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日本文化チャンネル桜44

1 :さくら:2014/09/06(土) 12:38:02.36 ID:g/HPx3K4.net
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  / j-'ニ- '´ ○ ヽ |   |    / / / ./ノ ,人 \`¬-、   〉
前スレ  日本文化チャンネル桜43 http://anago.2ch.net/test/read.cgi/skyp/1383704809/l50
前々スレ 日本文化チャンネル桜42〔継続中〕 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/classical/1379936978/l50

1149 :歴史の:2014/12/06(土) 09:43:05.97 ID:MCdx34fKh
先生は云うた。
書では、濊貊とあるが、あれは前500年ー450年頃に濊が南下して哈尔滨
地方に移動し北發(歴史書にある、發・鬼方・林胡の部類、総して
山戎と云う)と合流した時に、東の隣にいたのが貊だ、高夷とも云う。
發に粛慎の血が、濊は山の民、湖の民の狩猟民、貊は里の民、川の民
牧畜の民、その根が違う。

嫩江からまた汽車で、大楊樹、そして大興安嶺にわけ入り鄂倫春
(オロチョン)に到着、名前からして原生林の秘境・・あの
バイコフの猛虎『偉大なる王』を想像していたが、意外にも開けた
町の感じ、その噶仙洞もバスで40分ほど、ここも結構開けた山あいの村の感じ
どうして1960年代までこの洞窟が発見されなかったのか不思議な感じの場所
にあった。

噶仙洞、相思谷——草原鮮卑人的遠古傳奇
http://www.people.com.cn/BIG5/wenhua/27296/2711175.html

1150 :てってーてき名無しさん:2014/12/06(土) 10:04:15.91 ID:???.net
さっさと埋めろ自称保守ども
であります。
政財官!

1151 :てってーてき名無しさん:2014/12/06(土) 13:37:12.28 ID:???.net
たーもがみ!たーもがみ!たーもがみ!たーもがみ!たーもがみ!

1152 :てってーてき名無しさん:2014/12/06(土) 13:46:55.64 ID:???.net
サトルラブ

1153 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
2ch.netからのレス数が1000に到達しました。

1154 :歴史の:2014/12/06(土) 15:21:17.14 ID:MCdx34fKh
鄂倫春の駅前よりバスで阿里河を北西に上り嘎仙洞に行きました。
ここがツングース系の挹婁別種だと言われた鮮卑族発祥の地だと昔からの
伝承は有ったがその証拠がなかった。

唐朝李氏は、鮮卑出身ではないかと説が多くの書では高かった・・。
それは、唐の大宗李世民が側近を北辺アリホー(阿里河)の嘎仙洞につかわす
との記録から、鮮卑と李氏の関係が憶測されていた。

また大宗が遊牧の民の突厥・维吾尔(ウイグル)契丹から「天可汗」と称され
ていることからも、この族長名からも李氏の鮮卑出は昔から強かった・・。
だが、北魏を興した拓跋氏と李氏の関係がはっきりしていなかった・・李氏は
鮮卑である、北周宇文氏は匈奴である。
そしてこの嘎仙洞の中、洞窟壁面に刻まれた北魏碑文が解読されたのである・・

初唐の廃仏論争がおきた時、高名なる仏僧の法琳が、太宗(李世民)に唐の李氏、鮮卑拓跋出の論
北魏武仙鎮八桂国出身をぶった時、太宗李世民が沈黙したとの逸話からも・
これは大宗の前での仏教と道教の公開討論であるが、李氏鮮卑族出自が出ても
・・唐の異民族出身説は有名である。この嘎仙洞に私は行ってきた。

1155 :歴史の:2014/12/06(土) 16:52:38.06 ID:MCdx34fKh
そこには西暦449年、北魏の太武帝のつかわした一行が、大同からは
るばるとこの嘎仙洞に来て、犠牲をささげて天神、地神に対する祭祀を
おこなったと壁に刻まれていた。
これは「魏書」に書かれていたことを裏づけるものである。

実に面白いことに、わが奥さまが韓流歴史ドラマが好きでDVDを
1週間100円で借りてくる。私も韓国歴史だから当然に一緒に見さして
いただく。その中で高句麗の大政治家将軍の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)
の中、隋と高句麗の戦争で、隋の将軍 李密が淵蓋蘇文に、
隋と高句麗は大古の昔に同族・親族であったと語り、淵蓋蘇文がそれに
同意するシーンがあった。唐の李世民もこの席に居る。同調だ。

普通、隋唐は北魏の鮮卑拓跋氏だ、鮮卑と扶余は東胡の末、高句麗は
扶余の出である。だから隋唐と高句麗は同族であるとの理になるのだ
が、このドラマにシーンは違う。過去とは言っていない大古である。
李密・淵蓋蘇文が古朝鮮(檀君朝鮮も入る)を説き、その上で隋唐
・高句麗の同族説を、あきらかに嘎仙洞のオロチョン族からのわかれ
を云うている。前7世紀〜6世紀からの東胡と前濊のわかれを・・。

この韓流ドラマの製作者、なかなかの歴史の奥までの到達者なれど
だがそれを理解できる観客何人ほど居るだろうか?
だってわが奥さま・・「ねえ中国人て朝鮮から行ったの?」
これを私に聞いてきた。この方面の探求者とゆうこと知ってるから。

李密
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AF%86_(%E9%9A%8B)
淵蓋蘇文
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B5%E8%93%8B%E8%98%87%E6%96%87

1156 :歴史の:2014/12/06(土) 18:48:11.90 ID:MCdx34fKh
この嘎仙洞を見学後に、またオロチョンより汽車で、大興安嶺を西に・・
克一河・伊図里河(イトリホー)に出た。大興安嶺山脈超え、ものすごい
難義を予想していたが、そんな群馬県や栃木県や山梨県の汽車の感じ、
ひらけて人々も結構多いのどかな風景よ30年前がこうだから今は都会では
ないかいの・・。

伊図里河から根河を上庫力にここからバスで100キロほどかな?
海拉爾(ハイラル)に出た。
そしてここの考古学博物館長M氏に会いいろいろ聞いた。ジャライノールの
文物管理所長も兼ねておられた。
主にジャライノールの旧石器文化の話し、ハルピンの●教授とは論が合うが
もう私では扱えない・・1人で助手の美人の女性の案内で陳列品を見回った。

ここは2年前に来とるが前が素通りだったが、今度はホテルに泊った。
ここの支配人とゆうか管理人とゆうか年配の方・・20代に関東軍に軍属
関係でもあるのか夜10時過ぎてもツイン部屋から出ていかず、日本の内地
情報を聞きたがった。最後は「死ぬまでに日本に行きたい。大恩人の遺族
に感謝を述べたい・」と涙声に。でも復讐のために日本に行きたいより
よほどいい。

1157 :歴史の:2014/12/07(日) 13:44:18.51 ID:KZSLKmCKs
あああ書き忘れましたが、嘎仙洞の北魏帝国の秘文は
祖先を祀る漢文の祝文を刻ませており、ここに「皇祖先可寒を配し皇妣
先可敦を配す」と末尾部分に記している。これを意訳すると「皇祖・
皇妣を先の可寒・先の可敦とも称してこれを祀る」という意味
 可寒=可汗(王・族長との意味)

早朝に海拉爾(ハイラル)を出た。
米館長が博物館の車(ソ連製の四輪駆動)と運転手(館の職員)を
手配してくれた・・Tさんである。今がハイラルに住むが、実家は
満州里より20キロほど南の達付米克で鍛冶屋の仕事だ。

