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靖国神社のみたま祭りに、創価学会が提灯を奉納?

1 :山田:2018/07/27(金) 20:16:52.53 ID:jUQLhvHu.net
またやったよ(笑)
もう、創価学会に謗法なんて無いんだな(笑)
どこまでも堕ちる創価学会(笑)

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/03(金) 13:03:46.32 ID:6bhS9NE4.net
日興の『三時弘経次第』では、本仏はきちんと「久成釈迦仏」とされています。
ここから考えても日興在世中に日蓮本仏説というのは存在しなかったと思います。


『日蓮正宗歴代法主全書』第1巻(日蓮正宗、昭和47年)43ページに載る
『三時弘経次第』の部分です。これを見ると日興は比叡山を「迹門寺」として
その本仏を「始成釈迦仏」としていますが、それに対して富士山を「本門寺」
としてその本仏をきちんと「久成釈迦仏」と書いています。

というわけで、日興は釈迦本仏説であり、日興に日蓮を本仏とする説は存在しなかったと考える方が自然かと。

なお比叡山を迹門とし、富士山を本門とするのは『本門弘通事』に書かれており、この正本は大石寺に現存します(同44〜45ページ)。それゆえにこの『三時弘経次第』は日興の著作と考えてよいでしょう。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/03(金) 13:06:04.93 ID:6bhS9NE4.net
ここでは末法における「本師」が「釈迦如来」であると日興は述べています。

「ただし日本国の一さいしゆしやう、ぢごくにおちうずると、しやう人の仰候は、
上下万民、しよほつしんのしやかほとけをすてまいらせて、あるいは、あみだほとけ、
あるいは大日によらい、あるいはやくしほとけを、しとたのみて、ほんししやかによらいにそむきまいらせ候あひだ、
むけんぢごくとは、をうせ候ぞかし。」
(日興『佐渡国法華講衆御返事』日蓮正宗歴代法主全書1-182〜183ページ)
ここで日興は「ほんししやかによらい」に背く間、日本国は「むけんぢごく」であると書いています。この日興真蹟は北山本門寺に現存します。
また南部実長(波木井実長)に宛てた日興の書状では以下のように書かれています。
「一閻浮提之内日本国、日本国之内甲斐国、甲斐国中波木井郷久遠実成釈迦如来之金剛宝座也、天魔波旬不可悩、上行菩薩日蓮聖人之御霊崛也、怨霊悪霊もなたむへし」
(日興『與波木井実長書』同162ページ)

日興は波木井郷を「久遠実成釈迦如来の金剛宝座」として、日蓮を「上行菩薩日蓮聖人」と述べています。

このように、日興の文献を一つ一つ読んでみると、日興自身の思想に日蓮を本仏とする考え方を全く読み取ることができません。
多くの日蓮門流が指摘していることですが、日興は師の日蓮の教えに厳格であったことはよく知られていることです。大石寺系のみならず、
他山からも日興の厳格さはきちんと評価されています。
にも関わらず、日興の書状や遺文の中に日蓮を本仏とする文脈を全く読み取ることができないということは、
そもそも日蓮日興の中に日蓮本人を本仏とする発想が存在しなかったということを如実に物語っているかと思います。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/03(金) 13:09:45.18 ID:6bhS9NE4.net
実は日興の『原殿御返事』を見る限り、曼荼羅ではない仏像造立による本尊を認めているという点です。
日興の『原殿御返事』から引用してみましょう。

「此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、
未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候を、御用途も候はずに、
大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代りに、其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、
日興が申す様は、責めて故聖人安置の仏にて候はばさも候なん。それも其の仏は上行等の脇士も無く、始成の仏にて候いき。
其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき。御力契い給わずんば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」
(『編年体 日蓮大聖人御書』1732〜1733ページ)

簡単に概要を述べますと、

「日朗が日蓮の滅後に一体仏の像を安置したのを見て、波木井の原氏もまた釈迦像を造立しようとした。」

「日興はこれに対し、一体仏の造立は始成の釈迦仏ゆえに不可とし、四菩薩を伴った仏像の造立ができるまでは、
日蓮御筆の紙幅の曼荼羅を以って仏像の代わりにしてもなんら問題はないとした。」
ということです。

つまりここでの日興の思想は仏像本尊を否定していないことがわかるかと思います。
むしろそれが始成の仏でなく四菩薩の脇士を伴う久成仏なのであれば、それは曼荼羅の代わりとできるということが、
ここでの日興の趣旨であると思います。
『報恩抄』における「本門の教主釈尊」とはまさにこのことを述べているのであり、
それゆえ日蓮系教団では紙幅の曼荼羅とともに仏像の造立形式も認めているという事実があります。
ですから『報恩抄』における「本門の教主釈尊」を「末法の御本仏・日蓮大聖人」とする立場はあり得ないですね。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/03(金) 13:15:30.91 ID:6bhS9NE4.net
さて日蓮は、実は釈迦を本仏とし、久遠実成の釈迦を本尊としていたのですが、
浅学で洗脳されてる創価学会の方も日蓮正宗の方も信じないでしょう。
そこでいくつか日蓮遺文から文証を挙げみたいと思います。
創価学会員、そして日蓮正宗の方はよーく御書を開いて、自分で考えることをお勧めします。
「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる」
◯「南条兵衛七郎殿御書」
◯御書全集
◯真筆現存:京都本隆寺他
◯文永元年12月13日
・読んでそのままですが、日蓮本人が三徳を兼ね備える仏は釈迦の一仏だけであると説いています。

