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■■■■■浜崎あゆみ完全終了のお知らせ■■■■■

1 :どっちの名無しさん?:2012/03/22(木) 14:04:04.23 .net
シングル→発売できない
アルバム→最新が初動10万枚売れるかどうか微妙
DVD→最新作は初登場6位、BOXはたったの5000枚
着うた→5000名無料DLでも話題にすらならない
ツアー→初日のチケットも売り切れない


バイバイ!浜崎あゆみ

899 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 09:30:02.34 .net
「神」という言葉[編集]
他言語との関係[編集]
日本語における「神」という言葉は、元々は神道の神を指すものであった。ただし『日本書紀』にはすでに仏教の尊格を「蕃神」とする記述が見られる。
16世紀にキリスト教が日本に入ってきた時、キリスト教で信仰の対象となるものは「デウス」「天主」などと呼ばれ、神道の神とは(仏教の仏とも)別のものとされた。
しかし、明治時代になってそれが「神」と訳された。

他言語においては、神道の神を指す場合は "kami" として一般的な神とは区別されることもある。

900 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 09:31:18.11 .net
語源[編集]
漢字の「神」は、祭祀を意味する「示」に音符「申」を付した字で、祭祀および祭祀対象である神霊の類を示す。
また「神祇」とした場合は、地の神である「祇」に対し、天空にいる雷神の類を意味する。
「神」字は、日本においては「カミ」と訓じられ、日本の神霊的存在の総称として定着した[2]。

現代日本語では「神」と同音の言葉に「上」がある。
「神」と「上」の関連性は一見する限りでは明らかであり、この2つが同語源だとする説は古くからあった。
しかし江戸時代に上代特殊仮名遣が発見されると、「神」はミが乙類 (kamï) 、「上」はミが甲類 (kami) と音が異なっていたことがわかり、昭和50年代に反論がなされるまでは俗説として扱われていた。
ちなみに「身分の高い人間」を意味する「長官」「守」「皇」「卿」「頭」「伯」等(現代語でいう「オカミ」)、
「龗」(神の名)、「狼」も、「上」と同じくミが甲類(kami)であり、「髪」「紙」も、「上」と同じくミが甲類(kami)である。

「神 (kamï)」と「上 (kami)」音の類似は確かであり、何らかの母音変化が起こったとする説もある。

901 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 09:32:31.75 .net
八百万の神[編集]
自然のもの全てには神が宿っていることが、八百万の神の考え方であり、欧米の辞書にはShintoとして紹介されている。
日本では古くから、山の神様、田んぼの神様、トイレの神様(厠神 かわやがみ)、台所の神様など、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。
自然に存在するものを崇拝する気持ちが、神が宿っていると考えることから八百万の神と言われるようになったと考えられる。
八百万とは無限に近い神がいることを表しており、多神教としてはありふれた考え方である。
またこういった性格から、特定能力が著しく秀でた、もしくは特定分野で認められた人物への敬称として「神」が使われることがある。

神と霊[編集]
「人神」も参照
神道において、特に有力な人物や恨みを残して亡くなった人物を『神』として祀り、祟りを避けようとした例は数多い。
中でも菅原道真を祀る天満宮は亡くなった人間を神として扱う顕著な例である。
これに対して近代に興った靖国神社は国家のために戦死した不特定多数を神として祀っており、特定単数を神として祀る先述の例と一線を画している。
これらのことから、神社から慰霊碑、(神仏習合における)墓に至るまで規模は違えど本質的に同じものであり、『神』(祀れば恩恵をもたらし、ないがしろにすれば祟るもの)と『霊』(人間が死んだ後に残るとされる霊魂)とは明確に区別されていないといえる。

902 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 11:42:44.17 .net
きゅうり、収穫、
冠水。
中耕、
草むしり。


暑い。

903 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 11:46:28.01 .net
あとは、剪定。

904 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 11:47:27.29 .net
剪定(せんてい)とは樹木の枝を切り、形を整えたり、風通しを良くする事。
庭木の手入れとして行われる。
見た目を美しくするのみでなく、養分を効率よく利用させて生長を促進したり、病害虫の繁殖を予防する効果がある。
骨格枝を明確にする事を整枝(せいし)と呼ぶが、一般的にはこの作業を剪定と呼ぶことが多い。

905 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 11:48:23.69 .net
剪定する枝の種類[編集]
忌み枝を処理する方法として用いられる。剪定する枝の代表としては枯れ枝・徒長枝・平行枝・下垂枝・競合枝・交差枝(枝と枝同士が交差している状態)・病気枝・からみあった密度の高い状態になった枝などが挙げられる。

剪定する時期[編集]
季節の変化に応じて植物の状態が変わるため、季節変化のある地域では樹種に応じて剪定に適当な時期がある。

誤った時期に行った場合、花木の蕾が切り落とされてしまって花が咲かない、果実が生らないなどの悪影響を生じ、場合によっては木が枯れる原因となる。
植物の活動が低調となる冬に行うことが基本で、日本の場合には11月から2月に行われる。
サツキ・ツツジ類は開花後の5月から6月にする。

906 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 11:49:14.54 .net
剪定の種類[編集]
透かし、混み合った枝は元から抜く(切る)、三つ又の部分を二又にするなど、全体の大きさを縮めるが枝の先端は切り戻さずに自然樹形を維持しながら行う。

切戻し、切り戻し
伸びた枝を短く切り詰めること。大きさを留めておくために用いられる。また、樹勢を回復させるためにも行う。

切返し
伸びた枝の途中できること。樹勢強化や予備枝を設けるのに使用する。

枝抜き、間引き
不要になった邪魔な枝を切って除くこと。

刈り込み
生垣などの形を整えるために枝葉を切りそろえること。枝を選別して切る作業ではないため、剪定とは区別することもある。

907 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 11:50:15.45 .net
果樹の剪定[編集]
目的[編集]
作業管理が容易にでき、同時に果実の重量を支えることができる骨格枝を作
栄養生長と生殖生長を調整し、隔年結果の防止と樹勢の維持を行う。
樹冠全体に日光が当たるようにし、果実の高品質化と品質の均一化を行う。
病害虫に侵されている枝を除去し、発生を抑制する。

