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【急騰】今買えばいい株6296【 】

1 :山師さん(ワッチョイ 83b2-3Gy/):2016/07/13(水) 10:39:21.74 ID:hrQPegy00.net

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475 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:03:58.27 ID:IJsBeOR90.net
こう聞いた。
「君は恋をした事がありますか」
 私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
 私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君が恋を求めながら相
手を得られないという不快の声が交まじっていましょう」
「そんな風ふうに聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋
は罪悪ですよ。解わかっていますか」
 私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。

十三

 我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉うれしそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見
えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と私わたくしがその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに
恋で動いているじゃありませんか」
 私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何
にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上のぼる楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たので
す」
「私には二つのものが全く性質を異ことにしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特
別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っていま
す。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし…
…」
 私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだあ
りません」
 先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もない
が、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
 私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味
は朦朧もうろうとしてよく解わからなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然はっきりいって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで
切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実まことを話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮じらし
ていたのだ。私は悪い事をした」
 先生と私とは博物館の裏から鶯渓うぐいすだにの方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間すきまか
ら広い庭の一部に茂る熊笹くまざさが幽邃ゆうすいに見えた。

476 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:04:07.28 ID:IJsBeOR90.net
「君は私がなぜ毎月まいげつ雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地に埋うまっている友人の墓へ参るのか知っていま
すか」
 先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく
承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪い事をいった。焦慮じらせるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを
焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止やめましょう。とにかく恋は罪悪で
すよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
 私には先生の話がますます解わからなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。

十四

 年の若い私わたくしはややともすると一図いちずになりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っ
ていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思
想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもた
だ独ひとりを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上のぼせちゃいけません」と先生がいった。
「覚さめた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯う
けがってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭いやになります。私は今のあなたからそれほどに
思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお
苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
 先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿
つばきの花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺ながめる癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
 その時生垣いけがきの向うで金魚売りらしい声がした。その外ほかには何の聞こえるものもなかった。
大通りから二丁ちょうも深く折れ込んだ小路こうじは存外ぞんがい静かであった。家うちの中はいつもの
通りひっそりしていた。私は次の間まに奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さ
んの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないよう
になっているのです。自分を呪のろうより外ほかに仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖こわくなったんで
す」
 私はもう少し先まで同じ道を辿たどって行きたかった。すると襖ふすまの陰で「あなた、あなた」とい
う奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の
間まへ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解わからなかった。それを想像する余裕を与
えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺あざむかれた返報
に、残酷な復讐ふくしゅうをするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝ひざの前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載のせさせ
ようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥しりぞけたいと思うのです。私は今
より一層淋さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己おの
れとに充みちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょ
う」
 私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。

477 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:04:16.25 ID:IJsBeOR90.net
十五

 その後ご私わたくしは奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度
に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
 奥さんの様子は満足とも不満足とも極きめようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会が
なかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と
奥さんとは滅多めったに顔を合せなかったから。
 私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷た
い眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐すわって考える質たちの人で
あった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか
。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石
造せきぞう家屋の輪廓りんかくとは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれど
もその思想家の纏まとめ上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離さ
れた他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほど
の事実が、畳み込まれているらしかった。
 これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯
みねのようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽おおい被かぶせた。そうしてなぜそ
れが恐ろしいか私にも解わからなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を震ふる
わせた。
 私は先生のこの人生観の基点に、或ある強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に
起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛てがかりにもな
った。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな厭世えんせいに近
い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の
頭の上に足を載のせさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の誰彼たれかれについて用いられ
るべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
 雑司ヶ谷ぞうしがやにある誰だれだか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが
先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のでき
ない私は、先生の頭の中にある生命いのちの断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども
私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命いのちの扉を開ける鍵かぎにはならな
かった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
 そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。その頃こ
ろは日の詰つまって行くせわしない秋に、誰も注意を惹ひかれる肌寒はださむの季節であった。先生の附
近ふきんで盗難に罹かかったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを
持って行かれた家うちはほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。奥さんは気味
をわるくした。そこへ先生がある晩家を空あけなければならない事情ができてきた。先生と同郷の友人で
地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は外ほかの二、三名と共に、ある所でその友人に飯
めしを食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私
はすぐ引き受けた。

十六

 私わたくしの行ったのはまだ灯ひの点つくか点かない暮れ方であったが、几帳面きちょうめんな先生は
もう宅うちにいなかった。「時間に後おくれると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さん
は、私を先生の書斎へ案内した。
 書斎には洋机テーブルと椅子いすの外ほかに、沢山の書物が美しい背皮せがわを並べて、硝子越ガラス
ごしに電燈でんとうの光で照らされていた。奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団ざぶとんの上へ私を坐すわ
らせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。私はちょうど主人の帰
りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私は畏かしこまったまま烟草タバコを飲んでいた。奥
さんが茶の間で何か下女げじょに話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った

478 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:04:25.27 ID:IJsBeOR90.net
角かどにあるので、棟むねの位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを領りょうしていた
。ひとしきりで奥さんの話し声が已やむと、後あとはしんとした。私は泥棒を待ち受けるような心持で、
凝じっとしながら気をどこかに配った。
 三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私
に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪しかつめらしく控えている私をおかしそうに見た。
「それじゃ窮屈でしょう」
「いえ、窮屈じゃありません」
「でも退屈でしょう」
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
 奥さんは手に紅茶茶碗こうちゃぢゃわんを持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから番をするには好よくありませんね」と私がいった。
「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴ちょうだい。ご退屈たいくつだろうと思って、お茶を入れて
持って来たんですが、茶の間で宜よろしければあちらで上げますから」
 私は奥さんの後あとに尾ついて書斎を出た。茶の間には綺麗きれいな長火鉢ながひばちに鉄瓶てつびん
が鳴っていた。私はそこで茶と菓子のご馳走ちそうになった。奥さんは寝ねられないといけないといって
、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛でかけになるんですか」
「いいえ滅多めったに出た事はありません。近頃ちかごろは段々人の顔を見るのが嫌きらいになるようで
す」
 こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風ふうも見えなかったので、私はつい大胆になっ
た。
「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
「いいえ私も嫌われている一人なんです」
「そりゃ嘘うそです」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
「あなたは学問をする方かただけあって、なかなかお上手じょうずね。空からっぽな理屈を使いこなす事
が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同お
んなじ理屈で」
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空からの盃さかずきでよくああ飽きず
に献酬けんしゅうができると思いますわ」
 奥さんの言葉は少し手痛てひどかった。しかしその言葉の耳障みみざわりからいうと、決して猛烈なも
のではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出みいだすほどに奥さ
んは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。

十七

 私わたくしはまだその後あとにいうべき事をもっていた。けれども奥さんから徒いたずらに議論を仕掛
ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した紅茶茶碗こうちゃぢゃわんの底を
覗のぞいて黙っている私を外そらさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を
奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
 妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数かずを聞いた。
奥さんの態度は私に媚こびるというほどではなかったけれども、先刻さっきの強い言葉を力つとめて打ち
消そうとする愛嬌あいきょうに充みちていた。
 私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱しかり付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
 二人はそれを緒口いとくちにまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした

479 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:04:34.30 ID:IJsBeOR90.net

「奥さん、先刻さっきの続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには空からな理屈と聞こえるか
も知れませんが、私はそんな上うわの空そらでいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外ほかに仕方がないじゃありませんか。
私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目まじめですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺
っていい質問ですから、あなたに伺います」
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好いいじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを
向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃ
ない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれ
ば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚おのぼれになる
ようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっ
ても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いてい
られるんです」
「その信念が先生の心に好よく映るはずだと私は思いますが」
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう
。世間というより近頃ちかごろでは人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人いちにん
として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
 奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑のみ込めた。

十八

 私わたくしは奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意
に一種の刺戟しげきを与えた。それで奥さんはその頃ころ流行はやり始めたいわゆる新しい言葉などはほ
とんど使わなかった。
 私は女というものに深い交際つきあいをした経験のない迂闊うかつな青年であった。男としての私は、
異性に対する本能から、憧憬どうけいの目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の
雲を眺ながめるような心持で、ただ漠然ばくぜんと夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出
ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、
その場に臨んでかえって変な反撥力はんぱつりょくを感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出
なかった。普通男女なんにょの間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さ
んの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に
、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその間あいだ始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
「無論いましたわ。夫婦ですもの」

480 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:04:43.38 ID:IJsBeOR90.net
「じゃ先生がそう変って行かれる源因げんいんがちゃんと解わかるべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛つらいんですが、私にはどう考えても、考えよ
うがないんですもの。私は今まで何遍なんべんあの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分り
ゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、
取り合ってくれないんです」
 私は黙っていた。奥さんも言葉を途切とぎらした。下女部屋げじょべやにいる下女はことりとも音をさ
せなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいっ
た。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
 奥さんは火鉢の灰を掻かき馴ならした。それから水注みずさしの水を鉄瓶てつびんに注さした。鉄瓶は
忽たちまち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防しんぼうし切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいっ
て下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点は
おれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなお
の事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
 奥さんは眼の中うちに涙をいっぱい溜ためた。

十九

 始め私わたくしは理解のある女性にょしょうとして奥さんに対していた。私がその気で話しているうち
に、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓ハートを動かし始め
た。自分と夫の間には何の蟠わだかまりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに
眼を開あけて見極みきわめようとすると、やはり何なんにもない。奥さんの苦にする要点はここにあった

 奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的えんせいてきだから、その結果として自分も嫌われている
のだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、か
えってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭いやになったのだろうと推測
していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度
はどこまでも良人おっとらしかった。親切で優しかった。疑いの塊かたまりをその日その日の情合じょう
あいで包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観じんせいかん
とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴ちょうだい」
 私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答え
が何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるもの
があると信じていた。
「私には解わかりません」
 奥さんは予期の外はずれた時に見る憐あわれな表情をその咄嗟とっさに現わした。私はすぐ私の言葉を
継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通り
を奥さんに伝えるだけです。先生は嘘うそを吐つかない方かたでしょう」
 奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
「先生がああいう風ふうになった源因げんいんについてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれる
んですが、……」
「どんな事ですか」

481 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:04:52.34 ID:IJsBeOR90.net
 奥さんはいい渋って膝ひざの上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと叱しかられるから。叱られないところだけよ」
 私は緊張して唾液つばきを呑のみ込んだ。
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いいお友達が一人あったのよ。その方かたがちょうど卒業する
少し前に死んだんです。急に死んだんです」
 奥さんは私の耳に私語ささやくような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうし
て」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後のちなんです。先生の性質が段々変って
来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれ
どもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、雑司ヶ谷ぞうしがやにあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化
できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪たまらないんです。だからそこを一つあなたに判断し
て頂きたいと思うの」
 私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。

二十

 私わたくしは私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私に
よって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと
事の大根おおねを攫つかんでいなかった。奥さんの不安も実はそこに漂ただよう薄い雲に似た疑惑から出
て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも悉皆
すっかりは私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、
ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束おぼつかない私の判断に縋
すがり付こうとした。
 十時頃ごろになって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、
前に坐すわっている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして格子こうしを開ける先生をほとんど出
合であい頭がしらに迎えた。私は取り残されながら、後あとから奥さんに尾ついて行った。下女げじょだ
けは仮寝うたたねでもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
 先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のう
ちに溜たまった涙の光と、それから黒い眉毛まゆげの根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変
化を異常なものとして注意深く眺ながめた。もしそれが詐いつわりでなかったならば、(実際それは詐り
とは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷センチメントを玩もてあそぶためにとくに私を相手
に拵こしらえた、徒いたずらな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそ
れほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。
これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
 先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないん
で張合はりあいが抜けやしませんか」といった。
 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰つぶさせて気
の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥
さんはそういいながら、先刻さっき出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを
袂たもとへ入れて、人通りの少ない夜寒よさむの小路こうじを曲折して賑にぎやかな町の方へ急いだ。
 私はその晩の事を記憶のうちから抽ひき抜いてここへ詳くわしく書いた。これは書くだけの必要がある
から書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰もらって帰るときの気分では、それほど当夜の会話を
重く見ていなかった。私はその翌日よくじつ午飯ひるめしを食いに学校から帰ってきて、昨夜ゆうべ机の
上に載のせて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色とびいろのカステラ
を出して頬張ほおばった。そうしてそれを食う時に、必竟ひっきょうこの菓子を私にくれた二人の男女な
んにょは、幸福な一対いっついとして世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
 秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の宅うちへ出ではいりをするついでに、衣服の

