2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【反日】コテ●日本人● 【極左】

54 :●日本人● :2019/09/07(土) 22:55:13.64 ID:GlnXKpwlM.net
>>53の続き

確かに統治方法については様々な議論がされた。
日本はこのような領土獲得は初めての事だったので外国人の意見も参考にして議論された。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

そこで司法省のイギリス人顧問モンテーダ・カークウッドは、英領の香港とインドにおける非同化政策をモデルとして提示した。
またフランス人顧問ミッシッエル・ルボンは、仏領アルジェリアを例に挙げ、内地延長の州県とみる同化政策を主張した。
当時内閣に置かれた台湾事務所の原敬委員(外務次官)は「植民地経営」に反対し、
台湾を九州や四国同様内地の延長と見るべきだと主張した。原が参考にしたのは、
普仏戦争後にフランスからプロイセンに割譲されたアルザス・ローレーヌ地方の統治形式である。
実際のところ、当時台湾経営に関しては「朝野ともひとつの定見がない」(竹腰与三郎帝国議会)状態だったが、
台湾は植民地ではなく「新領土」とする見方が多かった。かって第二代台湾総督を務めた桂太郎首相が1905年、
帝国議会で台湾を植民地とみなす発言をしたことをきっかけに、第21回、22回の帝国議会では台湾植民地論争が起きている。
http://www2.starcat.ne.jp/~asakurak/f-hidesato02.htm

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−関連資料>>34−−−−−−−−−−−

しかし割譲されて2年後には日本国籍が与えられて台湾住民は日本人になったのだ。
そりゃあすぐには内地の日本人と同じというのは無理だろう。
民度の違いもあり、それは朝鮮も同じ事だが、
台湾には首狩り族もいたわけでね。

とにかく台湾人も日本国籍を得て日本人になった。
なぜ大きな混乱が起きなかったかというと、
元々清国は台湾を「化外の地(中華文明の外にある)」として
統治に力を入れていなかった。
だから台湾住民も清国に帰属意識というのが無かった。

−−−−−−−−−−−
ここで訂正。 
>>34
>台湾植民地論争が始まるのである(1904年)
1905年だった。
上の資料はずっと前にやった植民地呼称スレにあった。
第21回の帝国議会開催期間が1904年11月から1905年2月という事です。

総レス数 132
64 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200