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安倍家の家政婦ウメ 「安倍晋太郎さんはいつも『私は朝鮮人だ』と言っていた」 安倍晋三は朝鮮人 3

585 :日出づる処の名無し:2019/03/15(金) 11:55:23.93 ID:UBAxP5kt.net
安倍晋太郎は帰化さえしてない

【安倍晋三の出自を暴く : 第五十二談〜「安倍晋太郎は背乗り?」】
安倍晋太郎は、山口中学校(現山口県立山口高等学校)に進学し、一年間浪人した後、1943年(昭和18年)に岡山県の第六高等学校にに入学した後、
翌年9月、僅か1年半で繰り上げ卒業となり東京帝国大学に推薦入学したが、同時に多くの特攻隊員を出した滋賀海軍航空隊予備隊に入隊した。
因みに、西村晃は1923年(大正12年)1月25日生まれで、1924年(大正13年)4月29日生まれの晋太郎よりも一歳年上だが、学年は2年上である。
西村晃は1943年に学徒動員で兵役にとられ、第二次大戦中は海軍飛行予備学生末期には徳島航空隊の特攻隊員だったが、
出撃機不良で基地に引き返し、その後終戦を迎えたのだが、この特攻隊員時代からの友人に、裏千家15代家元の千玄室がいる。この時の戦友は千と二人しか生き残ってい無い。
晋太郎と晃は同じ年の海軍入隊であり、此の前二人が互いに面識が無かったとしても、もしかしたら此の時会話を交わして居たかもしれない。

 当然、晋太郎は終戦時生きて無かったと考えるのは成り行きに叶う。すると、生き残った晋太郎は何者?

 晋太郎?は、太平洋戦争終結後、改称された東京大学法学部に復学、1949年(昭和24年)に卒業し毎日新聞社に入社(西村真琴は大阪毎日新聞(現毎日新聞)の学芸部記者の後、
大阪毎日新聞社会事業団(現毎日新聞大阪社会事業団)の幹事に就任し、やがて常任理事となった。)。
その間1946年(昭和21年)1月29日父寛が心臓麻痺で倒れ、翌年には“育ての親”ともいえる大伯母ヨシが死去した。

 晋太郎は「山口中学校に進学して、母親の再婚を知り、上京して居所を探すも、再会は叶わ無かった。」とWikiに書かれて居るが、滋賀航空隊に入隊した後のある時期から、
もし彼が父安倍寛や大伯母ヨシと一度も会って無ければ以降書く我の推測も強ち無碍に否定出来無いことでは無いだろうか。 更に、会っていたとしてどこかに書かれていても・・・・・

 晋太郎が、実は上に書かれた「東京第一高校に進学した1人を除き、」の一人であるとして、「多くの特攻隊員を出した滋賀海軍航空隊予備隊に入隊した」後、
特攻して戦死していれば、其れ以降の安倍晋太郎は、西村真琴が中国から連れて来た漢人或いは満州人、将又朝鮮人の「背乗り」である可能性は大きい。

 安倍寛と静子は謂わば美男美女のカップルで晋太郎の様な垂れ眉のブ男は両親ににて似つかず、何方かというと西村真琴に似て居る。

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