して温暖で、生の野菜を食べているのだ。

なお中国でも東南部の呉越国は文身断髪する習慣があったと
『事物起源』に記されている。
さらに倭国の「倭」も「越」も、ともに昔は「ヲ」と発音した事から
発音上では同国であり、関連性がみられるという指摘もある。

286 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 15:15:43.14 ID:SgtjoOX0.net
◆倭国=インドネシア説

実際にインドネシアあたりに倭国があったのではないかという説もある。
例えば西暦399年、東晋の時代、
長安を出発して単身インドに向かった法顕という僧侶がいた。

彼はシルクロードを西に向かい、ホータン王国や敦煌を経由し、
6年かかって中天竺(インド)に到達。
王舎城(ラージャグリハ)などの仏跡を巡り、
『摩訶僧祇律』『雑阿毘曇心論』などの経典を得た。

その後スリランカに渡り、南航海路で中国山東省にある青州に帰国している。

彼は喜帰国後『仏国記』という旅行記を著した。
その中で、帰りの航路の中で立ち寄ったジャワ島の事を「耶婆提国」と書いている。
「耶婆提」とは、サンスクリット語で大麦を意味するヤパディパの音訳だが、
国名が邪馬台国そっくりなのだ。

これをもって神戸大学名誉教授・内田吟風氏は
邪馬台国とはジャワ島にあった古代王国だったとしている。

ジャワ島の人口は現在1億2400万人で、たった1島で日本列島に匹敵する。
また、弥生時代は稲作の時代であったが、ジャワ島は稲作が盛んで
現在2.7億人もの人口を抱えるインドネシアの米の約半分を生産している。

4世紀にはクタイ王国、5世紀にはタルマヌガラ王国が栄え、
バラモン教を信仰していた。

287 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 15:16:04.19 ID:SgtjoOX0.net
◆ベトナムとインドネシアの朝貢

さらにこれまで何度も述べた事だが、
1世紀に王充が書いた『論衡』によると、
紀元前10世紀に倭人が周王朝に朝貢している。

「儒増篇第26」によると、越裳は白雉を献じ、
倭人は「鬯草」(ちょうそう)というものを献上している。

越裳とは安南(ベトナム中北部)より更に南部にあった国で、
今でいうホーチミン周辺とみられる。

注目すべきは倭人の喧擾した「鬯草」で、
インドネシア中部にあるモルッカ諸島特有の
ナツメグなどの香辛料の事であり、熱帯でしか育たないのだ。

これは倭人の勢力圏がインドネシアにまで伸びていたか、
倭人がインドネシアに住んでいたかでないと説明のつかない事なのだ。

となるとますます邪馬台国がインドネシアにあったという説が
信憑性を帯びてくる。
また、フィリピンこそ邪馬台国だったとする加瀬禎子氏の仮説もある。

だが最大の問題はあまりにも南に行き過ぎているため、
当時の中国人からすればもはや「東夷」ではなく
「南蛮」にカテゴライズされる筈だという事だ。
しかし実際にそのような記述はないのだ。

288 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 15:46:53.63 ID:SgtjoOX0.net
◆邪馬台国琉球説

また、邪馬台国はもっと北にあり、琉球だったという仮説もある。
これを唱えたのは琉球大学の木村正昭氏で、
その最大の理由は先にも述べたように、方角も距離も
『魏志倭人伝』の記述に合致するためである。
また、琉球ならギリギリ「東夷」の範疇にも入るためだ。
https://www.ntt-i.net/kariyushi/yamataikoku-okinawa.jpeg

木村氏は著書『南海の邪馬台国』の中で以下のように述べている。

魏の遣いが辿ったルートは朝鮮半島〜対馬〜末盧国までは定説とほぼ同じ。
その後に移動した不弥国は筑紫平野の久留米のあたりであり、
そこから船で有明海を出航。

船の速度を平均1〜2ノットとして、水行20日で鹿児島に到着する。
薩摩が投馬国だというのだ。

更に鹿児島から南に行くが、ここから黒潮反潮に乗れば
10日間で沖縄本島に到着する。
北東部に上陸して山田や大山といった地名あたりに進む。
ここが邪馬台国だというのだ。

木村氏は奴国から卑弥呼の都に到着にするまでにあった
魏の遣いが「詳しく説明する事ができない」とした19の国々についても
途上の島々を充て、「世々王あるも、みな女王国に統属す」という
記述についてもうまく説明している。

https://img02.ti-da.net/usr/goyacha2006/2010.6.14s006.JPG

289 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 15:48:24.69 ID:SgtjoOX0.net
◆邪馬台国は琉球ではない

ダメ押しとばかり、更に「魏志倭人伝」には、
女王国から海を渡って東に100km余りの地点に、
別の倭人が住まう国があると書かれている。

邪馬台国九州説でも従来の畿内説でも
この島についての説明がつかない。
だが木村氏はこれを沖縄本島から330km東にある
大東島の事だとしているのだ。

では実際に沖縄が邪馬台国だったという証拠はあるのか。
当然ながらありえない話である。

知ってのの通り、沖縄はきわめて狭く
強大な中央政権が樹立された国ではない。
ましてやその勢力が北九州や、
朝鮮半島南岸にまで及んでいたとは到底思えない。

強大な軍事力を示す剣や鉾の遺物の出土もなく、
卑弥呼が魏から賜った鏡も1枚もない。
卑弥呼の墓とみなされる墳丘墓もない。
紀元前3世紀より前の遺物が発掘されない。

よって女王の都は琉球国ではなく、別の場所にあったといえる。

290 :名無しのひみつ:2022/02/24(木) 16:05:41.62 ID:myZIeGDC.net
大嘗祭は稲の初穂を供える祭儀だろ。
ユーラシア遊牧民と稲作と、どういう関係があると言うんだ?
産経新聞も落ちぶれたもんだな。
朝日新聞の社員でも雇い入れたのか??

291 :名無しのひみつ:2022/02/26(土) 05:47:02.74 ID:xvN59ZeS.net
◆ニライカナイ

卑弥呼の都の候補地は、立地的にも発掘調査の結果からも
畿内と九州以外にはない。
しかしそのいずれも、「魏志倭人伝」に書かれた気候風土とは合致しない。

いずれにせよ、倭人と呼ばれる種族は海洋民族であり
古代において非常に広い活動範囲を持っていたのは確かなようだ。

極端な事を言ってしまえば、
弥生人はアメリカ大陸と日本・琉球間を往復していたとみられる。

琉球人は遥かな海の彼方、太陽の昇る方角にある世界を
古くから"ニライカナイ(遥か彼方)"と呼んできた。
アメリカ大陸の事である。

これについては幾つも証拠がある。
その一つは沖縄で1933年から13枚発掘され
さらに米軍によって144枚ともいわれる多数が発掘されて持ち去られた
石板──
通称"沖縄ロゼッタストーン"である。
https://livedoor.blogimg.jp/nahakiyoko/imgs/9/2/92aa7962.jpg

沖縄ロゼッタストーンは沖縄県立博物館、嘉手納中央昆明間、
読谷村歴史民俗資料館、熊本市立博物館などがが所蔵し、一部が展示されている。
その中にイモの芽ないしヤシの木や、鎌を描いたものがあり、
高床式倉庫を描いたものもある。

琉球ではニライカナイは"生命と豊穣の根源"と呼ばれる。
それは彼らのはるかな祖先が、はるか東の彼方にある大陸から
琉球に植物の種子を持ち込んだことを示唆している。

292 :名無しのひみつ:2022/02/26(土) 05:55:30.81 ID:xvN59ZeS.net
◆環太平洋文化圏

さらに別の石板には大きな海洋船が描かれている。
下には46本の目盛りが刻まれ、横に線を轢かれている。

これはアメリカ大陸から琉球までの航行日数が
92日である事を示している。
https://konoso.files.wordpress.com/2012/05/sekiban-1a.jpg

古代は現在と海流が異なり、フンボルト海流が無かった可能性がある。
人力でもペルー沖から太平洋に出、
海流に乗ってインドネシアあたりまで漂着できた。
その後は黒潮に乗って沖縄や日本の太平洋沿岸まで北上できたのだ。

動力のない船で日本からアメリカに渡る事も可能であり、
1962年5月に堀江謙一氏が小型ヨットで兵庫県西宮市を出発し、
太平洋を横断してサンフランシスコに到着している。

北米インディアン、中米マヤ族、南米インカ人、イースター島人、
ハワイ人、タヒチ人、マオリ族などのミクロネシア。ポリネシア人、
琉球民族、アイヌ民族など、環太平洋に広範囲に散らばる民族に
文化的共通性がみられるのも、彼らが海を渡って行き来していたためである。

293 :名無しのひみつ:2022/02/26(土) 05:58:37.25 ID:xvN59ZeS.net
◆アメリカの弥生人

沖縄ロゼッタストーンのうち、
1959年に沖縄県北谷町の旧家の敷地内から採取された石板には
段状ピラミッドと、その頂で生贄を焼いた煙が
立ち上っている様子が描かれている。
これは中南米で行われていた風習である。
https://blog-imgs-114.fc2.com/s/u/s/susanneshorinji/20170823080105690.jpg

294 :名無しのひみつ:2022/02/26(土) 05:59:15.93 ID:xvN59ZeS.net
その中南米には今でも"弥生人"が住んでいる。
メキシコのチアパス州南東の熱帯雨林に住む
ラカンドンと呼ばれる少数民族だ。
http://www.oneworldjourneys.com/jaguar/images/exped/r2/r2_pop6.jpg

彼らは古代マヤ文明を築いたマヤ族の末裔で、
部族間の激しい戦争を逃れて森に移住し、
現代も古代マヤ文化を受け継いでいる。
https://blog-imgs-131.fc2.com/u/e/k/uekeimx/blog_import_5d6947f92d0d9.jpeg

彼らは弥生人と同じく、真っ白な衣に頭を通した
「貫頭衣」と呼ばれる服を着る。
世界中の民族衣装の中でも貫頭衣を着ているのは
弥生人とラカンドンほか少数のみである。

ラカンドンは畑を棒でつついて穴をあけ、そこにトウモロコシの種を植える。
弥生人も全く同じ農法を行っており、
京都府八幡市の内里八丁遺跡からわかるように、
水田を棒でつついて穴をあけ、そこに早苗を言えていた。

295 :名無しのひみつ:2022/02/26(土) 06:22:08.27 ID:xvN59ZeS.net
◆卑弥呼は琉球のノロだった?