夏季剪定[編集]
夏季(6〜9月)に行う剪定のことをさす。
6〜9月に剪定を行うことでウメやカキなどでは、樹勢を低下させて結果を良好にさせる効果を持つ。また、残った結果母枝と結果枝に日光を当て、枝を充実させる効果もある。強剪定の場合、著しく樹勢を低下させてしまう場合がある。

参考文献[編集]
果樹の剪定の参考[編集]
新版 図集 果樹栽培の基礎 発行:1994年2月25日(著者:熊代克己、鈴木鐡男 発行元:農文協)
最新 果樹の剪定 発行:1993年12月30日(編者:農文協 発行元:農文協)

908 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 11:59:43.18 .net
温風至とは?日本語表現辞典。
読み方:あつかぜいたる七十二候の一つ。
二十四節気の小暑の初候にあたり、7月7日〜7月11日ごろに相当する。
季節は晩夏。
温風至は、それ自体としては「暖い風が吹いて来る」などといった意味。
また、小暑の次候...

909 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 14:25:01.37 .net
ズッキーニ収穫。
冠水。

玉ねぎ収穫。

耕運。

暑い。

910 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 14:26:15.85 .net
タマネギ(玉葱、学名:Allium cepa)は、ネギ属の多年草。

園芸上では一年草もしくは二年草として扱われる。球根(鱗茎)は野菜として食用とされる。
種小名 cepa はラテン語で「タマネギ」の意味だが、さらに「頭」を意味するケルト語に由来するとも言われており、戦前の日本では「葱頭」が正式な和名であった。
色、形状、大きさは様々である。

911 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 14:27:23.85 .net
種としてのタマネギ[編集]



タマネギ
染色体数は 2n=16。生育適温は 20 °C 前後で、寒さには強く氷点下でも凍害はほとんど見られないが、25 °C 以上の高温では生育障害が起こる。
花芽分化に必要な条件は品種や系統によって大きく違うが、一定以上に成長した個体が 10 °C 前後またはそれ以下の低温下に一定の期間以上さらされると花芽が分化する。
大きな苗を植えると分球や裂球や抽台しやすく、小さいまま低温に遭うと枯れやすい。

結球には日長条件が大きく関与し、短日・中日・長日それぞれに品種系統で分化している。
大まかに、日本で栽培されているものは、春まきが14時間以上の長日条件下、秋まきの早生種で12時間程度の中日条件下で結球する。
長日条件・温度上昇で肥大が促進される。
玉が成熟すると葉が倒伏し、数ヶ月の休眠に入る。
ヨーロッパなどで栽培される品種の中には16時間以上の長日でなければ結球しない品種があり、それらは日本では収穫できない。

ネギの花は花弁が開くが、タマネギとは花弁が開かない点で区別できる。

ヤグラネギや野草のノビルと同じように、花の咲く所から芽が伸びる品種がありヤグラタマネギとよぶ。

912 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 14:28:45.26 .net
栽培の歴史[編集]

原産は中央アジアとされるが、野生種は発見されていない。栽培の歴史は古く、紀元前のエジプト王朝時代には、ニンニク等と共に労働者に配給されていた。
ヨーロッパの地中海沿岸に伝わったタマネギは、東ヨーロッパ(バルカン半島諸国やルーマニア)では辛味の強い辛タマネギ群、南ヨーロッパ(イタリア、フランス、スペイン)では辛味の少ない甘タマネギ群が作られた。
これらの両系統は16世紀にアメリカに伝えられ、さまざまな品種が作られた。

その一方、原産地から東のアジアには伝わらなかった。日本では江戸時代に長崎に伝わったが、観賞用にとどまった。
食用としては、1871年(明治4年)に札幌で試験栽培されたのが最初とされ、1878年(明治11年)、札幌農学校教官のブルックスにより本格的な栽培が始まった。
その後の1880年(明治13年)に、札幌の中村磯吉が農家として初めて栽培を行った。

品種の系統としては、アメリカから導入された春まき栽培用の「イエロー・グローブ・ダンバース(Yellow globe danvers)」という品種が「札幌黄」という品種に、
秋まき栽培用は1885年(明治18年)、大阪に「イエロー・ダンバース(Yellow danvers)」という品種が導入され「泉州黄」に、
フランス系の「ブラン・アチーフ・ド・パリ」が「愛知白」に名を変えて、それぞれ地域に定着化した。
さらに農家や農協単位で自家採種・選抜を行い、農家や地域ごとに特徴のある品種が作られた。

現在では、大手種苗会社によるF1品種が殆どを占めている。
特に、株式会社七宝による一連の品種は乾腐病に対する抵抗性を持ち、長期貯蔵性などにも優れ、平成16年度民間部門農林水産研究開発功績者表彰の農林水産大臣賞を受賞した。

2005年(平成17年)の世界生産量は約65 000 000トン。

913 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 14:30:21.97 .net
日本における生産と流通[編集]

タマネギ畑(富良野市)

新タマネギ。例年日本では4月〜5月頃に出回る。

日本での生産量は1 154 000t、作付面積は2万4千haである。そのうち北海道が生産量約660 000t、作付面積12 500haと、全国生産量の約5割強を占める(以上、統計値は農林水産省 平成21年産春野菜、夏秋野菜の作付面積、収穫量及び出荷量(速報)による)。
北海道に次いで佐賀県、兵庫県(主に淡路島)、愛知県、長崎県、静岡県、大阪府(主に泉州地区)が主な産地である。
北海道は春まき栽培、他府県では秋まき栽培が行われるため、季節ごとに産地の異なるものが小売されている。