海拉爾は
すなわちモンゴル語ではエルグネ河畔・・これは『集史』が語る、
「エルグネ・クン伝説」・草原の遊牧民とゆうよりも、森林の狩猟民
・・モンンゴル族の祖先・・室韋蒙兀が故郷の地、アルグン川流域の
すぐ東である。

とととで何故に私が延々とフロンボイル大草原(世界三大草原の一つ)
と呼倫湖・贝尔湖について語るかは、この「日本人の祖先」
「日ユ同祖論」「神武東征」「騎馬民族征服王朝説」が皆、この韃靼
(だったん・タタール族)の胡地・故地のこの地域に関係するからである
・・私の思い、想像とは違うが、わが父はじめ多くの人が、このフロン
ボイルに大注目しているからである。

1158 :歴史の:2014/12/07(日) 13:56:38.60 ID:KZSLKmCKs
ジンギスカン蒙古とゆうと、オゴタイ汗国・キプチャク汗国・チャガタ
イ汗国・イル汗国と西に伸びたが、元朝の騎馬軍事力の源泉は、
このフルン・ボイル大草原の旧タタール部族の力にある。
ジンギスカンの弟のカサル・ベルグタイ・オッギオン等に封じられたが
・確か欧州遠征の副司令官名将蒙古の重臣スプタイもここではなかった
かな?
ここの騎馬戦士が、南栄・襄陽の攻撃、ポーランドのワールシュタット
の戦い、ハンガリーのサヨの戦いに参加しているのでは?

フルン・ボイル地方なら、蒙古タタール族の本拠地、
ジンギスカンのタタール征伐・股肱の臣ボオルジュウの大活躍・・明の
永楽帝は、モンゴルのタタール部とオイラト部に対する北方親征の際
、ヘルレン川流域でモンゴルの軍を破っている。1422年の殺胡原の戦い
か?・・また清の康熙帝もガルダン・ハーンに対する親征を行い、
ヘルレン川でこれを破っている。

もう一人のモンゴルの名将軍中の名将軍ジェベ将軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%99
ジルゴアダイ・・ま、ええわ・・。

1159 :歴史の:2014/12/07(日) 14:00:27.39 ID:KZSLKmCKs
あのアゾフ海北岸のカルカ川決戦で、ロシア諸侯連合軍を破った事実上
の指揮官・・西遼侵攻戦は、彼の軍団だけで成し遂げられた。

ジェベが成吉思汗を殺し損ねたは、ボルジギン族(モンゴル)と
タイチェストとの戦いの時です。ご存知の如く、タタールが、モンゴル
の東南、私が行った貝爾湖(ブイル)からハルハ川沿い、まあ、モンゴ
ル・チョイバルサンから、内蒙古のホイ川一帯を支配したに比べ、タイ
チェスト族は、オノン川下流のシルカ川とアルグン川(アムール川上流
)間のヤブロノイ山脈の東南部の森林・草原地帯・今でゆうロシアの
チタ地方を支配していた種族です。

ジェベはこのタイチェスト族に隷属していたペスト部の戦士だったと謂
われるが、大興安嶺北部にいた森林狩猟の民ソロン族の出とゆう。
だから成吉思汗に対して毒矢を使用した・・ソロン族は黒水靺鞨と
ブリヤート族シベリア系民族の混種と云う。

おもしろいねえ、大興安嶺北部のタイガー地帯にいた狩射手の名人が
、アゾフ海北岸のカルカ川決戦や、モスクワ近辺の大ボルガ=ブルガル
まで行く・その墓はカスピ海の孤島、またはアラル海西のウスチウルト
台地にありと言われるが、東北アジアの森林の狩人が、南ロシアまたは
中央アジアの平原で葬られる。

1160 :歴史の:2014/12/07(日) 15:00:23.99 ID:KZSLKmCKs
それにあの元朝秘史に登場する成吉思汗の宿敵・グル・カン(強大なるカン)
ジャムカ(モンゴル・ジャジラト氏・1190年頃の十三翼の戦いで有名。
  十三翼の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E7%BF%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ものジャムカの本拠地が海拉爾のすぐ北・ロシア領のサバイカリスク
(エルグン川上流地域のカリスク草原)だ。

そして20世紀・1945年にソ連軍の大機甲化軍団は、騎馬軍団の如く
フロンバイル草原・扶余族の大襲来の再来・神武東征の水渡りの再来
・フロン湖・ブイル湖・オルション川・ハルハ川を超えてのノモンハン
の地に攻めてきた。関東軍参謀の辻政信さんが10年前に予知した如く
・・彼は歴史を知っていた。よく本を読んでいたかも?

1161 :歴史の:2014/12/07(日) 15:32:21.59 ID:KZSLKmCKs
小田部全一郎・・1919年に、満州・シベリアに日本陸軍の通訳官と
して赴任する。チンギス・ハーン=義経の痕跡を調べるべく満州・
シベリアを精力的に取材する。義経の脱出経路、北海道より樺太に渡り
、ここより黒竜江の河口へ・・ウスリー河を上り呼倫湖ここよりケルレ
ン河をのぼりモンゴルのヘンテイ県へ。

辻さんは関東軍参謀として満州に入る前に、この小田部よりフロン・ブ
イル地方の伝承を聞いていたのでは?
そして父ーちゃんの書斎にあった、私が高校生の時に読んだ奇書
「皇室の原郷」(戦前の本ゆえ不敬罪の恐れあり著者は匿名A氏・
ふざけた名前)がこの小田部全一郎氏の「日ユ同祖論」を参考として、皇室の祖先(ユダヤの失われた10氏族)が、この呼倫湖を通って日本に渡来したことが書かれている。

このA氏・・1930年中頃に軍属として、内蒙古の海拉爾・満州里を行き来きしてたA氏と変装で現地人となっていた辻さんはどこかで会ったのでは?・・熱狂的な国粋主義の愛国辻閣下・・カムヤマトイワレヒコの紀ノ川・熊野川進撃
と同じく、ハルハ河を上らにゃならん心境になったかも
そしてこの時期に辻政信さんも満州に、そしてここの北京大学に居た
戦後の騎馬民族征服王朝説の江上波夫さんも関東軍の世話になり、
この呼倫湖に・全部が吸い寄せられている。戦後わが父ーちゃんの関心
も・(●父ーちゃんの関心はフルン湖ではなくブイル湖ではあるが)

1162 :歴史の:2014/12/07(日) 15:58:28.46 ID:KZSLKmCKs
奇書は、戦前に軍属(軍関係の仕事に従事)してこのソ連国境地帯に
きたAさんが、このフルン・ボイル地方(呼倫湖・貝爾湖・アルグン河
・ケルレン河・ウルシュン河・輝河・伊敏河そしてボロンバイル大草原
)に、日本神話の原形がある。と堂々と書いとる。本当に不敬罪で
特高によう捕まらんかったわい・・。

まあ義経の成吉思汗説が許されるのだから・蒙古草原の民が東海の島
国の神州に行き、里帰りでこの蒼き狼がまたヘンテイ。ブルカンに
戻ったにすればそんなに不敬ではないか?。


呼倫湖まで120キロ〜130キロぐらいあるんじゃないかな?・・
鳥固諾爾・完工・赫爾洪得・嵯崗と走った。
●教授と私の目的はちがう、先生はジャライノールの旧石器時代の
純粋学術的な考古学の研究であり、私のはこの湖を一周しての現地
の古老らの伝承の聞くことにある。

