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部落の人の名前★19

567 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2018/05/12(土) 22:49:08.80 ID:ph5646zEH.net
>>558
538にも書いてあるように替え歌があるぐらい嫌がられてた。
紺屋と青屋では染色方法に違いがあったとも。
http://shiryo.suishinkyoukai.jp/memento/m_pdf/t49.pdf

河原者と青屋は別の仲間で、染革をしていたのは河原者だけであったが、
青屋は近似した藍染をおこない、生葉から乾燥葉染までの道のりを歩んできた。
ところが百年の戦国を過ぎた頃、後の確立した蒅法でなかったかもしれないが、
新しい藍染法が導入され、新規に紺屋をおこなう者が登場してきた。
所司代・町奉行所はそれは別の仲間として行刑役(後牢屋外番)を賦課しなかった。
皮田が新たに蒅法を取り入れるようになっても、別の仲間という認識は継承された。

当初は卑賤視されていなかった石清水八幡社「革染座」の神人(白革師)たちも
エタ身分への差別強化が強まった江戸後期の頃には卑賤視されつつあったとのこと。
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-60.htm

京都においては、太鼓や沓などの一部をのぞいて、革細工は基本的に町人身分の仕事であり、
「えた」身分のものがそれに従事することは出来なかった。
1723年(享保8)に往古より男山八幡宮の神人として鹿革の製造にたずさわっていた白革師から、
京都の被差別部落で行われていた鹿革製造を禁止するように奉行所に訴えがあった。
奉行所より鹿革製造禁止が言い渡されて困った部落の鹿革業者や京中の足袋屋などが奉行所に懇願し、
細工物の材料としてだけ使うことを条件に、1731年(享保16)ようやく製造再開がゆるされたという。

http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB00000530.pdf

江戸時代の京都では、中世以来の伝統で皮剥と皮細工が分離 し、革細工を行なう革師は差別されることなく市中に住んだ。

http://shiryo.suishinkyoukai.jp/memento/m_pdf/t35.pdf

皮革制作を行うも被差別視とは遠い位置にあった石清水八幡社「革染座」であったが、
江戸後期の皮田身分への差別強化の風潮のなかで、いつしか周囲の差別の視線を感得するようになる。
維新と同時に製造機器のみならず記録類をも焼却する挙に出、以後固い沈黙を守ってきた。

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