その他弥生人には多くアメリカ原住民との共通点がみられる。

なお弥生時代のシャーマンである卑弥呼は、イメージとして
現代日本人と全く変わらない白い肌をした美しい姿で描かれるが、
これは現代人が自らのイメージを投影した結果にすぎず、
『魏志倭人伝』に描かれた当時の倭人の姿とあまりにかけ離れている。

当時の習俗を見る限り、卑弥呼も浅黒い肌をし、
顔面に刺青を入れているか、泥絵の具を塗っていた可能性がある。

日本において、古代の海洋民族の風俗を
最も色濃く残しているのが琉球で
「イサイホー!」と叫んで神事を行う
琉球の女シャーマンである「ノロ」に極めて近かったと思われる。

296 :名無しのひみつ:2022/02/26(土) 06:42:24.72 ID:xvN59ZeS.net
◆アメリカで発見された縄文人

非常に広い活動範囲を持っていたのは弥生人だけではない。
縄文人も同様である。

1996年、アメリカ・ワシントン州コロンビア川から
9500年前の人骨が発掘され、ケネウィックマンと呼ばれた。

2001年にミシガン大学のグループがDNAを解析したところ
アイヌ人やポリネシア人に極めて近い事がわかったという調査結果が
科学誌『ネイチャー』2001年7月23日号に掲載された。

またオレゴン州の洞窟から出た
14500年前の糞石のDNAを解析したところ、
アメリカ先住民のみに見られる遺伝子特徴がみられ、
それはアイヌとそっくりだった。

更に近くで藁で編まれた履物が見つかったが
これも日本のワラジとそっくりだった。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/22a/1619429/20161213_2205642.jpg

実際に倭人とアメリカ大陸の原住民は非常に身体的特徴が似ている。
通常、赤ん坊の頃、頭を触るとベコベコ凹む。
これは頭蓋骨の前頭葉が少し開いているためだ。
だが成長に従って縫合が閉じていき、最終的に完全に一体化する。

だが古代インカ人の頭蓋骨は
成人になっても前頭葉縫合を残したままになっている。、
この特殊な頭蓋骨を「インカ骨」と呼び、世界的に見てきわめて珍しい。
そして日本で発掘された縄文人の頭蓋骨もインカ骨なのである。

297 :名無しのひみつ:2022/02/26(土) 06:45:34.50 ID:xvN59ZeS.net
◆縄文文化と環太平洋文化

DNAだけではない。
文化も古代アメリカ人と縄文人、ポリネシア人は酷似している。

インカ文明の壁画に描かれているように、古代インカ人は
頭に紐をかけて薪や赤ん坊を背負ったが、
アイヌ民族も全く同じ方法で薪や赤ん坊を背負っている。

インカ文明は文字を持たず、口頭で伝承を伝えていたが、
アイヌも全く同じ。

ネイティヴアメリカンやイヌイットはワタリガラスを崇めているが、
アイヌも全く同じ。

ネイティヴアメリカンの幅広い鉢巻きは
アイヌやマオリ族などポリネシアのそれと同じ。

アイヌのイクスバイ(酒ベラ)に代表される彫り物の模様は
マオリ族のそれとほとんど同じで、
ふたつの民族はともに独特の"渦巻き文化"を持つ。

縄文土器から見て取れる、縄文人が顔に入れる刺青のパターンも、
ネイティヴアメリカンのそれときわめて酷似しており、
特に北部ユキ族のパターンと一緒である。

298 :名無しのひみつ:2022/02/26(土) 06:53:09.19 ID:xvN59ZeS.net
◆アメリカで発見された縄文土器

石鏃(やじり)などの石器の制作方法も
アメリカ先住民と縄文人は非常に酷似し
昔から多くの学者に指摘されている。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/22a/1619429/20161213_2205653.jpg

縄文人は非常に独特の様式の縄文式土器を持つ。

一方で南米エクアドルの南海岸グァヤス地方では
紀元前41世紀頃にバルディヴィア文化が興り、
紀元前16世紀頃まで続いた。

このバルディヴィア文化の土器が、
縄文土器そっくりなのである。
https://downloadx.getuploader.com/g/Menkalinan/807/20220226_063414.jpg

299 :名無しのひみつ:2022/02/26(土) 06:55:15.57 ID:xvN59ZeS.net
◆アメリカで発見された縄文土偶

縄文人は独特の形をもった土偶を作っていた事も知られている。
だがこの土偶も南米そっくりなのだ。

右側が青森県八戸市から出土した合唱土偶。
左側がバルディヴィア文化の土偶である。
https://downloadx.getuploader.com/g/Menkalinan/808/20220226_064021.jpg

右側は縄文時代の遮光器土偶のひとつ。
左側はエクアドルでバルディビア文化の後に興り、
紀元前13世紀頃から紀元前3世紀頃まで続いたチョレーラ文化の土偶である。
https://downloadx.getuploader.com/g/Menkalinan/809/20220226_064717.jpg

また、大阪府八尾市の山賀遺跡から出土した
竹ひごで編まれた漁具・筌も
北米のアメリカ先住民が使っているものと全く同じ。

アイヌが使っている"ムックリ"という口琴も、
アメリカ先住民が使っている口琴(ジューズ・ハープ)と構造が全く同じ。

縄文人のドングリ調理の方法も
カリフォルニアのアメリカ先住民のものと同じなのだ。

300 :名無しのひみつ:2022/02/27(日) 06:42:29.68 ID:zQtUJ0Ch.net
◆Gm遺伝子の相似

その他縄文人とアメリカ先住民の
文化の共通点を挙げればそれこそキリがない。

2000年以上もの時が流れ、縄文人はいつしか日本列島から姿を消したが、
僻地に押しやられていたがゆえに古い時代の文化と特徴を
近代まで色濃く残していたのがアイヌ民族と琉球人だ。

彼らは文化だけでなく遺伝子的にも
アメリカ原住民とよく似ているのだ。

例えば抗体を形成する免疫グロブリンを決定するGm遺伝子の頻度は
民族ごとに異なり、固有の値を示す。

大阪医科大学名誉教授の松本秀雄はこの点に注目し、
東アジアから東南アジアを中心に
130の集団から約20,000人の血清資料を採集調査した。

その結果アイヌと沖縄・宮古の人々は
他の日本人集団よりも北方型遺伝子の一つの頻度が高く、
また同時に南方型遺伝子の一つの頻度が低いという相違性を示した。
これはアイヌ民族と琉球民族が
同一の祖先から派生した可能性を示唆している。

そしてアイヌ・琉球民族はGm遺伝子の型が
アメリカ原住民と酷似している事も確かめられている。

301 :名無しのひみつ:2022/02/27(日) 06:46:33.92 ID:zQtUJ0Ch.net
◆抗体の相似

京都大学・熊本大学・東北大学名誉教授の日沼頼男氏の研究では、
成人T細胞白血病(ATL)の抗体を持つ人間は、中国ではほぼ0%である。
九州を除く日本本土でも、0.3〜1.2%ほどしかいない。

しかし沖縄では38.8%、アイヌ民族は45.2%もいる。
これもアイヌと琉球人が同族であった事を示している。

また、北海道や本州・四国と異なり、九州でも7.8%も見られる。
これは九州に元々住んでいた隼人と呼ばれる原住民も、
アイヌや琉球人と血のつながりがあった可能性を示している。

同じ事はB型肝炎ウィルスについてもいえる。
北里研究所の西岡久寿弥博士によると
B型肝炎ウィルスに対して作られるHBs抗原が
アイヌと琉球民族はそっくりで、
同じものがアメリカ原住民からも見つかっているという。

302 :名無しのひみつ:2022/02/27(日) 06:53:23.20 ID:zQtUJ0Ch.net
◆東西に追いやられた先住民

結論から先に行ってしまえば、
アメリカ先住民は北方の陸路ルートで日本にやってきた。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/22a/1619429/20161213_2205636.jpg

また別のグループが南方の海路ルートで
島嶼を渡って日本にやってきた。

倭人が中国大陸から渡ってくる前に
日本列島に住んでいた原住民・縄文人のルーツのひとつが
アメリカ原住民なのである。

彼らは元々日本本土に住んでいたが
3〜4世紀に朝鮮半島から流入し、畿内に王朝を築き、
日本を支配した騎馬民族により、
日本の北と南の果てに追いやられてしまった。

鬼門という概念は中国にはなく、日本独自のものだが
大和王朝は彼らの住む方角を鬼門、裏鬼門と呼んで忌み嫌った。
そして何度も遠征軍を放ち、日本本土から追い出してしまった。

北海道の海岸沿いにアイヌ語の地名が多いのは
アイヌ人が元々海洋民族だったからに由来する。
アイヌといえば狩猟民族のようなイメージがあるが
それは大和王朝の政策を踏襲した明治政府が、
アイヌ人の人口が増えないよう、
彼らが先祖代々受け継がれてきた各地の漁場を奪い
内陸部に追い込んだためである。

303 :名無しのひみつ:2022/02/27(日) 06:55:10.59 ID:zQtUJ0Ch.net
◆中国西域由来のハプログループ

ところで縄文人と一口に言ってもひとつだけの種族であるわけではない。
非常に多くのルーツを持つ民族の混血なだ。

ミトコンドリアDNAのハプログループの型の分布を調べれば
各民族のルーツと同族の分布がわかるようになっている。

政治的な理由から日本人は単一民族(大和民族)であるように言われてきたが
ハプログループを解析した結果、非常に多様な地域からやってきた
混血民族である事がわかった。

日本人のハプログループの中で最も割合が高いのが
D型(D1a2a型)で、日本人全体のの32〜39%に見られる。
アイヌの75%〜88%、琉球人の56%もこれに属する。
タイの西側に浮かぶアンダマン諸島南部では100%を占めている。

このハプログループに近似しているのが
チベット人の50%、中国西部遊牧民の羌族の18%、
中国南西部のミャオ族の9%を占めるD1a1型である。

ちなみに漢民族はハプログループO型が78.3% N型が9.0%と
この2つだけで圧倒的多数を占め、
D型は西域の甘粛省を覗けばほとんど見られない。

朝鮮民族もO型が70% (O1b型:30%、O2型:40%)、
C型が16%を占め、D型は2%しかない。

漢民族と朝鮮民族の大部分を占めるハプログループO型は
反対に日本人にはほとんど見られないのだ。

304 :名無しのひみつ:2022/02/27(日) 06:55:37.89 ID:zQtUJ0Ch.net
◆環太平洋由来のハプログループ

日本人の13%を占めるのがMグループだ。
(M7a:7.47% M7b:4.45% M7c:0.76% M8a:1.22%)

かつて7万年前から始まる氷河期時代、
現在のタイの沖合からインドネシア半島に渡る大陸棚は
陸地として海面に露出し、スンダランドと呼ばれる沖積平野を形成していた。

Mグループはスンダランドの住民を祖先に持つグループである。
その後氷河期の終了とともに海面が上昇し、スンダランドは海中に没した。
住民たちはインドネシア半島、オーストラリア、インドなどへと拡散し、
その一部が日本列島にやってきたのだ。

Mグループの中でもM7a型は日本人独特の型で、
日本列島に最も古くから居住しているグループと考えられている。

また、日本人で2番目らに多いのがBグループで、13%を占める。
(B4:9% B5:4.3%) 
B4系統は海洋民族で台湾、フィリピン、
太平洋の島々、南米大陸など環太平洋に広く分布し、
ハワイ原住民の9割以上が属している。

アメリカ先住民から検出されるB2型はB4型から分岐したものである。
もうひとつのB5系統は中国の華南地方に多い型だ。

さらに日本人の5.2%を占めるのがFグループ。
東南アジアに最大規模の人口を持つグループで、
フィリピン・ラオスの19%、ベトナムの26%、
ジャワ島28%、台湾原住民27%などを占め、
中国の長江以南の民族にも多い。

305 :名無しのひみつ:2022/02/27(日) 06:56:19.72 ID:zQtUJ0Ch.net
◆アジア北部由来のハプログループ゚

日本人の7%を占めるのがMグループだ。
シベリアが起源とされ、東アジアからアメリカ大陸まで広く分布している。
日本には比較的古い時代にやってきて、
縄文人の一部になったといわれている。

同じく日本人の7%を占めるのがNグループ。
(N9a:4.6% N9b:2.1%) 
ユーラシア北部が起源とされ、
カムチャツカ半島をはじめとする北東アジアに分布し、
日本には比較的古い時代にやってきて縄文人になったグループと、
比較的新しい時代にやってきてオホーツク文化を形成したグループがおり、
古代から魚を食していた。

ほぼ同じく6.9%を占めるのがGグループ。
シベリアなど北部地域に多いのが特徴で、
日本には中国経由でやってきて弥生人になったグループと、
シベリア方面からやってきてアイヌ人になったグループがいるとされる。

日本人の1%を占めるのがCグループ。
中国北部のモンゴルあたりが起源とされる。

また同じく日本人の1%を占めるのがZグループで、
スカンジナビア半島のフィン人とサヘミ人、ロシア人、ハザール人、
カムチャッカ先住民、朝鮮人などに見られ、
ヨーロッパとの繋がりをもつアジアでは珍しいグループである。

306 :名無しのひみつ:2022/02/27(日) 15:55:28.65 ID:pYJiK+aJ.net
はい学研学研

307 :名無しのひみつ:2022/02/27(日) 23:57:05.15 ID:zQtUJ0Ch.net
◆ロシア軍侵攻

"ロシアの皇帝(ツァーリ)"  "マゴグのゴグ"などの異名を持つ
ウラジミール・プーチン大統領は、2月24日
ロシア軍を率いて隣国ウクライナへの軍事侵攻を開始した。