安価である中国・タイ・韓国・アメリカ・トルコ・オーストラリア・ニュージーランドからの輸入品も多い(輸入量約208 000t/ジェトロ2009年(平成21年)年計)が、
国産品は価格面の対策として生産・流通コストの低減化、端境期対策としてマルチング・トンネル栽培による極早生の早期化や貯蔵技術の向上、
極早生品種・高貯蔵性品種の開発、品質面の対策として高機能性品種の開発等を行っている。

栽培体系[編集]
大きく分けて春まき栽培と秋まき栽培がある。
致命的な病気や害虫は少なく栽培の容易な野菜である。

914 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 14:31:42.02 .net
栽培上の注意点[編集]

タマネギは高温に弱く、しかも日長(長日)に対して非常に厳密に反応するため栽培目的にあった品種を選ぶ必要がある。

例えば北海道の春播き品種(晩生品種)を関東より西の地域で栽培すると結球に必要な日長になる前に入梅してしまい腐敗が多くなる。
反対に秋播き品種(早生や中生)を北海道で栽培すると冬の寒さで枯れる。
また春播きにした場合も、葉が十分に成長する前に日長に反応して結球を始めてしまうので十分な収穫を得られない。
これは6月下旬から7月上旬が一番日長が長くなるからである。
海外など緯度の異なる地域の品種を導入する際は何時間の日長に反応するのかよく確認する必要がある。

品種や栽培する地域ごとの播種適期がかなり限られている。
極端な早播きや晩播きでは十分な収穫が得られない。

秋播き栽培では大苗を植えると抽台率が極端に上がるので、茎の太さが 4–5 mm(およそ鉛筆の太さ)程度の苗を利用するのが良い。
大苗は薬味ネギの代用に使えばよい。

元肥えが効き過ぎると冬が来る前に大きく育ち抽台の原因となる。

晩生品種は入梅前に収穫を終えないと腐敗が多くなる。

栽培の終盤まで窒素肥料が効くと貯蔵性が悪くなる。
貯蔵目的であれば春以降は肥料を与えない。

915 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 14:41:59.31 .net
ドイツで反G20デモ 一部が暴徒化 警察官196人負傷(17/07/08)

916 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 14:59:20.21 .net
風呂上り。

シャワー一回目。

暑い。

917 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:29:10.23 .net
日米関係の途中ですが、
日独関係の説明をします。

ドイツの説明は、以前終わっています。

読んでくださいね。

918 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:30:47.24 .net
ニュルンベルクのマイスタージンガーより第一幕への前奏曲
https://www.youtube.com/watch?v=MYXFp5O75Ow

919 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:31:31.96 .net
イスラエルでは、ワーグナーは、禁止らしいが、

被害妄想でしょ。

○0o。-vζ・ ) プハー

920 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:32:58.98 .net
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(ドイツ語: Wilhelm Richard Wagner 発音例 、1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者である。ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。
ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。

921 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:34:55.30 .net
今の日本人に365日まで、音楽について語れるやつはいるのか。


( ・x・)y─┛~~~

922 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:35:49.82 .net
呼称[編集]
日本語ではワーグナー、ワグナーと書かれることが圧倒的に多いが、専門書などではドイツ語発音の[va:gnɐ]や英語発音の[vɑːgnə](英)/[vɑːgnɚ](米)に近いヴァーグナー、ヴァグナーとも表記される。

日本語ではかつて、語尾の「-er」を母音化させない古典的な舞台ドイツ語の発音[va:gnər]をもとにしてワグネル、ヴァーグネルとも表記された。

フランス語では同言語の発音通則から外れて[vagnɛːr](ヴァグネール)と読む。

923 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:38:09.26 .net
生涯[編集]
幼少期[編集]

ライプツィヒのワーグナーの生家。
1813年、ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。
父カール・ワーグナー(Carl Friedrich Wagner (1770–1813))は警察で書記を務める下級官吏であったが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出された。
カールはリヒャルトの生後まもなく死に、母ヨハンナ(Johanna Rosine Wagner)はカールと親交があったルートヴィヒ・ガイヤー(de:Ludwig Geyer (Maler)、ユダヤ人・実父説もあり)と再婚した。
ワーグナ一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼時から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てている。
特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受ける。
ウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人で、生涯敬意を払い続けた数少ない人物であった[1]。
15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志した。
それと同時に劇作にも関心を持ち、のちに彼独自の芸術を生み出す原動力となる。
10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められる。
1830年10月、ベートーヴェンの交響曲第9番をピアノ版に編曲しマインツのショット社(de:Schott Music)に刊行依頼をするも、断られる。
1831年の復活祭の折りにライプツィヒを訪れたベルンハルト・ショット(de:Bernhard Schott)に楽譜を手渡すとともに再度依頼するも編曲版には不備も多く、出版には至らなかった[2]。
当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄した。

924 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:41:10.82 .net
宮廷指揮者[編集]

ドレスデンでの1842年10月20日の「リエンツィ」初演は大成功に終わり、これによってワーグナーはようやく注目されることとなった。
この成功によってザクセン王国の宮廷楽団であったドレスデン国立歌劇場管弦楽団の指揮者の職を打診され、翌年の1843年2月に任命された。
1月には『さまよえるオランダ人』が上演されたが、これはリエンツィとは違ってそれほどの評判を得られなかった。
1844年にはイギリスで1826年に客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当した。
ウェーバーを尊敬していたワーグナーは葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、さらに追悼演説を行って、多才を発揮した。
1845年には『タンホイザー』を作曲し上演したが、当初は不評であった。
しかし上演され続けるうちに次第に評価は上昇していき、ドレスデンにかぎらず各地で上演されるようになっていった。
1846年、ワーグナーは毎年恒例であった復活祭の直前の日曜日におこなわれる特別演奏会の演目として、
ベートーベンの『第九』の演奏を計画。当時『第九』は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対の声が上がったが、徹底したリハーサルや準備のかいあってこの演奏は大成功に終わった。
以後、『第九』は名曲としての評価を確立する。
1848年には『ローエングリン』を作曲したが、上演はこの時はなされなかった。