1天地開闢2国産みと神産み
3アマテラスとスサノオの誓約・天岩戸
4出雲神話5葦原中津国平定(国譲り)
6天孫降臨7山幸彦と海幸彦
8神武東征
これに近いものがあるかのガセネタ拾
いである。学術0の野次馬根性

1163 :歴史の:2014/12/08(月) 09:29:02.48 ID:DG9Q4Oqs2
扎賚諾爾(ジャライノール)に到着、考古学資料館にそんな1万年以上
前の旧石器文化の遺跡物の陳列品なんか見てもこちらには興味はあんまり
無い、私の知りたいことは前600年ー500年頃の民族興亡史、それと伝承
類である・・でもハルピンの●教授はこれが主眼だから仕方ない、そし
て私はお供だ(旅行費用は全部私もちであるが?)からね。

●1万年の日本なら縄文時代の教授とM教授の石器の喧々諤々の討論
など、こちらにはさっぱりわからない。30分もすれば陳列品など見れ
ばその基礎知識ぐらいは頭に入る。あとは海拉爾(ハイラル)から
一緒に来た職員件運転手のT君それにこの資料館の番人Sさんと3人
で呼倫湖(フルンノール)について話したよ。

私は正直にかつ大真面目に話したよ、●教授もM(米)教授も内心
は私の言を信じてないと思うがこれは本当のことである。と・・
向こうでその1万年前のことで激論中の二人を指さしながら、笑いな
がらかつ大真面目で話したよ。

1164 :歴史の:2014/12/08(月) 16:34:58.44 ID:DG9Q4Oqs2
私は笑いながらもプートンハー(普通話)で真面目にそして真剣に話した
よ・・幸いにもご年配のSさん(50-60歳と思うが?)戦前の満州の
名残りか日本語をそれなりに話せる。私の下手糞な中国発音で話が
つまれば日本語を使えばいい。

Sさんは純粋の漢人である。1830年ー40年のあのアヘン戦争の前の道
光帝の時に曽祖父の時代に河南省から来たがもうこの地は自分で4代目
だ満州人と思うている。と

Tさんは、自分の家系はタタールだ(?何故か蒙古とは言わん)先祖は
、清朝勃興の2代ホンタイジの時に蒙古八旗に組入れられただ、タタールが
、この地域(フロン・ボイル)で勢力をもつは10世紀からだ・・それは
10世紀に室韋がアルグン河より、南下して契丹(キタイ・タタールと同系)
に割り込むかたちとなってから・・自分はタタールの伝承しかしらない・・。
でも知ってることは話すし、実家は地元の達付米克だ、古老もよく知るから
それを紹介する。

だが、タタールは草原の民、呼倫湖の湖畔周辺に住み、漁撈活動はしない・
・この民は清代中過ぎに南からきた漢人だ、また東から来た満人だ・・だが
一部に、それ以前の鳥洛候(鮮卑系・ツングースとトルコ種の混血とも言われ
る)の残存家系があるかもわからない・・湖畔の古老家系に聞いてあげます。
と・・なかなか資料館の助手やってるから歴史通である。

1165 :歴史の:2014/12/08(月) 18:36:02.66 ID:DG9Q4Oqs2
私もお調子に乗って話しましたよ。

わが家系の一門宗家にある9世紀頃の開元通宝や、宗門張・先祖の伝承
(秘文か秘図か解読不能)そしてこれはわかってることだが、出が敦賀
松原それに家紋・石碑の形らどうも私の御先祖さまは、727年ー920年に
渡り34回も行なわれた渤海の対日使節団の一員ではなかったか?

そりゃその一員でもその地位は親父と私では違うが、この渤海使節団
に関して父も私も同意見なのです。でもその地位となると
例えば、841年の渤海使105人の構成では、使頭(大使)1人、嗣使
(副)1人、判官(補佐官)2人、録事(幹部)3人、訳語(通訳)2人
史生(書記官)2人、天文生(学者)1人、梢工(事務官)28、
大首領(下男僕)65人とあるが、父は判官か録事であるに対して
私は大首領の一員である。

渤海は多民族複合国家であるから、父は当然に旧高句麗貴族だが、私は
8世紀に渤海に討征された黒水靺鞨の平民当たりが相場だろうの御先祖
さまなのです。だから勿論、父の御先祖の故地の館は、首都の東京龍泉
府(中国黒竜江省寧安市の東京城鎮)もちろん武官高官の熊衛,羆衛,
南左右衛,北左右衛のいずれかでしょう。内城の一郭です。
でも私の御先祖さまの故郷の家は出港地の沿海州デュポット湾のクラ
スキノの裏街のドヤ宿あたりが相場ですね・(笑)。

1166 :歴史の:2014/12/08(月) 19:47:56.29 ID:DG9Q4Oqs2
では渤海のいつの使節団の一員かは父も私も意見は一致している。
西暦919年の第34回目、最後の対日本遣使団の来渡航者である。
1年間越前松原客院で滞在した。
でも920年に最後の渤海使となった時に、わが御先祖さまは身分が卑しい
無用の人材だから大事でないからこの日本に置き捨てにされた(笑)。

あるいは帰ったところでロクな生活がまっていない。渤海は内モンゴル
地方の契丹(キタイ)族の耶律阿保機の侵攻により青息吐息の状態、
もう出港する時が危ない状態だった。だから港で金で雇われ平和な
日本に逃げてきた。いまさら帰っても軍夫にかり出され籠城戦にかり
だされが関の山である。帰国を拒んだ。

ここに平安朝の記録におもしろいのが、
西暦920年に裴璆が帰国するときに、4名もの逃亡者が出ている。これは
多分、渤海が滅亡する時期に当たったからだろう。
この4人の中にわが御先祖さまが?  辻政信の御先祖さまは能登客院
から山中温泉に脱走したか?(笑)。

でも父の意見は違う。崇高なる渤海王室からの秘密指令による
任務残留である。日本の草となりその倭情報を上京竜泉府に送れ。
そしてここにも平安記録に面白いのが、926年に渤海が滅亡すると、
契丹の東丹国が成立するが、その東丹国から929年に裴璆が再度来日する。
わが御先祖さまは必ず裴璆に会っていると。

1167 :歴史の:2014/12/08(月) 21:57:53.52 ID:DG9Q4Oqs2
父はこう主張する(笑)。

929年の裴璆の再来日(平安朝が契丹の使節としてくることは、渤海
への逆臣行為として京都入りを許さず、国書の受けとりを拒絶して大陸
に追い返す)以後、御先祖さまは渤海の再興(926年王は降伏するが命
は助かる)を信じ、日本情報を知らせるため裴璆と一緒に帰らず、この
国に留まり王の日本亡命を画策した。

でもこの草の仕事・何代続いたかはわからん。だがある代でその任務
を断念したあきらめた。仕事を捨てた。渤海の復興はならなかった。
女真系(高句麗系とゆうより靺鞨系では?)の完顔阿骨打が遼王朝
(契丹王朝)を滅ぼすは1115年である。裴璆が日本を追い返されたが
929年である。186年がある 1代当主20年として9代である。

祖国のため日本の草となり働こうとしても9代かかっても祖国が復興
しないのである。
でも親父・・密命受けし家系の子孫として、旧主家の王家の満州の
中京龍泉府に行きたい。その古代遺跡の前で「倭の国情報告」をし
御先祖の責務を20世紀に解放してやりたい。と(笑)。