482 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:05:01.25 ID:IJsBeOR90.net
洗あらい張はりや仕立したて方かたなどを奥さんに頼んだ。それまで繻絆じゅばんというものを着た事の
ない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のな
い奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって退屈凌たいくつしのぎになって、結句けっく身体からだの
薬だぐらいの事をいっていた。
「こりゃ手織ておりね。こんな地じの好いい着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い悪にくいのよ
そりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お蔭かげで針を二本折りましたわ」
 こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒めんどうくさいという顔をしなかった。

二十一

 冬が来た時、私わたくしは偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中
に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できる
なら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
 父はかねてから腎臓じんぞうを病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病やまいは慢
性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現
に父は養生のお蔭かげ一つで、今日こんにちまでどうかこうか凌しのいで来たように客が来ると吹聴ふい
ちょうしていた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機はずみに突然眩暈めまいがして
引ッ繰り返った。家内かないのものは軽症の脳溢血のういっけつと思い違えて、すぐその手当をした。後
あとで医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎
臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
 冬休みが来るにはまだ少し間まがあった。私は学期の終りまで待っていても差支さしつかえあるまいと
思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配し
ている顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗なめた私は、とうとう帰る決心をした
。国から旅費を送らせる手数てかずと時間を省くため、私は暇乞いとまごいかたがた先生の所へ行って、
要いるだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
 先生は少し風邪かぜの気味で、座敷へ出るのが臆劫おっくうだといって、私をその書斎に通した。書斎
の硝子戸ガラスどから冬に入いって稀まれに見るような懐かしい和やわらかな日光が机掛つくえかけの上
に射さしていた。先生はこの日あたりの好いい室へやの中へ大きな火鉢を置いて、五徳ごとくの上に懸け
た金盥かなだらいから立ち上あがる湯気ゆげで、呼吸いきの苦しくなるのを防いでいた。
「大病は好いいが、ちょっとした風邪かぜなどはかえって厭いやなものですね」といった先生は、苦笑し
ながら私の顔を見た。
 先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平まっぴらです。先生だって同じ事でしょう。
試みにやってご覧になるとよく解わかります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹かかりたいと思ってる」
 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥ちゃだんすか何か
の抽出ひきだしから出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧ていねいに重ねて、「そりゃご心配ですね
」といった。
「何遍なんべんも卒倒したんですか」と先生が聞いた。
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
 先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。
「そうさね。私が代られれば代ってあげても好いいが。――嘔気はきけはあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、大方おおかたないんでしょう」
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。
 私はその晩の汽車で東京を立った。

二十二

483 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:05:10.25 ID:IJsBeOR90.net
 父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、床とこの上に胡坐あぐらをかいて、「み
んなが心配するから、まあ我慢してこう凝じっとしている。なにもう起きても好いいのさ」といった。し
かしその翌日よくじつからは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は不承無性
ふしょうぶしょうに太織ふとおりの蒲団ふとんを畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気
が強くおなりなんだよ」といった。私わたくしには父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなか
った。
 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母ちちはは
の顔を見る自由の利きかない男であった。妹は他国へ嫁とついだ。これも急場の間に合うように、おいそ
れと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹きょうだい三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしてい
る私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業を放ほうり出して、休み前に帰って来たという
事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山ぎょうさんな手紙を書くものだか
らいけない」
 父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床とこを上げさせて、いつものよ
うな元気を示した。
「あんまり軽はずみをしてまた逆回ぶりかえすといけませんよ」
 私のこの注意を父は愉快そうにしかし極きわめて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように要心ようじんさえしていれば」
 実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈めまいも感じなかった
。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格
別それを気に留めなかった。
 私は先生に手紙を書いて恩借おんしゃくの礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待って
くれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈
も嘔気はきけも皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪ふうじゃについても一言いちごんの見舞を
附つけ加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
 私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の噂うわさ
などをしながら、遥はるかに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには椎茸しいたけでも持って行ってお上げ」
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
「旨うまくはないが、別に嫌きらいな人もないだろう」
 私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
 先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、
驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一
本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なか
ったが。
 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない
事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰もらっていない。その一通は
今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛あてで書いた大変長いものである。
 父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外そとへは
出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣きづかって、
私が引き添うように傍そばに付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑っ
て応じなかった。

二十三

 私わたくしは退屈な父の相手としてよく将碁盤しょうぎばんに向かった。二人とも無精な性質たちなの
で、炬燵こたつにあたったまま、盤を櫓やぐらの上へ載のせて、駒こまを動かすたびに、わざわざ手を掛
蒲団かけぶとんの下から出すような事をした。時々持駒もちごまを失なくして、次の勝負の来るまで双方
とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から見付みつけ出して、火箸ひばしで挟はさみ上げるという
滑稽こっけいもあった。

484 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:05:19.30 ID:IJsBeOR90.net
「碁ごだと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は好
いいね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
 父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要す
るに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、こ
の隠居いんきょじみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が経たつに伴つれて、若い私の気力
はそのくらいな刺戟しげきで満足できなくなった。私は金きんや香車きょうしゃを握った拳こぶしを頭の
上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
 私は東京の事を考えた。そうして漲みなぎる心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動こどうを
聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分
らないほど大人おとなしい男であった。他ひとに認められるという点からいえばどっちも零れいであった
。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊
興のために往来ゆききをした覚おぼえのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に
影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷ひややか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなか
に先生の力が喰くい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私に
は少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの
他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのご
とくに驚いた。
 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐ちんぷになって来た。
これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも
置かないように、ちやほや歓待もてなされるのに、その峠を定規通ていきどおり通り越すと、あとはそろ
そろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがち
になるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解わか
らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者じゅしゃの家へ切支丹キリシタンの臭にお
いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。
けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に留とまった。
私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
 父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠く
から相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められ
なかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も
母も反対した。
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
 私は自分の極きめた出立しゅったつの日を動かさなかった。

二十四

 東京へ帰ってみると、松飾まつかざりはいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを
見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
 私わたくしは早速さっそく先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸しいたけもついでに持って行った
。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置
いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。鄭寧ていねいに礼を述べた奥さんは、次の間まへ立つ時、そ
の折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子おかし」と聞いた。奥さんは懇意にな
ると、こんなところに極きわめて淡泊たんぱくな小供こどもらしい心を見せた。
 二人とも父の病気について、色々掛念けねんの問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった

「なるほど容体ようだいを聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気を
つけないといけません」
 先生は腎臓じんぞうの病やまいについて私の知らない事を多く知っていた。
「自分で病気に罹かかっていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある

485 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:05:28.24 ID:IJsBeOR90.net
士官しかんは、とうとうそれでやられたが、全く嘘うそのような死に方をしたんですよ。何しろ傍そばに
寝ていた細君さいくんが看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいとい
って、細君を起したぎり、翌あくる朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思っ
てたんだっていうんだから」
 今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
「私の父おやじもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何というのです」
「医者は到底とても治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
「それじゃ好いいでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかも
それがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
 私はやや安心した。私の変化を凝じっと見ていた先生は、それからこう付け足した。
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆もろいものですね。いつどんな事でどんな死に
ようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えてお出いでですか」
「いくら丈夫の私でも、満更まんざら考えない事もありません」
 先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間まに死ぬ人もあるでしょ
う。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも解わからないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭かげですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
 その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬ
とか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後あとは何らのこだ
わりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾度いくたびか手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文
を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。

二十五

 その年の六月に卒業するはずの私わたくしは、ぜひともこの論文を成規通せいきどおり四月いっぱいに
書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し
自分の度胸を疑うたぐった。他ほかのものはよほど前から材料を蒐あつめたり、ノートを溜ためたりして
、余所目よそめにも忙いそがしそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年
が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして忽たちまち動
けなくなった。今まで大きな問題を空くうに描えがいて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考え
ていた私は、頭を抑おさえて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思
想を系統的に纏まとめる手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょ
っと付け加える事にした。
 私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を
尋ねた時、先生は好いいでしょうといった。狼狽ろうばいした気味の私は、早速さっそく先生の所へ出掛
けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与え
てくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点について毫ごうも私を指導
する任に当ろうとしなかった。
「近頃ちかごろはあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好い
でしょう」
 先生は一時非常の読書家であったが、その後ごどういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなった
ようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、
そぞろに口を開いた。
「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」
「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでし
ょう。それから……」

486 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:05:37.26 ID:IJsBeOR90.net
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥
のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出した
ものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い
込んだのです」
 先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味くみを帯びていなかっただけに、私に
はそれほどの手応てごたえもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに
帰った。
 それからの私はほとんど論文に祟たたられた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年前ぜん
に卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。そのうちの一人いちにんは締切しめきりの日に
車で事務所へ馳かけつけて漸ようやく間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほど後おくらして
持って行ったため、危あやうく跳はね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理しても
らったといった。私は不安を感ずると共に度胸を据すえた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でな
ければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻みまわした。私の眼は好事家こうずかが
骨董こっとうでも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
 梅が咲くにつけて寒い風は段々向むきを南へ更かえて行った。それが一仕切ひとしきり経たつと、桜の
噂うわさがちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に鞭むち
うたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を跨また
がなかった。

二十六

 私わたくしの自由になったのは、八重桜やえざくらの散った枝にいつしか青い葉が霞かすむように伸び
始める初夏の季節であった。私は籠かごを抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目ひとめに見渡し
ながら、自由に羽搏はばたきをした。私はすぐ先生の家うちへ行った。枳殻からたちの垣が黒ずんだ枝の
上に、萌もえるような芽を吹いていたり、柘榴ざくろの枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔ら
かそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るよ
うな珍しさを覚えた。
 先生は嬉うれしそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といった。私は「
お蔭かげでようやく済みました。もう何にもする事はありません」といった。
 実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに結了けつりょうして、これから先は威張って
遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足
をもっていた。私は先生の前で、しきりにその内容を喋々ちょうちょうした。先生はいつもの調子で、「
なるほど」とか、「そうですか」とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。私は物足
りないというよりも、聊いささか拍子抜けの気味であった。それでもその日私の気力は、因循いんじゅん
らしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに生々いきいきしていた。私は青く蘇生よみがえろうとする
大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変好いい心持です」
「どこへ」
 私はどこでも構わなかった。ただ先生を伴つれて郊外へ出たかった。
 一時間の後のち、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所を宛あても
なく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もぎ
取って芝笛しばぶえを鳴らした。ある鹿児島人かごしまじんを友達にもって、その人の真似まねをしつつ
自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづける
と、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
 やがて若葉に鎖とざされたように蓊欝こんもりした小高い一構ひとかまえの下に細い路みちが開ひらけ
た。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだ
ら上のぼりになっている入口を眺ながめて、「はいってみようか」といった。私はすぐ「植木屋ですね」
と答えた。
 植込うえこみの中を一ひとうねりして奥へ上のぼると左側に家うちがあった。明け放った障子しょうじ
の内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ軒先のきさきに据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が

487 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:05:46.32 ID:IJsBeOR90.net
動いていた。
「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
「構わないでしょう」
 二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。躑躅つつじが燃えるように咲き乱れ
ていた。先生はそのうちで樺色かばいろの丈たけの高いのを指して、「これは霧島きりしまでしょう」と
いった。
 芍薬しゃくやくも十坪とつぼあまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けてい
るのは一本もなかった。この芍薬畠ばたけの傍そばにある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字な
りに寝た。私はその余った端はじの方に腰をおろして烟草タバコを吹かした。先生は蒼あおい透すき徹と
おるような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよく眺ながめ
ると、一々違っていた。同じ楓かえでの樹きでも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉
苗の頂いただきに投げ被かぶせてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。

二十七

 私わたくしはすぐその帽子を取り上げた。所々ところどころに着いている赤土を爪つめで弾はじきなが
ら先生を呼んだ。
「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
 身体からだを半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、
変な事を私に聞いた。
「突然だが、君の家うちには財産がよっぽどあるんですか」
「あるというほどありゃしません」
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と田地でんぢが少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
 先生が私の家いえの経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ
先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして
遊んでいられるかを疑うたぐった。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな
露骨あらわな問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲
れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
 先生は平生からむしろ質素な服装なりをしていた。それに家内かないは小人数こにんずであった。した
がって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私
の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは贅沢ぜいたくといえないまでも、あたじけなく切り詰
めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私がいった。
「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家う
ちでも造るさ」
 この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐あぐらをかいていたが、こういい終ると、竹の杖つえの先で
地面の上へ円のようなものを描かき始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直まっす
ぐに立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
 先生の言葉は半分独ひとり言ごとのようであった。それですぐ後あとに尾ついて行き損なった私は、つ
い黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも
何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題を他よそへ移し
た。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
 私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替かわせと共に来る簡
単な手紙は、例の通り父の手蹟しゅせきであったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。

488 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:05:55.40 ID:IJsBeOR90.net
その上書体も確かであった。この種の病人に見る顫ふるえが少しも筆の運はこびを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もう好いいんでしょう」
「好よければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
 私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かん
だままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付
ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。