925 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:43:11.34 .net
亡命時代[編集]

1849年、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。
当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンと交流する。
しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、フランツ・リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間を亡命者として過ごすこととなった。
この亡命中にも数々の作品を生み出す。『ローエングリン』はリストの手によってワイマールで1850年に上演され、初演ではやや不評だったものの次第に評価を上げ、やがてワーグナーの代表作の一つとされるようになる。
もっとも、亡命中のワーグナー自身はドイツ各地で上演される『ローエングリン』を見ることができず、「ドイツ人で『ローエングリン』を聴いたことがないのは自分だけだ」と嘆いたという[3]。
ワーグナーが『ローエングリン』を聴くのは実に11年後、1861年のウィーンにおいてのこととなる。

この時期、彼独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げた。
たとえば、匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いてメンデルスゾーンやマイアベーアらを金銭尽くのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難し、この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなる。
しかし、彼のユダヤ人嫌いは一貫したものではなく、晩年にユダヤ人の指揮者を起用したり、親交もあった。
1851年には超大作『ニーベルングの指環』を書き始め、また『トリスタンとイゾルデ』を1859年に完成した。

926 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:43:44.72 .net
この時期には数人の女性と交際していた。特にチューリヒで援助を受けていた豪商オットー・ヴェーゼンドンク(de:Otto Wesendonck (Kaufmann))の妻マティルデ(de:Mathilde Wesendonck)と恋に落ち、ミンナとは別居した。
この不倫の恋は『トリスタンとイゾルデ』のきっかけとなり、またマティルデの詩をもとに歌曲集『ヴェーゼンドンクの5つの詩』を作曲している。
しかしこの不倫は実らず、チューリヒにいられなくなったワーグナーは以後1年余りヴェネツィア、ルツェルン、パリと転々とすることとなる。
1860年にはザクセン以外のドイツ諸邦への入国が許可されるようになった。
1862年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかった。
この年、恩赦によってザクセン入国も可能になり、ワーグナーは法的には亡命者ではなくなった。
そのため別居してドレスデンに住んでいた妻ミンナと再会できたが、この時の再会以後二人は会うことはなかった。
またこの頃、ウィーン音楽院の教壇にも立っている。

927 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:46:31.12 .net
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(Die Meistersinger von Nürnberg)は、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇。
リブレットも作曲者自身による。

928 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:48:05.63 .net
概要[編集]

『ニュルンベルクのマイスタージンガー』作曲当時のワーグナー(ツェーザー・ヴィルリヒ画、1862年)

16世紀中ごろのニュルンベルクを舞台としており、全3幕、15場からなる。
上演時間は約4時間20分(第1幕:80分、第2幕:60分、第3幕:120分)[1]。 初期のオペラ『恋愛禁制』(1836年完成)を除けば、ワーグナーの作品中唯一の喜劇である[2]。

ワーグナーのドレスデン時代である1845年に完成・初演された歌劇『タンホイザー』と対をなす喜劇的作品として着想され[3][4]、草稿が書かれたが、
本格的な台本執筆はウィーンに在住していた1861年であり、翌1862年から作曲、1867年の完成まで20年余りを要した。
この間にワーグナーは、『ニーベルングの指環』四部作に着手しており、その第三部に当たる『ジークフリート』の作曲を中断(1857年8月)して『トリスタンとイゾルデ』(1859年)を完成させ、つづいて本作が完成した。
1868年6月21日、ミュンヘン・バイエルン宮廷歌劇場でハンス・フォン・ビューローの指揮により初演された。

物語は、人間と芸術の価値を輝かしく肯定するとともに、天才が得た霊感を形式の枠の中で鍛え上げる必要性を説いた寓話にもなっている。
その豊かで鋭い洞察と暖かな人間性によって、本作品は幅広い人気を保っている一方、当時のワーグナーの思想である「ドイツ精神」の復興とともに反ユダヤ主義が織り込まれており、底に潜む暗い部分として疑問が投げかけられてもいる[5]。

なお、マイスタージンガーとは、職人の親方が音楽芸術の分野で作詞、作曲、歌唱を兼ねるもので、日本語では「親方歌手」あるいは「職匠歌手」となり、「名歌手」という訳は誤りである。
また、ドイツ語のタイトル Die Meistersinger は複数形であり、主人公と見なされるハンス・ザックス一人ではなく「マイスタージンガーたち」を指す[6]。

929 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:50:49.20 .net
作曲の経緯[編集]
ニュルンベルクでの原体験[編集]

1835年7月、マクデブルクの劇場と契約を結んだワーグナーは歌手集めの旅でニュルンベルクを訪れた。
このとき、酒場で歌自慢の指物師の親方が満座の笑いものにされる場面に居合わせた。
そしてその直後、些細なきっかけから起こった騒ぎが高じてあわや暴動になるかと思われたが、鉄拳の一撃を合図に潮が引くように静まる様子を目撃した。
これらの体験は、本作でベックメッサーが歌いそこねて恥をさらす場面(第3幕第5場)及び群衆による「殴り合いの場」(第2幕第7場)に投影されている[7]。

また、『恋愛禁制』(1836年完成)の後、ワーグナーは1838年にジングシュピール風喜歌劇『女の浅知恵に勝る男の知恵(別題:幸福な熊の一家)』を構想するも未完に終わり、
以来オペラ・コミックともヴォードヴィルとも異なる喜劇のスタイルを模索していた[8]。

930 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:53:10.37 .net
反ユダヤ主義[編集]

ウィーンの音楽批評家エドゥアルト・ハンスリック(1825年 - 1904年)