1168 :歴史の:2014/12/08(月) 23:02:22.86 ID:DG9Q4Oqs2
でもわが父は満州へ一度も行けんかった。戦前は結婚前は仕事で、
軍人では中支派遣軍として上海・南京・徐州・国内さらに南方戦線へ
戦後は日中の国交が・・だから代わりに私が父のかわりに行った。

上京龍泉府・中京顕徳府・西京鴨緑府・東京龍原府・クラスキノ土城
皆行ってきた。上京龍泉府の東京古城遺跡では、王家の宮城の位置が
わかった。だからそこに父の愛用のパイプを埋め、「震国大氏王家臣
○○○○・・倭国の国状を謹んで報告いたします」と座禅を組み
メジテーション 観想してきた。と?(笑)。

それにわが父は、わが祖先は高句麗=扶余と思いこんでいる。その扶余
の出身地をこの呼倫湖・オルション河南方、巴彦塔・阿穆古都・阿木古
都宝力格らの新巴爾虎左旗・・この呼倫貝爾草原と思ってる。

私は高句麗と扶余はちょっと違う、王家は一緒だが民は別だ。
半牧半農と遊牧は生活スタイルが違う。遊牧は騎馬民族だが半牧半農
は騎馬民族ではない。高句麗が騎馬民族なら隋唐戦争・・あのような
籠城攻防戦などやらない・・完全なる都市国家農民スタイル戦争だ。

1169 :歴史の:2014/12/09(火) 09:18:53.11 ID:8SZrNDsA1
私は高句麗は最初の王・東明聖王(朱蒙)は神話にあるが如く扶余の亡命貴族
であろう・・・扶余の金蛙王(きんあおう)の庶子とされる
だが民は濊だ!。

漢書に記録ある。「前漢の元朔元年(前128年)濊君の南閭らが、衛氏朝鮮の
右渠に反逆し、28万人を率いて遼東郡に服属した。」

これも記録ある貊(夷貊)とはすこし離れる。
「元鳳6年(前75年)貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県
へ移り、沃沮・濊貊は尽く楽浪の管轄へ移った。」
松嫩平原の北部あたりに居た。農耕牧畜民族である。濊は?
それに狩猟が入ったが貊である。両者隣り合わせにいたのだろう。

この松嫩平原に北部(はっきりしない?)より遊牧の民の扶余が侵入し・・
濊貊は南と東に逃げた。少し南下するが現地に留まり王を受けた濊族が
その王の名の高をとり高句麗となった。主家筋の北の扶余の支配を受けていた

父は先祖は現地に留まった高句麗と云うし、私は先祖は東に逃げた濊(後に
靺鞨となる)と思う、南に逃げた濊は前100年頃には倭になる。
「倭の奴の王の金印」は「濊の倭の奴の王の金印」である。

1170 :歴史の:2014/12/09(火) 13:44:52.77 ID:8SZrNDsA1
その濊であるが前六世紀にこの松嫩平原に北部に来る前は・・後に南に下り
哈尔滨の東、賓県に居を移す(濊古城古代遺跡)が、松嫩平原北の前の住所
は、大興安嶺山脈の西の呼倫湖北岸の巴爾虎・嵯崗・扎賚諾爾周辺の漁労狩猟
牧畜民との説がハルピン大学・海拉爾考古学博物館に高まった。

アムール川上流のアルグン川とシルカ川とオノン川の間のエルグン平原
後年・テムジンの好敵手となったジャムカの根拠地・今のサバイカリスク
方面より謎の民(ユーロポイドかモンゴロイドかわからず、アーリア語族
かアルタイ語族かわからず、蒼き狼族としか?)襲来により濊の原形族は
東へハイラル川に沿って赫爾洪得、陳巴爾虎旗、海拉爾へ、そして免渡河
より興安嶺をこえて諾敏河(スオミン)の小二溝そして嫩江(ネンチャン)
に至る。呼倫湖地区と嫩江地区の土器に驚くべき類似点がある。
種族の移動以外考えられないとの説である。

1171 :歴史の:2014/12/09(火) 16:38:18.51 ID:8SZrNDsA1
私は自分の先祖家系は渤海人と思う、被支配層の黒水靺鞨人・挹婁沃沮
人、その前を辿れば濊人になる。この種族の原郷をもとめ賓県濊古城も
行ったし、嫩江遺跡も行った。そして今、その原型濊人の故郷の呼倫湖
の北岸を目指している。

ここを見たら呼倫湖の南岸にも行きたい。父がわが家系は扶余と言った
その扶余の故郷も見たい。扶余と濊・・湖の南北で、私は扶余も濊も
東胡も鮮卑も匈奴も韃靼(タタール)も室韋(モンゴル)も皆ここで
この呼倫湖周辺で生まれたと思っている。突厥だけは別だ、あれはバイ
カルだ。 

だが大古の大昔のこと実際は真実はわからない。だからいろいろな人
まあ自分の空想で、父の主張で、●教授の目になって、小田部全一郎の
や辻政信や江上波夫の頭になって真っとうな考古学者、奇想天外な空想
作家、狂信的な国粋主義者の目になって、この呼倫湖発祥民族史を語っ
ている。だから意見主張がぶれる。

とにかくSさんとT君にはハイラルでこれたを語った。そして了承を得た。
全面協力に私につき合ってくれる。こうゆう場合は学者さん以外はまことに
宜しい。●教授やM先生などプロは、ちょっとこっちが突飛意見云うとすぐに
怒りだす。

1172 :歴史の:2014/12/09(火) 18:17:55.03 ID:8SZrNDsA1
この日はとうとう呼倫湖はいけずじまいで扎賚諾爾、この炭鉱の町で泊った。
●教授とM先生の研究論議が1日かかってしまった。T君の案内でこの町の
見学は結構におもしろかった。石炭の露天掘は規模がでかい。

今はこの湖の北岸は観光地となりホテルもレストハウスもあり宿泊にはこまら
ないらしいが40数年前だ、その当時は何もないテント寝袋持参でないと駄目
なとこ石炭の町で泊るしか手が無かった。

翌日に朝6時にホテルを出た。●教授と私とSさんとT君のソ連製四輪4WD
軍隊の中古かクッションは悪いが抜群の馬力だ1メートルくらいなら河の中
でも走る。泥や砂でも歯きしり唸り声をあげ砂嵐をまきちらして走る。
車が隠れる草の中でも突進する。

でも万一を考え、4人用テント 3日分の食糧と水・灯油(ストープ)無線機
寝袋 衣服をつんででかけた。今とはちがう、本当に辺鄙な所であった。

1173 :歴史の:2014/12/09(火) 19:22:06.31 ID:8SZrNDsA1
フルンノール到着
北岸の巴爾虎から始まり、西岸の喀塔也夫・窄楚合・南岸のフロンタイ
メン・東岸のウルボイヌ吉布胡郎図の村をまわった。

道なき道、有っても悪く下の草原に降りたりまた上ったり、そして
ポツンとある家に入っての話しこみ、この地4代目のSさんの働き
だ・・●教授は石器・土器類のその類似物の有無
私はSさん通訳まじえて、

1天地開闢2国産みと神産み
3アマテラスとスサノオの誓約・天岩戸
4出雲神話5葦原中津国平定(国譲り)
6天孫降臨7山幸彦と海幸彦
8神武東征
の類似の伝承があるか、どうかだ?