そのような中、昨日になって突然、
ウクライナ出身の評論家ナザレンコ・アンドリー氏が
過去のプーチンの発言を掘りだし、ネットで大きな話題を呼んだ、

2018年12月、モスクワでの人権評議会で、
プーチンは「アイヌをロシア先住民とし認定する」という発言をしている。

これに対し、ナザレンコ氏は、「ロシアがアイヌ民族保護を名目に
北海道に乗り込んでくる可能性がある」というのだ。
恐ろしい話である。

プーチンついでにロシアについての話をする。

308 :名無しのひみつ:2022/02/28(月) 06:48:42.29 ID:0M2bV84g.net
◆櫛目文土器

ミトコンドリアDNAハプログループの
ルーツを見てきた通り、日本人の一部は
現在のロシアから渡来したグループにルーツを持っている。

そしてロシアからも縄文土器そっくりな土器が出土している。
バルト海沿岸、フィンランドから南シベリア、バイカル湖周辺、
モンゴル高原、サハリン、オホーツク海沿岸に至るまで
広く出土している『櫛目文土器』だ。

朝鮮半島では紀元前4000年以降に初めて現れている。
https://downloadx.getuploader.com/g/Menkalinan/811/20220228_063845.jpg

新石器時代後期のロシアの櫛目文土器文化の遺跡の人骨からは
Y染色体ハプログループN1a1が検出されており、
このグループはロシア北部の先住民族であるネネツ人97%、
ヤクート人88%などに高く、エヴェンキ族で20〜60%、
日本でも2%ほど見られ、青森県では7.7%という高頻度で見られる。

これは縄文時代の中心地ともいえる青森県にシベリア方面から
多数の人間が渡って来た事を意味している。

だが、これについては逆の仮説も成り立つ。

309 :名無しのひみつ:2022/02/28(月) 06:51:14.89 ID:0M2bV84g.net
◆鬼界カルデラの噴火

後にこれに対しては否定するが、
縄文人は、寒冷期にユーラシア大陸と繋がれていた日本列島が、
約7000年前の温暖化に伴う縄文海進によって、
大陸と切り離された民族であるとされる。

鹿児島県南方およそ50kmの位置に硫黄島と竹島がある。
この間にあるのが直径約20kmの鬼界カルデラだ。

鬼界カルデラは7300年前に大噴火を起こし、
火砕流は大隅半島にまで達し、
火山灰は東北地方南部にまで及んだ。
噴火の際に生じた津波は三重県にまで到達している。

このため四国エリアや九州北部は壊滅状態となった。
縄文人は生き残りをかけて北部や東部に移動した。

310 :名無しのひみつ:2022/02/28(月) 06:51:53.98 ID:0M2bV84g.net
◆日本から輸出された縄文文化

朝鮮半島本土では、約12000〜7000年前の遺跡が見つからない。
この約5000年の間、朝鮮半島は無人だった。
朝鮮最古の新石器時代の遺跡は、済州島の高山里遺跡で、
約7000年前とされる。

7000年前まで人が住んでいなかった朝鮮半島から、
突然土器が発見され、
4000年ほど前には縄文土器そっくりの櫛目文土器が発見されているのである。
https://downloadx.getuploader.com/g/Menkalinan/812/20220228_064530.jpg

この済州島の遺跡では、隆起文土器や有舌尖頭器が見つかっており、
似たものが日本にもある。
済州島は対馬の近くであり、日本列島から普通に渡れる場所にある。

となると朝鮮の櫛目文土器を作ったのは、
朝鮮半島に渡った縄文人だったと考えるほうが自然である。

同様に縄文人は朝鮮方面だけではなく、大陸のより奥地に進出し
北に向かったグループが中国・朝鮮からシベリアを抜け、
モンゴル高原、バイカル湖、南シベリア、ボルガ川などに
縄文文化を広めたという説まである。

311 :名無しのひみつ:2022/02/28(月) 07:04:19.51 ID:0M2bV84g.net
◆縄文時代の中心地・青森

さて、ハプログループN1a1が非常に多く検出される青森県であるが、
縄文時代はまさに日本の中心ともいえるほどの隆盛を見せていた。

八戸市の是川遺跡などからは赤や黒の漆を美しく塗った
縄文土器が発掘されており、
青森市南部の三内丸山遺跡からは段ボール数万箱分もの
膨大な土器・石器、その他漆器や翠製大珠などが発掘された。

中でも圧巻なのは柱穴の間隔、幅、深さが
それぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルの六本柱建物跡で
現代は巨大な櫓が復元され、そのすぐ手前には
城のような巨大な館が復元されている。

更に青森の縄文遺跡といえば何といっても
青森県つがる市の亀ケ岡遺跡から明治20(1887)年に出土した、
左足の欠けた『遮光器土偶』である。
https://jomon-japan.jp/kids/wp-content/uploads/2014/03/13-105.jpg

国の重要文化財に指定されており、最も近いところにある木造(きづくり)駅は
この遮光器土偶を象ったデザインになっている。
https://aomori-tourism.com/lsc/upfile/spot/0000/2676/2676_2_l.jpg

312 :名無しのひみつ:2022/02/28(月) 07:10:16.77 ID:0M2bV84g.net
◆エスキモーと遮光器土偶

遮光器土偶の『遮光器』とは、エスキモー族が
雪原における日光反射から目を護るためにつける、
4000年以上前から存在しているゴーグルの事である。

下はアラスカのエスキモーが実際につけていた遮光器だ。
https://hoppohm.org/object/MOH1_50.jpg

学者らは単に目を大きく強調して作っただけだと述べているが
実は遮光器土偶はエスキモーを象ったものである事がわかる。

エスキモーは主にグリーンランド、カナダ北部、
アメリカのアラスカ州といった寒冷地に住む少数民族である。
単一の民族ではなくアラスカ北部から東に住むイヌイット族や、
アラスカ中部以西に住むユピク族などがいる。

エスキモーは北米大陸だけでなく、
ベーリング海峡を挟んだ対岸にある
ロシアのチュクチ自治管区にも住んでいる。

チュクチ自治管区はツンドラ地帯にあり、
非常に環境が厳しく、冬は零下35度にも達し、
エスキモーだけでなく1万6000人のチュクチ族も住んでいる。

チョクチ族は漁撈やアザラシ漁で生活しており、
Y染色体ハプログループの分析では、58.3%がN-Tat型を持っている。
これは青森県民の7.7%に見られる型である。

また4.2%がC2-M217型を持ち、こちらはアイヌの13〜25%、
日本人の3〜6%に見られる。

313 :名無しのひみつ:2022/02/28(月) 07:15:08.10 ID:0M2bV84g.net
◆遮光器土偶の用途

なぜ青森で発掘され、以降は青森以南に広まったと考えられる
遮光器土偶がエスキモーの装備をつけているのか。

これは遠い昔にシベリア東部に住んでいたエスキモー族が南下し、
サハリン、蝦夷地を経てその末裔が青森に到達。
青森に住んでいた人々と衝突したと考えられる。

荒唐無稽な説のようだが、実際にDNAに残るハプログループの型からして
ありえない話ではない。

また逆に青森に住まう人々の祖先がシベリア東部あたりで
エスキモー族と衝突していた記憶の名残ではないかとも思われる。

また遮光器土偶の体には渦巻文様が見られるが、
この文様はアイヌ人特有のものである。

遮光器土偶ははじめから壊されるために作られた可能性があり、
ほとんどが破損した状態で発見され、中には切断されたものもある。

ここから遮光器土偶とは、縄文人が
アイヌ族かエスキモー族と戦争をするに先立って
相手に呪術をかけるために、相手の姿を象って作り、
破壊して埋められた人形ではないかと考えられる。

中には切断面に接着剤としてアスファルトが付着しているものも多く、
切断した部分を修理して繰り返し使用したものと考えられる。

314 :名無しのひみつ:2022/02/28(月) 12:35:39.28 ID:3m4zgvir.net
プーちゃんロシアがアイヌを「ロシアの先住民」扱いし始めてるのはたしかに危険な気がする。

315 :名無しのひみつ:2022/03/02(水) 18:09:21.81 ID:N0WkzBaZ.net
◆無土器時代

せっかくなんで邪馬台国の位置の話に戻る前に
"ゴッドハンド"の話でも書くわ

遠いカムチャッカやアメリカ大陸、
または東南アジアなどからやってきた日本人の祖先たちの中で、
12万年前から1万6500年前以前に到来した者たちは
旧石器時代を築いたとされている。

かつて日本では縄文時代以前は無土器時代と呼ばれていた。
主要四島は土壌が酸性のため、人骨が溶けて無くなってしまい、
全く発見されなかった。
更には遺跡や遺物も発見されなかった事もあって、
その時代、日本列島に人間は居住していなかったとすら考えられていた。

特に関東地方は、富士山・箱根山・浅間山・
榛名山・赤城山・男体山…
などなどの噴火による火山灰が堆積した
分厚い関東ローム層に覆われ、
人間が住むには適さない場所であり、
当時人が住んでいるとも思われていなかった。

316 :名無しのひみつ:2022/03/02(水) 18:13:29.73 ID:N0WkzBaZ.net
◆後期旧石器の発見

そのような中、納豆などの行商をしていた
アマチュア考古研究家の相沢忠洋氏は
日本にも旧石器時代があるに違いないと考え
仕事のかたわら赤城山の麓などで地道に発掘調査を行っていた。

そしてついに1949年に、群馬県笠懸村の岩宿で、
関東ローム層の中から明らかに人工品と認められる
黒曜石製の槍先形石器を発見する。

相沢氏は群馬県桐生市から東京までの片道120kmを
自転車で日帰り往復し、石器を携行して考古学者を訪ねては、
赤土からも石器が出土する事実を説明して回ったが、
まともに取り合う学者はいなかった。

同年初秋、この石器を相沢から見せられた
明治大学の院生である芹沢長介と助教授の杉原荘介は、
調査隊を組んで岩宿遺跡の本格的な発掘調査を実施。

その結果旧石器の存在が確認され、
日本における旧石器時代の存在が証明されることとなった。

これにより日本列島の人類史の始まりが
一挙に1万年以上前の更新世に遡り、大きなニュースとなった。

だが、この重大な発見について、学界や報道では
第一発見者の相沢の存在はほとんど無視された。

明治大学の発掘報告書でも相沢の功績はいっさい無視され、
旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した
杉原荘介助教授の功績として発表された。

317 :名無しのひみつ:2022/03/02(水) 18:42:17.82 ID:N0WkzBaZ.net
◆考古学会の権威

この時発掘調査隊に加わっていた芹沢長介は
1960年に長崎県泉福寺洞穴で、当時世界最古の土器といわれた
1万2000年前の豆粒門土器を発見。

その他の功績により、その後旧石器時代の
日本考古学界における最大の権威としてのし上がっていく事となる。

後期旧石器時代の石器が発見された事により、
学者や研究家らは、日本には3万年以上前にあたる
前期・中期の旧石器時代もあるのではないかと
考えるようになった。

東北大学教授となった芹沢長介もその一人で、
その門下生である岡村道雄は「東北旧石器文化研究所」という
民間研究団体のリーダーを務めた。

1970年になり、そのグループに藤村新一という1人の男が接近する。
やがてこの男のために、旧石器時代の存在そのものが、
国内外で眉唾もので見られる事になる。

318 :名無しのひみつ:2022/03/02(水) 19:46:17.77 ID:N0WkzBaZ.net
間違った「東北旧石器文化研究所」じゃなく「石器文化談話会」だった

◆最初の"発見"