第1幕第3場でヴァルターがベックメッサーに対して怒りを爆発させる場面は、グリム兄弟の反ユダヤ的作品『イバラのなかのユダヤ人』(KHM 110)との類似が見られる。
グリム童話では、1羽の小鳥がイバラの茂みに飛び込むのに対して、ヴァルターの歌では自由を象徴するように小鳥が飛び去る。
同様に、若者がヴァイオリンを弾きながら絞首台の階段に立つ童話に対して、ヴァルターは歌いながら歌唱席の椅子に立つ。
ヴァルターの Grimmbewahrt という言葉には、「怒りに守られて」と「グリムの言うとおり」との二つの意味がかけられており、ベックメッサーの人物像にユダヤ人のイメージを重ね合わせるという、ワーグナーの隠された意図が指摘されている[5][44]。

また、ベックメッサーに当てられている台詞や音楽は、『ニーベルングの指環』でのニーベルング族、アルベリヒとミーメを彷彿とさせる。
とくに第3幕第3場でのパントマイムにおいて、2度までも足を引きずり、悲鳴を上げ、忌まわしい記憶や妄想に苛まれる様子は『ラインの黄金』及び『ジークフリート』でのミーメとの関連が深い。
『ニーベルングの指環』において、ニーベルング族もまた「異形の者」としてユダヤ人になぞらえられることは、ベックメッサーについても同様の意味を持つことになる[45]。

931 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:55:59.87 .net
本作に登場する市書記の名前は、1861年の第2 - 第3散文稿では「ファイト・ハンスリヒ」となっていた。
ワーグナーがこの名前をヴァーゲンザイルの『ニュルンベルク年代記』から選んだ「ベックメッサー」に変更したのは、1862年の韻文台本からである。
当初の「ハンスリヒ」は、当時、絶対音楽派の急先鋒であったウィーンの音楽学者・音楽批評家エドゥアルト・ハンスリック(1825年 - 1904年)への当てこすりにほかならない。
二人の出会いは1845年、ワーグナーが『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を着想したマリーエンバートにおいてだった。
当時ハンスリックは歌劇『さまよえるオランダ人』の崇拝者としてワーグナーに接し、翌1846年には「ウィーン一般音楽新聞」にワーグナーの『タンホイザー』を取り上げ、「現存する作曲家の中で最も偉大な劇的才能の持ち主」として称賛している。
しかし、1854年にハンスリックは主著『音楽美について』において、音楽の本質を「響きつつ運動する形式」と規定し、
ワーグナーの『オペラとドラマ』(1851年)の主張を全面的に否定するとともに「楽劇」を「音楽の妖怪」と批判したことで、両者の対立は決定的となった。

1861年5月11日、『ローエングリン』のウィーン初演の稽古を見に来たハンスリックはワーグナーに挨拶するが、ワーグナーは冷たくあしらった。
この年に書かれた散文草稿に「ハンスリヒ」と書いたのは、積年の意趣返しといえる。
ワーグナーのヴェネツィア旅行後に二人は一時的に和解し、1862年11月23日、ウィーンのワーグナーの友人シュタントハルトナー邸において『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の朗読会が開かれたときには、ハンスリックも招かれて出席した。
しかし、このとき読まれた韻文台本では名前がベックメッサーに変更されていたにもかかわらず、ハンスリックは自分が笑いものにされていることに気づき、憤然として立ち去ったという[12]。

932 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:56:14.44 .net
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のミュンヘン初演を聴いたハンスリックの批評は、「喜劇的なものの表現においてワーグナーの音楽はまったく悲惨である」[46]としつつ、
ポークナーの演説やヴァルターの歌、第3幕の五重唱については「灰色の砂漠の中からオアシスのように光を放つものは、
このオペラの喜劇的な部分ではなく、すべて荘重な部分に属している」として賞賛[47]しており、私心に惑わされない客観的分析がなされている[18]。
これに対して、ワーグナーは翌1869年、自著『音楽におけるユダヤ性』(初版1850年)を改版し、ハンスリックがユダヤ人の出自であることを名指しで攻撃した[46]。

933 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:57:15.72 .net
マイスタージンガー (ドイツ語: Meistersinger)は、中世から近世にかけてのドイツの手工業ギルドが与えたマイスター称号の一つ。
マイスターは「親方」、ジンガーは「歌い手」であり、日本語では「職匠歌人」、「親方歌手」などとなる[1]。

マイスタージンガーは、ドイツ各地の宮廷を遍歴していたミンネゼンガー(吟遊詩人)たちが、中世貴族の没落に伴って都市に住み着いたのが始まりと考えられている。
15-16世紀にかけて、ニュルンベルクをはじめとする南ドイツの諸都市を中心に、手工業者の親方や職人、徒弟たちが組合に集い、詩と歌の腕を磨き合う文化が栄えた[2]。

934 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:58:21.70 .net
言葉狩りすると、馬鹿になるでしょ。

部落を語るのに、鎌倉を語れない。

935 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 17:59:17.45 .net
歴史[編集]
伝説の始祖たち[編集]

マネッセ写本の挿絵に描かれたフラウエンロープ。「いにしえの12人のマイスター」の一人でマインツで歌学校を創設したとされる。
meistersanc の語が文献に登場するのは13世紀である。このころの中世の詩人たちを、マイスタージンガーたちは「いにしえの12人のマイスター」と呼び、彼らの始祖として仰いだ[2]。
「いにしえの12人のマイスター」は、14世紀ヴュルツブルクの詩人ルーポルト・ホルンブルクが選んだものが起源とされ、以下のとおりである。

936 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:00:20.36 .net
マイスタージンガーの盛衰[編集]

ニュルンベルクのマイスタージンガー組合隆盛期を支えたハンス・フォルツ(1435/40?年 - 1513年)

代表的なマイスタージンガー、ハンス・ザックス(1494年 - 1576年)

マイスタージンガー芸術の中心となったのは、神聖ローマ帝国の帝国都市として繁栄したニュルンベルクである。文書で確認できるニュルンベルク最古のマイスタージンガーは、フリッツ・ケットナー(1392年 - 1430年在住、職業不詳)である。

