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部落の人の名前★15

454 :名無しさん@お腹いっぱい。 (ワッチョイ e51a-GC8V):2017/03/27(月) 22:42:39.36 ID:hksCJeD20.net
眞鍋かをりが同和なら同じ西条市大町出身の眞鍋嘉一郎も同和になるが…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9E%E9%8D%8B%E5%98%89%E4%B8%80%E9%83%8E

医聖・教育者真鍋嘉一郎
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009631652

嘉一郎は、明治11(1878)年新居郡大町村(現西条市大町)で、父寅吉と母ますとの間に長男として生まれた。
父寅吉は、養嗣子として真鍋家の跡目を相続したが廃藩置県後士族としての金禄公債は、
禄高が少なかったためかなもので、帰農には及ばず同村に設けられた積善小学校の教員となった。
母ますは、儒学者日野三楽の孫娘で、寅吉は三楽先生の門をたたき学問を学んでいた。
そのこともあって,嘉一郎は幼少のころは日野家は自分の家同然に行ったり来たりしていたようである。
妹ぎんが生まれた頃、当時西条人士の間で鉱山熱が広まっていったが父寅吉もそれに染まり、
家の近くに在ったアンチモニーの鉱山採掘に手を出し、思わしい実績を挙げられず失敗の中で嘉一郎6歳の頃逝去した。
2人の幼児を抱えた母ますはたちまちのうちに生計の苦難に直面した。
生活を守るため母は濯ぎ洗濯、洗い張りなどの賃仕事をし、女手で出来る事は何でもし、2人の子どもを育てていった。

嘉一郎は、実直で礼儀正しく、夏の暑い日でもネクタイやカラーを身に付けて診療に当たり
「医者が病人を診察する時には武士が戦場へ出て一騎打ちする時の礼儀と真剣味とがなくてはならない」と言っていた。
彼のこの考えは、彼が武士の出として儒学的教育を受けたことにもがるものがある。

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