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【日露】国後島に初の日本人ツアー参加者44人:滞在期間は4日間 ロシアTVが報道 [11/01]

20 :七つの海の名無しさん:2019/11/05(火) 23:13:39 ID:UeRmLu2g.net
>>1
もう墓は空っぽか別のもんいれられてんだろなぁ
特技:墓荒らしのハクジンが放っとく訳ねーからなぁ


『江東六十四屯虐殺』(正統史観

江東六十四屯は、かつてアムール川(黒竜江)の左岸(東側)に
広がっていた地域のことで、満州人と支那人が住んでいた。

中国・黒竜江省黒河市の対岸にあるロシアの都市
ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南側(ゼヤ川より東)の一帯に64箇所の村落があったためこう呼ばれる。

清朝とロシア帝国の間で1858年に締結されたアイグン条約では、
清の領土だったアムール川左岸の外満州はロシアに割譲されたが、
黒河の対岸の「江東六十四屯」と呼ばれる地域には大勢の中国人居留民がいたため、
アムール川左岸でもこの部分だけはロシア領ながら清の管理下に置かれることになった。

義和団の乱が起きると、
かねてから満州全域への進出を計画していたロシアは、
義和団と列強とを相手にしている清国は満州情勢に関わる余裕がないと考え、
ロシアは東支鉄道保護の名目で満州に大軍を送った。

満州でのロシア軍の行動は横暴を極め、虐殺を行なった。

1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル号は河上より銃撃を開始。
7月16日のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)でコサック兵が清国の民間人約3,000名を虐殺して占領。

さらに8月2日から3日にかけての黒龍江・アイグン事件では、
義和団に対する報復として派兵されたロシア兵 約2,000名が
黒河鎮に渡河上陸し、清国の罪なき住民を大虐殺した。

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