2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

イシグロ氏のノーベル賞に韓国人「科学でも文学でもなにもかも日本に勝てず」…カルトだけは日本に圧勝

24 :日出づる処の名無し:2023/01/01(日) 19:34:21.29 ID:BD5j3Mo7.net
カズオの父石黒英彦
 広島県出身。石黒清左衛門の五男として生まれる。1910(M43)東京帝国大学法科法律科を卒業し、文官高等試験に合格、官界に入る。
 文部・内務名属。秋田・群馬各県理事官を経て、朝鮮総督府事務官、内務局地方課長を歴任。朝鮮警察部長時代は朝鮮人を徹底的に弾圧。 '23(T12)官命によってヨーロッパ、アメリカの各国に出張する。帰国後、台湾総督府文教局長、同内務局長。 朝鮮・台湾と当時の日本の植民地生活を12年続けたもので、軍官僚ファシズムの波にのってトントン拍子に出世した。 『君は筧博士の高弟として神ながらの大道を奉じ弥栄の精神家として思想の堅忍不抜、態度の荘重、軍官人の規範たるものあり』と称えられた。 '31(S6)5月に第19代奈良県知事に就任(任期:1931.5.5〜12.18)。次いで、第19代岩手県知事に着任(任期:1931.12.18〜1937.6.5)した。
 岩手県知事赴任直後は東北一帯に大凶作が発生した('34も大凶作に見舞われた)。石黒は各地を視察し、自身によっていろいろ聞き取り調査をした。 二戸郡小鳥谷(こずや)村の視察の際に、病気のときは売薬のトヤマ薬を飲むしかないという村の実態を知って、石黒をはじめ同行した新聞記者一同驚き、医療のあまりのひどさを知り、このことを書き立てたところ全国から医薬品が大量に送られてきたというエピソードがある。 '31の大凶作を経験した岩手県出身の宮沢賢治はその時の苦しさを詩にしたためた。これが「雨ニモ負ケズ」である。
 1932.9.2金ヶ崎町六原の陸軍軍馬補充部支部跡地に県立六原青年道場を設立。皇国精神・軍国主義推進の拠点となる。 '33(S8)3月3日には三陸海岸地震大津波が発生し、死者・行方不明者3,064名の大惨事が起きた。 石黒は被災地視察に各地に赴いた際、一丸となって復興に当たる田野畑村民の姿に心を打たれ、短歌を詠んだ。 「陸と海 住む里字は ことなれと 伊乃ち(注・いのち)かよえり 同し村ひと」。石黒の岩手県知事時には二度の大凶作と大津波被災の自然の猛威が襲い、その復興に尽力した。
 '37 第23代北海道庁長官に任命(任期:1937.6.5〜1938.12.23)された。'38北海道神宮内に開拓神社を設立し、また開催を予定していた札幌オリンピック実行委員会を設置(1940冬季五輪を予定していたが戦争のため返上)。 同.12.24文部次官に就任。'39.9退官。'42.6〜'43.10大政翼賛会練成局長を務めた。正4位勲2等。享年61歳。

総レス数 104
42 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200