2ちゃんねる スマホ用 ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

「新潟県」という県名は相撲で決めた!?越後国が新潟県として統一された経緯 2019/01/09

1 :朝一から閉店までφ ★:2019/01/09(水) 09:26:49.13 ID:ty45Vvyz.net
観光・地域
湯本泰隆 21分前

明治時代は旧制度を改め、また新しい制度を作るのに大変苦労した時代だったと思われます。なかには、どうしてもまとめなければならないことがまとまらず、「えいや!」っと勢いに任せて決めてしまったこともあるようです。

1871(明治4)年7月廃藩置県が行われると、越後と佐渡では13県 が誕生しました。その後、政府の統合政策によって同年11月には,新潟・柏崎(かしわざき)・相川の3県体制となりました。1872(同5年)に楠本正隆(くすもとまさたか)が新潟県令に就任されると、彼の「一国一県論」に基づき、翌年に柏崎県が新潟県に併合。ここに越後国は新潟県として統一されたのです。

さて、この合併に至る経緯に関してが実に面白い!




重大ごとを相撲で決める!?

その経緯は、1901(同34)年1月24日の新潟新聞(新潟日報の前身)のコラムにて詳しく紹介されています。

記事によれば、事の発端は1872(同5)年12月のこと。楠本正隆が東京出張の際、柏崎に宿泊。そこに柏崎県の役人たちが訪れ、酒宴が開かれました。宴もたけなわのころ、楠本がすくっと立ち上がり、「越後は一つの県になるべきだとおもうが、どちらの県に合併するかで意見が対立している。そこで、この問題を相撲で決めようではないか」と提案したといいます。

酔いも手伝って一同賛成。県令自らが行司役となるなか、畳の上で両県の役人が相撲を取りました。その結果、新潟側が勝利を収め、翌年6月、柏崎は新潟県に併合されたといいます。

この話、じつは1933(昭和8)年刊行の『新潟古老雑話』にも掲載されています。
https://mag.japaaan.com/archives/88816/amp

2ページ目 散髪令や混浴、盆踊りの取締なども
次のページ
https://mag.japaaan.com/archives/88816/2

45 :やまとななしこ:2019/02/05(火) 22:44:21.73 ID:J1jOInbR.net
>>33
(^_^)

総レス数 45
11 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★