藤村は1950年生まれ、現在の宮城県加美町の出身である。
仙台育英高校の卒業生で、
幼い頃から石器に興味があったと自称している。

彼は同じ宮城県の石器収集家の鎌田俊明という男と知り合いになった。
鎌田はこれまで何度も独自に発掘を行っていたが、
一度も旧石器を発見する事は叶わなかった。

藤村は鎌田を宮城県岩出山の座散乱木遺跡に連れて行き、
その場で旧石器を"発見"して見せた。

当時は旧石器が発見されるのは
関東や北海道だけと考えられていたので
藤村の"発見"により東北地方にも
旧石器文化があったという事がわかった。

その影響で1975年に岡村道雄を中心とする旧石器研究グループ
「石器文化談話会」が結成される。

グループの目的は前期・中期の旧石器を発見し、
日本にも前期・中期の旧石器時代があった事を証明する事だった。

鎌田とともに藤村はこれに加わり、以降各地で
遺跡の発掘調査をするようになる。

319 :名無しのひみつ:2022/03/02(水) 22:15:32.10 ID:N0WkzBaZ.net
◆旧石器の発見

それから11年が過ぎた。
岡村道雄の石器文化談話会は
かつて藤村が旧石器を"発見"したという実績がある
座散乱木遺跡で6年間にわたる発掘調査を行っていた。

しかし残念ながら目的の時代の遺物が発見されるような事はなかった。
おそらく初期からのメンバーは皆徒労感で疲れ切っていたと思われる。

1981年。複数の人間で発掘を行っていたところへ、
仕事で遅れて後から藤村がやってくる。
彼はそれからわずか5分後に、
4万数千年前とされる旧石器を"発見"した。

普通に考えると非常に疑わしい話だが
日本における旧石器時代研究の第一人者である芹沢は
藤村が発見した石器を見るや否や、本物と認定して褒めちぎった。

芹沢が認めるのなら間違いないという事で周囲も認めた。
何より発掘に費やした6年間が無駄ではなかったという感慨があったのだろう。
この時の"発見"に疑いを差し挟む者はいなかった。

これにより日本最古の石器の記録が
1万年以上も前まで更新されて大きな話題を呼んだ。

320 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 01:50:55.28 ID:dEtEsgrW.net
>>57
デマチョンうっせえぞ

321 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 08:37:33.74 ID:cJg5NaW9.net
◆伝説の始まり

以降藤村は、各地で次々に旧石器を"発見"していった。
大勢の人間が発掘調査に関わっているのに
その多くが藤村自身が掘り出したものだった。
奇跡的な強運である。

更に藤村は神がかり的な考古学的直観に優れ、
まるでそこに埋まっている事が
事前にわかってでもいるかのように、
「ここを掘ってみるといい」と調査隊に指示し、
言われた通り発掘するとすぐに旧石器が発見されたりもした。

しかもただの旧石器ではない。
常に"日本最古"という驚異的な記録を更新し続けた。
藤村は論文で「私は50万年前の地形が見える」と豪語したほどである。

322 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 08:38:05.79 ID:cJg5NaW9.net
当初は旧石器時代の存在を疑っていた学者たちも
度重なる石器発見の事実を無視できなくなり、
発掘現場を訪れた。

藤村は彼らの前で実際に新しい石器を"発見"してみせた。
それを見て旧石器時代否定論者たちも
自分たちの考えが間違っていた事を知り、
藤村の功績を喜んだという。

藤村が怪しまれなかったのは
旧石器研究の権威である芹沢や
その弟子である岡村がバックについて
藤村の発見を肯定し、権威づけた事にある。
それを見て他の学者らも権威に従い、疑問を生じる事はなかった。

323 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 08:39:58.43 ID:cJg5NaW9.net
◆"原人"遺構の発見

藤村は1984年から88年にかけて、
宮城県・西大崎駅近くの馬場壇A遺跡で、
何と"20万年前"のものとされる石器を大量に"発見"。
一挙に旧石器時代開始時代が遡った。

1985年から92年にかけては、
宮城県栗原市郊外にある高森遺跡で
"30万年"ほどほど前のものと思われる小型石器を"発見"。

一般的に現在の人類の直系祖先である"新人"が
初めて現れたのが20万年前とされているので、
30万年前ともなると、もはや人ではなく"原人"の領域である。

少し前まで旧石器の存在そのものが疑われていたのに、
日本にはそれより遥か以前に原人が棲んでいたのだ。

324 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 08:43:16.93 ID:cJg5NaW9.net
◆一挙に60万年前へ

更に藤村はそこから数km離れた上高森遺跡において、
1992年から6次にわたる調査を行い、
13万年前の旧石器を"発見"した後、
40万年前の旧石器を"発見"。

次いで50万年前の旧石器を発見。
更には60万年前の埋葬跡まで"発見"する。

これは途方もない"発見"だった。
かつての人類の生活風習がわかる事で有名な
ラスコーやアルタミラの洞窟壁画ですら
2万年前のものと言われている。

だが藤村の発見により、60万年以上も前の原人が、
死者を埋葬するという宗教的習慣を持っていた事を
"証明"してしまったのだ。

これには日本どころか世界が騒然となった。
何しろ場所が場所で、現代ですらあまり人の住んでいない
極東の東北地方のド田舎なのだ。

一般には原人が進化して旧人類になり、
新人類になったのと思われている。
だが実は原人は新人類とはまったくの別種である。

日本の東北地方の発掘調査は、
原人という謎に包まれた生物を解き明かす
大きな手掛かりになると思われた。

325 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 15:32:23.13 ID:cJg5NaW9.net
◆"ゴッドハンド" の誕生

藤村は記者会見で
「師匠である芹沢先生が生きている間に、
 100万年前の石器を発掘したい!」と語っている。

その言葉のようについには70万年前という
世界最古の石器を"発見"し、世界的に注目される。
100万年前の石器の発見も夢ではないよう思われた。

藤村はその功績によって1992年に事実上、
彼のために作られた賞といっても過言ではない
民間の考古学者に贈られる"相沢忠洋賞"の第一回受賞者に選ばれる。

彼の"発見"により教科書の内容も大きく書き換えられ、
藤村は教科書の中にその名を連ね、
"旧石器の神様"、"ゴッドハンド"の異名で讃えられるようになった。

更には民間研究団体「東北旧石器文化研究所」の
副理事長を務めるほどになる。

藤村の功績により日本中に原人ブームが起き、
旧石器の"発見"は、寂れた僻地にある
町興しや観光に繋げたい地元関係者からも歓迎された。

326 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 15:34:32.62 ID:cJg5NaW9.net
◆日本の原人

アフリカなどで発掘される原人化石に対して
中国は北京原人、北朝鮮は黒い山葡萄原人なる原人の存在を主張し、
自国にいかに古い歴史があるかを示して権威づけてきた。

それにより、自国こそがアジアにおける
真の支配権を持つ国家であると正当化した。

日本でもかつて1931年に兵庫県明石市の西八木海岸において民間人が、
古い人骨の一部を発見し、明石原人と呼ばれた事がある。
この骨は戦時中に無くなって今でも謎のままだ。

だがゴッドハンドの"功績"により
日本にも原人が棲息していた可能性が確実視され、
歴史マニアだけでなく国粋主義者たちをも大いに喜ばせた。

日本より遥かに古く進んだ文明を持っていた
中国などの国に対する長年の劣等感の裏返しとして、
日本は超古代の時代において、世界最古の文明を持った
偉大な国だった! とかいう国粋主義的な主張も
国内に見かけられれるようになった。

327 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 15:34:46.95 ID:cJg5NaW9.net
◆原人フィーバー

更に藤村は2000年2月に埼玉県小鹿坂遺跡で
50万年前のものと思われる"秩父原人"の遺構と石器を発見している。
この件は大きなニュースとなって大勢の人々が詰めかけ、
近くのパン屋では「秩父原人パン」や「原人クッキー」が売られた。

7月には近くの長尾根遺跡で原人の墓ではないかと思われる
35万年前の穴が発見され、
地元の酒造会社は「秩父原人酒」や「原人ワイン」を売り出した。

秩父原人チプーというゆるキャラが作り出され、
9月にはミューズパークで秩父原人祭りが行われ、
およそ一万人の参加者で賑わった。
藤村はこの功績によって埼玉県知事から表彰されている。

328 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 15:48:49.32 ID:cJg5NaW9.net
◆角張淳一の疑念

だが、そうした藤村の快進撃に対し、疑念を抱いた人物もいた。
藤村だけでなく、以前から旧石器研究界で幅を利かせる
芹沢・岡村らの派閥に対して疑念を抱いていた
角張淳一という研究者である。

彼は石器文化談話会の出資者であり、
メンバーの藤村とも親しかったが、
藤村があまりにも奇跡的な発掘を続けるにつれ、
疑念を深めるようになった。

何しろ多数の手で発掘を進めているのに
前期・中期旧石器時代を示すあらゆる石器や遺構の発掘には
ほぼ全てに藤村が関わっていた。

また発見日時は藤村のいる時に集中していたり、
ゴールデンウィーク中に集中していたりと、どこかおかしいのだ。

中には火砕流の中から石器が発掘されたり、
10kmも離れた遺跡から発見された石器の切断面が
偶然一致したというような信じがたい"発見"もあった。

ひょっとして藤村が発見したという旧石器は
実ほとんど贋物だったのではないか…?

329 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 15:52:24.43 ID:cJg5NaW9.net
◆竹岡俊樹の疑念

角張は藤村の快進撃に酔いしれる
石器文化談話会のメンバーと距離を置き、
京都出身の竹岡俊樹という学者に相談した。

この人物は中身がきわめてお粗末にもかかわらず
あまりにも派閥が幅を利かせすぎている日本の考古学会に嫌気がさし
フランスに留学して本場の考古学を学んできた人物だ。

竹岡曰く「日本では考古学の基礎を10年もかけて学ぶ。
だがフランスでは1年で修了する」という。

竹岡は藤村の掘り出した石器が、フランスで学んできた
本物の旧石器と形が全く違う事に注目した。

330 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 15:53:54.10 ID:cJg5NaW9.net
◆"ふわっ"と出てくる旧石器

また1万2000年前のローム層から出てくる石器は
地面にがっちり、ぴったりと張り付いて出てくる。
そしていかにも一万年経過しているという雰囲気があるという。

だが藤村は旧石器の発掘について、月刊誌『現代』
11月号のインタビューで次のように答えている。

「石器の周囲にある礫は、たいてい腐っていたりするんですけど、
 石器は腐らない。生きているんです。
 土もほとんど石器に付着していないから、
 掘り出すときは“ふわっ”と軽くとれる」

これを読んだ考古学者たちの多くが藤村の捏造に気づいたという。
縄文時代研究者の佐々木藤雄は以下のように述べている。

「これはおかしいとすぐに気づきました。
 後期旧石器の石器を掘った事があればすぐにわかりますが、
 一万年とか二万年の歴史がパックされているので、
 竹べらで掘ると竹が曲がりますし、
 腕が腱鞘炎になるくらい掘り出すのが大変なのです」

331 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 16:01:48.77 ID:cJg5NaW9.net
◆学会からの村八分

竹岡もまた藤村の発言の不自然さに注目し、
捏造であると確信を抱いた。
そして不審な点を纏めた藤村捏造説の文書を公開する。

結果は学会からの無視であった。
これをきっかけに石器文化談話会をはじめとする
芹沢派のメンバーは竹岡を意図的に避け、
誹謗中傷するようになった。

藤村の発掘した旧石器を検証するべく
見せてくれるよう依頼しても断られた。
竹岡氏は現在に至るまで学会に冷遇され、
専任職を得られていない。

332 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 16:02:03.86 ID:cJg5NaW9.net
◆日本において真贋は重要ではない

このあたりが日本の考古学会のおかしなところで、
本来なら発掘された石器が本物かどうか
徹底的に検証・討論を行うべきなのに、
ろくな検証もせずに最初から本物という事にされ、
反対を唱える者は村八分された。

なぜなら日本の考古学会にとって、
藤村の発見した旧石器が
本物かどうかは重要な問題ではなかったからだ。

本物と認定する事で考古学会者は社会的な権威を得、
金銭と名誉欲を両方満たす事ができたからだ。

このあたりはマスコミも同じで、
話題を呼ぶニュースは金になるので
旧石器の真贋について、20年近くに渡って
特に裏付けも取らずに大々的に報道してきた。

333 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 16:04:40.49 ID:cJg5NaW9.net
◆二度目の捏造説公表