ハンス・フォルツ(1435/40?年 - 1513年、外科医兼床屋)のもとで、ニュルンベルクのマイスタージンガー組合は隆盛期を迎えた。
フォルツは1459年にヴォルムスから移り住んできたマイスターで、組合の先例遵守の旧弊を改め、新しい調べを生み出した者だけがマイスターになれるという決まりを導入したとされる[2]。

16世紀に入ると、ニュルンベルクは人口5万人を数え、ケルン、アウクスブルクと並ぶドイツ屈指の大都会に発展する[3]。
また、マルティン・ルターが主導した宗教改革において、ニュルンベルクは「第二のヴィッテンベルク」といわれるほどのプロテスタント勢力となった。
1530年、ルターはニュルンベルク市参事会書記のラツァルス・シュペングラーに宛てて「ニュルンベルクは全ドイツに輝く太陽」だと書き送っている[4]。
宗教改革はマイスタージンガーたちの芸術にも影響を及ぼした。
それまでカトリック信仰に根ざしたマリア崇敬を中心テーマとしていたニュルンベルクのマイスター歌は、ルターの教えを拡げる「プロテスタンティズムの道具」といわれるほどとなる[5]。

937 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:01:47.89 .net
この時期に登場したハンス・ザックス(1494年 - 1576年、靴屋)は、マイスタージンガーとして代表的な存在である。
ザックスはルターの思想に傾倒しつつ、生涯に4,374篇のマイスター歌、約2,000の祝詞歌(Spruch)など多数の作品を発表した[5]。
上記ケットナーやフォルツ、ザックスは、19世紀リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に登場する親方たちのモデルとなっている[6]。

マイスタージンガーの最盛期には、ニュルンベルクの会員(Gesellschafter)は250名を数えた[7]。
しかし、マイスター歌に定められた煩雑な規則は硬直化の傾向を招き、彼らの芸術は次第に生命力を欠く独創性のないものとなっていく[1]。

大航海時代と植民地獲得競争の幕が開くと、世界経済の中心は大西洋岸に移ってゆき、これに伴って南ドイツの帝国都市は衰退の一途をたどることになる。
ハンス・ザックスの生前からすでに形骸化の兆しを見せ始めていたマイスタージンガーたちの活動は、規則と伝統に縛られたことに加え、内紛による士気低下が乱脈経営となって現れ、ニュルンベルク市当局は何度か「歌学校」の解散を命じるようになる。
他の帝国都市でも事情は変わらず、三十年戦争(1619年 - 1648年)を境として、マイスタージンガー組合はほとんど有名無実の存在と化していた。

1806年、ナポレオンによって神聖ローマ帝国が解体され、ニュルンベルクがバイエルン王国に編入されたときには、ニュルンベルク市の人口は25,000人に減少していた。
こうした退潮の中で、ニュルンベルクでは1778年に組合が解散する。
19世紀までわずかに残っていた他都市の組織も、1839年にウルム、1875年にメミンゲンが解散し、これを最後にマイスタージンガー組合は姿を消した[8]。

938 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:05:07.06 .net
日独関係(にちどくかんけい、ドイツ語: Deutsch-Japanische Beziehungen)では、日本国とドイツの関係について述べる。
17世紀以降、紆余曲折を経て現在のような関係が築かれた。
ドイツ統一が成る前の日本とプロイセンの関係(ドイツ語: Preußisch-japanische Beziehungen)についても、本項で扱う。

939 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:11:10.55 .net
いざなぎ景気 学んで、夢見ず働く。実際によくなる。
いざなみ景気 学ばず、夢見て働く。実際に悪くなる。

あゆちゃんは42歳だね? 
いいかい、おとぎ話を信じて期待したりしちゃいけないよ。
すべては自分の手でつかむものだ。
夢みたいな出来事を待っていないで、勉強をしなさい。

940 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:12:46.46 .net
日独関係史[編集]
江戸時代まで[編集]

江戸時代の日本は、江戸幕府が鎖国政策を行ってオランダ以外の欧米諸国とはあらゆる関係の樹立を拒絶した上、同時期のドイツでは中小国家の分立が続き[8]、
18世紀以降にドイツ北東部から強国化したプロイセンもイギリス・フランス・オランダのようなアジア・極東地域での植民地獲得運動を行っていなかったため、日本と現在のドイツに当たる地域[9]との国交は長年開かれなかった。

ただし、レムゴー出身のエンゲルベルト・ケンペルやヴュルツブルク出身のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(共に長崎出島のオランダ商館の医師)のような、
個人としてのドイツ人の来日例は存在した(ただし、幕府にはオランダ人とされた)[10]。

1858年に日米修好通商条約などが締結されて江戸幕府が開国政策へ転換すると、プロイセンも日本との国交樹立へと動き、
1860年にフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵を派遣して、1861年1月24日に日普修好通商条約を成立させた[11][12][13][14]。

これは他の欧米諸国との間との条約と同様、日本側に不利な不平等条約であった。
1862年12月、プロイセン王国の初代駐日領事としてマックス・フォン・ブラントが着任した。
1868年の戊辰戦争では、プロイセンは英仏蘭米伊と同様局外中立を宣言したが、新政府に抵抗する奥羽越列藩同盟を支援する姿勢を見せたとされる。
しかし、戦局を左右する事態にはならず、戦争終結後も日本とプロイセンとの外交関係は維持された。
明治維新後の1871年にドイツ帝国が成立するが、日普修好通商条約はそのまま引き継がれた。

941 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:14:06.95 .net
明治維新から第一次世界大戦前まで[編集]

在ドイツ日本公使館の印(明治時代初期)
戦前の日本は、政治・経済・文化に至るまで、ドイツを模範とした体制を採り入れた。
歴史的な経過から蘭語(同じゲルマン語派の西ゲルマン語群)に近く翻訳しやすい素地があったうえ、
プロイセンによるドイツ統一(ドイツ帝国成立)と明治維新はほぼ同じ時期に起きており、西欧近代化の範例として受け入れやすく日本の軍事、法体系、政体、あるいは医学、哲学など民生の多くで影響を受けた。

