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60代以上が見た明治大学
- 864 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/02(金) 11:10:02.88 ID:/LRmEY2c.net
- >>863
それ青学のことじゃん。
青山学院九十年史
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN03264988
明治30年ごろの学校の附近のようすを、このころ卒業した校友の一文は、次のように記している。
「一筋の道、六十年前の青山」
長い長い道だった。赤坂見附から青山七丁目までの一本道は。豊川稲荷前から、
青山御所をすぎるまでは明治三十年頃でも、堂々とした町だったが、一丁目から先は
道幅もせばまり、石屋が並んで、南側は墓地、北側は練兵場、風の日は砂塵に空も赤くなるほど。
四丁目から道はくの字に曲って更に狭く、両側には、呉服屋、本屋、鰻屋、そばや、
およそ世間普通の商店街をなしていたけれども、五丁目辺には、御旅人宿という看板をかかげた
余りパッとしない宿屋もあって、都心からはひどく遠い場末の観を呈していた。
この辺から見とおすと、道は殆ど行き止りかと思えるように、青山学院の洋館が立ちはだかって
見えたものである。黒くふちどってよごれた白亜で、頭のない、何か異様な感じの洋館であった。
行李と一緒に人力車につまれて、初めて寄宿舎に行った時「ああ英和学校ですね」と車夫がいったので、
世間では学院というよりも、其方が通用することを私は知った。それは、明治二十九年の晩春である。
……[青山学院正門は]明治三十年頃までは、厚いからたちの生垣であったように思う。
向側の角は、わら屋根の焼芋屋、その隣がせんべい屋、肥桶満載の荷車が朝夕行列するこの辺は、
雨の日など高下駄で泳ぐほどの泥濘であった。(松岡久子、「一筋の道」青山学院資料室蔵)
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