T君はタタール族以外の民族興亡史の古い伝文のことだ。
2人の言葉にこまらない援軍がいる。時間は充分にある。テントを
張るだけのことある。食糧も水もある。ある家、ある家に入った。

35年以上前に、小田部全一郎氏は、『皇室の原郷』の著者A氏は
辻政信氏は、江上波夫氏は、吾郷清彦氏は 竹内巨磨氏はどこまで
現地人に接触し調査し書いた憶測したのであろうか?

1174 :歴史の:2014/12/09(火) 21:36:12.18 ID:8SZrNDsA1
今は2014年は、呼倫湖の湖畔周遊道路は立派な舗装道があるかも
わからんが40年以上前は、地道が陥没、切れていたなら草原に迂回し
また道にもどる悪戦苦闘道・一旦長草に沈んだら周囲なんて何も見えない
・・よほど地理に詳しい人しか運転できない。、西南のアルタイメンから、
ヘルレン川に沿ってモンゴル国境まで
新巴爾虎右旗・杭烏拉・阿穆楚魯・克爾倫まで行きました。

国境警備なーんにも怖くない。ジャライノール・ハイラルのお役人さま
が大学の教授さまが一緒だ・・2年前は一人旅の日本人、そんな国境なぞ
スパイ容疑で一発だ・・モンゴル側のパピラガの手前まで、また道を戻り、
新巴爾虎右旗から今度はブイル湖の巴彦塔拉、モンゴル国境ホルステン川の
手前まで、そして道を戻りオルション川を下り、またフルン湖の南岸の爾弥
録廟から2年前に行ったウルボイヌに行きました。古老Wさん大歓迎して
くれた。この日はここで泊めていただいた。実際は家の中、宅地内にテント
を張る・・4人も泊れない。この晩も語り合った。

Wさんと隣家(と云っても300メートルは離れる)のKさんの話では、
ウスリータニシ(田螺)の巻貝がららの出土遺跡物が甘珠爾廟や吉布胡郎図
にあることから大昔(2000年ー3000年前)はこの呼倫湖は大湖であり、現在の
3倍〜4倍の大きさがあった。ヘルレン川・オルション川の大河2本から
某大な水量が入り出る河が無ければそれは理屈である。

1175 :歴史の:2014/12/10(水) 09:23:52.99 ID:jYr4Co/6f
ひょっとしたら今の呼倫湖・貝爾湖 オルション河・新巴爾虎右旗・杭烏拉・
巴彦塔拉・ホルステン河・吉布胡郎図も含む大きな大きな湖の面積10000平方K
以上洞庭湖程度の琵琶湖の15倍〜16倍の広さがあったのでは、今のフロンボイル
大草原の上にあったのでは・・。

そして日本人の妄想人古代研究家は、現地人からそれを聞き知ったのでは、
学者もいる。江上波夫氏とゆう教授も、関東軍参謀とゆう軍人も、だから
満州のソ連・モンゴル国境のこんな辺境な地までたびたび調査に来ている
のでは? 村の古老からそれを聞き知ったのでは?。

なるほど、なるほど、そうかそれで、謎の「蒼き狼」族がシルカ・オノン・
アルグン川方面からこの呼倫湖に襲来する200年以上前にカムヤマトイワレ
ヒコとゆう貴人が10のユダヤ・エブライ氏族を卒いて、大海の南西の杭烏拉
の美々津の地から八咫烏の先導により東征の航海・・北東の虎爾旗の蛮族の
土蜘蛛の濊人の地をめざして。そしてヘブライは濊と合流しカムヤマトイワレ
ヒコはこの地の樫原神宮で即位する。

1176 :歴史の:2014/12/10(水) 17:45:14.91 ID:jYr4Co/6f
私は呼倫湖周辺の村民(多くは昔タタール族 ジャライル族 ダフール族の末
であろう)に種々多くを聞いたよ・・エヴェンキ族・オロチョン族もかかって
いるかも? また話したよ。

1天地開闢2国産みと神産み
3アマテラスとスサノオの誓約・天岩戸
4出雲神話5葦原中津国平定(国譲り)
6天孫降臨7山幸彦と海幸彦
8神武東征
これに近い伝承が種族にあるか?

「アマテラスとスサノオの誓約・天岩戸」
に近いのが一つ有っただけ、あとは何にも無かった。
私はここは神武東征に無関係な場所と思うゆえこれはいいの、私は神武東征は
江南・会稽山杭州湾の越の地と思うから、日本神話の伝承せんぶあった。
良渚博物館には「三種の神器」もあったからいいの・・。

私はこの地に来るまでは、1924年に発刊された、志水語の『呼倫貝爾踏破記』
や満鉄調査部の山崎武雄の1940年発刊の『呼倫貝爾地方牧野調査記』を読ん
で来とる。

1177 :歴史の:2014/12/10(水) 19:06:42.20 ID:jYr4Co/6f
そんな同じ時代の神話狂信家・誇大妄想家のトンデモ本ばかりでなくマトモ
な人の著作も読んできとる。その上でこの地で日本神話をコジつけるは本当
の異端の話になると思う・・現地の人の話と景観、自分の観想を組み入れても
とても神武東征をこの地に求めることは私にはできない。

わが父の意向に反するかもわからないが、これだけは同感できない。
扶余が前150年ー前100年くらい前に貝爾湖側のフロンボイル草原にいたことは
認める・すると江上波夫教授の騎馬民族征服王朝説はトンデモ意見になるが、
父のブイル草原扶余説は納得・・でもわが先祖は扶余でも高句麗でもない 
濊である。倭のご親籍の濊でる。

ヘブライの失われた10支族が前7〜8世紀にこの呼倫湖の北からハイラル
川を東に進み、大興安嶺から松嫩平原に入り、斉斉哈爾(チチハル)
哈尔滨(ハルピン)長春・瀋陽・半島そして日本に入っていったかもわから
ない・?。あくまで濊と一緒に日本に来た。前150年ー前100年頃にね?。

でも私は、ユダヤのそれが仮に、仮にあったとしても越族と共に海の旅だと
思うが、それでもシルクロードコースではない、北の草原の旅、スキタイ
コースだ!との説には理はある。こちらの方が安全だからである。

1178 :歴史の:2014/12/10(水) 20:02:55.31 ID:jYr4Co/6f
でも神武東征と一緒に来たは、これはアルタイ山脈こしてハンガイ山脈の南
ヤブロイノ山脈の南、モンゴル高原を西から東に横断しヘルレン川を下り
大海大湖の呼倫湖を渡航しハイラルに至らなければならない。
私、モンゴルも西から東に旅してる、あんな高原草原砂漠の中、とてもエライ
コースである。

そんなもんサヤン山脈とハンガイ山脈の山合のドーバ共和国を通りバイカル
湖に着きここからヤブロノイの南をかすめ、シルカ川わたり呼倫湖に来る
ほうがよど楽だ。山が多いが、川も湖も多い、魚つかませば食糧の心配ない

狐やテンやオオカニつかましエサにするより楽だ、暖とる木々などいくら
でもある。飲料水の心配ない・・それに歩くより舟のほうがよほど早い。
ここも私、行っているからその地の状況よくわかっている。