二十八

「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余
計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、貰もらうものはちゃんと貰っておくようにしたら
どうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
 私わたくしは先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に
限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまり
に実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣ことばづかいをするのが気
に触さわったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬ
か分らないものだからね」
 先生の口気こうきは珍しく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
「君の兄弟きょうだいは何人でしたかね」と先生が聞いた。
 先生はその上に私の家族の人数にんずを聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父おじや叔母おばの様子
を問いなどした。そうして最後にこういった。
「みんな善いい人ですか」
「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者いなかものですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
 私はこの追窮ついきゅうに苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚しんせきなぞ
の中うちに、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間
が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型いかたに入れたような悪人は世の中にあるはずが
ありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという
間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
 先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると後うしろの
方で犬が急に吠ほえ出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
 縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の傍そばに、熊笹くまざさが三坪みつぼほど地を隠すよ
うに茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ十とおぐらい
の小供こどもが馳かけて来て犬を叱しかり付けた。小供は徽章きしょうの着いた黒い帽子を被かぶったま
ま先生の前へ廻まわって礼をした。
「叔父さん、はいって来る時、家うちに誰だれもいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、今日こんちはって、断ってはいって来ると好よかったのに」
 先生は苦笑した。懐中ふところから蟇口がまぐちを出して、五銭の白銅はくどうを小供の手に握らせた

「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
 小供は怜悧りこうそうな眼に笑わらいを漲みなぎらして、首肯うなずいて見せた。
「今斥候長せっこうちょうになってるところなんだよ」

489 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:06:04.28 ID:IJsBeOR90.net
 小供はこう断って、躑躅つつじの間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻尾しっぽを高く巻いて小供の
後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方
へ駈けていった。

二十九

 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要
領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々うんぬんの掛念けねんはその時の私わたくしには全くな
かった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地
がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないた
めでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるとい
う言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解わからない事はなかった。しかし私は
この句についてもっと知りたかった。
 犬と小供こどもが去ったあと、広い若葉の園は再び故もとの静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖
とざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前
にある樹きは大概楓かえでであったが、その枝に滴したたるように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなっ
て行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植
木か何かを載せて縁日えんにちへでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想めいそ
うから呼息いきを吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。大分だいぶ日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうち
には、いつの間にか暮れて行くんだね」
 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向あおむきに寝た痕あとがいっぱい着いていた。私は両手でそれ
を払い落した。
「ありがとう。脂やにがこびり着いてやしませんか」
「綺麗きれいに落ちました」
「この羽織はつい此間こないだ拵こしらえたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻さいに叱
しかられるからね。有難う」
 二人はまただらだら坂ざかの中途にある家うちの前へ来た。はいる時には誰もいる気色けしきの見えな
かった縁えんに、お上かみさんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金
魚鉢の横から、「どうもお邪魔じゃまをしました」と挨拶あいさつした。お上さんは「いいえお構かまい
申しも致しませんで」と礼を返した後あと、先刻さっき小供にやった白銅はくどうの礼を述べた。
 門口かどぐちを出て二、三町ちょう来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は誰だれでもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれ
はどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差支さしつかえありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体ど
んな場合を指すのですか」
 先生は笑い出した。あたかも時機じきの過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風ふうに

「金かねさ君。金を見ると、どんな君子くんしでもすぐ悪人になるのさ」
 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰つまらなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜
けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後おくれがちになった。先生
はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見たまえ」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
 待ち合わせるために振り向いて立たち留どまった私の顔を見て、先生はこういった。

三十

490 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:06:13.25 ID:IJsBeOR90.net
 その時の私わたくしは腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい
事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態
度に拘泥こだわる様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行
くので、私は少し業腹ごうはらになった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。
「先生」
「何ですか」
「先生はさっき少し昂奮こうふんなさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮し
たのを滅多めったに見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
 先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応てごたえのあったようにも思った。また的まとが外はず
れたようにも感じた。仕方がないから後あとはいわない事にした。すると先生がいきなり道の端はじへ寄
って行った。そうして綺麗きれいに刈り込んだ生垣いけがきの下で、裾すそをまくって小便をした。私は
先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
 先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段
々賑にぎやかになった。今までちらほらと見えた広い畠はたけの斜面や平地ひらちが、全く眼に入いらな
いように左右の家並いえなみが揃そろってきた。それでも所々ところどころ宅地の隅などに、豌豆えんど
うの蔓つるを竹にからませたり、金網かなあみで鶏にわとりを囲い飼いにしたりするのが閑静に眺ながめ
られた。市中から帰る駄馬だばが仕切りなく擦すれ違って行った。こんなものに始終気を奪とられがちな
私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ後戻あともどり
をした時、私は実際それを忘れていた。
「私は先刻さっきそんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際昂奮こうふんするんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです
。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、
十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
 先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むし
ろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私に
も全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力しゅうじゃくりょくをいまだ
かつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処とこ
ろに、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと盾たてを突いてみようとした私は、
この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私は他ひとに欺あざむかれたのです。しかも血のつづいた親戚しんせきのものから欺かれたのです。私
は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否いなや許しが
たい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供こどもの時から今日きょうまで背負
しょわされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないん
だから。しかし私はまだ復讐ふくしゅうをしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にや
っているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を
覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
 私は慰藉いしゃの言葉さえ口へ出せなかった。

三十一

 その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私わたくしはむしろ先生の態度に畏縮いしゅく
して、先へ進む気が起らなかったのである。
 二人は市の外はずれから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もな
く別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これか
ら六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」と
いった。私は笑って帽子を脱とった。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人
間を憎んでいるのだろうかと疑うたぐった。その眼、その口、どこにも厭世的えんせいてきの影は射さし
ていなかった。
 私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、

491 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:06:22.38 ID:IJsBeOR90.net
利益を受けようとしても、受けられない事が間々ままあったといわなければならない。先生の談話は時と
して不得要領ふとくようりょうに終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例と
して私の胸の裏うちに残った。
 無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解わかってるくせに、はっきりいってくれないの
は困ります」
「私は何にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませ
んか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏まとめ上げた考えをむやみに人に隠しやしません。
隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉ことごとくあなたの前に物語らなくてはならないとなる
と、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを
切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられ
ただけで、満足はできないのです」
 先生はあきれたといった風ふうに、私の顔を見た。巻烟草まきタバコを持っていたその手が少し顫ふる
えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目まじめなんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐あばいてもですか」
 訐くという言葉が、突然恐ろしい響ひびきをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐すわっている
のが、一人の罪人ざいにんであって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼あ
おかった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果いんがで、人を疑うたぐり
つけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るに
はあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いいから、他ひとを信用して死にたいと思っ
ている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか

「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その
代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ
。聞かない方が増ましかも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さ
い。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。

三十二

 私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り
及第した。卒業式の日、私は黴臭かびくさくなった古い冬服を行李こうりの中から出して着た。式場にな
らぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚羅紗あつラシャの下に密封さ
れた自分の身体からだを持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょにな
った。
 私は式が済むとすぐ帰って裸体はだかになった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡とおめがねのように
ぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放
り出した。そうして大の字なりになって、室へやの真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた
。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意
味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
 私はその晩先生の家へ御馳走ごちそうに招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐ばんさん
はよそで喰くわずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
 食卓は約束通り座敷の縁えん近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊のりの硬こわい卓布

492 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:06:31.26 ID:IJsBeOR90.net
テーブルクロースが美しくかつ清らかに電燈の光を射返いかえしていた。先生のうちで飯めしを食うと、
きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸はしや茶碗ちゃわんが置かれた。そうしてそ
れが必ず洗濯したての真白まっしろなものに限られていた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層いっそ始はじめから色の着いたものを使
うが好いい。白ければ純白でなくっちゃ」
 こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然きちりと片付いていた。無頓
着むとんじゃくな私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は癇性かんしょうですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気に
しないようですよ」と答えた事があった。それを傍そばに聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神
的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿ばかばかしい性分しょうぶんだ」と
いって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという
意味か、私には解わからなかった。奥さんにも能よく通じないらしかった。
 その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布たくふの前に坐すわった。奥さんは二人を左右に置いて、
独ひとり庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のために杯さかずきを上げてくれた。私はこの盃さかずきに対してそ
れほど嬉うれしい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをも
っていなかったのが、一つの源因げんいんであった。けれども先生のいい方も決して私の嬉うれしさを唆
そそる浮々うきうきした調子を帯びていなかった。先生は笑って杯さかずきを上げた。私はその笑いのう
ちに、些ちっとも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲くみ取る事がで
きなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語
っていた。
 奥さんは私に「結構ね。さぞお父とうさんやお母かあさんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突
然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
 卒業証書の在処ありどころは二人ともよく知らなかった。

三十三

 飯めしになった時、奥さんは傍そばに坐すわっている下女げじょを次へ立たせて、自分で給仕きゅうじ
の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来しきたりらしかった。始めの一、二回は私
わたくしも窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗ちゃわんを奥さんの前へ出すのが、何でもなくな
った。
「お茶? ご飯はん? ずいぶんよく食べるのね」
 奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そ
んなに調戯からかわれるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた近頃ちかごろ大変小食しょうしょくになったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
 奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子みずがしを運ばせた。
「これは宅うちで拵こしらえたのよ」
 用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふるまうだけの余裕があると見えた。私はそれ
を二杯更かえてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をず
らして、敷居際しきいぎわで背中を障子しょうじに靠もたせていた。
 私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的あてもなかった。返事に
ためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお
役人やくにん?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくら
いなんですから。だいちどれが善いいか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと解わからないんだ
から、選択に困る訳だと思います」

493 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:06:40.35 ID:IJsBeOR90.net
「それもそうね。けれどもあなたは必竟ひっきょう財産があるからそんな呑気のんきな事をいっていられ
るのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
 私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事
実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
「碌ろくなかぶれ方をして下さらないのね」
 先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分け
てもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
 私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅つつじの咲いている五月の初め
を思い出した。あの時帰り途みちに、先生が昂奮こうふんした語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳
の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ凄すごい言葉であった。けれども事実を知らない私
には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お宅たくの財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
 奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅うちへ帰って一つ父に談判する時の参考にし
ますから聞かして下さい」
 先生は庭の方を向いて、澄まして烟草タバコを吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかっ
た。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。―
―そりゃどうでも宜いいとして、あなたはこれから何か為なさらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生の
ようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
 先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。

三十四

 私わたくしはその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座
を立つ前に私はちょっと暇乞いとまごいの言葉を述べた。
「また当分お目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
 私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来
て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月頃ごろになるでしょう」
「じゃずいぶんご機嫌きげんよう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずい
ぶん暑そうだから。行ったらまた絵端書えはがきでも送って上げましょう」
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
 先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
「何まだ行くとも行かないとも極きめていやしないんです」
 席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。
私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうく
らいに考えていた。
「そんなに容易たやすく考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症にょうどくしょうが出ると、もう駄目
だめなんだから」
 尿毒症という言葉も意味も私には解わからなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私は
そんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ廻まわるようになると、もうそれっ
きりよ、あなた。笑い事じゃないわ」

494 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:06:49.23 ID:IJsBeOR90.net
 無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
 奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも憶おもい出したのか、沈んだ調子でこうい
ったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。
 すると先生が突然奥さんの方を向いた。
「静しず、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「なぜ」
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも己おれの方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ旦
那だんなが先で、細君さいくんが後へ残るのが当り前のようになってるね」
「そう極きまった訳でもないわ。けれども男の方ほうはどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事にな
るね」
「あなたは特別よ」
「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。ほとんど煩わずらった例ためしがないじゃありませんか。そりゃどうしたっ
て私の方が先だわ」
「先かな」
「え、きっと先よ」
 先生は私の顔を見た。私は笑った。
「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
「どうするって……」
 奥さんはそこで口籠くちごもった。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったら
しかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を更かえていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定ろうしょうふじょうっていうくらいだから」
 奥さんはことさらに私の方を見て笑談じょうだんらしくこういった。

三十五

 私わたくしは立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
 先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、固もとより私に判断のつくべき問題ではなかった。私は
ただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極きまった年数をもらって来るんだから仕方
がないわ。先生のお父とうさんやお母さんなんか、ほとんど同おんなじよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
 この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
 奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを遮さえぎった。
「そんな話はお止よしよ。つまらないから」
 先生は手に持った団扇うちわをわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
「静しず、おれが死んだらこの家うちをお前にやろう」
 奥さんは笑い出した。
「ついでに地面も下さいよ」
「地面は他ひとのものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは皆みんなお前にやるよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか貰もらっても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
 先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった

495 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:06:58.30 ID:IJsBeOR90.net
。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわい
のない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍なんべんおっしゃるの。後生ごしょうだからもう好い
い加減にして、おれが死んだらは止よして頂戴ちょうだい。縁喜えんぎでもない。あなたが死んだら、何
でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
 先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの厭いやがる事をいわなくなった。私もあまり長
くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお大事だいじに」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
 私は挨拶あいさつをして格子こうしの外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀もく
せいの一株ひとかぶが、私の行手ゆくてを塞ふさぐように、夜陰やいんのうちに枝を張っていた。私は二
、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被おおわれているその梢こずえを見て、来たるべき秋の花と香を想
おもい浮べた。私は先生の宅うちとこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように
、いっしょに記憶していた。私が偶然その樹きの前に立って、再びこの宅の玄関を跨またぐべき次の秋に
思いを馳はせた時、今まで格子の間から射さしていた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥
へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
 私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調ととのえる買物もあったし、ご馳走ちそうを詰めた胃
袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑にぎやかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であ
った。用事もなさそうな男女なんにょがぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに
会った。彼は私を無理やりにある酒場バーへ連れ込んだ。私はそこで麦酒ビールの泡のような彼の気※(
「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎ
であった。

三十六

 私わたくしはその翌日よくじつも暑さを冒おかして、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受
けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫おっくうに感ぜられた。私は電車の中
で汗を拭ふきながら、他ひとの時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者いなかものを
憎らしく思った。
 私はこの一夏ひとなつを無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらか
じめ作っておいたので、それを履行りこうするに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日
を丸善まるぜんの二階で潰つぶす覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から
隅まで一冊ずつ点検して行った。
 買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟はんえりであった。小僧にいうと、いくらでも出してはく
れるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上価あたいが極き
わめて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると
、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付
かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを煩わずらわさなか
ったかを悔いた。
 私は鞄かばんを買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしてい
るので、田舎ものを威嚇おどかすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。
卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切いっさいの土産みやげものを入れて帰るようにと、わざわ
ざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡りょうけんが解わか
らないというよりも、その言葉が一種の滑稽こっけいとして訴えたのである。
 私は暇乞いとまごいをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った
。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にあ
りながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想
像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟してい
たに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底とても故もとのような健康体に

496 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:07:07.27 ID:IJsBeOR90.net
なる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一
度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定さだめて心細
いだろう、我々も子として遺憾いかんの至いたりであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際
心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
 私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののよう
に思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を想おもい浮べた。ことに二、三日前晩食
ばんめしに呼ばれた時の会話を憶おもい出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
 私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰
も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然はっきり分っていたな
らば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外
ほかに仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事も
できないように)。私は人間を果敢はかないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽
薄を、果敢ないものに観じた。
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中 両親と私




 宅うちへ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来る
から」
 父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽むぎわらぼうの後ろへ、日除ひよけのために括
くくり付けた薄汚うすぎたないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻まわって行った

 学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私わたくしは、それを予期以上に喜んで
くれる父の前に恐縮した。
「卒業ができてまあ結構だ」
 父はこの言葉を何遍なんべんも繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の
家うちの食卓で、「お目出とう」といわれた時の先生の顔付かおつきとを比較した。私には口で祝ってく
れながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉うれしがる父よりも
、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いなかくさいところに不快を感じ出した

「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
 私はついにこんな口の利ききようをした。すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう
少し意味があるんだ。それがお前に解わかっていてくれさえすれば、……」
 私は父からその後あとを聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会
った時、ことによるともう三月みつきか四月よつきぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどうい
う仕合しあわせか、今日までこうしている。起居たちいに不自由なくこうしている。そこへお前が卒業し
てくれた。だから嬉うれしいのさ。せっかく丹精たんせいした息子が、自分のいなくなった後あとで卒業
してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉うれしいだろうじゃないか。大
きな考えをもっているお前から見たら、高たかが大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは
余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に
取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
 私は一言いちごんもなかった。詫あやまる以上に恐縮して俯向うつむいていた。父は平気なうちに自分

497 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:07:16.38 ID:IJsBeOR90.net
の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その
卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚おろかものであった。私は鞄かばんの中から
卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに圧おし潰つぶされて、元の形を
失っていた。父はそれを鄭寧ていねいに伸のした。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に心しんでも入れると好よかったのに」と母も傍かたわらから注意した。
 父はしばらくそれを眺ながめた後あと、起たって床とこの間の所へ行って、誰だれの目にもすぐはいる
ような正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生へ
いぜいと違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父の為なすがままに
任せておいた。一旦いったん癖のついた鳥とりの子紙こがみの証書は、なかなか父の自由にならなかった
。適当な位置に置かれるや否いなや、すぐ己おのれに自然な勢いきおいを得て倒れようとした。



 私わたくしは母を蔭かげへ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。大方おおかた好くおなりなんだろう」
 母は案外平気であった。都会から懸かけ隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう
事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんな
に心配したものを、と私は心のうちで独り異いな感じを抱いだいた。
「でも医者はあの時到底とてもむずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体からだほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重ておもくいった
ものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさな
いようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情ごうじょうでねえ
。自分が好いいと思い込んだら、なかなか私わたしのいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね

 私はこの前帰った時、無理に床とこを上げさして、髭ひげを剃そった父の様子と態度とを思い出した。
「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山ぎょうさん過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考
えてみると、満更まんざら母ばかり責める気にもなれなかった。「しかし傍はたでも少しは注意しなくっ
ちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の病やまいの性質につい
て、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料
に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり同おんなじ病気でね。お
気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方かたは」などと聞いた。
 私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目ま
じめに聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己おれの身体からだは必竟ひっきょ
う己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番能よく心得ているはずだから
ね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大
変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに
免状を持って来たから、それが嬉うれしいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹なかのなかではまだ大丈夫だと思ってお出いで
のだよ」
「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだ
がね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家うち
にいる気かなんて」
 私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家いなかやを想像して見た。この
家いえから父一人を引き去った後あとは、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何
というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母
を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰もらうものは、分けて貰って置けと

498 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:07:25.38 ID:IJsBeOR90.net
いう注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試ためしはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死
ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方
が剣呑けんのんさ」
 私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐ちんぷなような母の言葉を黙然もくねんと
聞いていた。



 私わたくしのために赤い飯めしを炊たいて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日
から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗あんにそれを恐れていた。私はすぐ断わっ
た。
「あんまり仰山ぎょうさんな事は止よしてください」
 私は田舎いなかの客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、
何か事があれば好いいといった風ふうの人ばかり揃そろっていた。私は子供の時から彼らの席に侍じする
のを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚はなはだしい
ように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙やひな人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた
。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「仰山仰山とおいいだが、些ちっとも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐ
らいするのは当り前だよ。そう遠慮をお為しでない」
 母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰もらったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
「呼ばなくっても好いいが、呼ばないとまた何とかいうから」
 これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期
通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
「東京と違って田舎は蒼蠅うるさいからね」
 父はこうもいった。
「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。
 私は我がを張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の好いいようにしたらと思い出した。
「つまり私のためなら、止よして下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭いやだからという
ご主意しゅいなら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありま
せん」
「そう理屈をいわれると困る」
 父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義
理ぐらいは知っているだろう」
 母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せても
なかなか敵かなうどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
 父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生へいぜいから私に
対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張かどばったところに気が付かずに
、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
 父はその夜よまた気を更かえて、客を呼ぶなら何日いつにするかと私の都合を聞いた。都合の好いいも
悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起ねおきしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折
れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥こだわらない頭を下げた。私は父と相談の
上招待しょうだいの日取りを極きめた。
 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇めいじてんのうのご病気の報
知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を
経てようやく纏まとまろうとした私の卒業祝いを、塵ちりのごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
 眼鏡めがねを掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかっ
た。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下を憶おもい出したりした。

499 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:07:34.30 ID:IJsBeOR90.net


 小勢こぜいな人数にんずには広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私わたくしは行李こうりを解い
て書物を繙ひもとき始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩めまぐるしい東京の下宿の二階
で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁ページを一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持
よく勉強ができた。
 私はややともすると机にもたれて仮寝うたたねをした。時にはわざわざ枕まくらさえ出して本式に昼寝
を貪むさぼる事もあった。眼が覚めると、蝉せみの声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、
急に八釜やかましく耳の底を掻かき乱した。私は凝じっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱い
だいた。
 私は筆を執とって友達のだれかれに短い端書はがきまたは長い手紙を書いた。その友達のあるものは東
京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、音信たよりの届かないのもあった
。私は固もとより先生を忘れなかった。原稿紙へ細字さいじで三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分とい
うようなものを題目にして書き綴つづったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ
東京にいるだろうかと疑うたぐった。先生が奥さんといっしょに宅うちを空あける場合には、五十恰好が
っこうの切下きりさげの女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生に
あの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違え
ていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一
向いっこう音信の取とり遣やりをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁の
ない奥さんの方の親戚しんせきであった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んで
いるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あ
の切下のお婆ばあさんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考え
た。そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は能よく承知していた
。ただ私は淋さびしかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はつい
に来なかった。
 父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋しょうぎを差したがらなくなった。将棋盤はほこりの溜たまっ
たまま、床とこの間まの隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父は凝じっと考え込んでいる
ように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその読よみがらをわざ
わざ私のいる所へ持って来てくれた。
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
 父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
「勿体もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
 こういう父の顔には深い掛念けねんの曇くもりがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ
斃たおれるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのような下くだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
 父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己おのれに落ちかかって来そうな危険を予感してい
るらしかった。
「お父さんは本当に病気を怖こわがってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生き
る気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
 私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭ふいた。



 父の元気は次第に衰えて行った。私わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが
自然と閑却かんきゃくされるようになった。私は黒い煤すすけた棚の上に載のっているその帽子を眺なが
めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎つつしん
でくれたらと心配した。父が凝じっと坐すわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという
気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。

500 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:07:43.26 ID:IJsBeOR90.net
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病やまいと父の病とを結び付けて考えていた。
私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くら
しい」
 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前も詰つまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さ
んの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方
が好かったんだよ」
 私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それ
から一週間後ごであった。そうしていよいよと極きめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。
時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、お蔭かげで好もしくない社交上の苦痛から救われ
たも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
 崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己おれも……」
 父はその後あとをいわなかった。
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿はたざおの球たまを包んで、それで旗竿の先へ三
寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風の
ない空気のなかにだらりと下がった。私の宅うちの古い門の屋根は藁わらで葺ふいてあった。雨や風に打
たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころの
凸凹でこぼこさえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地じと、地の
なかに染め出した赤い日の丸の色とを眺ながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつ
て先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね
」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見
せるのが恥ずかしくもあった。
 私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有
様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面
に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしている
なかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦うずの中に、自然と
捲まき込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯ひもまたふっと消えてしまうべき運
命を、眼めの前に控えているのだとは固もとより気が付かなかった。
 私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執とりかけた。私はそれを十行ばかり書
いて已やめた。書いた所は寸々すんずんに引き裂いて屑籠くずかごへ投げ込んだ。(先生に宛あててそう
いう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴ちょうしてみると、とても返事をくれそうになかっ
たから)。私は淋さびしかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来れば好いいと思うので
あった。



 八月の半なかばごろになって、私わたくしはある朋友ほうゆうから手紙を受け取った。その中に地方の
中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻
まわる男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好いい地方へ相談ができたの
で、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。
知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻
まわしてやったら好よかろうと書いた。
 私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
「そんな所へ行かないでも、まだ好いい口があるだろう」
 こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊うかつな父や母は
、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
「相当の口って、近頃ちかごろじゃそんな旨うまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さん
と私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」

501 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:07:52.37 ID:IJsBeOR90.net
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなた
の所のご二男じなんは、大学を卒業なすって何をしてお出いでですかと聞かれた時に返事ができないよう
じゃ、おれも肩身が狭いから」
 父は渋面しゅうめんをつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。そ
の郷里の誰彼だれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ
百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業
したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まる
で足を空に向けて歩く奇体きたいな人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持
を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔けんかくの甚はなは
だしい父と母の前に黙然もくねんとしていた。
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いいじゃないか。こんな時こそ」
 母はこうより外ほかに先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きている
うちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人では
なかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
「何にもしていないんです」と私が答えた。
 私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はた
しかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやって
いそうなものだがね」
 父はこういって、私を諷ふうした。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得
て働いている。必竟ひっきょうやくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
 父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
「いいえ」と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いいからお出しな」
「ええ」
 私は生返事なまへんじをして席を立った。



