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【Gのとーちゃん朝鮮人】旧民主党系等研究第1582弾【Gのかーちゃん朝鮮人】

530 :日出づる処の名無し:2023/08/01(火) 08:21:01.74 ID:HkPZr0yp.net
道新スポーツより、美談風味にしてあるが「コロナ感染で選手生命を奪われたやきう少年」が実在したというゾッとする話

甲子園へ向けた練習に一層、熱がこもる北海高のグラウンド。ブザーとストップウオッチを手に、選手へ指示を出す佐藤彰哉マネジャー(3年)の姿があった。中学時代は、札幌真駒内シニアで長内陽大投手(3年)とバッテリーを組み、4番で主将。期待を背負って入学したが、2年夏に新型コロナに感染した。
その後は長く続いた後遺症の影響でマネジャーに転向。甲子園では記録員としてベンチ入りする。
選手として入りたかった憧れの甲子園。佐藤マネジャーは、1人制服を着てベンチに入る。「今まではデータとかをまとめて、試合中に指示を出したりするのが仕事だった。甲子園でもなるべく頭に入れて指示を出したい」。今はチームの勝利に貢献することだけを見据えている。
1年ほど前、いきなり野球を奪われた。熱は4日ほどで下がり、一度は練習に復帰。ところが、1週間後「きついメニューで酸欠状態になったのですが、家に帰っても酸欠状態が治らない。それがずっと続いていく」。最初は、それがコロナの後遺症だとは気づかなかった。
いろんな症状に苦しめられた。「光がだめ、頭が痛くなって。熱も出る。その日によっても違う。倦怠(けんたい)感があって、それが治らない」。家を出ても、途中で体調を崩し学校にすらたどり着けない日もあった。なんで自分だけ。「みんなが練習をやってるのを見て、やりたいな」と運命を呪ったこともあった。「秋限定でマネジャーをやれないか?」。
平川敦監督(52)からの打診を受け入れ、秋季全道では記録員としてベンチ入りした。
症状が落ち着き、練習に完全合流したのは、年明け。ポジション争いをする仲間に追い付こうと思っていた3月の沖縄遠征で、再び後遺症が悪化した。「3日目ぐらいに体調を崩してしまって。球場までは行けたけど、球場でずっと寝込んでいる状況」。最後の夏へ、再び病魔が立ちはだかった。
心が折れそうになるたび、駒大苫小牧で遊撃手として活躍した兄・大哲さん(駒大3年)が支えてくれた。秋にマネジャーになった時は「そういう状況だから仕方ない。チームのためにできることやれよ」と励まされ、沖縄遠征で症状が再発した時には「最後まで可能性がないわけじゃないんだから、選手としてできることはやれ」と勇気づけられた。
佐藤は「選手として家族にわざわざ送り出してもらって、野球部をやめる選択肢はなかった。選手かマネジャーかっていう選択肢が自分の中であったんですけど、最後まで治るようにケアとかをやろうっていうふうに思ってました」。症状さえ治まれば、巻き返せる。
しかしそんな思いとは裏腹に、沖縄遠征以降、選手として練習に参加することはなかった。
春の支部予選は背番号「19」をもらったが「練習にも参加できていない。平川監督が気を使ってくれた」。選手への未練を断ち切り、マネジャーに専念する踏ん切りをつけた。
副主将の長内は、佐藤の存在を頼りにしている。「もともと中学から一緒にやってきて、真面目な感じで声も出る。頭も切れる。コロナの後遺症もあって、まともに練習ができてなかったので、マネジャーもいいんじゃないかって思っていた。自分が副キャプテンで一緒に仕事もするので、
すごいやりやすいというか息が合う。選手は佐藤の分も頑張らなくちゃいけない」
今は症状もある程度、落ち着き、全てを受け入れている。

どうもこの「光に過敏になる」もコロナ後遺症あるあるらしい

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