1873年7月、ドイツの商船ロベルトソン号が航海中に台風に遭い、沖縄県宮古島沖合で座礁した。
これを発見した住民は一晩中たいまつの灯で乗組員を勇気づけ、荒れ狂う海に小舟を出して乗組員を救助。
その後も1ヶ月あまり手厚く看護し、無事本国へ送り返した。このことに感激したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は1876年、村民の博愛精神を讃えるために宮古島に「博愛記念碑」を建立した。

日本政府は近代国家を建設する指針を得るため、1871年から1873年にかけて岩倉使節団を欧米に派遣した。
この際、使節団はドイツにも立ち寄った。
(この時の様子は『米欧回覧実記』に一部挿絵入りで詳しく記されている[15]。)1873年(明治6年)3月15日にはドイツ首相ビスマルクなどに謁見している。
この時、使節団はビスマルクから、当時の国際社会の実態は弱肉強食の原理で成り立っていることを改めて知らされた[16]。
この頃の3人のドイツ人が蝦夷(北海道)を植民地にするという試案を出しており、初代在日公使・マックス・フォン・ブラントはビスマルク宛てに『北海道植民地化計画』に関する意見書を送っている[17]。
この出来事は軍事力では当面、西欧諸国に太刀打ちできない以上、日本が欧州列強の植民地化を免れるには西欧世界(国際社会)のルールをよく知り、
西欧諸国のように振舞わなければ成らない(中国のように植民地化される隙を見せない様にする)という近代日本の基本的な方針を得る転機となった。

942 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:16:40.20 .net
また当時のドイツは、1871年に近代国家が誕生したばかりで日本と状況がよく似ていたこともあり、その軍事、法制、医学などを始めとする多くの分野において手本とした。
伊藤博文は大日本帝国憲法の作成にあたってベルリン大学の憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストとウィーン大学のシュタインに師事し、歴史法学を研究している。
当時の東京帝國大学がヨーロッパから招聘した教員にはドイツ人が多く、1876年(明治9年)にエルヴィン・フォン・ベルツが来日したのをはじめ、
哲学では夏目漱石もその教えを受けて「ケーベル博士」と親しまれたラファエル・フォン・ケーベル、化学ではゴットフリート・ヴァグナーなどがいる。
また、ドイツの学術を取り入れることを目的とした獨逸学協会学校(獨協大学の源流となる)が設立され、ゲオルク・ミヒャエリスが招聘されて法学を教えている。
日本陸軍は特に普仏戦争以後はドイツ陸軍をモデルに装備、戦略などの整備を進めた。
日本を代表する文豪である森鴎外も軍医として陸軍に採用された直後に衛生学やドイツ軍医療体制の研究のためドイツに派遣され、その留学体験をもとに舞姫を執筆した。
近代日本医学におけるドイツの影響力は圧倒的で、20世紀後半まで「医師は診療カルテをドイツ語で書く」のが不文律という状況だった。
その他でも、日本国内では学術・技術言語としてドイツ語教育が重視され、多くの知識が日本へ流入した。
また帝国大学・旧制高等学校の学生の間ではドイツの哲学・文学が強く愛好された。
多くの旧制高校では英語を第一外国語とする文甲、理甲、ドイツ語を第一外国語とする文乙、理乙クラスが設置され、フランス語を第一外国語とする文丙、理丙クラスが置かれた高校はごく稀だった。
旧制高校の寮歌では、多くの学校で歌い出しの合図に「アイン、ツヴァイ、ドライ」(ドイツ語で一、二、三)が用いられたほか、「アルバイト」を初めとして学生生活の用語にもドイツ語が多く流入した。
戦前日本における仏教学やインド学の分野でも、フリードリヒ・マックス・ミュラーなどの優れた研究者を輩出するほど、
世界的に高いレベルにあったドイツにおける研究が参考にされ、当時の日本の仏教学者やインド学者の多くは、英語のみならずドイツ語を習得した。

943 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:17:12.62 .net
一方、交流の拡大に伴い、ドイツ側にも日本研究への関心が高まった。
1873年には在日ドイツ人の交流組織も兼ねた研究団体としてOAGドイツ東洋文化研究協会(OAG, Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens)が東京に設立され、1904年には社団法人となった。

ビスマルク時代は比較的落ち着いていた日独関係だったが、1890年にドイツ皇帝にヴィルヘルム2世が即位すると、ドイツは日本への姿勢を硬化させた。
日清戦争直後の1895年にはロシア、フランスとともに三国干渉を行って遼東半島の日本租借(清から)を撤回させ、臥薪嘗胆を唱える日本側の対独感情も悪化した。
日露戦争前の時期にはロシアの目を極東に逸らす意図などから皇帝ヴィルヘルム2世が黄禍論を唱えている。
同戦争に先立つ1902年、ロシアがインドへの南下姿勢を強めるなかで危機感をもったイギリスは日本と日英同盟を結んだ。
この際、ヴィルヘルム2世は「白人種への裏切り」として人種問題の観点からイギリスを非難している。

944 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:19:33.62 .net
第一次世界大戦[編集]

日独戦争終結後、ドイツのヴィルヘルムスハーフェンに送還されたドイツ軍の捕虜(1920年2月)。

第一次世界大戦では、日英同盟に基づき、イギリスがドイツ東洋艦隊を撃滅する必要から日本へ連合国側に立っての参戦を要請。
当初、日本の軍部は艦隊の外地派遣によって本土の防備が手薄になることを恐れ、参戦には消極的だったが、1914年8月15日、ドイツに対し最後通牒と云うべき勧告を行った。
日本軍はドイツの植民地の青島、ミクロネシアをめぐる日独戦争を展開する。
青島陥落後、ドイツ兵は捕虜として日本に連行され、十数か所の収容所に1919年まで捕虜生活をおくった。
映画『バルトの楽園』の題材となった板東俘虜収容所(徳島県)をはじめ、習志野俘虜収容所(千葉県)、似島俘虜収容所(広島県)の例は著名。
このときドイツ捕虜からドイツ料理、菓子などが日本に紹介された。
身近な食べ物としては、ソーセージが習志野で、バウムクーヘンが似島で日本ではじめてつくられた。
また、ベートーヴェンの交響曲第9番の日本での初演は、板東俘虜収容所の捕虜によるものだった。