進むならこのコースよ・・神武さんと一緒にユダヤさん来ないと私は見る。
だいたいこんなとこで神武さん出てくるのがおかしいの。
ここが日本神話コースなら、なら高天原どこや? 高千穂の峰はどこや。
ヘンテイ山の聖地ブルカンはあるが・・チョイバルサンからヘルレン川
呼倫湖まで山あれへんど・・高千穂の峰あれへんど?。

1179 :歴史の:2014/12/10(水) 22:26:54.47 ID:jYr4Co/6f
私、21世紀の10年過ぎてモンゴルに行った。
父の望みを漫画じみてるが適えてやりたかった、1度行きたい行きたいと願っ
ていた扶余の故郷と思っていたモンゴル貝爾湖(ブイル湖)に父の遺品を埋め
てやりたかった。「さあ父ーちゃん想いでの地に来たぜ!」を語ってやりたか
った。

そしてこの時にケルレン川が中国領内に入るバビラガの国境の村まで行った。
40年前にその向こうの中国の国境の町の克爾倫に私と●教授とSさんとT君
は居た。

チョイバルサンよりケルレン河を下っていくと国境の町バビラガがあり、その
向こうは・中国の克爾倫、このパビラガの北西方面に400メートルほどの
小山があります。山らしき山ではもうそこしかない・・。

「チョイバルサンは中蒙国境より80キロ西ですが、その中間40キロにその
山はあります。ケルレン河は、その山を北東にそして南西に大きく囲むように
迂回して流れています・・フルンノールの西岸より170キロは無いと思いま
す。私、チョイバルサンに寄ったとき、その山をタクシー使い見に行った。草
原の中、道は切れたが12キロ近くまで寄った。運転手にいくら聞いても
名前は知らん、ホテルで聞いても知らん・日本の高千穂の峰みたいに荘厳な
感じはゼロだ。でも高天原から降りる高千穂の峰はあれしかない。

やはりモンゴルと日本神話はぜんぜん合わない。
ここに神武東征・・失われしヘブライ10支族をもちこむ古代狂信家・想像力
たくましき妄想家の話はすべて眉唾物と言わざるを得ないなあ〜(涙)。

1180 :歴史の:2014/12/11(木) 09:30:18.01 ID:b3I0SPqPM
●教授の云う前7世紀頃のアルグン川・シルカ川方面からのこの呼倫湖周辺へ
の蒼き狼族としか言えない謎の民族・ユーロポイド(白色種)アーリア語族
のスキタイ系サカ族かもしれないし、モンゴロイド(黄色種)アルタイ語族
の匈奴の前身族かもわからない。この渡来があった。

これにより、湖の西方の達付米克・伊和呼爾古勅吉・新巴爾虎右旗らの
フルンボイル草原に居た遊牧の民は南方に去った。その蒼き狼族より
騎馬の習慣を伝授され・・内蒙古高原の南・・遼河上流地域に向かう。
そしてこの地に居た、紅山文化の流れを継ぐ山戎・・原シナ人 中国神話
にある蚩尤(しゆう)族・黄帝族(中華人)で、涿鹿(たくろく)の地
(河北省張家口)で破れ北方に逃げた山戎族・・この山戎と合流して
東胡族の前身となったのであろう・・鮮卑族の前身でもええ。

北京大学でも、紅山文化はむしろアルタイ諸語の民族の中モンゴル諸語の祖
となる言語や濊貊語の祖となる言語を話した? との説である。
ハルピン大学・北京大学の説を合わせれば以上の推理が充分になり立つ。

1181 :歴史の:2014/12/11(木) 13:08:49.28 ID:b3I0SPqPM
内蒙古高原の南まで逃げた奴が東胡鮮卑の前身、でも逃げきれなかった奴、
貝爾湖のブイル平原に留まったのが扶余の前身となった。謎の民族・蒼き狼
族の支配を受けたのであろう。

一方、呼倫湖の岸岸地区の虎爾旗に住み大湖の漁労や牧畜や農耕生活を営んで
いた濊の前身種族は、海拉爾河を東に大興安嶺方面に移動した。漁労で培った
船旅だ!もちろん海洋民だ騎馬の習慣なんか宿る筈なし。
濊は騎馬の民、遊牧の民でない。狩猟・牧畜・農耕の民である。
羊ではなく豚・家鴨らを連れて東に移動した。

ではその謎の蒼き狼の民とは何者だろう・・●教授もM先生もわからないと
後は個人個人が推理するより仕方ない・・私はモンゴル種アルタイ語族の
匈奴の前身種族と思うが、
戦国時代に入り、紀元前334年の段階で『史記』蘇秦列伝によると「東に朝鮮
・遼東、北に林胡・楼煩、西に雲中・九原、南に呼沱・易水がある」といわれ
ており、この北の林胡・楼煩か? でもこれは紀元前334年の話し・前7世紀
では時代が離れすぎている。林胡・楼煩は原シナ人・蚩尤(しゆう)族の
山戎の部類であろう。

1182 :歴史の:2014/12/11(木) 13:37:38.35 ID:b3I0SPqPM
中国の正式な歴史書に匈奴の名前が初に出るは
頭曼単于(? - 紀元前209年)であり、これは秦の将軍の
蒙 恬(もう てん、? - 紀元前210年)の頃であり、あの史上名高い
匈奴大王 冒頓単于(紀元前209年 - 紀元前174年)の父である
これ以前には匈奴の名はない。

でもまた葷粥(くんいく、拼音:Xūnyù/Hūnzhōu)の名も出る
葷粥は、かつて中国の北方に住んでいたとされる遊牧民族。匈奴の前身
と当時の中国人は考えていたと云う。

黄帝の時代、葷粥は黄帝の統一事業の際に北へと駆逐される。
とあるが、では葷粥は蚩尤(しゆう)族の山戎になるが、また
唐虞(陶唐氏の堯と有虞氏の舜)の時代、中国北方には山戎,獫狁,
葷粥の3族があり、いずれも遊牧民族であった。ともあり、
山戎と葷粥は別との意見もある。

中国の史書にはしばしば「獫狁、葷粥」と併記されることから、この
2つは別の部族ということになる。この2つの部族は後にモンゴル高原を
統一した匈奴の前身とされているが、詳しいことはわかっていない。

1183 :歴史の:2014/12/11(木) 15:23:04.80 ID:b3I0SPqPM
起源[編集]『史記索隠』において「楽彦括地譜は云う、夏の桀王は無道
なため、殷の湯王により鳴條へ放逐され、三年して死んだ。その子の獯
粥(葷粥)は桀王の妾を妻とし、北野へ避居して遊牧生活を始めた」

まあ匈奴の前身は葷粥、これが謎の民「蒼い狼」にすればよい。この
葷粥がフロンボイル草原よりモンゴル高原に入り、ゴビ砂漠を渡り
陰山山脈を越えオルドス地方に入り、獫狁部族を糾合して前300年頃
趙の武霊王(前326年 -前298年・北方の騎馬民族と戦う)時代に
匈奴種族が成立したにすれば私はよいと思う。

ハイラルのM先生は、この謎の「蒼き狼」族を湖の西北オノン川や
シルカ川流域の前7世紀〜5世紀の遺跡類(青銅器・土器)からミヌ
シンスク・クルガンの近似性から、堅昆、それも今日のチュルク系
キルギス人種ではなく、古代イェニセイキルギスのコーカソイド堅昆
中国の史書にある「金髪碧眼長身」のスキタイ人種の可能性高いと
云われました。