竹岡が学会を干されたので、
今度は発掘調査会社を経営している角張が
2000年7月24日に自社のホームページで
「前期・中期旧石器発見物語は現代のおとぎ話か」
というタイトルで捏造説を公表した。

これに対しても凄まじい数の誹謗中傷が殺到した。
「神の手を冒涜するつもりか!」
「仕事を続けたいのなら今すぐ取り下げろ!」
「学会から追放されたいのか?」などなど…

中には考古学会の偉い人間から
「発掘調査会社など考古学会の中では
 最底辺にいる存在なのに何様のつもりだ」
という批判も来たという。

だが、この記事は様々な人物を動かす事となった。

334 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 16:45:00.48 ID:P+vTmNaV.net
農耕穀物を神に捧げる儀式がなんで遊牧民に関係あるんだ
産経はチョイチョイ変なこと書くな

335 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 16:47:42.21 ID:cJg5NaW9.net
◆動き始めたマスコミ

毎日新聞社北海道支社の本間浩昭という記者のもとに
とある考古学者関係者から
「藤村という男は確実に捏造をしている。放置できない」
という電話が入る。

この電話に突き動かされ、本間は
旧石器捏造説の裏付けを取るため、独自に調査を行う。

その結果、ある事に気づいた。
藤村の手による一連の功績について、
具体的に発掘された石器の写真や実測図、
それを纏めた学術的な論文や
真偽を検証した論文がひとつも見つからなかったのだ。

藤村の発見が海外の学会にも多大な影響力を
及ぼすほどの重要性があるにも関わらず
詳しい検証がないというのは何とも異常な話である。

本間は藤村だけでなく、より多くの人物が関わった
大がかりな捏造事件の存在を確信した。

336 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 16:51:47.63 ID:ekEle/Tu.net
これはね
地位の継承をしてるんだよ
日本の国土は元々全て天皇のもの
初めて世を納めてから一歩も引いていない
近代法では法律不遡及の原則があるから
放棄しなければ全ての土地は天皇の物だ
近代法なんてできる前から
日本を納めてたんだからな
インペリアルなんだよ
世界で唯一のさ

337 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 17:02:30.18 ID:cJg5NaW9.net
◆毎日新聞の張り込み

本間は毎日新聞北海道支社の上層部にかけあい
藤村の捏造を大々的に暴きたてたい旨を上奏する。
もし事実である事がわかれば大きなニュースになると。

そして200年8月に取材チームが編成され、
本間はまず学会を干された竹岡に接近した。

竹岡は取材チームの熱意に押され、これは本物だと確信した。
そして「藤村は人気がない夜のうちに遺跡にやってきて、
 旧石器まがいのものをそこに埋める。
 そして朝になって調査隊が集まってきた頃にそれを発掘し、
 大発見でもあるかのように見せかけている可能性がある。
 もしその瞬間を撮影すれば、捏造の証拠を押さえた事になる」
と伝えた。

これを受けて毎日新聞社は
藤村が旧石器を埋める決定的瞬間を押さえるべく、
遺跡の周囲に見つからないようにカメラを配置し、
深夜帯を中心に、発掘現場で長期間にわたる張り込みを行った。

しかし予想に反して、1か月、2か月が経過しても
深夜に藤村が現れる事はなかった。

338 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 17:03:49.21 ID:cJg5NaW9.net
◆藤村陥落

既に1000万円以上もの経費が無駄になっていた。
もはやこれ以上の張り込みは
無理ではないかと諦めかけていた矢先、
10月22日になって、ついに藤村が早朝に遺跡に現れた。

そして取材班は、藤村が"旧石器"を
土中に埋める様子の一部始終を
ビデオカメラに収める事に成功したのである。

証拠を押さえる事に成功した取材班は、
今度は取材をしたいと申し出て
藤村を仙台のホテルに呼びつける。

そこでは不自然なほど多くのカメラと機材が藤村を待っていた。
取材班は藤村が遺跡の土を掘って"旧石器"を置き、
穴を埋めて足で踏んで固めている、
言い逃れようのない証拠映像を見せつけて、
これはどういう事かと詰問した。

藤村は「魔が差した」と言い訳し、
渋々今回を含む、わずか2個所のみでの
捏造行為を認める事となった。

339 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 17:09:21.61 ID:cJg5NaW9.net
◆旧石器捏造事件

そして運命の日が訪れる。
2000年11月5日。〈旧石器発掘ねつ造〉の見出しが
「毎日新聞」朝刊1面に躍り、
藤村が土中に石器を埋め込む決定的瞬間を捉えた
写真付きで事件が報じられた。

いわゆる「前期・中期旧石器遺跡捏造事件 」である。

このスクープは日本どころか世界をも震撼させるものとなり
マスコミでも連日取り上げられた。

この功績を評して、毎日新聞の本間浩昭記者は
新聞協会賞、菊池寛賞、早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した。

日本のマスコミの中には日本に中国様や朝鮮様より
古い歴史があるというのをどうしても許せないという輩がおり
そういう連中にもアピールした事件だったのだろう。

340 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 17:11:07.38 ID:cJg5NaW9.net
◆捏造検証委員会

ところがその後の調査で、藤村が捏造をしていたのは
2箇所だけでなく、四半世紀にわたり
藤村が関わった計162の遺跡で捏造があった事を、
2003年に日本考古学協会が断定するに至った。

面白いのはこの捏造検証委員会を構成していたのは
全員が藤村の"発見"をそれまで疑いもせず
肯定していた人物ばかりだったという事だ。

旗色が悪くなってきたので、世間体をよくするために
立場を翻してみせたというわけだ。

竹岡をはじめ、捏造事件発覚が報道される前から
藤村に疑念を抱いていた者たちは呼ばれなかった。

162もの遺跡で捏造があったというだけでも途方もない事だが、
実はこれだけでは足らず、
全てが捏造だったという可能性も囁かれている。

さらに藤村の証言によって、石器どころか
遺跡自体が捏造だった事もまでも明らかになった。
初めから旧石器の遺跡など無かったのである。

341 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 17:20:43.78 ID:i5il5Gg0.net
土人の習俗と変わらんぞ

アホちゃうか

342 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 17:21:01.82 ID:cJg5NaW9.net
◆教科書書き換え

この捏造発覚によって70万年前から日本列島に
人類が住んでいたとの定説は否定され、
前期(約13万年以上前)および中期旧石器時代
(約13万〜3万6000年前)に関する研究は、
ことごとく無となってしまった。

これにより日本の歴史は「70万年前から始まった」
とされているところを「3万年前から始まった」と大きく後退する。

全てが捏造だった事が判明したため、当時の歴史系の書物は
多くが回収される事態となり、出版社は大打撃を受ける事となった。

教科書も書き換えを余儀なくされ、
当時は日本史の授業が始まると、まず最初に
藤村が関わった部分をマーカーで消すはめになったともいわれる。

343 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 17:21:42.77 ID:cJg5NaW9.net
◆旧石器時代遺構の崩壊

国民の間でもはじめから日本に旧石器時代など
無かったのではないかという疑念が高まり、
事態を重く見た考古学者らは、
全国の旧石器時代の遺跡を再調査した。

その結果これまで旧石器だとみなされてきたものが、
単なる縄文時代の石器であったり、
住居跡も後世作られたものである事がわかった。

更にはかねてから疑問視されていた愛知県の三ヶ日原人の骨が
縄文人の骨に過ぎなかった事が2001年9月7日に大きく報道された。

週刊文春が大分県の聖嶽洞穴についても
捏造の疑いありと2001年に3度に渡って誌面で展開し、
この影響で発掘責任者であった賀川光夫が自殺に追い込まれている。

これらの事実の発覚により、
日本考古学会の旧石器時代研究の信用は地に落ちた。

はっきりいってしまえば日本列島の、特に本州に限って言えば、
確実に旧石器時代のものだといえる遺跡など
一つも無くなってしまったのである。

344 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 17:34:04.09 ID:lu3MgoGW.net
こんなことを言い出したら、日本人の祖先はいろいろな民族と
関連付けることができる。
日本書紀や古事記の記述にはギリシャ神話に出てくるエピソードと
似ている話がいくつもある。
おそらくアレクサンダー大王の東征によって現在のパキスタン付近まで
伝えられたギリシャ文化の記述が仏教の文献と一緒に中国経由で
日本に伝えられたものだと思うが、こういう関係はいくらでもあるんだよ。

345 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 17:59:21.75 ID:+YxHDNDC.net
アマテラス女神から
王権神授されるために
身を清めて
共食して
同衾するんだろう
いまでもあちこちに裸祭りがあるのも
自然の神は女神が多く
女神は男の裸が大好き
相撲ももともとは
タヂカラオが
アマノ岩戸の前で
すっぽんぽんになって
アマテラスを引っ張り出したいわれからきている
だから相撲もすっぽんぽんが正しい

346 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 18:08:26.66 ID:y0tzjhSC.net
天孫降臨は妻国で作られた創作なんだから
宮崎へ行って民間伝承でも丹念に調べないと分からないだろな
もう素材の妻国の神話は多分消えてる

347 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 18:09:17.67 ID:y0tzjhSC.net
少なくともユーラシア民族起源とかはまるで与太だな
隼人の神話だね素材は

348 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 18:28:22.75 ID:cJg5NaW9.net
なんかアレクサンドロス大王の話と
天皇家のルーツである天孫降臨の話がされているんで
旧石器捏造事件の話は一時休止して、
"天孫降臨"の真実についての話でもするか

349 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 18:35:48.39 ID:cJg5NaW9.net
◆神武天皇とアレクサンドロス大王

『記紀』において、初代天皇とされているのは
言うまでもなく紀元前660年に即位し
天皇家の王統を創設したとされる神武天皇だ。

神武天皇の諱は彦火火出見(ヒコホホデミ)。
『日本書紀』での名は神日本磐余彦天皇
(カミヤマト・イワアレビコ・ノ・スメラミコト)。
以降はイワアレビコと呼ぶ。
天照大御神の5世孫とされる。

神武天皇の実際のモデルとなった人物は
3世紀半ばに朝鮮半島から北九州に渡り、
東征して畿内を征服した騎馬民族の王だ。

後に彼の王統は"天皇家"と呼ばれる事となり、
記紀神話が編纂される過程で彼の人生も創作される事になった。

その過程でかつて大東征を行ったある実在の人物の伝記が、
神武天皇のエピソードとして流用された。

その人物とは紀元前700年からマケドニアを支配してきた
アルゲアス朝の王統の継承者で、
紀元前356年に生まれた、かの偉大なるアレクサンドロス3世である。

350 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 18:39:10.85 ID:cJg5NaW9.net
◆ヘラクレスの誕生

ギリシア神話によると、天界の帝王ゼウスは
アルゴスの王女ダナエとの間に
ペルセウスという子を設けた。

彼はメデューサを討ってその首で海の怪物ケートスを倒し、
鎖に縛られ生贄となったアンドロメダ王女を助け出し、
二人は結ばれ、その血統はミュケナイの王家となった。

ミュケナイにはアルクメネという王女がいた。
彼女は兄弟がタポスとの戦争によって討たれてしまう。
もし兄弟の仇を討ったものがいれば結婚してもいいと述べたため
伯父のアムピトリュオンがタポスと戦争し、これに勝利した。

そして帰還したアムピトリュオンが
アルクメネの閨に入って一夜を共にするが、
それはゼウスが化けた偽物だった。

翌日、本物のアムピトリュオンがやってくるが、
すでに遅く、アルクメネはゼウスの子供を孕んでおり、
やがてアルケイデスという男児を出産する。

後にギリシア神話最大の英雄と呼ばれる事となるヘラクレスである。

351 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 18:49:58.17 ID:cJg5NaW9.net
◆天孫降臨の王国マケドニア

