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大石寺教義と板本尊真偽論の考察3

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/18(日) 12:13:19.84 ID:dXYMR31s.net
人間の本質とは、顕現しているときは宇宙であり、非顕現の時は無であり、それら有象無象を作り出す可能性。

この有象無象を作り出すポテンシャルはは、古来から神と呼ばれたり、仏と呼ばれたり、アラーと呼ばれたり、ブラフマンと呼ばれたり、
エホバと呼ばれたり、オームと呼ばれたり、南無妙法蓮華経と呼ばれたり、大日如来と呼ばれたり、南無阿弥陀仏と呼ばれたり、無分別知と呼ばれたりしてきた。

人間とは、肉体から離れた霊体の時はこれらと同一。
しかし、人間は肉体と同一化しているときは霊の働きが弱まり、これらの状態を忘れ生老病死に囚われた惨めな存在となる。

しかし、生老病死に囚われないと出来ないこともある。
それは個人の創造。
我々の本質である霊、あるいは仏性、あるいは神の子は、その本質であるときは一心同体であって全てであり、個人という個別の創造ができない。
個別や寿命という制限に囚われてこそ、個人という独立創造行為が可能になる。

我々地球民は、この個の創造行為を楽しむために地球に肉体を選んで転生する。
世の中に正しいことがあるなんて世迷い事も個の創造行為の一部。
自分は正しい、あいつは間違いというのは、お互い分離した生命という誤った価値観があって初めて創造可能。

しかし、この個の創造行為に没入しすぎると地球という個のステージに執着して本来の自分の性質を忘れてしまう。
自分は分離はなく全てと一体であるという、生命の全体性の性質を忘却してしまう。
この、自分を個人と思い込む執着が極限に行き着いた社会が末法の世の中。

悟りとは、この忘却から本来の自分を思い出させること。
そのためには、自分は個人だというアイデンティティーを捨てなければいけない。
この世に正邪があるだとか、宇宙のリズムがあるだとか、すべてのガラクタ価値観を捨てなければならない。
その邪魔をしているのが、残念ながら既成宗教なんだけどね。

逆説的になるが、全てを捨て去った時に初めて全体としての自分を思い出す。

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