 父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅うるさい質問を掛けて相手を困ら
す質たちでもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
 父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後あとのわが家いえを想像して
見るらしかった。
「小供こどもに学問をさせるのも、好よし悪あしだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅う
ちへ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
 学問をした結果兄は今遠国えんごくにいた。教育を受けた因果で、私わたくしはまた東京に住む覚悟を
固くした。こういう子を育てた父の愚痴ぐちはもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家いな
かやの中に、たった一人取り残されそうな母を描えがき出す父の想像はもとより淋さびしいに違いなかっ
た。
 わが家いえは動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動
かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ後あと、この孤独な母を、たった一人伽藍堂がらんど
うのわが家に取り残すのもまた甚はなはだしい不安であった。それだのに、東京で好いい地位を求めろと
いって、私を強しいたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭
かげでまた東京へ出られるのを喜んだ。
 私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった
。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精くわしく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもす
るから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また
取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。し

502 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:08:01.26 ID:IJsBeOR90.net
かし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
 私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
 母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他ひとが気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
 母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好いい口がないとも限らないんだから、
早く頼んでおくに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るに極きまってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
 私はこんな事に掛けて几帳面きちょうめんな先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待
った。けれども私の予期はついに外はずれた。先生からは一週間経たっても何の音信たよりもなかった。
「大方おおかたどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
 私は母に向かって言訳いいわけらしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対す
る言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は強しいても何かの事情を仮定して先生の態
度を弁護しなければ不安になった。
 私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの
病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生
の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。



 九月始めになって、私わたくしはいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り
学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
 私は父の希望する地位を得うるために東京へ行くような事をいった。
「無論口の見付かるまでで好いいですから」ともいった。
 私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はま
たあくまでもその反対を信じていた。
「そりゃ僅わずかの間あいだの事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相
当の地位を得え次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他ひとの世話になんぞな
るものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていない
ようだね」
 父はこの外ほかにもまだ色々の小言こごとをいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったの
に、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
 小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には
早いだけが好よかった。
「お母さんに日を見てもらいなさい」
「そうしましょう」
 その時の私は父の前に存外ぞんがいおとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎いなか
を出ようとした。父はまた私を引ひき留とめた。
「お前が東京へ行くと宅うちはまた淋さみしくなる。何しろ己おれとお母さんだけなんだからね。そのお
れも身体からださえ達者なら好いいが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
 私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に坐すわっ
て、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度いくたびか繰り返し眺めた。私はその時また蝉せみの声を聞い
た。その声はこの間中あいだじゅう聞いたのと違って、つくつく法師ぼうしの声であった。私は夏郷里に
帰って、煮え付くような蝉の声の中に凝じっと坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった
。私の哀愁はいつもこの虫の烈はげしい音ねと共に、心の底に沁しみ込むように感ぜられた。私はそんな
時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
 私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに
、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻りんねのうちに、そろそろ動いているように思われた。私は淋さ

503 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:08:10.29 ID:IJsBeOR90.net
びしそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶おもい
浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっ
しょに私の頭に上のぼりやすかった。
 私はほとんど父のすべても知り尽つくしていた。もし父を離れるとすれば、情合じょうあいの上に親子
の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に解わかっていなかった。話すと約束されたその人の
過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越し
て、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であっ
た。私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りを極きめた。



 私わたくしがいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父
はまた突然引ひっ繰くり返かえった。私はその時書物や衣類を詰めた行李こうりをからげていた。父は風
呂ふろへ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体は
だかのまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へ伴つれて戻った時、父はもう大丈夫だと
いった。念のために枕元まくらもとに坐すわって、濡手拭ぬれてぬぐいで父の頭を冷ひやしていた私は、
九時頃ごろになってようやく形かたばかりの夜食を済ました。
 翌日よくじつになると父は思ったより元気が好よかった。留とめるのも聞かずに歩いて便所へ行ったり
した。
「もう大丈夫」
 父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいっ
た通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心
が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然はっきりした事を話してくれなかった。私は不安のために
、出立しゅったつの日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
「そうしておくれ」と母が頼んだ。
 母は父が庭へ出たり背戸せどへ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起
るとまた必要以上に心配したり気を揉もんだりした。
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。
「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。
「おれのためにかい」と父が聞き返した。
 私はちょっと躊躇ちゅうちょした。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであっ
た。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
 私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支さしつか
えないように、堅く括くくられたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考え
た。
 私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒
した。医者は絶対に安臥あんがを命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そ
うであった。私は兄と妹いもとに電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶くも
んもなかった。話をするところなどを見ると、風邪かぜでも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲
は不断よりも進んだ。傍はたのものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、旨うまいものでも食って死ななくっちゃ」
 私には旨いものという父の言葉が滑稽こっけいにも悲酸ひさんにも聞こえた。父は旨いものを口に入れ
られる都には住んでいなかったのである。夜よに入いってかき餅もちなどを焼いてもらってぼりぼり噛か
んだ。
「どうしてこう渇かわくのかね。やっぱり心しんに丈夫の所があるのかも知れないよ」
 母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の
言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
 伯父おじが見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。淋さむしいからもっといてくれ

504 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:08:19.31 ID:IJsBeOR90.net
というのが重おもな理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも
、その目的の一つであったらしい。



 父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私わたくしはその間に長い手紙を九州にいる兄宛あ
てで出した。妹いもとへは母から出させた。私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる
最後の音信たよりだろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという
意味を書き込めた。
 兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼せまらないうちに呼び寄せる
自由は利きかなかった。といって、折角都合して来たには来たが、間まに合わなかったといわれるのも辛
つらかった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう判然はっきりした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは
承知していて下さい」
 停車場ステーションのある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で
、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元まくらもとへ来て挨拶あいさつする白い服を着た女
を見て変な顔をした。
 父は死病に罹かかっている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのもの
には気が付かなかった。
「今に癒なおったらもう一返いっぺん東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何
でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
 母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴つれて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
 時とするとまた非常に淋さみしがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
 私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向
かって何遍なんべんもそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は笑わらいを帯びた
先生の顔と、縁喜えんぎでもないと耳を塞ふさいだ奥さんの様子とを憶おもい出した。あの時の「おれが
死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する
奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒なおったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃあ
りませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚びっくりしますよ、変っているんで
。電車の新しい線路だけでも大変増ふえていますからね。電車が通るようになれば自然町並まちなみも変
るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝じっとしている時は、まあ二六時中にろくじちゅう一分もな
いといっていいくらいです」
 私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌しゃべった。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
 病人があるので自然家いえの出入りも多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代
る代る見舞に来た。中には比較的遠くにいて平生へいぜい疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、こ
の様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠やせていないじゃないか」などといって帰る
ものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし
始めた。
 その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父おじ
と相談して、とうとう兄と妹いもとに電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも
立つという報知しらせがあった。妹はこの前懐妊かいにんした時に流産したので、今度こそは癖にならな
いように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れな
かった。

十一

 こうした落ち付きのない間にも、私わたくしはまだ静かに坐すわる余裕をもっていた。偶たまには書物
を開けて十頁ページもつづけざまに読む時間さえ出て来た。一旦いったん堅く括くくられた私の行李こう
りは、いつの間にか解かれてしまった。私は要いるに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は

505 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:08:28.28 ID:IJsBeOR90.net
東京を立つ時、心のうちで極きめた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の三さんが一い
ちにも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通
り仕事の運ばない例ためしも少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭いやな気持に抑
おさえ付けられた。
 私はこの不快の裏うちに坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後あとの事を想像した。そ
うしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全
然異なった二人の面影を眺ながめた。
 私が父の枕元まくらもとを離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出し
た。
「少し午眠ひるねでもおしよ。お前もさぞ草臥くたびれるだろう」
 母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は単簡た
んかんに礼を述べた。母はまだ室へやの入口に立っていた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
「今よく寝てお出いでだよ」と母が答えた。
 母は突然はいって来て私の傍そばに坐すわった。
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
 母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし
父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺
あざむいたと同じ結果に陥った。
「もう一遍いっぺん手紙を出してご覧な」と母がいった。
 役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭いとうような私ではなかった
。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に叱しかられたり、母の機嫌を損
じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥はるかに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の貰
もらえないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒らちは明きませんよ。どうしても自分
で東京へ出て、じかに頼んで廻まわらなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。癒なおるとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです

「そりゃ解わかり切った話だね。今にもむずかしいという大病人を放ほうちらかしておいて、誰が勝手に
東京へなんか行けるものかね」
 私は始め心のなかで、何も知らない母を憐あわれんだ。しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした
際に持ち出したのか理解できなかった。私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあ
るごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、外ほかの事を考えるだけ、胸に空地すきまがあるのかしらと疑
うたぐった。その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きてお出いでのうちに、お前の口が極きまったらさぞ安心なさるだろうと思うんだが
ね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口も慥た
しかなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
 憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。

十二

 兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。父は平生へいぜいから何を措おいても新聞だけに
は眼を通す習慣であったが、床とこについてからは、退屈のため猶更なおさらそれを読みたがった。母も
私わたくしも強しいては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いいようじゃありませんか」
 兄はこんな事をいいながら父と話をした。その賑にぎやか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえ
た。それでも父の前を外はずして私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
「私わたしもそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
 兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「よく解わかるのかな」といった。兄は父の理解力が病気

506 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:08:37.27 ID:IJsBeOR90.net
のために、平生よりはよっぽど鈍にぶっているように観察したらしい。
「そりゃ慥たしかです。私わたしはさっき二十分ばかり枕元まくらもとに坐すわって色々話してみたが、
調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」
 兄と前後して着いた妹いもとの夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。父は彼に向かって妹の
事をあれこれと尋ねていた。「身体からだが身体だからむやみに汽車になんぞ乗って揺ゆれない方が好い
。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」といっていた。「なに今に治った
ら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支さしつかえない」ともいっていた。
 乃木大将のぎだいしょうの死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった。
 何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私わたしも
実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
 その頃ころの新聞は実際田舎いなかものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父
の枕元に坐って鄭寧ていねいにそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へやへ持って来て、
残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女かんじょみたような服装なり
をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
 悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹きや草を震わせている最中さいちゅうに、突然私は
一通の電報を先生から受け取った。洋服を着た人を見ると犬が吠ほえるような所では、一通の電報すら大
事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ
呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのを傍そばに立って待っていた。
 電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
「きっとお頼たのもうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
 私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や妹い
もとの夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣うちやって、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相
談して、行かれないという返電を打つ事にした。できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤きとくに陥りつ
つある旨むねも付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細いさい手紙として、細かい事情をそ
の日のうちに認したためて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間まの悪い
時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。

十三

 私わたくしの書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろ
うと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛あてで届いた。それには来ないでもよろし
いという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
「大方おおかた手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」
 母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私
もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から推おしてみると、どうも変に思われた。「先生が口を探
してくれる」。これはあり得うべからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないで
すね」
 私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と
答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何
の役にも立たないのは知れているのに。
 その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件
について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸かんちょうなどをして帰って
行った。
 父は医者から安臥あんがを命ぜられて以来、両便とも寝たまま他ひとの手で始末してもらっていた。潔
癖な父は、最初の間こそ甚はなはだしくそれを忌いみ嫌ったが、身体からだが利きかないので、やむを得
ずいやいや床とこの上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経ふる
に従って、無精な排泄はいせつを意としないようになった。たまには蒲団ふとんや敷布を汚して、傍はた

507 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:08:46.41 ID:IJsBeOR90.net
のものが眉まゆを寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿の量は病気の性質として、
極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲し
がるだけで、咽喉のどから下へはごく僅わずかしか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなっ
た。枕まくらの傍そばにある老眼鏡ろうがんきょうは、いつまでも黒い鞘さやに納められたままであった
。子供の時分から仲の好かった作さくさんという今では一里りばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に
来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨うらやましいね。己おれはもう駄目だめだ」
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し
分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの
事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
 浣腸かんちょうをしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。父は医者のお蔭かげで大変楽
になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸ができたという風ふうに機嫌が直った。傍そばに
いる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私
の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。傍そばにいる私はむずがゆい心持がしたが、母の
言葉を遮さえぎる訳にもゆかないので、黙って聞いていた。病人は嬉うれしそうな顔をした。
「そりゃ結構です」と妹いもとの夫もいった。
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
 私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧あいまいな返事をして、わざ
と席を立った。

十四

 父の病気は最後の一撃を待つ間際まぎわまで進んで来て、そこでしばらく躊躇ちゅうちょするようにみ
えた。家のものは運命の宣告が、今日下くだるか、今日下るかと思って、毎夜床とこにはいった。
 父は傍はたのものを辛つらくするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむし
ろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に
各自めいめいの寝床へ引き取って差支さしつかえなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸うな
るような声を微かすかに聞いたと思い誤った私わたくしは、一遍ぺん半夜よなかに床を抜け出して、念の
ため父の枕元まくらもとまで行ってみた事があった。その夜よは母が起きている番に当っていた。しかし
その母は父の横に肱ひじを曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りの裏うちにそっと置かれた人
のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
 私は兄といっしょの蚊帳かやの中に寝た。妹いもとの夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れ
た座敷に入いって休んだ。
「関せきさんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
 関というのはその人の苗字みょうじであった。
「しかしそんな忙しい身体からだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんより
も兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
「困っても仕方がない。外ほかの事と違うからな」
 兄と床とこを並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないと
いう考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っ
ているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚はばかった。そうし
てお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
 実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うとい
って承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自
分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「お前の卒業祝いは已やめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。
私はアルコールに煽あおられたその時の乱雑な有様を想おもい出して苦笑した。飲むものや食うものを強
しいて廻まわる父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
 私たちはそれほど仲の好いい兄弟ではなかった。小ちさいうちは好よく喧嘩けんかをして、年の少ない

