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【自称皇族】竹田恒泰とその信者アンチスレ5

540 :名無しさま:2016/01/23(土) 04:07:51.05 ID:iZyquodA.net
>>539
Wikipedia の ジョセフ・キーナンの項にはでている。不敬な発言ではないが、昭和帝の戦争責任を肯定する証言だった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%B3

1947年12月31日に、「天皇の平和に対する希望に反した行動を、木戸幸一内大臣がとったことがありますか?」という
ローガン弁護人の質問に対し、東條英機が「勿論ありません。日本国の臣民が陛下のご意思に反して、彼是するという事
は有り得ぬ事であります。いわんや日本の高官においてをや」と返答した。この答弁からウィリアム・ウェブ裁判長は
回答の持つ重要性を指摘、ソビエト連邦代表検察官であるS・A・ゴルンスキーも、天皇の訴追についてキーナンに進言
した。キーナンは早急に田中隆吉元大日本帝国陸軍少将を通して、松平康昌式部長官→木戸→東條のルートで、極秘に
前述の証言を否定する様、東條説得工作を行った。この工作は功を奏し、1948年1月6日の法廷で東條は、キーナンの
「その戦争を行わなければならない、行えというのは、裕仁天皇の意思でありましたか?」という質問に対し、太平洋
戦争開始の詔勅の中にある「豈朕カ志ナラムヤ(誠にやむを得ざるものであり、朕の意思にあらず)[2]」という言葉
を例に、天皇は東條の進言で開戦に「しぶしぶご同意になった」と再証言した。この証言により、天皇の戦争責任に
関する問題は決着が付けられ、再び論議が法廷で交わされることはなかった。

これ、映像にも残っていて、そこの顛末は例えば
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%A3%81%E5%88%A4-DVD-%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%AD%A3%E6%A8%B9/dp/B00005F5X3
でも見ることができる。わたしは、これで初めて知って、「何が裁かれなかったか」を思い知らされた。

軽く註釈すると、キーナン(米国)は天皇免責派だったが、裁判長のウェブ(豪州)は訴追派だったから、この証言に
食いついた。ウェブは天皇が免責なのに死刑はあり得ないということで、どの被告の死刑判決にも与していない。

文章に「東條説得工作」とあるのは、東條が証言の撤回を嫌がったということです。

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