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【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★8
- 963 :ニュースソース検討中@自治議論スレ:2018/11/01(木) 14:46:24.74 ID:1L7WrxLx.net
- 『出雲国風土記』では、郡家からの方位と距離(里)によって、多数の山や社寺の位置が
示されている
また道路も「方位+距離」の繰り返しで通過点が記述されている.3 世紀中ごろの倭国を記
述した最初の地誌『三国志』魏書東夷伝倭人条(倭人伝)では、倭の 30 ヶ国の国名が挙げられているが
そのうち 9 ヶ国は倭国を訪れた魏使の行程であるかのような「方位+距離」で次々に国の位置が記述されている
このように古代測量は方位測量と距離測量が基本であった.1 世紀末に書かれた『漢書』地理志には『周礼』(周代ではなく戦国時代:BC403〜BC221 になってからの成立とされる)の九州のうち 6 つについて目標となる山への方位が記述されている
これらの山は霊峰とされ、その後仏教や道教の寺院が建立され、現在では観光地となっている.いずれも洛陽からの距離は400〜1100km、山の高さは 2 千 m 程度かそれ以下であるの
で、見透し線は得られない対象であるしかし
その方位の精度は 6 つの山のうち 4 つは 5 度以内、残りは 18 度、12 度であり、8 方位(45 度ずつ)記述としては驚くべき正確さである。
ただし測量方法はわからない
それからほぼ 500 年後の 3 世紀末に執筆された倭人伝の冒頭に「倭人在帯方東南大海之中」、
地誌記述部分に「自郡至女王国万二千余里」と
ある.900km くらい離れた遠隔地ではあるが帯方郡の「東南」という方位記述(方位測量の成果)を疑う理由はない
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