マケドニアのアルゲアス朝は
このヘラクレスの血を引くと称していた。
また、マケドニアは神々が住まうオリュンポス山の
麓であると考えられていた。

そこに生を享けたアレクサンドロス3世は
この「天から降臨した神の子孫が暮らす
僻地の王国」だけでは飽き足らなくなる。

そしてやがて海を渡って対岸の小アジアに渡り、
ペルシア帝国を滅ぼし、
更にはインドにまで足を延ばし、
一代で巨大な帝国を作り上げる事となる。

これを"アレクサンドロスの大東征"と言う。

352 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 18:54:42.77 ID:cJg5NaW9.net
◆天孫降臨の王国

一方、『記紀』におけるイワアレビコはどうか。

天照大御神らには瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)という孫がいた。
彼は古事記では天照大御神、日本書紀では高皇産霊尊の命により
葦原の中つ国を統治すべく、ある日仲間とともに天降り、
日向国の高千穂峰に降臨する事になる。
これを『天孫降臨』という。

地理のわからない彼らを出迎えたのが
長い鼻を持った異形の存在である猿田彦命だった。

ニニギ一行は猿田彦命の案内により、「吾田の長屋の笠狭碕」まで来て、
その地の首長である事勝国勝長狭(コトカツ・クニカツ・ナガサ)、
別名大山祇神(オオヤマツミ)のから国を献上される。

「勝」という名前が含まれている事から、
この人物はニニギの一族が九州入りするよりはるか以前に
大陸から地に渡ってきた、秦氏の一族である事がわかる。

また案内を終えた猿田彦は
故郷である伊勢国の五十鈴川に帰ったが、
ここにも秦氏が深くかかわっている。

353 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 18:55:38.13 ID:cJg5NaW9.net
◆神武東征

ニニギは事勝国勝長狭の娘である鹿葦津姫、
別名コノハナノサクヤヒメと結婚し、
彦火火出見尊(ヒコホホデミ)、またの名を
天火明命(オホリのミコト)という子を設けた。
その孫ががイワアレビコである。

イワアレビコは「高天原から天下った者たちの子孫が築いた
九州僻地の王国」だけでは満足できなくなった。

そして軍勢を率いて瀬戸内海を渡り、
畿内にまで足を延ばし、長髄彦を滅ぼして
一代で東方に王国を築く事となる。

これを"神武東征"という。

354 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 19:26:02.62 ID:cJg5NaW9.net
◆少年王の誕生

紀元前338年。マケドニア王ピリッポス2世は
カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破る。
この戦いはアレクサンドロス少年の初陣でもあった。

ピリッポスはギリシア諸ポリスに
コリントス同盟(ヘラス同盟)を締結させ、
全ギリシアの覇権を握るに至ったが、
それから2年後に護衛によって暗殺されていまう。

そしてわずか20歳にしてアレクサンドロスが王位を継ぐ。
彼はトラキア遠征を行って勝利し、
その隙に反旗を翻したテーバイを破壊し、
混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。

ギリシアの諸ポリスを制圧したアレクサンドロスは、
マケドニア本国を重臣アンティパトロスに任せ、
ペルシアへの"大東征"に乗り出す事になる。

355 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 19:35:46.27 ID:cJg5NaW9.net
◆イッソスの戦いと進路変更

紀元前335年、マケドニアを発ったアレクサンドロス軍は
小アジアに向かい、グラニコス川の戦いで勝利。
小アジアでしばらく兵力を整える。

2年後の紀元前333年、更に東征して
小アジアの南東の付け根、
日本でいえば大阪湾のような所にあるハタイのイッソスで、
ダレイオス3世自らが率いる軍勢と遭遇する。
「イッソスの戦い」である。

この時ペルシア軍10万に対して、アレクサンドロス軍は
4万にも満たなかったとされ、苦戦を強いられた。

だがアレクサンドロスは騎兵と近衛兵、
徴募兵を縦横無尽に指揮し、
ペルシア軍を敗走させる事に成功した。

この戦いでダレイオスの母・妻・娘を
捕虜にしたアレクサンドロスは、
そのまま東にあるバビロンや
ペルシアの王都ペルセポリスに攻め込む事ができた。

だが7000人もの損害を出したためか、
何を思ったのか、突然進路を変えて南下し、
遠いエジプトに向かう事となる。

356 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 19:39:55.40 ID:cJg5NaW9.net
◆孔舎衛坂の戦いと進路変更

一方記紀神話では軍勢を従えて故国を発ち、
東へ向かったカムヤマトイワレビコは、
椎根津彦の水先案内によって
速吸門(豊予海峡)を渡り、
安芸国、吉備国などに進軍する。

吉備国に3年間滞在して兵糧をためたイワレビコは
更に東征して大阪湾近くの難波の碕に至り、
その地を浪速国と名付ける。

更に生駒山を越えて中洲(うちつくに)、
つまり奈良盆地への進軍を企むが
そこでイワレビコの軍勢は、
畿内を統べる大国である長髄彦の軍勢と遭遇する。

長脛彦の軍は強く、イワレビコ軍は
奈良盆地に入る事ができなかった。

一時退却したイワレビコ軍が敗因を占った結果、
「天照の子孫でありながら
 太陽に向かって戦をしたのが間違いだった」と出る。

そこでイワレビコ軍は針路を変え、
唐突に大きく南に進む事となる。

357 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 20:39:12.31 ID:cJg5NaW9.net
◆海沿いの戦いと太陽の聖地

南下を続けるアレクサンドロス軍は、
シリアを抜け、フェニキアの海沿いの都市ティルスの軍と交戦。
さらにパレスチナ内陸部のガザとも戦って屈服させ、
やがて険しい道程を越えてエジプト入りする。

エジプトは太陽神アメン・ラーの子孫である
ファラオが治める聖なる国であった。

一方『記紀』ではイワレビコ軍は、
和歌山の海沿いの村である名草邑で交戦。
名草戸畔という女賊を誅し、内陸部に入り
熊野の聖地である神邑に入る。

ここは今でいう和歌山県新宮市神倉で、
太陽神・天照大御神を祀る神倉神社がある。

358 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 20:55:08.40 ID:cJg5NaW9.net
◆土地神の砂嵐

紀元前332年、アレクサンドロス大王は
11年前ペルシアに征服されたエジプトに、
解放者として迎え入れられる。

彼はメンフィスでファラオとして認められ、
メリアムン・セテプエンラーという名前を与えられるが、
それだけでは満足しなかった。

アレクサンドロスは軍隊を捨て、少数の部隊だけで
わざわざ非常な危険を冒してリビア砂漠の横断に挑んだ。
西にある太陽神崇拝の本拠地である
シワ・オアシスのアメン神殿で神託を受けるためである。

しかしリビア砂漠は広漠たる大難所であり、
ただでさえ横断するのが難儀する上、
途中で凄まじい砂嵐に巻き込まれてしまう。

359 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 20:56:38.28 ID:cJg5NaW9.net
◆大烏の案内と太陽神の継承者

アレクサンドロス一行は方角を見失い、
一人、また一人と、次々に倒れ伏してしまう。
エジプトの嵐と荒廃の神セトの妨害かと思われた。

絶体絶命と思われたが、
そこに天空から巨大な一羽のカラスが現れた。
アレクサンドロスはカラスについていくと、
嵐を抜け、オアシスにあるアメン神殿にたどり着いた。

そこでアレクサンドロスは太陽神アメンの託宣を受けた。

アメンはギリシアにおけるゼウスと同一神とされているため、
ゼウスの子ヘラクレスの子孫であるアレクサンドロスは
神託により、改めて神の子であり、
天界の支配者ゼウスの地上における支配の代理人として
認められたのである。

そして外部から来た征服者でありながら
正式に太陽神の血を引くファラオとして即位した。

360 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 21:12:44.73 ID:cJg5NaW9.net
◆土地神の暴風雨

記紀神話では、熊野の神邑を経て船を出したイワレビコは
巨大な暴風雨に遭遇する。
これによってイワレビコの兄である三毛入野命が
常世郷に去ってしまった(溺死した)。

更にイワレビコは非常に山越えが困難な熊野越えに挑む事にしたが、
その土地に住まう荒神が毒を吐き、
イワレビコの軍勢はバタバタと倒れていった。

イワレビコ軍にとって絶体絶命のピンチだったが、
土地の住民である熊野高倉下は、夢で神託を受けたと告げ、
出雲を征服した武甕槌神(タケミカヅチノカミ)が
所有していた霊剣・布都御魂(フツノミタマ)を献上した。

イワレビコが剣を持つとその霊威によって毒気が退けれられ、
兵士たちは起き上がり、進軍を再開した。

361 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 21:13:16.16 ID:cJg5NaW9.net
◆大烏の案内

何と神の試練を乗り越えた一行だったが、
山路は険絶にして進軍は苦難を極めた。

この時、突如として八咫烏(巨大なカラス)が現れ、
道案内を行った。
イワレビコは自らが見た霊夢の通りだと語り、
八咫烏の後をつけていった。

すると険難な山地を抜け、
一行は菟田下県(奈良県宇陀郡)に至った。
目的地である中洲(うちつくに)の端に到達したのだ。

362 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 22:22:21.19 ID:cJg5NaW9.net
◆大帝国の誕生

アモン神殿から戻ったアレクサンドロスは、
その後ナイルデルタの西端に都市を建設する。
後のアレキサンドリアである。

そして今度は軍隊とともに北上し、
本腰を入れてペルシア征服に乗り出す。

そして紀元前331年、
チグリス川上流の内陸部にあるガウガメラにたどり着いた
4万7000人のアレクサンドロス軍は、
20万とも30万ともいわれる
ダレイオス3世指揮下のペルシア軍と
大遠征における最大の決戦を行う事となる。

「ガウガメラの戦い」である。

この戦いでアレクサンドロスは
神がかり的な強運でペルシア軍を破り、
ダレイオス3世は逃走した。

そしてアレクサンドロスはペルシアをも征服し、
偉大なる帝国を築いた大王として、
その名を燦然と歴史に刻む事となる。

363 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 22:33:00.75 ID:cJg5NaW9.net
◆封禅の儀と金鵄の降臨

『記紀神話』では北上して奈良盆地入りしたイワレビコは
天の香久山の頂の土を取りに行かせ、
この土で丹生の川上にて天神地祇を祭る儀式を行った。

これは中国でいう封禅の儀式のようなもので、
これにより天命が下り、神々から王として認められるのだ。

そしてイワレビコの軍勢は現地の住民である土蜘蛛の長・
八十梟帥を宴に誘って騙し打ちで暗殺すると、
その後一帯を支配する長髄彦の軍隊と凄絶な戦いを開始する。

やがてついに長髄彦との決戦となるが、
膠着状態に陥り、連戦しても勝てない。

そこへ天から黄金に輝く霊鵄(トビ)が現れ、
イワレビコの弓の先にとまった。

鵄は天照の化身であり、稲光のような輝きを発し、
長髄彦の軍はそれを見て大いに畏れて混乱に陥った。

364 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 22:33:51.26 ID:cJg5NaW9.net
◆ふたりの天孫

長髄彦はイワレビコのもとに使いを送り、話し合いに持ち込んだ。

長髄彦は
「この地で昔から崇拝され、自分が主君として仕えてきた太陽神・
 天照国照-彦天火明-櫛玉-饒速日尊
(アマテルクニテル・ヒコアマノホノアカリ・クシタマ・ニギハヤヒノミコト)は
 高天原の神である。

 天照(アマテル)神こと饒速日は、かつて空を飛ぶ天磐船に乗り
 豊葦原中津国にやってきて、天降った存在である。

 イワレビコは太陽・神天照大御神の子孫を称しているが、
 天神の子が二人もいるのはおかしい。
 あなたは偽物ではないか」と問いかけた。

そして長髄彦は天から下った神の正当な証である、
饒速日の「天羽々矢(あめのはばや)」と
「歩靫(かちゆき)」を取り出して見せつける。

これこそ饒速日が王として日本を支配する最大の根拠であるからだ。

365 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 22:35:06.24 ID:cJg5NaW9.net
◆天皇家の誕生