バイカル湖より来て、モンゴル高原の北・・サヤン山脈のイェニセイ川
上流にまた去ったこの種族が「蒼き狼」の末の堅昆であり匈奴とは別
なりと?。

1184 :歴史の:2014/12/11(木) 16:37:11.20 ID:b3I0SPqPM
私はどうかと思う。前5世紀頃にシベリアに移るとは云え、こんな満州
の地まで白人種が入るとは?そりゃ前3世紀、西域の都市国家の楼蘭
で発掘された金髪女性のミイラや・・遊牧国家鳥孫や伊列の白人種
・月氏さえもアーリアだったの説多い。

でもそれは中央アジアまでのこと満州までアーリアの勢力が進攻して
るとは信じられない。なるほど前481年のあのペルシャ戦争、クセル
クセス1世の遠征に、今のカザフの都市アルマテイのイシック川の
「三角帽子黄金人間」のサカチグラハウダーの遺体・完全なる白人種
だった。

これがアテネアクロポリス籠城のギリシャ軍を包囲殲滅した騎馬軍団
であること、歴史が証明しとる。そう、つまり前6世紀ー5世紀のアルタ
イ山脈以西の中央アジアは黄色人種の出る幕なし・・コーカソイド
アーリアの世界だったかもわからん。でも満州まで白人が?

1185 :歴史の:2014/12/11(木) 22:03:45.18 ID:b3I0SPqPM
でもわからん歴史は繰り返すと1945年8月にイワン露助とゆうスラブ白人種が
大部隊にて満州里またブイル平原から満州の地に雪崩こんできた。
2500年前もコーカソイドの民がこの地にきたかも?
でも私は、やはりモンゴロイドと思う。

カラスク文化は紀元前1500年から800年頃、ユーラシア中北部のヴォルガ川、
アラル海からシベリア南部のエニセイ川上流域にかけて栄えた文化である
この文化の担い手は人種的には様々であるが、先行的な東部地域の担い手は
モンゴロイド・西部地域はコーカソウドとされる。

モンゴル高原の北、サヤン山脈のミヌシンスク・クルガンの種族は
中国の史書にある「金髪碧眼長身」の伝記は周王朝の前1000年前後のこと
もう前600年はモンゴロイドがシベリアでは押している。

この後にスキタイ・サカ文明が前6世紀から前4世紀にシベリアにも騎馬の
スキト=シベリア文化文化をもって入るとあるが、
セミレチエ(七河地方)まで アルタイ・サヤン山脈はこさない。

北はバルハシ湖,北東はアラコル湖,南東はジュンガルスキーアラタウ,
南は天山山脈の間の地域。バルハシ湖に流入する主要な川が7つあること

ヘロドトスのヒストリイ(歴史書)のスキタイの道
アリステアスの叙事詩『アリマスペア』
イッセドネス人 アリマスポイ人まで、イッセドネスがカザフステップ
アリマスポイはセミレチエだ。とてもとてもアルタイ国(ミヌシンスク)
まではいかない。前600年頃にコーカソイドの勢力は呼倫湖まで伸びる
とてもとても考えられない。いくら中国史料にあると云っても。



1186 :歴史の:2014/12/12(金) 14:55:53.20 ID:wVL8gk778
私はモンゴル種と思うが、まだトルコ種の可能性がある。
ここに雑誌『オスマン歴史協会報』に面白い記事がある。
アンカラの学校の教師とある。高校の歴史の先生か、郷土資料家でもあろうか
・・私のように民族の先祖を知りたくてあちこち旅行したと。

オグズ・トグズ24支族のカユ・オットマン部族(オスマントルコ)首長
エルトウールルのアナトリア東北部のソユトを出発点に、シリアのジャベル・カレスィ・テュルク・メザル
トルコの墓(トルコ人の間で神聖の場所、シリアの中のトルコの飛び地・
トルコの国家憲兵が警護している)初代オスマン1世の祖父の墓地。でもこの
スレイマンの出身地はイランのホラサーン(イラン東部の都市マシュハド)だ。
ルームセルジュクのムスリム(イスラム改宗遊牧民)軍人階級である・・

父のクタルムシュになるとオグズ・トグズ24支族のカユ部族の族長になる。
その根拠地はカスピ海とアラル海の間のカザフ草原に移動しなければ、
エンバ川流域からウスリウルト台地にまたがる。
私もここは・・例によって私のしょうもない自慢だが、「匈奴西遷見物旅行」
行ったことある。

このトルコ人のおっちゃんも、アナトリアからシリア・イランそしてカザフに
行っっているとある。
ここはもう一つのトルコ(オスマンではないセルジュクのトルコ)の故郷でも
ある。オスマンよりもう少し北東のアラル上のジェンドあたりか?。

1187 :歴史の:2014/12/12(金) 18:39:53.37 ID:wVL8gk778
オグズ24支族のオスマンはカユ支族・セルジュクはクヌク支族、まあこんな
近接地では親戚みたいなもんだろう。
このオグズ葉護国カザフ草原は日本で云えば東北の季節労務者県みたいなもん
発展地域の東京に出稼に行き、故郷に支仕送りせな家族が養えん。

そう都会となったバクダッド・ダマスカス・ニシャプール・イスバハン
・ヘラト・イティルらの裕福な先進国の都市国家の傭兵に雇っていただかな
種族が維持できないの・・だから未開の草地のクヌク村のセルジュクさんは
威勢のいい村の若者連中つれて季節労務者出稼ぎに出かける。

ところが東京で一旗あげて土建屋開業したらこれがうまく成功する。
もちろん家族・一族・村総員東京に呼び寄せ・・ますます会社は発展、東京
でも1〜2番の大会社となる。セルジュクさんの孫のトゥグリル・ベグの
バクダッド入城になるの。

1188 :歴史の:2014/12/12(金) 18:41:27.89 ID:wVL8gk778
これを見てとった、先人成功者トゥグリル・ベグの曾孫年代に当たるカユ村の
オスマンさん、「俺も一旗あげだ!オラこんな貧乏村嫌だ! クヌク村がうま
くやったならカユ村だって・・それがトグズ者(東北もん)の根性だ!。

これなのよグズ者(トルコ種)の成功の要因は、土地の因縁に縛られない
さぱーっと捨てることができる思いきりよく移ることができるのよ。
これは当時の歴史家がよく見て書いてるの。、、、

『大旅行記』
アフマド・イブン・ファドラー(10世紀のアラブ人の旅行家・ヴォルガ・
ブルガール王に派遣した使節団に加わった際に記した見聞録)

イブン・ファドラーンは、バグダードからブハラとホラズム(アラル海の南)
まで旅した。旅の安全はオグズの長(クダルキンen:Kudarkin)によって保証
されていたものの、オグズの盗賊の襲撃を受け、運良く盗賊団を買収して難を
逃れた。・・・クダルキンはセルジュクのお父上らしい。
よくオグズのことを鋭く観察している。

1189 :歴史の:2014/12/12(金) 20:07:44.06 ID:wVL8gk778
ではこのカザフ草原24支族連合オグズ葉護国の先祖はどうなる。
簡単に地域を選別移動する習性ある民族だ。まことに昔の匈奴みたいな
奴だ。それに

カザフステップ若しくはキルギスステップとは、カザフスタン北部より
ロシア南部までの広い草原地帯の事で、ポントゥス平原の東側、
ドルビルジン・バレー平原の西側に存在し、ユーラシア平原の一部で
ある草原である。カザフ草原、カザーフ草原とも。簡単に馬で移動する