508 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:08:55.30 ID:IJsBeOR90.net
私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学
にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺ながめて、常に動物的だと思っていた。
私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、
兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優やさし
い心持がどこからか自然に湧わいて出た。場合が場合なのもその大きな源因げんいんになっていた。二人
に共通な父、その父の死のうとしている枕元まくらもとで、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体家うちの財産はどうなってるんだろう」
「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高た
かの知れたものだろう」
 母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。

十五

「先生先生というのは一体誰だれの事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私わたくしは答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他ひとの
説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
 兄は必竟ひっきょう聞いても解わからないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理
解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
 先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少な
くとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をも
っているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから
遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰つ
まらん人間に限るといった風ふうの口吻こうふんを洩もらした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡りょうけんだからね。人は
自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘うそだ」
 私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解わかるかと聞き返してやり
たかった。
「それでもその人のお蔭かげで地位ができればまあ結構だ。お父とうさんも喜んでるようじゃないか」
 兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭めいりょうな手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もでき
ず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑はやのみ込こみでみんなにそう吹聴ふいちょうし
てしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでも
なく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が
書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕ひんしている父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたい
と祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他た妹いもとの夫だの伯父
おじだの叔母おばだのの手前、私のちっとも頓着とんじゃくしていない事に、神経を悩まさなければなら
なかった。
 父が変な黄色いものも嘔はいた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああ
して長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙
ぐんだ。
 兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった
事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
「お前ここへ帰って来て、宅うちの事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかっ
た。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭においを嗅かい
で朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎いなかでも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いいだろ
う」
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。

509 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:09:04.38 ID:IJsBeOR90.net
「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口ひとくちに斥しりぞけた。兄の腹の中には、世の中でこれ
から仕事をしようという気が充みち満みちていた。
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取ら
なくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
 兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後あとについて、こんな風に語り合った。

十六

 父は時々囈語うわことをいうようになった。
「乃木大将のぎたいしょうに済まない。実に面目次第めんぼくしだいがない。いえ私もすぐお後あとから

 こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元まくらもとへ集めてお
きたがった。気のたしかな時は頻しきりに淋さびしがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室へや
の中うちを見廻みまわして母の影が見えないと、父は必ず「お光みつは」と聞いた。聞かないでも、眼が
それを物語っていた。私わたくしはよく起たって母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が仕掛し
かけた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があっ
た。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光お前まえにも色々世話になったね」などと
優やさしい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと
丈夫であった昔の父をその対照として想おもい出すらしかった。
「あんな憐あわれっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷ひどかったんだよ」
 母は父のために箒ほうきで背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍なんべんもそれを聞かさ
れた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念かたみのように耳へ受け入れた。
 父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言ゆいごんらしいものを口に出さなかった

「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好よし悪あし
だと考えていた。二人は決しかねてついに伯父おじに相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いか
も知れず」
 話はとうとう愚図愚図ぐずぐずになってしまった。そのうちに昏睡こんすいが来た。例の通り何も知ら
ない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、傍はたにい
るものも助かります」といった。
 父は時々眼を開けて、誰だれはどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻さっきまでそこに坐すわ
っていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇やみ
を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡こんすい状態を普通の眠りと
取り違えたのも無理はなかった。
 そのうち舌が段々縺もつれて来た。何かいい出しても尻しりが不明瞭ふめいりょうに了おわるために、
要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い
声を出した。我々は固もとより不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならな
かった。
「頭を冷やすと好いい心持ですか」
「うん」
 私は看護婦を相手に、父の水枕みずまくらを取り更かえて、それから新しい氷を入れた氷嚢ひょうのう
を頭の上へ載のせた。がさがさに割られて尖とがり切った氷の破片が、嚢ふくろの中で落ちつく間、私は
父の禿はげ上った額の外はずれでそれを柔らかに抑おさえていた。その時兄が廊下伝ろうかづたいにはい
って来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。空あいた方の左手を出して、その郵便を受け取った
私はすぐ不審を起した。
 それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並なみの状袋じょうぶくろにも入れてな
かった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧ていねいに糊のり
で貼はり付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を

510 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:09:13.43 ID:IJsBeOR90.net
返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行か
ないので、ちょっとそれを懐ふところに差し込んだ。

十七

 その日は病人の出来がことに悪いように見えた。私わたくしが厠かわやへ行こうとして席を立った時、
廊下で行き合った兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で誰何すいかした。
「どうも様子が少し変だからなるべく傍そばにいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。
 私もそう思っていた。懐中かいちゅうした手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。父は眼を開けて、
そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたび
に首肯うなずいた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
「どうも色々お世話になります」
 父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺まくらべを取り巻いている人は無言のまましば
らく病人の様子を見詰めていた。やがてその中うちの一人が立って次の間まへ出た。するとまた一人立っ
た。私も三人目にとうとう席を外はずして、自分の室へやへ来た。私には先刻さっき懐ふところへ入れた
郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる所作しょさには違い
なかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息ひといきにそこで読み通す訳には行
かなかった。私は特別の時間を偸ぬすんでそれに充あてた。
 私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂さき破った。中から出たものは、縦横たてよこに引いた罫け
いの中へ行儀よく書いた原稿様ようのものであった。そうして封じる便宜のために、四よつ折おりに畳た
たまれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。
 私の心はこの多量の紙と印気インキが、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。私は同時に病室の
事が気にかかった。私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なく
とも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父おじからか、呼ばれるに極きまっているという予覚よ
かくがあった。私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。私はそわそわしながらただ最
初の一頁ページを読んだ。その頁は下しものように綴つづられていた。
「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それ
を明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われ
てしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私
の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸いっするようになります。そうする
と、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘うそになります。私はやむを得ず、口でいうべきところ
を、筆で申し上げる事にしました」
 私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事がで
きた。私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣きづかいはないと、私は初手から信じ
ていた。しかし筆を執とることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気にな
ったのだろう。先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。
「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
 私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづ
いて後あとを読もうとした。その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。私はまた驚いて立
ち上った。廊下を馳かけ抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。私はいよいよ父の上に最後の瞬間が
来たのだと覚悟した。

十八

 病室にはいつの間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸かんちょうを
試みるところであった。看護婦は昨夜ゆうべの疲れを休めるために別室で寝ていた。慣れない兄は起たっ
てまごまごしていた。私わたくしの顔を見ると、「ちょっと手をお貸かし」といったまま、自分は席に着
いた。私は兄に代って、油紙あぶらがみを父の尻しりの下に宛あてがったりした。
 父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元まくらもとに坐すわっていた医者は、浣腸かんちょう
の結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰り際ぎわに、もしもの事があったらいつでも呼

511 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:09:22.42 ID:IJsBeOR90.net
んでくれるようにわざわざ断っていた。
 私は今にも変へんがありそうな病室を退しりぞいてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこし
も寛ゆっくりした気分になれなかった。机の前に坐るや否いなや、また兄から大きな声で呼ばれそうでな
らなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖いふが私の手を顫ふるわした。私は先生
の手紙をただ無意味に頁ページだけ剥繰はぐって行った。私の眼は几帳面きちょうめんに枠わくの中に篏
はめられた字画じかくを見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束おぼつ
かなかった。私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに畳たたんで机の上に置こ
うとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょ
う」
 私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結ぎょうけつしたように感じた。私
はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒さかさに読んで行った。私は咄嗟
とっさの間あいだに、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字もんじを、眼で刺
し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先
生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私は倒さかさ
まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈じれったそうに畳ん
だ。
 私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺まくらべは存外ぞんがい静かであった。頼
りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招てまねぎして、「どうですか様子は」と聞いた。
母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少
しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯うなずいた。父ははっきり「有難う」といった。父の
精神は存外朦朧もうろうとしていなかった。
 私はまた病室を退しりぞいて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私
は突然立って帯を締め直して、袂たもとの中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。
私は夢中で医者の家へ馳かけ込んだ。私は医者から父がもう二に、三日さんち保もつだろうか、そこのと
ころを判然はっきり聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎あい
にく留守であった。私には凝じっとして彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の落おち付つきもな
かった。私はすぐ俥くるまを停車場ステーションへ急がせた。
 私は停車場の壁へ紙片かみぎれを宛あてがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙は
ごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅うちへ届ける
ように車夫しゃふに頼んだ。そうして思い切った勢いきおいで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私
はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂たもとから先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼
を通した。
[#改ページ]



下 先生と遺書




「……私わたくしはこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから宜
よろしく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入いったものと記憶しています。私はそれを読ん
だ時何なんとかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし
自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭
いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力を
あえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどう
すれば好いいのかと思い煩わずらっていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのよ
うに存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたび
にぞっとしました。馳足かけあしで絶壁の端はじまで来て、急に底の見えない谷を覗のぞき込んだ人のよ

512 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:09:31.35 ID:IJsBeOR90.net
うに。私は卑怯ひきょうでした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶はんもんしたのです。
遺憾いかんながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張で
はありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口ここうの資し、そんなものは私にとって
まるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は
状差じょうさしへあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅うちに相応
の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻もがき廻まわるのか
。私はむしろ苦々にがにがしい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥いちべつを与えただけでした。私
は返事を上げなければ済まないあなたに対して、言訳いいわけのためにこんな事を打ち明けるのです。あ
なたを怒らすためにわざと無躾ぶしつけな言葉を弄ろうするのではありません。私の本意は後あとをご覧
になればよく解わかる事と信じます。とにかく私は何とか挨拶あいさつすべきところを黙っていたのです
から、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
 その後ご私はあなたに電報を打ちました。有体ありていにいえば、あの時私はちょっとあなたに会いた
かったのです。それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返
電を掛かけて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺ながめてい
ました。あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、
あなたの出京しゅっきょうできない事情がよく解わかりました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う
訳がありません。あなたの大事なお父さんの病気をそっち退のけにして、何であなたが宅うちを空あけら
れるものですか。そのお父さんの生死しょうしを忘れているような私の態度こそ不都合です。――私は実
際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる頃ころ
には、難症なんしょうだからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。私は
こういう矛盾な人間なのです。あるいは私の脳髄のうずいよりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛
盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点においても充分私の我がを認めています。あな
たに許してもらわなくてはなりません。
 あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それ
でその意味の返事を出そうかと考えて、筆を執とりかけましたが、一行も書かずに已やめました。どうせ
書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたか
ら、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。



「私わたくしはそれからこの手紙を書き出しました。平生へいぜい筆を持ちつけない私には、自分の思う
ように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義
務を放擲ほうてきするところでした。しかしいくら止よそうと思って筆を擱おいても、何にもなりません
でした。私は一時間経たたないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の遂行す
いこうを重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは否いなみません。私はあなたの
知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右
前後を見廻みまわしても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切
り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭
敏えいびん過ぎて刺戟しげきに堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になっ
たのです。だから一旦いったん約束した以上、それを果たさないのは、大変厭いやな心持です。私はあな
たに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
 その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だか
ら、私だけの所有といっても差支さしつかえないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいとも
いわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらい

513 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:09:40.34 ID:IJsBeOR90.net
なら、私はむしろ私の経験を私の生命いのちと共に葬ほうむった方が好いいと思います。実際ここにあな
たという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはなら
ないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいの
です。あなたは真面目まじめだから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったか
ら。
 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗い
ものを凝じっと見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫つかみなさい。私の暗いというのは
、固もとより倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫
理上の考えは、今の若い人と大分だいぶ違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私
自身のものです。間に合せに借りた損料着そんりょうぎではありません。だからこれから発達しようとい
うあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
 あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対す
る態度もよく解わかっているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑けいべつまでしなかったけれども、決し
て尊敬を払い得うる程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の
過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私
に見せた。その極きょくあなたは私の過去を絵巻物えまきもののように、あなたの前に展開してくれと逼
せまった。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮ぶえんりょに私の腹の中か
ら、或ある生きたものを捕つらまえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流
れる血潮を啜すすろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭いやであった。それで他
日たじつを約して、あなたの要求を斥しりぞけてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血を
あなたの顔に浴あびせかけようとしているのです。私の鼓動こどうが停とまった時、あなたの胸に新しい
命が宿る事ができるなら満足です。