地中海にも駆逐艦を中心とする第二特務艦隊を派遣し船団護衛などの活動を実施し同盟国から評価された。
戦勝後、日本は占領した山東省の旧ドイツ権益を得たほか、南洋諸島地域の委任統治領として譲り受けることとなった。

945 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:22:16.09 .net
戦間期[編集]
戦後、日本は連合国五大国の一つとして対独問題に関与することになるが、基本的には消極的な関与しか行わなかった。
このため国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権の成立までは日本との関係は概して疎遠であり、特に外交的懸案も存在していなかった[18]。
一方でヴァイマル共和国軍などは伝統的な親中国政策を展開し、中華民国に対して在華ドイツ軍事顧問団を派遣し軍事訓練を施したり、武器援助をするなどしていた(中独合作)。
日本は日独関係の悪化を憂慮し、日中戦争において鹵獲したドイツ製の武器を「ソ連製または某国製」と偽って公表していた。

日独防共協定に調印するリッベントロップ外相とそれを見守る武者小路公共駐独日本大使(1936年11月25日)。

「仲よし三國」と題された日独伊防共協定を記念する日本の絵葉書(1938年)。

訪日し、東京駅前で敬礼するヒトラーユーゲントの隊員(1938年)

1933年にナチス党による政権が成立し、ドイツが国際協調路線から撤退を開始すると、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カナリスなどの一部政軍関係者は、日本との接近政策を主張するようになった。
また、日本側においても泥沼化する日中戦争を打開する思惑から、駐独大使武者小路公共、駐在武官大島浩、そして日本陸軍の主流派などが対独接近を試みるようになった。
これは中華民国と親しいドイツ国防軍やドイツ外務省、また対独接近に慎重な日本の一部政治家や日本海軍などの反発を招いたが、
やがてドイツ国内でリッベントロップの外交主導権が確立され、日本陸軍の影響力が拡大すると、1936年の日独防共協定成立という形で両国提携は実を結んだ。
1937年にはイタリア王国が防共協定に参加し、後の枢軸国の原型となった。ただしこの協定は対ソビエト連邦という観点で一致していることを示すのみであり、実質的な同盟関係とは言えない状態であった。

946 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:23:06.87 .net
一方で日本はドイツによるオーストリア共和国併合(アンシュルス)やチェコ併合などの措置を「他国に率先」して承認し、今までハンブルクに一つあったのみであった日本総領事館はウィーン、ケーニヒスベルク、そしてベルリンと、4つに拡大している[19]。
またプラハにあった日本総領事館はプラハ帝国大学の図書館とするためにドイツ政府に寄贈されている[19]。また1938年には大島浩が駐独大使に就任し、さらに親独的な政策を主張するようになった。

この頃ドイツと中華民国の経済関係は日本を中心としたものに切り替えられており[20]、ヒトラーユーゲントの来日や、日独合作映画の製作など、その関係は多岐にわたるものとなった。

947 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:31:25.26 .net
ライフライン断絶で疲労 情報不足で“心の不安”も(17/07/08)

みなさんは、プロテスタンティズム資本主義を、言い訳に、
人を助けないのですか。

まぁ、決めた、橋本さんが悪いと。
その時期に売れたわけでしょ。

やめりゃいいじゃん。

秋葉でもりあがっていたよ。

948 :shimizu ◆Q/mpujoW3g :2017/07/08(土) 18:32:13.59 .net
日本とソ連がノモンハン事件で交戦中だった1939年8月23日に突如、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を締結する。
このことは英米のみならず、防共協定を結んでいたにもかかわらず、一切の通知を受けなかった日本にも大きな衝撃を与え、
平沼内閣が同盟政策が白紙に戻ったと声明して総辞職し、大島が一時大使を辞任するなど、日独提携の動きは一時停止した。

しかし1940年になってフランスが敗北するなどドイツ有利の情勢が続くと、再び日独同盟派が勢いを盛り返した。
枢密顧問官石井菊次郎は日独同盟に際し「ドイツとの同盟で得をするのはドイツだけである。
かつてビスマルクは国際間の同盟関係には騎手とロバが必要であり、ドイツは常に騎手でなければならないと語ったではないか」と言い反対するなど、
日本政界にも反対の動きはあったが、外務大臣松岡洋右と陸軍はこれを押さえ込み、同盟締結にこぎつけた。
これはドイツと戦争状態にあったイギリスと、親イギリス的であったアメリカを強く刺激し、後の日米交渉では同盟解消が議論となっている。

訪独し、アドルフ・ヒトラー総統との会談に臨む松岡洋右外務大臣(1941年3月)。

松岡は英米を押さえるため、ソ連を加えた日独伊ソによる連携を提唱していたが、これは同様に四国同盟を構想していたリッベントロップとも同意見であった。
松岡は1941年3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪した際、アドルフ・ヒトラーにも提携を提案したが、水面下でバルバロッサ作戦が計画中だったこともあり、曖昧な対応しかなされなかった。
ドイツは日本に対ソ宣戦を告げることは、事態を複雑化させるだけだと判断していた[21]。
松岡はその後モスクワに乗り込み、同年4月13日に日ソ中立条約を結ぶことに成功する。
しかし、同年6月22日、独ソ戦が開始されたため、四国同盟は実現しなかった。松岡は同盟に基づくソ連攻撃を主張したが、南進論が高まっていた日本政軍首脳から拒否され、更迭された。
一方で日本側も太平洋における対米英宣戦布告についてドイツ側に告知することはなかった[22]。
しかしドイツおよびイタリアはすでに準戦争状態にあったアメリカに対して宣戦布告を行っている[23]。

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