そこでこのトルコの学校の歴史の先生
トグズ24支族の先祖は、西突厥10部(オン・オク)東方咄陸5部  
処木昆部
胡禄屋部
摂舍提部
突騎施(テュルギシュ)部
鼠尼施部
の突騎施だと、アルタイ山脈の西、七河地方よりマーワラーアンナフル
・トランスオクシアナ地方「オクサス川(アムダリヤ川)の向こうの土
地 アムダリヤ川とシルダリヤ川に挟まれた地域をさす」をへて
この部族滅亡時に、カザフ草原に逃げてここでオグズ部族を形成した。

そしてこの突騎施の先祖に蒙古高原の高車をおく。 

1190 :歴史の:2014/12/13(土) 09:26:46.19 ID:0m2lbwpf2
高車
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%BB%8A
この図を見ると、4世紀後半、柔然可汗国に高車はモンゴル高原の東部
押しつめられている。ホプト周辺まで。

5世紀に入り柔然により、アルタイ山脈の西に叩き出される。
突騎施が高車の末だ!これはいい。だが突騎施とオグズ24氏族を
繋ぐは私は強引だと思う。

突騎施は唐・カルルクそして柔然を滅ぼした九姓鉄禄(トグズ・オグズ
・九のオグズの意・ウイグルを盟主とした連合種族)の攻勢により
南でなく西に去った。ウラル川流域でのクマン・ボロエツ・後の
キプチャク族が突騎施の末であり、エンバ川南カザフ草原のオグズ24氏
族と別モノと私は思う。

このトルコの先生、シリア・イラン・バイカル湖は旅してるが、
プリカスピスカヤ平原・ウスチウルト台地 エンバ川流域・アラル
北ジエrンド地方・オクシアナ地方・七河地方・モンゴル高原は
行っていない。どうして突騎施が南の荒涼に近いホラズムに逃げる。

行くなら草満々の西の南シベリア草原よ!
オグズ24氏族は、チュルク系ではあるがホラズム土着民よ。
ここが民族発祥の地よ・・これがこの地域に行った私の観想よ
2000年間はこの地域の気象環境は変化なしと聞く。

1191 :歴史の:2014/12/13(土) 13:31:25.80 ID:0m2lbwpf2
でもこの先生は、高車の前身として丁零を云い、御先祖さまをモンゴル
高原よりさらの北のバイカル湖に持っていっている。高車=丁零、
まあこれはいい、歴史の説だから・・。

丁零
紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川
流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいた
テュルク系遊牧民族であり、中国史書によれば、丁令・丁霊・勅勒
(ちょくろく)とある。

原名は“車”を指すモンゴル語telegem(テレゲン),terege(テレゲ)
に由来すると考えられ、丁零,鉄勒はその音訳で、高車はその意訳で
ある。あるいは、突厥碑文に見えるTölös(テレス)に比定する説、
あるいは突厥と同名でTürk(テュルク)またはその複数形Türklär
(テュルクレル)=テルギッシュ(突騎施)に比定する説、あるいは
突厥の手足にされたことからTiräk(ティレク)トウルーク(トルコ)
らの諸説・・T(て・と)が重要な意味・・トグズにも。

でもこの先生はバイカル湖周辺のエベンキ族やブリヤート族の伝承から
丁零と勅勒は同じではない・・勅勒は丁零の前身であり、前8世紀ー
7世紀頃には、中国春秋時代の始まり、伝説上のローマ市が建国される
頃、記録上最古のオリンピア競技が開始される頃、カルタゴ市が建設
される頃、アッシリアがオリエントを統一する頃、インド・4階級の
カースト制が確立される頃、日本亀ヶ岡式土器がさかんになる頃、
バイカル湖キトイ文化の流れを継ぐ、勅勒文化圏が存在したと云う。

1192 :歴史の:2014/12/13(土) 14:21:27.89 ID:0m2lbwpf2
I先生は、前7世紀頃に、何らかの事情、気象変化、バイカル湖増水ら
と推定される、土質・遺跡物の考古学領域により、勅勒は南と東と西に
移動した南に行ったが丁零(トルコ)であり東に行ったが濊(倭)
、西に行ったが堅昆(キルギス)である

丁零
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E9%9B%B6
堅昆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%85%E6%98%86

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E4%BA%BA

キトイぶんか【キトイ文化】
1950年に,A.P.オクラドニコフによって提唱されたバイカル地方新石器
編年の第4期の文化で,前3千年紀後半〜前2千年紀初頭に比定される。
アンガラ川左岸支流,キトイKitoi河口左岸上にある墳墓群をもとに
命名された。

トルコの源泉はこのキトイ文化の勅勒であり、トルコと日本は同じ泉
から出た同族である親戚である。日本に来てその風俗慣習を見るに
その感を一層に強くしたと云う。

1193 :歴史の:2014/12/13(土) 16:13:04.97 ID:0m2lbwpf2
まあとても雄大で面白いが、ちょっね、私はこの謎の「蒼き狼」族
匈奴の前身の葷粥でいいと思う。それに濊と匈奴は違うと思う。
私は日本人の祖先は、縄文人の元ににその弥生人は北は大興安嶺のオロチョン
のかっしゃん洞・南は長江の会稽から来たもんと思うとる。

その縄文人も南方のミクロネシア旧石器文明人に最近は新石器人の
バイカル湖出発説が考古学また違伝学観点から北海道到着説が高い
ゆえ・・この濊トルコ説も50歩100歩の近さとなるのだが。

でもIさんの説からゆくとオスマントルコはアフリカ大陸のジブラルタル
欧州のウイーンからこの日本まで行ったことになる。

でも珍しくないかフン(匈奴)は、モンゴル高原のノインウラ(ウラン
バートルの近く)からフランスのアルデンヌ地域(カタラウヌムの戦い
)まで行った。モンゴルでもジャワ島(インドネシア)大宰府(九州)から
エジプトから西欧では総司令官のバツのウイーン進撃までやるから
遊牧騎馬民族の膨張度はケタ違いに大きいものである。
そうかトルコが濊になって日本に来たか? それも一理ある説だ。

丁零
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E9%9B%B6
の絵図みると、匈奴の横に鮮卑がありその横に濊がえがかれている。
その可能性も? 日本人でも1万人に一人しかしらぬ濊をそれを日本
だと・トルコ人が唱える?・・。

1194 :てってーてき名無しさん:2015/01/06(火) 22:11:16.17 ID:Xkfm/P5Aw
筆頭の『日本文化チャンネル』の、お題は槍?
今を生きるべく人々の事象との因果関係を浮き彫り抽出させたいのか?
如何なる科学性ある提起を導き出そうとしているのか?
素人目には単なる時間の大切さの言及と解してしまう

1195 :てってーてき名無しさん:2015/02/27(金) 16:29:40.79 ID:vYQ3abwzL
このまま、内ゲバ続けて、無言電話や深夜のイタズラ電話続けてたら、
いまに逮捕者でるよ。
おなじ保守派だから警察には言わないだろうって甘えてやってるんだろうけど。

1196 :てってーてき名無しさん:2015/02/27(金) 16:30:54.97 ID:vYQ3abwzL
たぶん、水島は知らないんだろうなあ。
水島には同情する。自分の知らない所で恨み買って。

1197 :てってーてき名無しさん:2021/02/19(金) 23:38:40.47
オチまい

1198 :1001★:Over 1000 Comments
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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