「私が両親を亡なくしたのは、まだ私の廿歳はたちにならない時分でした。いつか妻さいがあなたに話し
ていたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた
通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです。実をいうと、父の病気は恐るべき腸
ちょう窒扶斯チフスでした。それが傍そばにいて看護をした母に伝染したのです。
 私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。宅うちには相当の財産があったので、むしろ鷹揚お
うように育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも
父か母かどっちか、片方で好いいから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事
ができたろうにと思います。
 私は二人の後あとに茫然ぼうぜんとして取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、また分別
もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ
事さえまだ知らせてなかったのです。母はそれを覚さとっていたか、または傍はたのもののいうごとく、
実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。母はただ叔父おじに万事を頼ん
でいました。そこに居合いあわせた私を指さすようにして、「この子をどうぞ何分なにぶん」といいまし
た。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいう
つもりらしかったのです。それで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後あとを引き取って、
「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。母は強い熱に堪え得うる体質の女なんでしたろうか
、叔父は「確しっかりしたものだ」といって、私に向って母の事を褒ほめていました。しかしこれがはた
して母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。母は無論父の罹かかった病気の恐るべ
き名前を知っていたのです。そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。けれども自
分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでも
あるだろうと思われるのです。その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかな

514 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:09:49.26 ID:IJsBeOR90.net
ものにせよ、一向いっこう記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから
……しかしそんな事は問題ではありません。ただこういう風ふうに物を解きほどいてみたり、またぐるぐ
る廻まわして眺ながめたりする癖くせは、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それ
はあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に
大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えます。あなたの方でもまあそのつも
りで読んでください。この性分しょうぶんが倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来こうら
いますます他ひとの徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶はんもんや苦悩に
向って、積極的に大きな力を添えているのは慥たしかですから覚えていて下さい。
 話が本筋ほんすじをはずれると、分り悪にくくなりますからまたあとへ引き返しましょう。これでも私
はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他ほかの人と比べたら、あるいは多少落ち付いてい
やしないかと思っているのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響ひびきももう途絶とだえました
。雨戸の外にはいつの間にか憐あわれな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で微
かすかに鳴いています。何も知らない妻さいは次の室へやで無邪気にすやすや寝入ねいっています。私が
筆を執とると、一字一劃かくができあがりつつペンの先で鳴っています。私はむしろ落ち付いた気分で紙
に向っているのです。不馴ふなれのためにペンが横へ外それるかも知れませんが、頭が悩乱のうらんして
筆がしどろに走るのではないように思います。



「とにかくたった一人取り残された私わたくしは、母のいい付け通り、この叔父おじを頼るより外ほかに
途みちはなかったのです。叔父はまた一切いっさいを引き受けて凡すべての世話をしてくれました。そう
して私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
 私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐さつばつで粗
野でした。私の知ったものに、夜中よる職人と喧嘩けんかをして、相手の頭へ下駄げたで傷を負わせたの
がありました。それが酒を飲んだ揚句あげくの事なので、夢中に擲なぐり合いをしている間あいだに、学
校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃ
んと、菱形ひしがたの白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、その男はもう少し
で警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに表沙汰おもてざたに
せずに済むようにしてやりました。こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞か
せたら、定めて馬鹿馬鹿ばかばかしい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思います。しかし彼ら
は今の学生にない一種質朴しつぼくな点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から貰もらっ
ていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると遥はるかに少ないものでした。(無
論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生の
うちで、経済の点にかけては、決して人を羨うらやましがる憐あわれな境遇にいた訳ではないのです。今
から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。というのは、私は月々極きまった送金
の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から
請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
 何も知らない私は、叔父おじを信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいも
ののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありま
しょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格か
らいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に
守って行く篤実一方とくじついっぽうの男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりました。それから詩
集などを読む事も好きでした。書画骨董しょがこっとうといった風ふうのものにも、多くの趣味をもって
いる様子でした。家は田舎いなかにありましたけれども、二里りばかり隔たった市し、――その市には叔
父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が懸物かけものだの、香炉こうろだのを持って、わざ

515 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:09:58.24 ID:IJsBeOR90.net
わざ父に見せに来ました。父は一口ひとくちにいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら好いい
のでしょう。比較的上品な嗜好しこうをもった田舎紳士だったのです。だから気性きしょうからいうと、
闊達かったつな叔父とはよほどの懸隔けんかくがありました。それでいて二人はまた妙に仲が好かったの
です。父はよく叔父を評して、自分よりも遥はるかに働きのある頼もしい人のようにいっていました。自
分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹さいかんが鈍にぶる、つまり世の中と
闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました。私も聞きました。父
はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。「お前もよく覚えているが好いい」
と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父か
ら信用されたり、褒ほめられたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただで
さえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には
、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。



「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居すまいには、新しい主人として
、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残
された私が家にいない以上、そうでもするより外ほかに仕方がなかったのです。
 叔父はその頃ころ市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合からいえば、今までの居宅
きょたくに寝起ねおきする方が、二里りも隔へだたった私の家に移るより遥かに便利だといって笑いまし
た。これは私の父母が亡くなった後あと、どう邸やしきを始末して、私が東京へ出るかという相談の時、
叔父の口を洩もれた言葉であります。私の家は旧ふるい歴史をもっているので、少しはその界隈かいわい
で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒ゆいしょのある家
を、相続人があるのに壊こわしたり売ったりするのは大事件です。今の私ならそのくらいの事は何とも思
いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家うちはそのままにして置かなければなら
ず、はなはだ所置しょちに苦しんだのです。
 叔父おじは仕方なしに私の空家あきやへはいる事を承諾してくれました。しかし市しの方にある住居す
まいもそのままにしておいて、両方の間を往いったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといい
ました。私に[#「私に」は底本では「私は」]固もとより異議のありようはずがありません。私はどん
な条件でも東京へ出られれば好いいくらいに考えていたのです。
 子供らしい私は、故郷ふるさとを離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固
よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人たびびとの心で望んでいたのです。休みが来れば帰
らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は
熱心に勉強し、愉快に遊んだ後あと、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
 私の留守の間、叔父はどんな風ふうに両方の間を往ゆき来していたか知りません。私の着いた時は、家
族のものが、みんな一ひとつ家いえの内に集まっていました。学校へ出る子供などは平生へいぜいおそら
く市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎いなかへ遊び半分といった格かくで引き取られて
いました。
 みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって賑にぎやかで陽気になった家
の様子を見て嬉うれしがりました。叔父はもと私の部屋になっていた一間ひとまを占領している一番目の
男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の数かずも少なくないのだから、私はほかの部屋で構
わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の宅うちだからといって、聞きませんでした。
 私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外ほかに、何の不愉快もなく、その一夏ひとなつを叔父の家
族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影
を投げたのは、叔父夫婦が口を揃そろえて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。
それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。
二度目には判然はっきり断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなく

516 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:10:07.27 ID:IJsBeOR90.net
なりました。彼らの主意は単簡たんかんでした。早く嫁よめを貰もらってここの家へ帰って来て、亡くな
った父の後を相続しろというだけなのです。家は休暇やすみになって帰りさえすれば、それでいいものと
私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰もらう、両方とも理屈としては一通
ひととおり聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく解わかります。私も絶対にそれを嫌
ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡とおめがねで物を
見るように、遥はるか先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた
私の家を去りました。



「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲ぐるりを取り捲まいている青年の顔を見ると、
世帯染しょたいじみたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉ことごとく単独らしく思われ
たのです。こういう気楽な人の中うちにも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされ
て、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした
。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺あたりに気兼きがねをして、なるべくは書生
に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後あとから考えると、私自身がすでに
その組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
 学年の終りに、私はまた行李こうりを絡からげて、親の墓のある田舎いなかへ帰って来ました。そうし
て去年と同じように、父母ちちははのいたわが家いえの中で、また叔父おじ夫婦とその子供の変らない顔
を見ました。私は再びそこで故郷ふるさとの匂においを嗅かぎました。その匂いは私に取って依然として
懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
 しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き
付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。た
だこの前勧すすめられた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心かんじんの当人を捕
つらまえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹いと
こに当る女でした。その女を貰もらってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中ぞんしょうち
ゅうそんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそ
ういう風ふうな話をしたというのもあり得うべき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始
めて気が付いたので、いわれない前から、覚さとっていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。
驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解わかりました。私は迂闊うかつ
なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着むとんじゃくであった
のが、おもな源因げんいんになっているのでしょう。私は小供こどものうちから市しにいる叔父の家うち
へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時
分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、兄妹きょうだいの間に恋の成立した例ためしのない
のを。私はこの公認された事実を勝手に布衍ふえんしているかも知れないが、始終接触して親しくなり過
ぎた男女なんにょの間には、恋に必要な刺戟しげきの起る清新な感じが失われてしまうように考えていま
す。香こうをかぎ得うるのは、香を焚たき出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹
那せつなにあるごとく、恋の衝動にもこういう際きわどい一点が、時間の上に存在しているとしか思われ
ないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、馴なれれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経は
だんだん麻痺まひして来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹いとこを妻にする気にはなれませ
んでした。
 叔父おじはもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急
げという諺ことわざもあるから、できるなら今のうちに祝言しゅうげんの盃さかずきだけは済ませておき
たいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父
は厭いやな顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し

517 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:10:16.32 ID:IJsBeOR90.net
込みを拒絶されたのが、女として辛つらかったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛
していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。



「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経たった夏の取付とっつきでした。私はいつでも学年試
験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷ふるさとがそれほど懐かしかったからです。あな
たにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂においも格別です、父や母の記憶
も濃こまやかに漂ただよっています。一年のうちで、七、八の二月ふたつきをその中に包くるまれて、穴
に入った蛇へびのように凝じっとしているのは、私に取って何よりも温かい好いい心持だったのです。
 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断
る、断ってさえしまえば後あとには何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに
意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托
くったくした覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好いい顔をして私を自分の懐ふところに
抱だこうとしません。それでも鷹揚おうように育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました
。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母おば
も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、
手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
 私の性分しょうぶんとして考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう
。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍にぶい私の眼を洗って、急に世
の中が判然はっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくな
った後あとでも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっ
ともその頃ころでも私は決して理に暗い質たちではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊
かたまりも、強い力で私の血の中に潜ひそんでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪ひざまずきました。半なかばは哀悼あいとうの意味、半
は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ
握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私
も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
 私の世界は掌たなごころを翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかっ
たのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には
、一度にはっと驚きました。何遍なんべんも自分の眼を疑うたぐって、何遍も自分の眼を擦こすりました
。そうして心の中うちでああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気いろ
けの付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができた
のです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目めくらの眼が忽たちまち開あいた
のです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
 私が叔父おじの態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然がぜんとして心づいたのです
。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私
の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先ゆくさきがどうな
るか分らないという気になりました。



「私は今まで叔父任まかせにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母ちちは
はに対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体からだだと自称するごとく、毎晩同じ所
に寝泊ねとまりはしていませんでした。二日家うちへ帰ると三日は市しの方で暮らすといった風ふうに、
両方の間を往来ゆききして、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいとい
う言葉を口癖くちくせのように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っ

518 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:10:25.31 ID:IJsBeOR90.net
ていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。け
れども財産の事について、時間の掛かかる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見る
と、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕つらまえる機
会を得ませんでした。
 私は叔父が市の方に妾めかけをもっているという噂うわさを聞きました。私はその噂を昔中学の同級生
であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪あやしむに足らな
いのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚おぼえのない私は驚きました。友達はそ
の外ほかにも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他ひと
から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私
の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
 私はとうとう叔父おじと談判を開きました。談判というのは少し不穏当ふおんとうかも知れませんが、
話の成行なりゆきからいうと、そんな言葉で形容するより外に途みちのないところへ、自然の調子が落ち
て来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑さいぎの眼で叔
父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
 遺憾いかんながら私は今その談判の顛末てんまつを詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいま
す。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこ
へ辿たどりつきたがっているのを、漸やっとの事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話
す機会を永久に失った私は、筆を執とる術すべに慣れないばかりでなく、貴たっとい時間を惜おしむとい
う意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではない
といった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を
。あの時あなたは私に昂奮こうふんしていると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人
に変化するのかと尋ねました。私がただ一口ひとくち金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私は
あなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を
考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在
し得ない例として、憎悪ぞうおと共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き
進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐ちんぷだったかも知れません。
けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷ひややかな頭
で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体
たいが動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事
ができるからです。



「一口ひとくちでいうと、叔父は私わたくしの財産を胡魔化ごまかしたのです。事は私が東京へ出ている
三年の間に容易たやすく行われたのです。すべてを叔父任まかせにして平気でいた私は、世間的にいえば
本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊たっとい男とでもいえましょうか
。私はその時の己おのれを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が
口惜くやしくって堪たまりません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰っ
て生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵ちりに汚れた後あ
との私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう

 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでした
ろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父おじは策略で娘を私に押し付けようとしたのです。
好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑げびた利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたの
です。私は従妹いとこを愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それ
を断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化ごまかされるのはどっちにしても同じでしょう

519 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:10:34.28 ID:IJsBeOR90.net
けれども、載のせられ方からいえば、従妹を貰もらわない方が、向うの思い通りにならないという点から
見て、少しは私の我がが通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細さ
さいな事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気ばかげた意地に見えるでしょう。
 私と叔父の間に他たの親戚しんせきのものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していま
せんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺あざむいたと覚さと
ると共に、他ほかのものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞ほめ抜いていた
叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理ロジックでした。
 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切いっさいのものを纏まとめてくれました。それは金
額に見積ると、私の予期より遥はるかに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなけ
れば叔父を相手取って公沙汰おおやけざたにするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤いきどおり
ました。また迷いました。訴訟にすると落着らくちゃくまでに長い時間のかかる事も恐れました。私は修
業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の
結果、市しにおる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形かたちに変えようとしまし
た。旧友は止よした方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷こき
ょうを離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
 私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永
久に見る機会も来ないでしょう。
 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経た
った後のちの事です。田舎いなかで畠地はたちなどを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとな
ると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないもの
でした。自白すると、私の財産は自分が懐ふところにして家を出た若干の公債と、後あとからこの友人に
送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固もとより非常に減っていたに相違ありません。しか
も私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそ
れで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学
生生活が私を思いも寄らない境遇に陥おとし入れたのです。



「金に不自由のない私わたくしは、騒々そうぞうしい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気
になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆ばあさんの必要
も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅うちを留守にしても大丈夫なものでなければ
心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束おぼつかなく見えたのです。ある日私はま
あ宅うちだけでも探してみようかというそぞろ心ごころから、散歩がてらに本郷台ほんごうだいを西へ下
りて小石川こいしかわの坂を真直まっすぐに伝通院でんずういんの方へ上がりました。電車の通路になっ
てから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃ころは左手が砲兵工廠ほうへいこうし
ょうの土塀どべいで、右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。私はその
草の中に立って、何心なにごころなく向うの崖がけを眺ながめました。今でも悪い景色ではありませんが
、その頃はまたずっとあの西側の趣おもむきが違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだ
けでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅うちはないだろうかと思いました。それで直す
ぐ草原くさはらを横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好いい町になり切れないで
、がたぴししているあの辺へんの家並いえなみは、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした
。私は露次ろじを抜けたり、横丁よこちょうを曲まがったり、ぐるぐる歩き廻まわりました。しまいに駄
菓子屋だがしやの上かみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家かしやはないかと尋ねてみました。上さ
んは「そうですね」といって、少時しばらく首をかしげていましたが、「かし家やはちょいと……」と全
く思い当らない風ふうでした。私は望のぞみのないものと諦あきらめて帰り掛けました。すると上さんが

520 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:10:43.32 ID:IJsBeOR90.net
また、「素人下宿しろうとげしゅくじゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静
かな素人屋しろうとやに一人で下宿しているのは、かえって家うちを持つ面倒がなくって結構だろうと考
え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清にっしん
戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷いちがやの士官しかん
学校の傍そばとかに住んでいたのだが、厩うまやなどがあって、邸やしきが広過ぎるので、そこを売り払
って、ここへ引っ越して来たけれども、無人ぶにんで淋さむしくって困るから相当の人があったら世話を
してくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人びぼうじんと一人娘と下女げ
じょより外ほかにいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極しごく好かろうと心の中うちに思
いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性すじょうの知れ
ない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念けねんもありました。私は止よそ
うかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装なりはしていませんでした。それから
大学の制帽を被かぶっていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれど
もその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子
に一種の自信を見出みいだしたくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなし
にその軍人の遺族の家うちを訪ねました。
 私は未亡人びぼうじんに会って来意らいいを告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらにつ
いて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも
引っ越して来て差支さしつかえないという挨拶あいさつを即坐そくざに与えてくれました。未亡人は正し
い人でした、また判然はっきりした人でした。私は軍人の妻君さいくんというものはみんなこんなものか
と思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性きしょうでどこが淋さむしいのだろう
と疑いもしました。

十一

「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。
そこは宅中うちじゅうで一番好いい室へやでした。本郷辺ほんごうへんに高等下宿といった風ふうの家が
ぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間まの様子を心得ていました
。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過
ぎるくらいに思われたのです。
 室の広さは八畳でした。床とこの横に違ちがい棚だながあって、縁えんと反対の側には一間いっけんの
押入おしいれが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向みなみむきの縁に明るい日
がよく差しました。
 私は移った日に、その室の床とこに活いけられた花と、その横に立て懸かけられた琴ことを見ました。
どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶せんちゃを嗜たしなむ父の傍そばで育ったので、
唐からめいた趣味を小供こどものうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶な
まめかしい装飾をいつの間にか軽蔑けいべつする癖が付いていたのです。
 私の父が存生中ぞんしょうちゅうにあつめた道具類は、例の叔父おじのために滅茶滅茶めちゃめちゃに
されてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かって
もらいました。それからその中うちで面白そうなものを四、五幅ふく裸にして行李こうりの底へ入れて来
ました。私は移るや否いなや、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いっ
た琴と活花いけばなを見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後あとから聞いて始めてこの花が
私に対するご馳走ちそうに活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも
琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあった
のでしょう。
 こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠かすめて通るでしょう。移った私にも、
移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気じゃきが予備的に私の自然を

521 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:10:52.25 ID:IJsBeOR90.net
損なったためか、または私がまだ人慣ひとなれなかったためか、私は始めてそこのお嬢じょうさんに会っ
た時、へどもどした挨拶あいさつをしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
 私はそれまで未亡人びぼうじんの風采ふうさいや態度から推おして、このお嬢さんのすべてを想像して
いたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君さ
いくんだからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行
きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉ことごとく打ち消されました。そうして
私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂においが新しく入って来ました。私はそれから床の正面
に活いけてある花が厭いやでなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
 その花はまた規則正しく凋しおれる頃ころになると活け更かえられるのです。琴も度々たびたび鍵かぎ
の手に折れ曲がった筋違すじかいの室へやに運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖ほおづ
えを突きながら、その琴の音ねを聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解わからな
いのです。けれども余り込み入った手を弾ひかないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました
。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して
旨うまい方ではなかったのです。
 それでも臆面おくめんなく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方いけかたはいつ見ても
同じ事でした。それから花瓶かへいもついぞ変った例ためしがありませんでした。しかし片方の音楽にな
ると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。
唄うたわないのではありませんが、まるで内所話ないしょばなしでもするように小さな声しか出さないの
です。しかも叱しかられると全く出なくなるのです。
 私は喜んでこの下手な活花を眺ながめては、まずそうな琴の音ねに耳を傾けました。

十二

「私の気分は国を立つ時すでに厭世的えんせいてきになっていました。他ひとは頼りにならないものだと
いう観念が、その時骨の中まで染しみ込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父おじ
だの叔母おばだの、その他たの親戚しんせきだのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽
車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもする
と、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛を呑のんだように重苦しくな
る事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖とがってしまったのです。
 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因げんいんになっているように思われます。
金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私
ならば、たとい懐中ふところに余裕ができても、好んでそんな面倒な真似まねはしなかったでしょう。
 私は小石川こいしかわへ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛くつろぎを与える事ができませ
んでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻みまわしていました。不思議にも
よく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は家うちのものの
様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐すわっていました。時々は彼らに対して気の毒だ
と思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注そそいでいたのです。おれは物を偸ぬすまない巾着切き
んちゃくきりみたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭いやになる事さえあったのです。
 あなたは定さだめて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢じょうさんをどうして好すく余裕をもって
いるか。そのお嬢さんの下手な活花いけばなを、どうして嬉うれしがって眺ながめる余裕があるか。同じ
く下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であ
ったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外ほかに仕方がないのです。解釈は頭のある
あなたに任せるとして、私はただ一言いちごん付け足しておきましょう。私は金に対して人類を疑うたぐ
ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他ひとから見ると変なものでも、
また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。

522 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:11:01.36 ID:IJsBeOR90.net
 私は未亡人びぼうじんの事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんとい
います。奥さんは私を静かな人、大人おとなしい男と評しました。それから勉強家だとも褒ほめてくれま
した。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。
気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解わかりませんが、何しろそこにはまるで注
意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚おうような方かただといって
、さも尊敬したらしい口の利きき方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言
葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と真面
目まじめに説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を宅うちへ置くつもりではなかったらしい
のです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷ざしきを貸す料簡りょうけんで、近所のものに周旋を頼ん
でいたらしいのです。俸給が豊ゆたかでなくって、やむをえず素人屋しろうとやに下宿するくらいの人だ
からという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸
に描えがいたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒ほめるのです。なるほど
そんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれ
は気性きしょうの問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥
さんはまた女だけにそれを私の全体に推おし広げて、同じ言葉を応用しようと力つとめるのです。

十三

「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ
付かなくなりました。自分の心が自分の坐すわっている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれ
ました。要するに奥さん始め家うちのものが、僻ひがんだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合
わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないた
めに段々静まりました。
 奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風ふうに取り扱ってくれたものとも思われますし
、また自分で公言するごとく、実際私を鷹揚おうようだと観察していたのかも知れません。私のこせつき
方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で胡魔化
ごまかされていたのかも解わかりません。
 私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも笑談じょう
だんをいうようになりました。茶を入れたからといって向うの室へやへ呼ばれる日もありました。また私
の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が殖ふえた
ように感じました。それがために大切な勉強の時間を潰つぶされる事も何度となくありました。不思議に
も、その妨害が私には一向いっこう邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより閑人ひまじんでした。
お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがま
た案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっ
しょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
 私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室へやの前に立つ事
もありますし、茶の間を抜けて、次の室の襖ふすまの影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そ
こへ来てちょっと留とまります。それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。私は大抵む
ずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、傍はたで見たらさぞ勉強家のように見え
たのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。頁ページの上
に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと
、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強です
か」と聞くのです。
 お嬢さんの部屋へやは茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さ
んの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は仕切しきりがあっても、ないと同じ事で、親子
二人が往いったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、「おはい

523 :山師さん (ワッチョイ b7c0-HQZd):2016/08/02(火) 13:11:10.43 ID:IJsBeOR90.net
んなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても滅多めったに返事をした事があり
ませんでした。
 時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに坐すわって話し込むような場合
もその内うちに出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に冒おかされて来るのです。そうして
若い女とただ差向さしむかいで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわ
そわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はか
えって平気でした。これが琴を浚さらうのに声さえ碌ろくに出せなかった[#「出せなかった」は底本で
は「出せなかったの」]あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので
、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。そ
れでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれが解わかっていました。よく解
るように振舞って見せる痕迹こんせきさえ明らかでした。

十四

「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息ひといきするのです。それと同時に、物足りないようなまた
済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見た
らなおそう見えるでしょう。しかしその頃ころの私たちは大抵そんなものだったのです。
 奥さんは滅多めったに外出した事がありませんでした。たまに宅うちを留守にする時でも、お嬢さんと
私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らな
いのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能よく観察していると、何だか自分の娘と私と
を接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或ある場合には、私に対して暗あんに警戒
するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
 私は奥さんの態度をどっちかに片付かたづけてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明
らかな矛盾に違いなかったのです。しかし叔父おじに欺あざむかれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏
み込んだ疑いを挟さしはさまずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、ど
っちかが偽いつわりだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、
何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑のみ込めなかったのです。理由わけを考え出そうとしても
、考え出せない私は、罪を女という一字に塗なすり付けて我慢した事もありました。必竟ひっきょう女だ
からああなのだ、女というものはどうせ愚ぐなものだ。私の考えは行き詰つまればいつでもここへ落ちて
来ました。
 それほど女を見縊みくびっていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私
の理屈はその人の前に全く用を為なさないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に
近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変
に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでない
という事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしま
した。お嬢さんの事を考えると、気高けだかい気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし
愛という不可思議なものに両端りょうはじがあって、その高い端はじには神聖な感じが働いて、低い端に
は性欲せいよくが動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕つらまえたものです。私はも
とより人間として肉を離れる事のできない身体からだでした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さ
んを考える私の心は、全く肉の臭においを帯びていませんでした。
 私は母に対して反感を抱いだくと共に、子に対して恋愛の度を増まして行ったのですから、三人の関係
は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて
来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろ
うかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え
直して来たのです。その上、それが互たがい違ちがいに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両
方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さ

524 :山師さん:2016/12/09(金) 16:49:08.41 ID:EhOqU2kyG
それもそのはず

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