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【我が党は】岡田民主党等研究第442弾【審議拒否で120%の力が出る】

223 :日出づる処の名無し:2016/01/31(日) 19:29:23.10 ID:e+EFqN7X.net
革命家の思いは消えた 皇太子に火炎瓶投げた男のその後の人生
http://dot.asahi.com/wa/2016012800033.html
1975年7月17日、皇族として戦後初の沖縄訪問を果たした皇太子夫妻(当時)は、その初日にひめゆりの塔を訪れ、
慰霊の献花をした。と、その瞬間、近くのガマ(洞窟)に潜んでいたふたり組の新左翼活動家が現れ、
一方が放った火炎瓶が皇太子の近くで燃え上がった──。
ノンフィクションライターの三山喬氏は、実行犯と対面し、彼の生きた「その後の40年」を聞いた。
*  *  *
「赤と黒のヘルメット、どちらがあなたですか」映像の記憶を確かめると、初老の男性は「私は黒ヘルです」と答えた。
知念功。事件当時は25歳、沖縄解放同盟(沖解同)という在京の沖縄出身者でつくるセクトの幹部だった。
もうひとりの「赤ヘル」は、共産主義者同盟戦旗派というセクトに所属する本土の活動家。
事件は両団体の共同作戦だった。犯行現場はもうひとつあった。皇太子の車列が通る沿道の病院3階から
空き瓶やスパナを投げたふたり組がいて、こちらも沖縄人と本土人の組み合わせだった。

知念は20年前に事件の回顧録を著している。それを読む限り、出所後も思想的な転向はないように思える。
天皇主義者を《告発、糾弾、弾劾》し、幅広く《反戦平和運動に決起せんことを提起する》。
しかし、そんな勇ましい文章は、目の前のやつれた男とは、重ならない。前の週、知念は県外の小さな集まりで、
若き日の犯行を「悔いはない」と語ったという。「本当に?」と確かめると、虚を突かれたのか、絶句してしまった。
その精神状態にはかなりムラがあるようだ。途切れ途切れの述懐をまとめると、概ねこんなことだった。

高校時代にベトナム反戦運動にかかわり、大学進学で上京、中核派に加わった。
しかし、本土の視点から沖縄の「奪還」を訴える運動方針に違和感を覚え、内ゲバの横行にも幻滅して、
沖縄出身者20〜30人で示し合わせて脱退した。そして、さらに同郷人に呼びかけて、沖縄人だけのセクトを立ち上げた。
皇太子の沖縄訪問を“粉砕”する計画は、新団体・沖解同を華々しく印象付けるためのものだった。
共闘の呼びかけに、戦旗派が応じた。

あくまでも式典を妨げる示威行動。実行犯が2、3年服役する間、裁判の支援活動で運動を広げてゆくつもりでいた。
裁判で、知念らが問われたのは、礼拝所不敬と火炎瓶使用の罪。病院から物を投げたふたりの罪状も、
公務執行妨害だけだった。「暴力行為で起訴すると、被害者の皇太子を裁判に巻き込むため、政治判断が下された」
と受け止めた。知念の判決は、2年半の懲役刑だった。

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