「釈迦仏独(ひとり)・主師親の三義をかね給へり」
◯「祈祷抄」
◯真筆曽存、身延
◯文永9年
・身延曽存で、佐渡で書かれた御書です。佐渡以降の御書ですが、ここでも明確に「釈迦仏」だけが本仏としての三徳を備えていると書かれています。

「其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし」
◯「神国王御書」
◯真筆現存:京都妙顕寺
◯建治元年
・文永8年、平頼綱の一団が日蓮の草庵に踏み込んだ時の庵の様子が描かれた一文です。
ここでは日蓮自身が「釈尊を本尊とし」ていたことが書かれています。
日蓮自身が「本仏は釈迦のみに限る」ときちんと書いて遺しているんですね。
また草庵では釈迦の像を本尊としていました。この釈迦像は伊豆配流の際に作られたもので、
日蓮自身、生涯放さずに持ち続けていたことが三位日順の「五人所破抄」に書かれています。
もちろん日蓮の心は如来寿量品にある久遠実成の釈尊でした。そしてその仏の使い、上行菩薩としての
振舞こそが日蓮の生涯の戦いだったのだと考えられます。
最澄は『守護国界章』、『依憑天台集』において、智を指して「如来使」という敬称を用いていますが、
さらに『法華秀句』になると自身を「如来使」と称する場面も見られます。
ですから、日蓮の「如来の使い」という用語の先例は最澄であり、最澄を手本として法華経思想を展開していった跡が伺えます。
ここから考えても、日蓮が自身を釈迦を越える本仏とは考えていなかったことがわかるかと思います。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/03(金) 13:23:58.51 ID:6bhS9NE4.net
大石寺4世日道までも釈迦本仏、日蓮の「本地」を「上行菩薩の後身」としていた
大石寺第4世の日道(1283〜1341)によって書かれた『三師御伝土代』という文献があることはよく知られています。
この日道自身による真蹟も大石寺に現存しています。
これは日蓮、日興、日目の三師について書かれた最古の文献の一つでして(元弘3年/正慶2年・1333年。この年は日興と日目の没年)、
特に日蓮自身の誕生日を「貞応元年2月16日」と記録している、日蓮門下中最古の文書です。
『三師御伝土代』の冒頭はこう始まります。
「日蓮聖人は本地是レ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は即安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり」
(『富士宗学要集』第5巻宗史部1ページ)
日目より相承を受けたとされる日道ですが、ここで彼は日蓮の「本地」を「上行菩薩の後身」としています。
つまり日道の頃にはまだ日蓮を本仏とする説は存在しなかったと考えるのが自然でしょう。
少し読み進めて後半に行きましょう。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/03(金) 13:24:46.87 ID:6bhS9NE4.net
「文永十一年きのへいぬ十月蒙古国寄す合戦。
同十二年きのとのい正月下旬蒙古国人三人鎌倉へ下ル後又五人下ル。
同九月六日蒙古人九人竜の口に於て頸斬れ畢んぬ。
建治元年きのとのい六月一日大日蝕、文永十二年三月廿七日あらたむ。
弘安元年つちのへとら建治四年二月二十九日改元。
弘安五年みつのへうま十月十三日辰の時聖人御遷化、」
(同6ページ)

日蓮正宗にとって最も大事な弘安2年10月12日、戒壇本尊建立の記述は存在しません。
ここから考えるに、日道の時代(1283年〜1341年)にはまだ「弘安2年本門戒壇の大御本尊」は存在しなかったと考えるのが自然でしょう。

「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大漫荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、何ソ三身即一の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。」
(同12ページ)
本門戒壇の大御本尊は「仏滅後二千二百二十余年」ですから、ここでも記述が相違しています。
ちょっと整理すると
本門戒壇の大御本尊:仏滅後二千二百二十余年
七箇相承:仏滅度後二千二百三十余年
御伝土代:仏滅後二千二百三十余年

一貫しているとは言い難いですね。
また「三身即一」の仏はここでは「日蓮」ではなく「三身即一の釈尊」とされていますから、
日道の考えでは「本仏」は「釈迦」であることがここからわかります。
ここから推察できることは以下の点になります。
@日道の時代(1283年〜1341年)には、日蓮の本地を「上行菩薩」としており、まだ日蓮を本仏とする思想は存在していなかった。
A日道の時代(1283年〜1341年)には、弘安2年造立とされる本門戒壇の大御本尊は存在していなかった。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/03(金) 13:35:15.47 ID:6bhS9NE4.net
『日蓮正宗歴代法主全書』第1巻(日蓮正宗、昭和47年)43ページに載る
『三時弘経次第』で日興は本仏はきちんと「久成釈迦仏」とされているんじゃ否定のしようがないね。だって日蓮正宗の書物だものww さらに日道までがときたらもうねw
いいかげん日蓮正宗・創価・顕正は騙されてることに気づけよ

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