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大阪府4

1 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2021/09/09(木) 21:08:22.52 ID:HR390JFTK0909.net
大阪府について

286 :名無しさん@お腹いっぱい。 (テテンテンテン MMde-4ykT):2023/05/10(水) 23:56:44.44 ID:7RO/j00AM.net
し尿の汲取り業の話
http://www.jsmcwm.or.jp/edit/cg/cg11/ishii2.pdf

当時の汲取り業の状況は

また当時のし尿の汲取りの状況について伺うと、実際にやっていた高杉さんでないと語れない話が次々と出てきた。

「昭和26年当時、小平で汲取りをやっていたのは100人ほどです。みんな農家です。自分の農地で使う分を東京方面に、知り合いを頼って荷馬車で汲取りに行っていました。農家汲取り組合を作って地盤の協定を行っていました。し尿の汲取りは、なくてはならない必要な作業でありながら、それを専門にやる人が三多摩にはほとんどいませんでした。

最初のうちは、どこへ行っても“うんこ屋”と言われました。子どもたちにもつらい思いをさせたようです。私は、後にいろいろなボランティアの会長やPTA会長(この他に、民生委員、都の交通安全協会副会長を歴任)をしましたが、“何だPTAの会長がうんこ屋かよー”との声も聞かれました。しかし、私は“誰かがこの汲取り作業をしなければならない”と思い、がんばって続けてきました。下肥が足りなくて困っているときでしたので、農家の人はみんな喜んでくれました。

しかし、そうこうしているうちに、化学肥料が普及し始めて、農家も昔ほどは下肥を必要としなくなりました。あちこちの畑で下肥を使わなくなってきました。“なんで、だまってし尿を肥溜めに入れて行くんだ”と言われだす始末です。

こうなりますと、営業的にはほとんど儲かりません。役所に相談に行っても、初めは“自分の商売のことは自分で考えたら”と言われるだけでした。しかし、そのうち、“これでは生活していくのも大変でしょう”と役所の方でも気の毒がってくれるようになりました。そして、“こんなに汚い仕事をみんなのためにしているのに、タダで汲取ることはないですよ”ということになり、“肥桶1本いくらということで、汲取り手数料をもらえるようにしましょう”ということになりました。肥桶1本につき5円とか10円とかです。このころは現金でもらいました。

普通、1桶に2斗(約36ℓ)入ります。しかし実際には、業者によって肥桶の大きさはまちまちで微妙に違っていました。そこで、汲取り手数料をもらうようになってから、役所の方で統一した大きさの肥桶を作って、私たち汲取り業者がそれを購入することになりました」

287 :名無しさん@お腹いっぱい。 (テテンテンテン MMde-4ykT):2023/05/10(水) 23:57:25.74 ID:7RO/j00AM.net
し尿の捨て場の苦しみについて

し尿処理の技術が不十分で処理施設などほとんどない時代、処分場についてどのようにされたかを伺うと本当に大変だったことが分かる。

「そのうち、砂川全域(旧農家を除く)のし尿の汲取りを町から頼まれてやることになりましたが、“捨て場は自分で確保しなさい”ということになりました。

その当時は、汲取ったし尿はもうそんなには売れませんでしたから、砂川と村山との境の土地(湖南処理場の裏あたり)を1,000坪ほど買って素掘りの穴を掘り、自前の捨て場を確保しました。自己処分地と言っていました。穴は砂利の層が出てくるまで掘り下げました。砂川ですと15~6mほど掘りました。昭和33年ごろの話です。これで、ひとまず安心ということになりました。汲取り量が増えてきたので、他に捨て場を造りたくても簡単には土地が得られない状況になってきましたが、捨てたし尿は少しずつ地面に吸い込まれていったので、穴がいっぱいになっても時間がたつと、また後から追加して捨てることができました。し尿の表面は10cmくらいスカムが溜まっていて、カチカチになってペンペン草が生えているほどです。新たなし尿をその穴に捨てる場合は、表面の固まったスカムの一部を壊して、そこから捨てました。

288 :名無しさん@お腹いっぱい。 (テテンテンテン MMde-4ykT):2023/05/10(水) 23:58:16.04 ID:7RO/j00AM.net
三多摩の大きな市町は、それぞれ、自治体所有のし尿の捨て場を持っていましたが、臭いとか、…… なにかとその周りの住民から苦情を言われるようになり、いろいろ相談してし尿の処理場を造ることになり、立川は昭島と一緒になって、昭島処理場を建設しました。立川には既存の汲取り業者が2社ありました。砂川は立川とすでに合併していたので、本来ならばその処理場を使えるはずですが、いろいろな経緯で継子扱いにされ、“砂川は汲取り業者が持っている処分地に捨てろ”と言われ、大変苦しみました。なんとかお金を工面して日産自動車の工場のそばの350坪ほどの土地を買い、捨て場用の穴を掘り、土手も造りました。昭和38年ごろのことです。ところが、そこに初めて、バキュームカー1台分のし尿を捨てたところ、その日のうちに武蔵村山市の市長さんと議長さんが私の家に来られ、“あそこにし尿を捨てるのはやめてくれ”とのこと。仕方がないので、その捨て場の使用は断念することになりました。その後、“どうしようか”と役所でも議論が重ねられ、新聞にも報道され、大騒ぎになりました。結局、“日野の処理場に入れさせてもらう”ことになりました。

日野までは立川を抜けて日野橋を渡ってズーっと行くのですから、遠いのですが仕方ありません。昭和40年ごろ、バキュームカーを5台使って汲取っていました。午後に汲取った分は、処理場側の受け入れ時間(午後5時)外になってしまいますので、砂川一番と二番の今の横田基地の横の農地を貸してもらい、そこに穴を掘って捨てました。借り賃はいくらでも良いということでした。しかし、そのうち周りに家が建ってきて、地主から“もうやめてくれ”と言われ、そこもだめになり、他の農地を探しました。

捨て場の確保は農家に頼っていました。農家の人には本当に感謝しています。あちらこちらの農地にし尿を捨てさせてもらいましたから。

後に昭和46年になってようやく、昭島処理場に汲取りし尿を搬入できるようになりました。このころ(昭和46~49年)は、捨て場の心配もなく、砂川地区を6台のバキュームカーで走り回ってし尿を収集していました」。

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