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【三重】これはタタリか、市職員が事故・病気・汚職逮捕…信長由来「落ち武者の墓」の再開発で住民と対立の末 桑名市[02/26]

1 :のっぺらー ★:2016/02/26(金) 21:01:12.31 ID:CAP_USER.net
織田信長が16世紀後半に伊勢長島を攻めた際に抗戦した、本願寺派門徒の落ち武者が埋葬されたと伝わる
三重県桑名市の「墓域」の再開発を巡り、市と地元住民が対立している。

市は「落ち武者の墓」について、自治体の指定がなく法的には「墓地」と認められないとして、
改葬や保存の手続きを経ることなく一帯の宅地開発を進め、6〜7基あった墓は現在1基を残すのみとなっている。
これに対し住民らは「開発ありきで、由緒ある墓をないがしろにしている」と猛反発。

混乱が広がっているが、一方で事業に関係する職員が病気になったり、汚職で逮捕されたりし、
関係者の間では「落ち武者のたたりでは」ともささやかれている。

■秀吉も参戦した激戦地

1基だけ残る墓は、田畑と住宅が混在する一角にある。
土盛りの上に判読不能の文字が記された石碑がたち、
後年に作られたとみられる墓の存在を示す看板が無造作に置かれている。

さびが浮いた看板には「武士塚」「霊地故不浄事」の文字が。
近くに住む女性(74)は「亡くなった義母は織田信長と戦った武士の墓で、土地の守り神と言っていた。
世話する人は減ったが、今でも地域の人が花を供えている」と話す。

墓の目の前には本願寺派の要塞となった矢田城跡の丘陵があり、
周辺には大字「本願寺」や、墓域を示す小字「大塚」などの地名も残る。

『長島町誌』によると、永禄10(1567)年、信長は兵3万を率いて桑名一帯を焼き払い、矢田城もいったん落城した。
しかし天正元(1573)年、石山本願寺と並ぶ反信長の一大拠点だった願証寺(がんしょうじ)の攻防で
前線基地となった矢田城周辺は再び激戦地に。
信長配下の羽柴秀吉(豊臣秀吉)や柴田勝家らの総攻撃で、矢田城は信長家臣の滝川一益が城主となり、
翌年、願証寺も降伏した。

信長の一代記『信長公記(しんちょうこうき)』には、願証寺に立てこもった本願寺派門徒2万人を焼き殺したとある。

■宅地化される墓域

こうした戦国史の舞台を今に伝える「落ち武者の墓」は、
市が平成13年に計画した桑名駅西土地区画整理事業の区域(26・6ヘクタール)内にある。
幅が狭い昔ながらの道路を広げ、都市型の住宅地に整備する事業で、
数年前までに全区域の1割が先行建設街区として造成、宅地化された。

この先行区域内には5〜6基の墓域があったため、地元住民でつくる「落ち武者奉賛会」が
整備前の19年12月、「落ち武者の墓の伝承が複数ある」とした申立書を市に提出した。
これを受け市は墓域を試掘調査したが、最終的に「遺跡はない」と判定、宅地化を進めた。

この結果、落ち武者の墓はこれらの墓域より約100メートル離れた開発予定地にある1基を残すのみとなった。

「調査は申立人である奉賛会には伝えられず、住民が作業に立ち会うことも禁止された」。
奉賛会会長の加藤和也さんは市への不信感をあらわにする。

■「一村総持」

同会によると、残った1基については、もともと墓であることを示す資料もある。
明治時代の古地図には田畑に囲まれた小さな方形の土地で「5歩」(約16平方メートル)と面積が記され、
田畑や住宅とは違う特別な空間を印象づけている。
また同時期の登記簿には、村の共有地を意味する「一村総持」の注意書きが添えられている。

桑名市の事情に詳しい土地家屋調査士は
「一村総持とは、村人が自由に薪を刈ることができる山林か、村で守った墓のどちらかと考えていい。
 (当該の場所は)山林ではないので墓であることは明らかだ」と指摘する。

>>2以降に続く

ソース:産経west 2016.2.26 11:45
http://www.sankei.com/west/news/160226/wst1602260003-n1.html

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