ところがこれを見たイワレビコも
自らの天羽々矢と歩靫を差し出して正当性を主張する。
そしてどちらも本物である事がわかった。

イワレビコもまた太陽神の正統な継承者であり、
地上における王である事が証明された。

『古事記』ではこれによって長髄彦はイワレビコに服属したが
『日本書紀』では、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、
饒速日によって殺され、長髄彦の王国の者は皆イワレビコに帰順したという。

そしてイワレビコは一体を支配する饒速日と和解し、
土着の蛮族である土蜘蛛たちを討ったのち、
紀元前660年1月1日、畝火の橿原宮で"神武天皇"として即位し、
ハツクニシラス(日本を初めて支配した大王)となった。

彼によって作られた畿内政権──大和王朝は
その後天皇家として、脈々と日本を支配する事となる。

366 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 22:58:43.28 ID:cJg5NaW9.net
◆アレクサンドロス=神武天皇

言うまでもなく神武天皇のエピソードは
アレクサンドロス大王のエピソードを元にして作られたものである。

アレクサンドロスが王になるにあたって、
大烏によって案内され、神殿にたどりついて太陽神の神託を受けたが、
ギリシアでもエジプトでも、烏は太陽神の遣いをさしている。

それは日本でも同じであり、イワレビコは天照の遣わした
八咫烏と呼ばれる謎の集団によって導かれ、
"約束の地"ともいえる畿内に入る。

そこで天から降臨した金鵄──
太陽神・天照の化身の調停のもとに
敵国の支配者に太陽神の継承者である証を見せ、
その後天皇として即位するのだ。

なぜここまでふたつのエピソードを似せたのか?
詳しく述べると長くなるが、理由は簡単で、
そもそも天皇家の成立は
アレクサンドロスの大遠征の延長上にあり、
あそらく天皇家はアレクサンドロスの血を引いているからである。

367 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 22:59:45.51 ID:cJg5NaW9.net
◆"天羽々矢"と"歩靫"の合体

アレクサンドロスはパレスチナのガザへと攻め込み、
ユダヤ人が多数居住するペルシアを征服して、
黄金の箱アークを略奪する。

そしてアークとともにその血は、バクトリアに渡り、
更に秦へと渡る。

始皇帝は全土を統一後、アークの呪いを避けるために
箱を蓋と本体の2つに分け、それぞれをレプリカと組み合わせて
アークを2つにした。

その後アークは紀元前3世紀の徐福船団と
起源後3世紀の騎馬民族の流入という
2つのルートを経て日本へと渡る。

そしてそれぞれを携えた代表が
長髄彦とイワレビコとして対峙しあい、
それぞれが証明となるアークの上下を提示する。

そしてレプリカを外して600余年ぶりにアークを統合し、
正統な王家の象徴が完成した事で
天皇家は太陽神アマテラス、真名イエス・キリストの代行者として
金鵄に日本の統治を許され、天皇家となるのである。

368 :名無しのひみつ:2022/03/03(木) 23:22:25.74 .net
敗戦後のアメリカ占領体制の問題点を洗い出したからまとめておく

・戦後、アメリカから利権を貰う代わりに犬になった敗戦利得者家族会が国の中枢にいる
アメリカは敗戦利得者家族会の弱みを握ってるので簡単にコントロール出来る

・東京地検特捜部はアメリカの傀儡なので日本から日米関係の歪みを変える政治家は出てこない

・日本の経営者はアメリカ様で議員も投票する側も従業員感覚なので
「政治は利権」でおいしい思いが出来ればいいと思っていて
誰も自分の国を回すことを考えていない

・政治には理系みたいな神様のフレームワークがないので
人工的なフレームワークが必要になる
人工的なフレームワークは宗教だったりするが
日本国憲法の20条でこれが出来なくされている

・日本土人は頭が悪いからプロレス思考になって
アメリカにつくか中国につくかの議論になりがちだが
そうではなく米中覇権争いの構造の中でどうすれば
日本はアメリカの駒にならずにアメリカの占領体制から抜け出し、
かつ、中国に領土を盗られないかの戦略を立てないといけないが
エリート教育を77年間出来なかったので人材がいない

・東条英機は満州時代に4,370人のユダヤ人を救った
東条英機が前例を作ったから杉原千畝はユダヤ人にビザを発給出来たので
杉原千畝が救ったユダヤ人6,000人がプラスされて
東条英機が救ったユダヤ人は1万人になる

・歴史学が小御所会議のインチキクーデターで孝明天皇を殺しているため
機能していない。
そのために敗戦後のアメリカ占領体制を学問の土俵に上げられないでいる
日本土人には学問の運用も出来ない

・アメリカ占領体制から抜け出すには国民が情報を共有して
問題を把握して日本の腰抜け議員に
国民が知恵を付けてもうどうしようもないという口実を与え
泣き外交に持ち込んで日米関係の歪みを解消するしかないっていう結論になった

369 :名無しのひみつ:2022/03/06(日) 06:33:40.68 ID:yVvO8MO/.net
◆キメラ神話『記紀』

真面目に『記紀』が天皇家の歴史記録であると考え
血眼になってそれを現実の歴史に置き換えて研究している
歴史学者には悪いが、そもそも『記紀』の根幹は
シルクロード上に存在する
様々な神話を蒐めて作られたキメラ神話である。

意図的にそのように作られたものであり
なぜそのような作りになっているのかについては
また別の機会に述べる。

記紀にギリシア神話の物語が多数投影されているのは
広く知られている通りだ。
イザナギの冥府下りがデメテルの冥府下り、
スサノオの八岐大蛇退治が
ヘラクレスのヒュドラ退治などなどだ。

同様にユダヤ・キリスト教の物語も多数投影されている。
というより『記紀』の冒頭から上古天皇の部分は
日本風に翻訳した『聖書』であると言ってもいい。

370 :名無しのひみつ:2022/03/06(日) 07:00:22.61 ID:yVvO8MO/.net
◆インド神話の巨人討伐

神武東征にもギリシア神話や
聖書の物語が数多く投影されている。

たとえば長髄彦だ。
これは本名ではなく、征服者である天皇家が
先住民の王を貶めてつけた蔑称である。
長髄彦とは足が非常に長い者、すなわち巨人を示している。

世界中の神話を見ればわかる通り、
征服者たちは元々その地に住んでいた巨人たちを皆殺しにし
その地に新しい王国を築いている。

インド最古の叙事詩『ラーマーヤナ』では
主人公のラーマはラクシャーサ(羅刹)に妻シータを奪われ
これがきっかけで大戦争を起こす。

ラクシャーサ軍にはあらゆるものを喰らい尽くす
最強の巨人クンバカルナがいたが
ラーマはこれを倒して妻を奪還、
王として即位する。

371 :名無しのひみつ:2022/03/06(日) 07:02:09.39 ID:yVvO8MO/.net
◆北欧神話の巨人討伐

北欧神話では原初の巨人ユミルは多くの巨人を生む。
一方で牛神アウズンブラによって作られた
ブーリの息子ボルが、ユミルの一族である
霜の巨人ボルソルンの娘ベストラと結婚し、
オーディン、ヴィリ、ヴェーの三神が生まれる。

彼らは巨人の王ユミルを殺す。
その際ユミルの屍体から流れた血の大洪水で
全ての巨人が溺死した。

ただ一人霜の巨人ベルゲルメルだけは箱舟に乗って難を逃れ、
大洪水が引いた後の巨人の始祖となったという。

その後オーディンはアスガルドの王として
世の終わりに至るまで高所フリズスキャールヴに君臨する。

372 :名無しのひみつ:2022/03/06(日) 07:06:00.27 ID:yVvO8MO/.net
◆ギリシア神話の巨人討伐

ギリシア神話ではゼウスや
その兄弟ポセイドン、ハデスらオリュンポス神族は、
父祖である巨人族・ティターン神族と、
世界の覇権をかけて激しい戦争(ティタノマキア)を行った。

これに勝利してゼウスが天帝となり、
オリュンポスに王朝を築いている。

ティターンの子であるプロメテウスは神を裏切り、
原始生活を送っていた人類に
火(武器を精錬する技術)を与える。
その結果人類は文明を築いたが、堕落のきわみに達してしまう。

この罪でプロメテウスはゼウスを激怒させ、
囚われて永遠の罰を受ける。
ゼウスは大洪水を起こし、堕落した地上の人間を滅ぼし尽くす。

だがプロメテウスの子デウカリオンは
事前にプロメテウスの命令で船を作って妻と乗り込み、
大洪水の難を生き延びた後、石から新しい人類を作って
世界を蘇らせたという。

373 :名無しのひみつ:2022/03/06(日) 07:08:31.19 ID:yVvO8MO/.net
◆聖書の巨人ネフィリム

『聖書』では原初の時代に人類を監視するために
エグリゴリと呼ばれる天使たちが地上に派遣された。

だが彼らは美しい人間の娘たちを見て堕落し、
禁を破って人間の娘たちと乱交を繰り返した。
結果天使と人間の間に巨人『ネフィリム』が生まれた。

巨人は非常に粗野かつ食欲旺盛で、
あらゆるものを食らい、
食物が亡くなると共食いをしたという。

人間と姦通しただけではない。
エグリゴリは更に神を裏切り、
人類に様々な禁断の知識を与えた。
探鉱や金属精錬、武器製造、化粧や占星術などなど…
その結果人類は大きく堕落した。

これを知った神は激怒して
エグリゴリをはるか地底のタルタロスに幽閉し、
大洪水を起こして巨人族を地上から一掃した。

ただノアの一家だけは事前に大洪水によって知らされ
ノアの箱舟を作って難を逃れ、
大洪水後の人類の始祖となったという。

374 :名無しのひみつ:2022/03/06(日) 07:11:46.62 ID:yVvO8MO/.net
◆巨人討伐とイスラエル建国

箱舟が漂着したとされるアララト山系では
ノアの箱舟が埋まっているとされる箱舟地形とは別に
氷河の中に閉じ込められた巨船が昔から目撃されており、
こちらはカインの箱舟とされる。

巨人の一部はカインの箱舟に乗っていたためか
生き残ったようだ。

ずっと後に神の大災厄により
エジプトを脱出した古代イスラエル人らは、
やがて長い旅の果てに約束の地カナンにたどり着く。

『民数記』によると、そこには
ネフィリムの子孫アナク人が暮らしていた。

イスラエル人たちは彼らと戦って皆殺しにし、
彼らの土地を奪ってイスラエル王国を建国する。

初代王サウルがペリシテ人その戦争で討たれた後は、
羊飼いの少年ダビデがネフィリムの血を引く巨人
ゴリアテ(ゴライアス)を倒し
その功績で王位を継ぐ事となる。

要するに北欧神話にしてもギリシア神話にしても
聖書にしても、先住民族の巨人を殺し、後発の部族が
新しい王朝を開くというパターンが見られるのだ。

375 :名無しのひみつ:2022/03/07(月) 07:01:52.86 ID:N+5GM+1Z.net
◆失われた史書

このパターンはその他インカ神話など世界中で見られる。
日本の『記紀』においても同様である。

元々『記紀』以前の史書には天皇家以前にあった
王朝の歴史について記されていたが、
乙巳の変で蘇我蝦夷の家が焼き討ちされ、
『天皇記(すめらみことのふみ)』が失われた。

なぜたった一人の豪族の家を焼いただけで史書が失われたのかというと
そもそも蘇我氏こそが当時の真の大王であり、
焼かれたのは宮殿だったからだ。

蘇我大王はその本当の名を奪われ、藤原氏によって
「蝦夷」という卑しい名前に書き替えられた。
その先の代の馬子と入鹿も同様に偽の名前で、
二人の名を合わせると「馬鹿」になる。

この際もうひとつの史書『国記(くにつふみ)』は
火災から持ち出されて、
クーデターの首謀者である中大兄皇子
(百済最後の王・慈義王の弟王子・翹岐であるとも言われる)
に献上されたが、歴史の中で消えてしまった。

おそらく中臣氏(藤原氏)によって焚書されてしまったのだろう。

376 :名無しのひみつ:2022/03/07(月) 07:03:13.31 ID:N+5GM+1Z.net
◆記紀の巨人討伐

以前の史書を焼き払い、歴史そのものを消し去った事で、
藤原氏は天皇家を日本における最初の大王だとする
創作史料『記紀』の編纂に乗り出し、
大和王朝の公式史書に指定される。

記紀以前の史書には
イザナギ・イザナミ以前の世界を滅ぼした
大洪水について記されていたようだが、
『記紀』ではここから話が始まるようになっている。

世界全土を滅ぼした大洪水により、
世界は泥の海に沈んでしまったが、
やがて水位が下がり、島々が姿を現す。

イザナギとイザナミはその中でも最も古いオノゴロ島に降り、
子作りを行い、やがてその末裔が人間となる。

それから時が流れ、イワアレビコの軍勢は長い東征の末に、
約束の地である中つ国にやってくる。
そこは"巨人"や"もののけ"たちの支配する土地だった。

巨人たちを軍隊で無慈悲に掃滅し、
もののけたちを退治して帰順させた後、
イワアレビコは王朝を開き、天皇家の祖先となる。
…というストーリーだ。

やはり根底となったストーリーは『聖書』と同じである。

377 :名無しのひみつ:2022/03/07(月) 07:07:32.08 ID:N+5GM+1Z.net
◆勝者視点の歴史

いうまでもなく、『記紀』は天皇家視点の物語である。

天皇家を神に祝福された偉大で聖なる存在として描写し
その支配を正当化する事を目的として書かれたものだ。

反面、侵略者である天皇家に敗れ、
一族を殺され、土地を奪われ、
奴隷の地位にまて貶められた畿内の原住民らは
"もののけ"の地位にまで貶められ、蔑まれて書かれている。

堡塁を築いて抵抗し、穴居生活を送っていた原住民らは、
胴体が短く足の長い、"土蜘蛛"という名に
貶められて妖怪として描写された。

また別名を八束脛(やつかはぎ)と呼ばれた。
これは非常に足の長い異形の巨人という意味である。

畿内を支配していた王も本当の名前を抹消され、
長髄彦(巨人)という卑しい名前にされた。

378 :名無しのひみつ:2022/03/07(月) 07:08:08.44 ID:N+5GM+1Z.net
◆物部氏の隆盛

吉野郡あたりの原住民らは国樔(クズ)という名であったが、
彼らも最低の地位にまで貶められ、
以降日本では取るに足らないゴミのような存在を
『クズ』と蔑称するようになった。

ちなみに国樔たちが着物の材質として使っていたカズラも
クズと呼ばれるようになった。

なお 『常陸国風土記』などでは、
国栖(くず)と都知久母(つちぐも)は
同じ意味であるということが記されている。

長髄彦の妹はニギハヤヒに仕え、
宇摩志麻治命(うましまじのみこと)という子供を設けていた。
この人物を遠祖とするのが古代の畿内において
勢力を振るった"物部氏"である。
同族に穂積氏と、そこから分かれた鈴木氏がいる。

物部氏は古代神道を奉る祭祀氏族であるだけでなく
物具(もののぐ)、つまり兵器製造において絶大な権力を持ち、
古代朝廷の軍事・警察・刑罰・呪術などを担当した。
物部の軍人らは「もののふ」と呼ばれ称えられた。

379 :名無しのひみつ:2022/03/07(月) 07:09:48.77 ID:N+5GM+1Z.net
◆物部氏の零落

しかし大陸から「佛」という蕃神が入ってくると、
天皇家は古来の神々にかわって佛を信仰するようになった。
同じく佛を奉じる豪族たちが重用されるようになり、
物部氏は彼らとの宗教戦争で大敗を喫する事となる。

更に台頭してきた藤原氏に政争で敗れ、
平城京遷都にともなって藤原京に置き去りにされてしまう。

藤原氏は平城京や平安京で隆盛を極め、
権力の中枢で政権を牛耳るようになった。
一方で物部氏は見る影もなく凋落し、
「もののけ」と呼ばれて蔑まれる事となった。

長い間使っていた物が意思を持って付喪神になる、
いわゆる『物の化』という字は後世の当て字である。

380 :名無しのひみつ:2022/03/08(火) 06:58:49.60 ID:IoLXLpWc.net
◆もののけ姫

古くから畿内を支配していた王を長髄彦と呼んで蔑み、
これを力づくで征服してしまった天皇家に対し、
強硬な反抗心を抱くアニメ映画監督がいた。

戦闘機の部品を製造していた会社の社長の息子として
1941年に生を享けた宮崎駿という人物である。

彼が記紀神話に反抗して作ったのが
1997年に公開された『もののけ姫』という映画である。

長髄彦の話をしたついでに『もののけ姫』の話をする。

この映画は紀元前30世紀頃に原型が作られたと考えられている
メソポタミアに伝わる世界最古の物語である
『ギルガメッシュ叙事詩』を、
南北朝時代初期の日本を舞台に翻案したものだ。

381 :名無しのひみつ:2022/03/08(火) 07:00:30.47 ID:IoLXLpWc.net
◆エミシの村

簡単にあらすじを述べると、天皇家によって敗北し、
土地を奪われた長髄彦の一族は、
東北に落ち延び、まつろわぬ民として、
細々と縄文時代の頃の暮らしを続けていた。

物語冒頭の舞台となるのがエミシの村である。
その長はシャーマンの老婆であり、
このあたりは長髄彦の王国の前身である
卑弥呼や台与が統治していた邪馬台国をイメージしている可能性がある。

その村にある日、"土蜘蛛"の姿をした巨大な怪物が現れる。
しかし赤鹿(インパラ)に乗り、蕨手刀をふるう
ひとりの少年が弓で土蜘蛛を倒す。

少年の名は足高彦。エミシの王子である。

いうまでもなく名前のモデルとなったのは
かつて畿内を支配していた王・長髄彦であり、
おそらくは長髄彦の生まれ変わりと思われる。

382 :名無しのひみつ:2022/03/08(火) 07:00:55.35 ID:IoLXLpWc.net
◆タタリ神

土蜘蛛を倒したところ、それは祟りによって
異形の姿に変じた巨大な猪である事が判明する。

猪の神・ナゴの守はシシ神の森の支配者だったが
人間の作り出した鉄の玉によって傷つけられたと言って息絶える。

ナゴの守の元ネタは国樔(くず)の一族が住んでいた
奈良県吉野郡の伝説である。

吉野郡の伯母峰峠で射馬兵庫という猟師が、
笹の塊を背負った大猪と出会い、鉄砲で撃った。
それは猪笹王(いざさおう)という森の王だつた。

深手を負った猪笹王は人里に現れて
「自分を撃った猟師の鉄砲と犬を取り上げて持ってこい。
さもなくば村人を食い殺す」と脅した。
そして一本足の怪物・一本ダタラに化身し、
次々と村人や旅人食い殺したという。

猪の神は「草猪(くさいなぎ)」という名前で今昔物語にも登場する。

383 :名無しのひみつ:2022/03/08(火) 07:01:31.44 ID:IoLXLpWc.net
◆猪の荒神

なぜ監督の宮崎は主人公と
因縁の邂逅を果たす怪物を猪にしたのか。
それは猪の荒神は伝統的に、
侵略者である天皇家に反目する土地神だからである。

『記紀』では九州の熊襲一族を殺戮して従属させた日本武尊が
更に伊吹山の神を殺そうと山に登ったところ、
神の化身である白い猪が現れ、氷雨を降らせて
日本武尊を死に追いやっている。

また712年に著された『古事記』によると、
雄略天皇が国樔の一族の聖地である葛城山に行ったところ
大きな猪が現れ、舎人が襲われて木の上に逃げている。
更に猪は雄略天皇に突進してきたが、弓で射られ、
踏みにじられて殺されたという。

そうした猪の怨念が足高彦の片腕に宿り、
共に旅をする事となる。

384 :名無しのひみつ:2022/03/15(火) 15:17:02.96 ID:Bn9eRBM/.net
一通りスレ読みました

前々から世界各地の神話伝承歴史は一点に収束するのではと
思っていたけど、大変な知識量で参考になる

続きはどこで読めますか?

385 :名無しのひみつ:2022/03/15(火) 15:25:32.73 .net
山本周五郎の「天地静大」にこんなのがあった

幕末の尊王思想は水戸家の大日本史が根本で会沢正志斎の『新論』が筒先になった
ああいう狂気じみたものに憑かれたみたいな思想が人の心を引きつける時代だ

国体ってのは200年前に会沢正志斎が「新論」のなかで作った概念なのか
イギリスなどの西洋諸国のアジア侵攻に対する危機感があり、
これに対抗するために正志斎は人心統合の思想として国体を持ち出した。
、天皇への忠を尽くすことは孝の実践につながり、天皇の即位に際して大嘗祭を行うことで人心が統合できると説いた。

386 :名無しのひみつ:2022/03/17(木) 11:52:44.06 ID:oVqB15Ni.net
こういうことをいうとまた日本人=ユダヤ人説を言い出す奴が出てくる

387 :名無しのひみつ:2022/03/19(土) 23:05:18.99 ID:3K3xrh+m.net
>>384
ちっょと今はしばらく別スレ向けにウクライナの件 ロシアの件
ヒトラーの件などをまとめていて
別に小説も書いてるから
それらが終わったら続きを書くわ

アレクサンダー大王の真の目的と徐福との繋がり
邪馬台国の成立 邪馬台国の本当の位置
天皇家の成立 消された各地の王朝
秦氏の正体  平安京の正体 神輿の正体などなど

388 :名無しのひみつ:2022/03/20(日) 16:33:33.31 ID:A9ghJlRV.net
>>387
おお
そそるフレーズ目白押し
期待して待っております

389 :名無しのひみつ:2022/03/20(日) 16:51:04.03 ID:PaX7T3Xw.net
何でもかんでも日本の伝統を東アジアの国々と結び付けたがるバカが
いるんだよw
神話の類似なんて、探せばどこの国でもあるんだよ。
メソポタミアの神話がユダヤの神話と似ていたりギリシャの神話と同じ物語が
あったり、それどころか、日本の古事記とギリシャ神話の中にもソックリな
物語がある。それをいちいち民族の発祥と関連付けていたら、世界中の民族は
みんな同一起源になっちゃうわww

390 :名無しのひみつ:2022/03/22(火) 01:15:15.53 ID:cqgYUMjD.net
遊び心がない馬鹿はどっちだろうかw
こういう人は厳密な実証主義で何を語るのやら。

391 :名無しのひみつ:2022/03/23(水) 00:43:47.43 ID:jvs7Jn0m.net
>>390
日ユ同祖論なんかは割と洒落にならない域まで拡大してしまったから、
そんな言葉遊びから始まった都市伝説的な世界観も賢人を数々巻き込むほど割と業が深いものに発展してしまった
盲信的になると情報を探す目的・情報を手に入れる手段の意味が逆になってしまう
ただでさえ専門外で趣味でしか時間が割けない賢人ほど嘘を信じてしまう

392 :名無しのひみつ:2022/03/23(水) 02:45:41.82 ID:DmfjmYMs.net
>>391
シュメール=皇w

393 :名無しのひみつ:2022/04/19(火) 21:18:01.85 ID:Uh0rYq3A.net
>>163
> そもそも人類はみんな最初は遊牧民みたいなもんだよ

無茶言うなよ
狩猟、養家畜、遊牧、全然違うし
多分この順番

394 :名無しのひみつ:2022/04/22(金) 13:45:31 ID:AL107wvx.net
>>392
比較言語学的な真似事と思えるけど、実際はあの学問も緻密かつ学問を跨いだ範囲の広い研究やって裏打ちを揃えていくから
まず音対応の部分でさえ細やかな整合性無いと見向きもされない程洗練されてるんだろうな

「日本語の掬うは英語でscoop、これ絶対日本語と英語は同じ起源だ!」みたいな話はまず通用しないんだし

ヘブライ人からしてみればなんのこっちゃ!?とか面白いな!みたいな反応しかしないし冗談半分だとしか思わないのはつべでも判る

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